2004年5月17日(月)の日誌 読書力ということ

5月17日(月)の日誌

読書力ということ

読書力ということを考えている。普通に、日本語力があって文字が読める人であれば、本をたくさん読むかどうかはともかくとして、読書する能力は普通にそなわっていると思うだろう。特に際だった能力ではなくて、普通に持っている能力だと思うのではないだろうか。また、日本人はほとんど文盲がいないと思われている。リテラシーということばも、マスメディアなどの映像メディアを読みとる能力としてのメディアリテラシーということは注目されるが、リテラシーそのものはすでに誰ででもあるものと思われている。そのせいか、メディアリテラシーということを話しているとき、本のことはほとんど入ってこない。

私など、まあ、本好きで、そのことを商売にしてしまっている人間からするとあまり想像できないわけだが、たとえば本屋さんに一年に一回も入ったことのない人というのはいるだろう。コンビニで本を買ったことがある人であっても、本屋さんにはいったことのない人というのはいるだろう。

本屋さんに入ったことのない人は、どうして本屋さんに入らないのだろうか。私があんまり音楽を聴かないが、CDショップにはいるとまず音楽を探せない。いまでも、キングクリムゾン(という私の好きなバンドがある)が、キの列に入っているのか、クの列に入っているのかわからない。音楽の順番はどれとどれが並べられているのか、わからない。普段入ったことのないジャンルのお店は、お客としての振るまい方がそもそもわからないのである。カウンターに立っているお兄さんやおねえさんに、聞いてもいいのか。聞くことははずかしいことではないのか。

ラーメン屋さんにしか入ったことのない人間が、フレンチのレストランに入るようなものである。ちゃんと注文するためには、それなりのスキルは必要である。

本屋さんに入りつけていないということは、本を探せないということである。本を読むという技能には、文字ばかりの堅い内容の本を読むことができること、本のタイトルから、内容を推測できること、本屋さんに行って、本を探すことができること。いくべき本屋さんを探し出せること。何かを説明している本を読んで、意味を取ることができるという能力は、誰にでもあるものではないだろう。何かを読みとることができるという確信がなければ、一冊なんか読み始められもしないだろう。それには本を読んで、理解できたという体験がなければならない。どんな本を読んだらいいだろう。自分で自分にあった本を選び出す能力ということを考えると気が遠くなるのではないだろうか。

そのような技能はどのように身に付くのだろう。たくさん読むしかない、というのはたぶん、真実ではあるが、あまりものの言い方だ。どのような技能があって、それはどのように開発すればいいのだろうか。

以前、中学校の教師の方に、人間はことばを持たないと暴力に頼るという話があった。つまり、ことばには事態を治める力を持っていると言うことである。何か事態があって、それを自分の中で言語化できないとそれはストレスになる。苦しいことがあって、それを人に説明できないとそれは自分をさらにさいなむ。言葉を持つと言うことは、事態を客観視できるようにし、その呪縛から抜け出せるということになる。

そういう意味で、言葉を扱うと言う能力は、とても大事な能力である。一般に、読書というと文学作品を読んで、豊かな情緒能力をつけるということだと言われるようだ。それは間違っていないが、そういう言い方だと生存に必須の能力と言うより、余裕のある能力と思われてしまう可能性がある。しかし、それよりもさらにサバイバルに近いものであるのではないだろうか。

サバイバルに近い能力であるとするとそれは多くの人が学ぶことのできる普通の技能である。そのように考えてみるとちょっと違ったように見えてくるのではないだろうか。

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