書き手と作り手を育てる電子図書館をつくるために

たいてい、電子図書館という名前を聞くと、本が電子的にデータ化・貯蔵されていて、本を探している人は、内容や著者名やトピックで検索して、該当する本やドキュメントを見つけ、読むということを思い浮かべるに違いない。電子のネットワークの中に仮想現実風な建物があり、その中を歩き回り、検索し、本を見つけて、それを読むというイメージかもしれない。本がどんなかたちで目の前に出てくるのか、想像力をたくましくしてSF的世界に遊びたいところだ。このイメージを、本当の電子図書館と呼ぶことにしよう。

この世界では、だれでもどこでも読みたい本を、直ぐに読むことができる。何かを考えていて、発想が飛躍するとそれにあわせて、必要な資料を読むことができる。さらに、自分が見つけだした考えを表明し、世界中の人がその考えに触れることができる。

いわば、図書館が電子的にネットワークされ、世界中がそのネットワークにつながっている状態。過去の知も、産み出されつつある知も相互につながりを持って、有機的に動いているヴァーチャルな知的共同体のようなものを夢想したい。電子図書館という名前にはそういう大がかりで、夢のようなところがある。

ところが、現実に国会図書館や大学の研究者のあいだで構想されているのは、似ても似つかないものだ。発想はとてもつつましいもので、コンピュータで検索してもでてくるのは書誌データに過ぎず、単なる目録に過ぎないから、本の中身は見ることができない。というものが、国の予算(われわれの税金)で、大きなコンピュータメーカー主体で、研究されているものである。単に電子目録とか呼んでくれればいいのに、なぜか電子図書館と呼ぶのである。システムを設計する大手コンピュータメーカーに税金をつぎ込むために電子目録よりも派手な電子図書館という名前にしたのかと邪推したくなる。まあ、エセ電子図書館とでも呼ぶほか無いのではないだろうか。

本には、著者や出版社が関わっているわけだから、本当の電子図書館を作るためには著作権ということを大々的に議論し直さないとならないはずであるのに、その点をごまかして、税金だけ使っているということになる。書き手の権利も、出版社の関わりも考えないか、後回しにして、エセ電子図書館に税金が投入されている。その税金を著作権を正当に処理する機構に使おうという発想はないようだ。

ただ、私は、電子的なネットワークが、社会の基本的な仕組みになった近い将来の世界では、今現在の紙と印刷を基準に想定されている著作権が、大幅にかわるはずなのに、出版社も著者も十分に考えているとはいえないと思う。考えてこなかったのならば、コンピューターメーカーを批判することはできないと思う。ここで、私は本当の電子図書館を作るための準備のための議論を開始することを提案したい。

私自身も周辺的・間接的に関わらせていただいている(分科会から派生した会に参加している)のだが、コンテンツIDフォーラムという団体(www.cidf.org)がある。MPEGの規格を決めたボードの一人であった安田浩さん(元NTT、現在は東京大学)の主催する組織だ。何をしているかというと、たとえば、動画なら動画に著作権情報を埋め込んで、それが利用されたときに、著作権をきちんと正当に処理しよう、そのためのコンテンツのIDを考え、さらにそれを埋め込むことのできる技術を開発しようというものである。これが実現すると、町で流れている音楽を聴いたときに、その音楽に埋め込まれているIDを察知する装置を持っていれば、たちどころに誰の曲かが分かり、その装置がネットワークにつながってさえいれば、即座にダウンロードすることもできるようになる。ビデオも、デジタルになると複製したときに、劣化がなくなってしまう。著作権を守る仕組みを作るためには、データの中に、どのような著作権の処理を求めているかを判断できるIDが埋め込める仕組みが必要なのだ。

ただ、電子的なテキストはやっかいだ。IDを入れる隙間がないし、複製が容易で、妨ぐ方法がない。テキストは、そもそも受け継ぎ、改良しながら、育っていくものだ。特に、学術的なもの、知を受け継ぐ内容のものは、引用ができないといけないので、コピーできる状態になっている方が、便利である。

本が電子図書館で、閲覧可能な状態になった場合何が起こるだろうか。本自体を図書館の自分の端末にダウンロードして読む。あるいは、手元の端末は、単にブラウズだけで、テキストは手元のマシンにはおとさないで読む。前者の場合は、さらに他の人にコピーして渡すことができる。後者の場合は、コピーして手渡すということはない。ただ、公立図書館が電子的な図書館のネットワークに入ると、当然のことながら、ネットワーク上にあるデータベースや様々な本にもアクセスしたいという要望がでるだろうし、さらには、しかるべきライセンス処理の手続きをしたものであれば、自宅からでも、そうしたオンラインサービスの恩恵にあずかりたいという要望がでてくるだろう。データベースに関しては、すでにアメリカでは、自宅から、公立図書館がライセンスを結んだデータベースを自宅で見ることができるようになっているところもある。

電子図書館は、ライセンス処理がきちんと行われるのであれば、どこからでも見ることができるようになってほしいものだ。問題は、その条件についてまともに議論を誰もしていないということにある。コンピュータの進化が早く、具体的にどんな社会ができるのかわからないから議論のしようがない、というのはそうではあるが、それでも明確になってきたこともある。たとえば、所有と読むことが切り放されるという新しい事態になるということだ。極端な話し、国会図書館にデータが一つあれば、すべての電子図書館は閲覧可能ということになる。今までは貸し出すためには、それぞれの図書館が持っているか、取り寄せるしかなかった。ところが、電子化されていれば、1冊で数千人が同時に読んでしまうことも可能になるのである。つい最近まで、出版業界や文芸家協会も海賊版はともかく、図書館で複数の人間が借りようが、図書館でコピーされようが、一度売られた本が、古本屋さんで再び売られようが、その場合のライセンスをどうするのかを議論していなかった。紙の本であれば、学術書を刊行している出版社以外は、コピーを気にする必要が今までなかったからだ。

電子的なデータが、多くの人々に共有されるということと書き手、作り手が生存していくことのできるこの二つを可能にする仕組みを、作る必要がある。そのためには、複製に応じて、ライセンスを徴収し、フィードバックできる仕組みを考える必要がある。それは電子テキストを閲覧するごとに、書き手・作り手の納得できるライセンスを徴収できる仕組みである。さらに、普通の人々が、書き手と作り手の生存に関心を持ち、行きすぎたコピーをしないという文化が根付くこと。これは、かなり難しい問題に違いない。

とはいえ、21世紀の電子図書館が、単なる目録ではなく、知を共有するシステムになるべきだと思うなら、この難問に挑戦する必要がある。難問を上手く解決できた時、図書館は単にできあがった情報を蓄積し、消費するだけではなく、書き手を育て、よい作り手を育む機能を持つように生まれ変わるのではないだろうか。良い本が閲覧されることが、自然と良い書き手を育てていくようなシステム。もし、それが全世界を多いつくすなら、それは歓迎すべきことに違いない。

「出版情報」2000年6月(講談社社内報)