2004年9月1日(日)の日誌 学術書を一般読者の視点で考えることの困難
9月1日(日)の日誌

学術書を一般読者の視点で考えることの困難

『本とコンピュータ』が、あと3号で刊行をやめてしまうということで、カウントダウンがはじまった。いろいろな特集が組まれている。最初の特集は、「コンピュータは「何」を継承したか」。この中で学術書について触れられているが、私がその部分を見て思ったのは、「学術書を一般読者の視点で考えることの困難」ということであった。

コンピュータと言っても、電子本のことであるが、学術書の論文自体を紙の本にする必要がないのではないかというのが基本的なトーンになっていると思う。それに対して、北田さんは、日本の人文書の場合、アカデミックと一般読者をつなぐ機能があったいう。それから、萩野さんが紀要などが電子化されないのは、いろいろな利権があるからだ、という。

学術的成果というのはどういうもので、その存在の意味があるのだとしたら、それはどのように持続可能なのか。持続するべきなのか。間を中抜きにすることで、構造がかわるという話になってしまいそうである。それは怠慢ではないだろうか。そうではないことは、5年以上前に明白になっているはずだと思う。

追記

「利権」というなんだか、既得権と悪意のあるような言い方は、中途半端ではないだろうか。学会も紀要も、研究を継続的に行い、社会的に蓄積していくための仕組みである。大学もその仕組みの一つである。研究して、学会に発表しても、学会はその原稿料は支払わない。生活の経済は大学に依存している。

フリーライターや作家は、大学に依存せず、自分の腕だけで食べているから、研究者よりも、偉く、大学の研究者はそうではない、というとしたら、これは甘い考えである。プロのライターは、顕在化していない需要に対しては、原稿料をもらってかくことはできない。(かといって、ある意味で経済的に安定しているはずの大学の研究者が、顕在化していない需要に対応しているともいえない。これは困る。)好きなことをやっているのだから、経済的なことは結果にすぎないのだろうか。

知的な営みをどう持続的かつダイナミックに運営していくことができるのか、ということが中心的な課題であるのに、『本とコンピュータ』の発想は、ずれているようである。


『本とコンピュータ』

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