『目指せ、日本語教師力アップ!』と『留学生の日本語は、未来の日本語』の刊行

2008年10月12日(土)

『目指せ、日本語教師力アップ!』と『留学生の日本語は、未来の日本語』の刊行

日本語教育学会が山形で、開催された。ひつじ書房としては、おくれにおくれていた『目指せ、日本語教師力アップ!』と『留学生の日本語は、未来の日本語』を私が担当してやっと学会に間に合わせることができ、それらを持って山形に乗り込んだのであった。長い間、お待ち下さった読者の方、著者の方にこころからおわび申し上げたい。本当であれば、5月には刊行してもよかったものであるから。両方とも私が4月以降、担当者の退職により編集することになったことは以前報告した通りである。どうにか気を持ち直して、たいへん遅れたものの今回の日本語教育学会に間に合う時期に刊行できたことはうれしいことであった。

今回の学会では、前向きな方向を示したいと思っていた。多文化共生を問い直す、もろもろのいくつか刊行の予定をお披露目したいと考え、プロモーションを始めようという機会でもあった。私の力量不足でチラシを配る段階にとどまってしまったが、どういうものを刊行していくかは、ひとまずは学会で配ったチラシをご覧頂きたい。学会の反応は期待したものではなかったが、そのことは別の機会にしよう。

チラシ

さて、この2冊は、最後には私が装幀も行った。『留学生』はめずらしく白インクを使っているが、最初の色校の時の色が気にいらず、色を変更して、白インクに変更し、再度色校を取った。色校では弱かったので、3度塗りしてもらっている。『目指せ』は表4のイラストは、板東が作ったイラストで、嶋田先生から、教師が教えているというニュアンスが強いのではないかということで、表1から表4に移動したのである。(イラスト自体はよいものだと思っているが)表1のイラストは私が作った。

さて、日本語教育学会は、ボランティア日本語教師が日本語教育を担ってきた定住外国人がこれから、労働力としていっそう受けれるか、そうであった場合、ボランティアで国策をボランティアとして担うのかという議論、大学の中で留学生センターが弱体化される中で留学生を30万人に拡大するかという議論、国立国語研究所が移管されるという言語教育・言語学軽視の時代の中で、日本語教育学会の動向がこれまで以上に注目されているタイミングでの開催であったといえるだろう。シンポジウムは「日本語教育は「生活者としての外国人」のために何ができるか ―来るべき移民受け入れ時代に向けて―」であり、非常に課題の焦点化が大きくなった時期での開催であった。そういう意味では、重要な時期での開催であったといえるだろう。

今回の学会は東北の一つの県、山形での開催ということがあって、外国人花嫁など、家族の持続、地域の持続に外国人とくに女性を呼び込むという社会的な課題を議論するには関連性の深いところでの開催であった。初日は市民会館というそういう地元の課題とともに日本語教育を考えるには適した場所であったけれども、全体として参加者は多くなかったように印象としては見受けられた。また、書籍販売ができないということであり、ひつじ書房としては、売上げが上がらないので出張費の捻出に困るというところであった。販売はできないというその場所が、そもそも、商業融合施設であったのには驚いた。(これでは、町おこしが、できないではないか、何を考えているのか、山形市。)学会の発表も数自体多くはなくて、パネルディスカッションのような形式のものも1件しかなく、学会のプログラムを見た段階から、全体として低調であるような印象をうけ、はるばる山形まで行こうと考える人は多くはないのではないかとの予感があった。この予感はおおむね当たってしまったのではないだろうか。

地元の参加も多くはなかったように思う。出店場所で来られるお客さんの層も、いつもと変わらなかったように思う。しかし、シンポジウムの内容自体は面白いモノであった。川崎の山田貴夫さん、宮城学院女子大学のモリス,J. F.さんの話しも面白く、事前にもう少しどんな方でどんな話しをされるかアナウンスがされていれば、もっと人は集まったのではないだろうか。モリスさんの話し方は面白く、シンポジウムのタイトルへのコメントは正当なものであったと言えるのではないだろうか。「来るべき」というタイトルの付け方、「移民」というこれまで日本が禁句にしてきたことばを使う意味をはっきり議論しているのかといった本質的なことを外国人のなまりと文法的なズレを戦略的に使った見事なジョーダン日本語で、丁寧に語った。こんな日本語というのは、社会的にも言語教育的にも面白かったのではないか。十分にポライトネスを込めた日本語で日本社会を批判することができる言語能力とは。

もし、地元で日本語教育に携わっている人がいたとして、学会そのものが、魅力あるプログラムであったのかというとそうではなかっただろう。地元の人にとって魅力あるプログラムとは何かというとこれも難しいとは思うけれども。日本語教育学会というあり方が難しいのかも知れない。教育であれば、教育研究集会というような大会運営があって、教育の現場からの報告があり、模擬事業があり、そして、実際の授業へのコメントがあるようなやり方があるが、日本語教育学会もそういう要素を入れていく方がいいのではないか、あまり実際的な課題の解決ではなくて、研究論文にする過程でのアウトプットのような研究であれば、研究者以外は、あまり関心をもたないだろう。(私は両方やったらいいのではないかと感じている)

日本語教育における研究とはどういうものなのか。文法研究などの言語研究であれば、ある理論を想定し、生徒がどのように学ぶのかを研究すればよいかもしれない。文法研究主体のあり方が批判されたこともあったけれども、あくまで言語学から言語習得学への変更であって、研究中心のあり方が反省されている一方でそうであれば、単に言語学的・言語習得学的な研究を求める場合と違った学会の組織のあり方への模索も必要とされているのではないだろうか。

狭い学的整合性を求めてしまうと図書館学が図書館情報学になってしまったような失敗を繰り返すことになる。図書館学が図書館情報学になったのは、人間のインターラクションよりも、情報という抽象的なものにシフトしすぎたことにある。情報という抽象的なものにシフトした結果、図書館という場所で何が起こっているのかということを研究することができなくなり、単なる情報工学の2番煎じとなって、図書館員の参加が皆無になってしまった。図書館情報学会の懇親会に出席したとき、一人も図書館員がいなかったことに驚いた。その学会のシンポジウムは、図書館員教育と大学のカリキュラムというテーマであったのに。日本語教育学会はまだ、頑張っている方だろう。しかし、日本語教育学会が、実際に教えている人にとって魅力的であるためには、日本語教師そのものの価値を重視する必要があるだろう。そのためは、人間の学びを教師という人々がどう生み出すかということへの問い直しがもう少しあってもよいのではないかと思う。看護学会とかそういうヒューマンインターフェースの要素の大きい学会ではどういうやり方をしているのだろう。

そもそも、教員研修的なものとは別に存在すべきなのだろうか。それとも規模が中途半端なので、学校教育であれば、学問としての教育学と教師たちの実践との乖離が大きくて、それぞれが別の歩みを進めているけれども、日本語教育の場合は、それが中途半端に融合できているということなのだろうか。つまり、規模の問題であるのか。中途半端であるとして、そのことを悲観的に考えるべきではなくて、その中途半端な規模の可能性を楽観的に考えるべきなのだろうか。


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