言語教育におけるCanDo
2021年12月28日(火)e

言語教育におけるCanDo

(11月24日にメール通信で配信した内容がもとになっています。)

11月21日(日曜日)に文化庁日本語教育大会が開かれました。言語教育におけるCanDo(何ができるか、こういうことができる)を重要視した内容でしたが、日本語教育関係者にはどのように受け止めたられたのでしょうか。聴衆の反応が感じられる対面のシンポジウムであれば、会場の空気感というのが分かって、面白そうだと感じているか、共感して聞いているのか、疑問符が浮かびながら聞いているのか、なんとなく分かる時もあります。実際にリアルなコメントや質問があれば、好意的なコメントなのか、対立した意見があるのか、語られたこととは別の視点から見るとどういうことがあるのかを知ることができます。

初級ではこの項目を学ばないといけないと考える教える方の都合の文法項目ではなく、学習者がどういうことができるようになるのかというCanDoを重要視する方向というのは、教授者よりも学習者の立場に立つという点は大筋としてはよいとしても、CanDoは能力を重要視するという点では能力主義であり、能力主義は、やはり選別を生むことを招きかねない危険性があります。私は、教育・学習で評価・選別が行われることを全否定することは困難だと思っていますし、社会的に必要な能力というのはどういうもので、それが修得できないとしたら、どうするべきかとか考えないと行けないことは多々あると思います。また、近年、サンデルが能力主義批判の言論を張っている(『実力も運のうち:能力主義は正義か?』)中で、議論がある中で、比較的楽観的だったように感じました。日本語教育の世界の次のビジョンを提示しようということで、シンプルで楽観的にいうしかなかったのかもしれないと思います。主張しながら、自己批判すると何を言っているのか分からなくなってしまうということはあるので、複雑にしないで語ることが必要な時もあるというのは理解できます。とはいえ、やはり、単純ではない議論は必要です。

最近の新聞報道によると政府は、自民党の中にさえもいろいろな異論がある中で、外国人労働者の受け入れに大きく舵を切ろうとしているということがアナウンスされました。このタイミングで、CanDo重視にシフトすることは日本語教育の大勢の変化に影響を持つと思われます。能力に応じた外国人労働者の受け入れということがどうしても起こってしまうでしょう。CanDoが、学習者重視のコミュニケーション重視への転換だから、それで全てがポジティブというのは単純すぎるように感じました。労働者の受け入れと言語政策というのは、かなり込み入った問題です。吹原先生の『移住労働者の日本語習得は進むのか』によると移住した人々の日本語の話す技能がなかなか高まらないということがあるそうです。押しつけないのなら、定住した人々に日本語を学ぶ動機を持ってもらわないといけないかもしれない。CanDoを動機付けに使うことが望ましいかどうか。

週末の日本語教育学会がリアルな開催なら、会った人に感想を聞いてみることができるのですが。今回もリモートでの開催になっていまして、雰囲気を知ることができません。日本の中だけなく、世界の各地から発表したり、発表を聞いたりできるという点ではリモートは悪くないけれども、雰囲気を知ることができないのはなかなか歯がゆい思いをします。

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