英語を学ぶことを自己目的化する危険性について

2013年8月8日(木)

英語を学ぶことを自己目的化する危険性について

iTunesやらネットで定額ダウンロードが革命的なサービスであるというのは、いいすぎで、ビデオやカセットテープが、1970年代に実現したことをより便利に、より包括的に、より短時間でできるようにしたにすぎないのではないでしょうか。ビデオやカセットテープは、その当時、日本が「発明」したものです。

1976年にアメリカのメジャー映画プロダクションであるユニバーサル・シティ・スタジオとウォルト・ディズニーのテレビ局が、ソニーを著作権侵害で訴え、結果、自分のための録画は著作権の侵害にはならない、という判例が出て私的な利用は著作権侵害にならないことになりました。自分のためであれば、録音し放題ということであり、認められた権利となったいうことです。iTunesなどのサービスもそのことの基盤の上にあります。

日本の会社は、その録音する時の、コピーするカセットとカセットテープレコーダーを売って儲けたわけです。これにより、アメリカのテレビ受像器製作などの製造業は、ほぼ壊滅しました。ゆえに、ソフト産業に産業の中心を移したわけです。ライセンスビジネス、ソフトウェアのビジネスへと移行しました。

コピーするカセットとカセットテープレコーダーのビジネスは、より新しい新興の国がでて、より安価なものが現れれば、成り立たなくなるビジネスです。にもかかわらず、そういうコピー用品の製造業がある時、大成功してしまった結果、ソフトウェア中心に切り替えないといけないということがわからなくなってしまいました。一方ではアメリカは、そっちへ切り替えたわけです。日本が、コピーするカセットとカセットテープレコーダーのビジネスで圧倒的に勝ったから、そうせざるを得なかったゆえでもあるでしょう。

たとえば、コンピュータのソフトをダウンロードして動かすという考えは日本初ですが、その権利を守るという発想がなく、その会社を見殺しにしました。これはソードという会社が、電卓の開発の際に考えた方法で、そのチップの製造をしていたのがその時新興企業であったインテルでした。

パソコンの基幹ソフトであるトロンを、貿易収支によるアメリカ政府の批判から守らず、つぶしました。したがって、OSなどをアメリカ製に依存する社会を選択したわけです。それがなければ、マイクロソフトが世界を席巻することはなかったわけです。コピーするカセットとカセットテープレコーダーのビジネスは、より新興国がでれば、成り立たなくなるビジネスでありますのに、知的な産業を興すことを止めてしまったわけです。

何を言いたいかというとアメリカ化というグローバルスタンダードを選ぶというのは、アメリカに対する失策を継続していくということになるのではないか、という懸念です。英語を学んで、アメリカ流のスタンダードを学ぶというのではなく、真に知的な産業を興すという発想でないと、単に属国化を強化するだけで、日本の国力を強くすることはできないのではないかと思います。米国流の発想を学び続ける以上、アメリカに勝つことはできません。あまり、国国と言いたくはないのですが。

勝ち負けということばは好きではないのですが、英語を学びすぎることは、かえって下手をするとむしろ日本の力を失わせることになるのではないのか、という懸念です。

もし、発想力、独創力、違うことを考える力を付けるのなら、英語を学ぶよりも、落語を学んだ方がいいのではないでしょうか、文楽を観に行った方がいいのではないでしょうか、三味線を習った方がいいのではないのでしょうか? ソフト重視政策というはそういうものではないでしょうか? 人と同じものを、学べばいいという発想とは違う考えでないと独創性は生まれないでしょう。英語が大事なのではなく、創造性、独創性を育むこと自体が重要なのではないのでしょうか?

英語ができない人がアニメを作ったわけですし、コンテンツ重視ということであれば、東京芸大にアニメ学科を創った方がいいのではないでしょうか。

英語をエリートに学ばせるということ自体に、危険性があるのではないか、という懸念なのです。

皮肉っぽいいい方をすると、二番目や三番目の人々には英語を学ばせて、一番目の人には英語以外を学んでもらった方がいいのではないでしょうか? なぜなら、欧米にモデルを求めるという発想がもう、近代化の時代の話のように思えてなりません。英語を学ぶことがこんなに推奨されすぎているのは、規範が海外にあった時代、頑張りさえすれば、考えなくても追いつけた幸いな時代へのノスタルジーにすぎないのではないでしょうか。それは実は現実を直視しないで、精神を安定させようとするいわば、信仰心なのではないでしょうか。英語というシャワーを浴びていれば、幸せになるというのは、英語に沐浴することで、本当に重要なことを忘却できるという宗教的な行為ということなのではないでしょうか?

英語が話せる、読める、書けるというのは大事なことです。ただ、英語を重視しさえすれば、困難を打開できる人材を作れるという発想は、私には、独創性を丁寧に育てるということとは全く逆の発想だと思えてなりません。


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