2004年6月7日(月)の日誌 言語教育の位置づけ

6月7日(月)の日誌

文学部のコアコンピテンス

名古屋市内の大学を3日4日と2日ほど営業活動して感じたこと。女子大における文学部の解体というものを実感した。昨年まで、文学部とよばれていたものが、別の名前になってしまうということが実際に生まれている。別に名古屋でではなくても、東京でも起きていることである。文学部の生き残りあるいは文学部のような組織の生き残りをかけて、といえば切実な動機であり、変革を行ったといえば聞こえはよいかもしれないが、でてきたものを見るといささか迷走気味なのではないかという気がしてならない。

文学部を構成する要素というものは、さまざまだが、とりあえず国文学と英文学が中心であったとしよう。英文学は、英語という「国際言語」を扱っているという点で国際ということが価値があると思われ、言語を使うという点でコミュニケーションが売りであると判断されたようだ。国文学は伝統とコミュニケーションが中心になると思われているようである。文学研究は英語イコール国際であるということ、古典文学イコール伝統であることをこれまで否定してきたともいえるが、皮肉なことだ。そのような要素はもちろん、大きいが、もし、テーマが国際化とコミュニケーションであるというのならば、国際化と国文学はあまり相性が良くないので、表に現れる重点は英文学になってしまうが、それを強調しすぎると外国語学部に負けてしまうわけである。また、単なるビジネス英語が使えるということであれば、さらに専門学校にも負けてしまうかもしれない。

そうすると文学研究の独自性は、狭い意味での単なるコミュニケーションと見るべきではないということになるのはずであったではないだろうか。文学部の意味はもっと違うものであるべきだ。国文学という点で言うと、学生の側で養われるのは、文書を扱う能力と教養に対する学習意欲ということになるのだろうか。それもぜひともウリとしてほしいものであるが、それだけなら、和文のビジネス文書を扱う専門学校に負けるだろう。もし、専門学校などよりも優位性があるとしたら、それは、私は、「言語芸術」であることと「テキスト読解過程研究」ではないだろうか。文学部で教えるべきプレゼンテーションは、商学部や経営学部で教えるプレゼンテーションとは違っているべきだ。

論理を追っていくような単純な語りではなく、一見論理的ではないように感じられるようなかたり口でありながら、感動させてしまうプレゼンであるとか……。文学的なプレゼンテーションというものを提案できるか。

あるいは、もともと文学という世事から遠いものを意識的にやろうと考えるところに、世俗的な価値観からずれているところがあり、そうであってもひとまず生き抜けていけるというサバイバル能力であろうか。サバイバル能力が重要なコンセプトであるのなら、そもそも、世事にたけた人を育てるのに都合のよいように機構変革するのは間違っていると言うことになる。世事にたけた人ではない人間が注目するビジネスチャンスというものもあるはずであり、狭い意味での世事にとらわれてしまうと文学部の優位性は消え失せてしまう。

文学部の可能性と優位性を的確に把握した上で、10年後の文学部の像を描くということが、たぶん、文学部で教えている人も、大学の事務局も、それと請け負ったコンサルタントのような人も、理解できなかったのだろう。グループインタビューや基本的なマーケティング調査も行っているとはとうてい思えない、パンフレットであったりする。

文学部の解体は、ひつじのような言葉に関する研究書を出していく出版社にとっては、非常に切実なことである。(公共図書館を消費型から、ビジネス支援図書館にすることよりも、本当は切実かもしれない)

文学部というのは古い教養に毛の生えたようなモノであったのか?であるなら、無くなってもしかたがないものということになるだろう。

もし、本当に文学部の変革というものを予感できていたのなら、私は、文学部改革コンサルタントのような仕事をすることができたかもしれない。そうなっていれば、現状のような迷走を防ぐことができたかもしれない。そうだとすると私の予言力のなさと非力を反省するところである。

今からでもおそくない。これから、文学部を改革しようとしている大学は、私にご相談下さい。コンセプトの作り方から、カリキュラムから、機構のありかたについてまでご相談にのります。

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