編集者とは、どういう役割を持っているのか。

2013年12月1日(日)

編集者とは、どういう役割を持っているのか。

実際には、ファッションのことを知っているわけではないので、こうだろうという思い込みを元にするしかないが、ファッションに関係する仕事として考えてみる。ここでは服関係を例に挙げる。服を着るモデルやスタイリストや衣料を作る人、衣服を作る人、ファッションショーを企画する人、出来た服を店で売る人、独自に仕立てて服を作って売る人、お店を持っている人、デザインを考える人。もちろん、ファッション誌があり、ファッション誌の編集者というのはいるわけだが、ここで考えたいと思っているのは、どういう役割を持っているかなのだ。

編集者はどういう役割を持って、何をしているのか。服を着るモデルや服を作る作家ではないとはいえるだろう。お店で売る売り子という仕事でもない。しかし、型紙を確認したりはすることもあるかもしれないが、作る過程に関わってはいるが、作る人そのものではないだろう。最初のデザイン(原稿)がなければ、服(書籍)はできない。書き手、創造者、研究者、著者が必要なのである。何らかの著作というものがあって著作物を作る仕事である。

まどろっこしいいい方であるが、作り手・書き手への支援する人、支援する役割ということになるだろう。そうなんだが、支援する人では抽象的過ぎてわからないと思う。作り手・書き手と社会あるいは読者をつなぐ人ということもできる。これも、かなり抽象的である。原稿は、書き手からもらい、それを読者に向けて、書籍というかたちにし、届けて、金銭にするという仕事の真ん中にいる人が編集者だろう。基本的に書き手ではない。書くことを支援し、社会につないで、お金にする仕事。こういう仕事は、たとえば、ファッションの場合にあるのだろうか。多くの製造業の場合、クリエイター・デザイナーを抱えた会社があり、それを工場に発注して、ものにして、流通に載せることを一つの会社で行う。出版社の場合、実際に製作する部分は別の会社であることが多い。しかし、その流れは、出版業も同じと言えるだろう。違いはあるのか? あるとしたら、どこに? ひとつの重要な点は、書き手は、他の製造業に比べて、製作過程の中で、独立性が高いということがある。それと、書籍の場合、書き手には独自性かその人なりの主張があるということが違いかも知れない。車を作る会社は、車の設計者には車自体には主張はあまりないだろうし、車の設計者に思想、伝えたいことはないだろう。売れると思われるから、作ろうとするわけである。よりよいものを作ることができるから、作り出すわけである。今までのものより、環境に優しいものを作りたいなどの動機はあるが、ことばにできるような主張はないのではないか。社会的な必要や需要はあるが、本来的な意味での主張はないのではなかろうか。小説に主張はあるのか、というのはちょっと難しいが、個人的な挑戦はあるだろう。

書籍の場合は、やはり、主張というものがないと出発しないのではないだろうか。書き手が訴えたいもの、あるいは書き手に訴えてもらいたいもの。売れている人がいるから、その人に何でも良いから書いてもらおうというのはパスしておく。書き手の主張に共感してというのが多いと思うが、場合によっては、思いも寄らなかったことを主張していて、面白いからとか、必ずしも賛同しないが、こんな意見が世の中にあった方がいいのではないか、ということもある。この場合でも出発点は、著者に主張があるということである。経済的に大成功しなくても、その主張を世に出せたから、満足すると言うことはありえる。もちろん、最低限の採算ラインを超え続けなければ、だせなくなるから、採算割れは避けなければならない。だから、経済性も重要である。ただ、学術書の出版の場合、読者のマーケットの規模が小さければ、補助的な方法で経済的な規模の不足を補完することを考えることもある。作り手の思いを受け止める、応援する、催促する、企画を提案するというようなさまざまなことは支援するということのさまざまな内実である。ちょっと傲慢だが、書かせるというようなことをいう時もあるだろう。これは傲慢ですね。その一方で、いただいた原稿を、ただ出すだけということもある。こっちは、「出させていただく」というようないい方になるだろう。こっちはずいぶん、卑屈かもしれない。

はじめて書いてくれる人、書いて欲しいと思う人にお願いして、書いてもらうようにつとめるという口説くということも重要な編集の仕事だろう。そのようにして、社会にとって重要な作品が世に出されたこともたくさんある。口説く才能はとても重要であるし、自分を売り込んで買ってもらわないと行けない。そのためには、愛が必要だ。愛です。そういうものがないとつとまらないでしょう。

さて、「作り手を支援する」ことに加えて、何かかたちにするということに対する「思い入れ」というものもあるように思う。自分の考えをまとめるということとは違って、自分の外にモノとして外形物を作って、それを「いつくしみたい」という気持ちがあるように思う。これはフェチシズムということなんだろうか。物欲なのか。それと、「読まれたい」という気持ちがある。受け入れてもらうことによって、達成感を感じるということがある。

編集者であれば、このような気持ちを持っているだろうし、結局、編集者として必至なことであるが、最初から、そのことに目覚めているということがあるだろうか。本が好きという程度で、実際に経験として本を作りながら、著者と仕事をしながら、編集者としての自分をかたちづくっていく、ということもあるように思う。そういうことを好きになりうるような、可能性というものがあるだろうか。ただ、この仕事がしたいと思うとすると、何かを形あるものにしたいという、あるいは形にすることによって、何か達成感であったり、救われた気持ちのようなものを持てるのか、ということではないだろうか。そういう気持ちが、編集者としてのコアな部分の気持ちになる。また、私の個人的な傾向が強くなるかもしれないが、商売という気持ちも重要だろう。何かを作って、それなりに経済的に評価されるということ、そのことを喜びと感じること。そういうものが、ないのであれば、普通の読者として、書籍なども含めた情報を楽しみや必要のために享受するという立場の方がいいだろう。

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