ネットワークの言語研究を求む!

 私は、編集者なので、「ネットワークの待遇表現」について、こんなことの研究がもっと進むと面白いと思っていることについて書かせていただくことにする。

 インターネットのネットワークは、コミュニケーションの道具として発展してきたということがあり、そもそもプログラム開発者たちが、勝手に作ったといわれる電子メールにはじまり、会議室・掲示板、ホームページ上の掲示板、接続している時にコミュニケーションが取れる(リアルタイム)チャット、個人とやりとりができるICQなどがある。どれにも共通しているのは文字によるコミュニケーションで、やりとりのすべてを、記録することができる行為だということである。

 以前、ある言語学者が、電話の盗聴ができて、膨大な生の言語資料を手に入れることが、社会言語学にとって、禁断の願望だと述べていたことがあったが、文字ということであるにしろ、盗聴という手段を用いなくても膨大な生のデータを手に入れるということが、実現できるということである。

 個人が発信するメールマガジンも、圧倒的な数で発行されている。インターネットのコンサルティングをしている方に聞いた話では、彼のところには、一日数千通のメールが来るそうであるが、自前のデータベースに一旦全て入れて、自分のビジネスのキーワードや関心から、引き出し直しているそうである。ホームページ上には、様々な日記が日々、公開されている。ネットワークは、恐るべき数量の「会話」「ことば」の資料を日々、生産し、吐き出していると考えることもできる。これを使わない手はないのではないだろうか。もちろん、「インフォーマント」のことは配慮する必要があるにしろ。

 その上、ネットワークでは、日々新しいコミュニティが生まれている。これは、面白いことだ。たとえていえば、「地域」が新しくできてくるということである。そのコミュニティが魅力的であれば、新しい参加者が登場してくる。最初から参加していた人々同志のコミュニケーション、後から参加する人と最初の人とのコミュニケーション、後から参加して直ぐに打ち解ける人そうではない人。先輩格の人とどうコミュニケーションをとったらいいか。また、新人を恐れさせないで、スムーズに仲間になってもらうには、どういう配慮が必要か。この時のコミュニケーションの方法=待遇表現の戦略は、リアルなコミュニティでは、数十年かかることが、数カ月で起こるのだ。

 口答での会話と電子的な文字によるコミュニケーションでは違いはあるにしろ(それも研究課題だ)、言語学者・コミュニケーション研究者のための実験室が、提供されていると考えることは可能だろう。

 視点をかえていうと、こんなに人々がコミュニケーションをとり始めた時代というのは、そもそも人類の歴史が始まって初めてなのではないだろうか。手紙は一年に数通しか出したことのないような人々が、毎日のようにささやかなことで連絡を取り合っている。あるいは連絡をとぎれさせないことが目的でさえあるようだ。携帯電話の普及も、激しいものがある。ネットワークを通して話しをしている時間は、すさまじいものがある。

 コミュニケーションの時間的な量は増えているのに、それが何をもたらすものなのかは、実は良く分からず、現実に即していない倫理観による感情的な対立だけがある。電車の中の携帯電話や、家庭の中で、いきなり友人に携帯電話をかけあってしまうことなど。過去の場合、テクノロジーが、世界に入ってくるスピードはゆっくりだったので、もう少し冷静に受け入れられていったのではないだろうか。ところが、新しいメディアは慌ただしく、ズカズカと入ってきている。電子メールの場合、インターネットがブレイクするまでしばらく時間があったということもあり、ネットワークのエチケットである「ネチケット」というものが、議論されたり、提案されれいたりということがあるけれども。

 新しいメディアによるコミュニケーション革命が、進行していると同時にこれは社会のあり方をも変容しようとしている。待遇表現が、個人と個人あるいは個人とコミュニティのインターフェースだとしたら、言語・コミュニケーションを研究している方々が、短期的なジャーナリスティクではない分析を行うことも、社会的に十分に必要なことだと思うのである。編集者としては、その後押しをしたいと思っている。

月刊言語1999年Vol.28 No.11掲載
掲載時のタイトル「ネットワークの待遇表現」の元の原稿