民俗芸能研究の現在


橋 本 裕 之

 「民俗芸能」という4文字をみて、あなたは何を思い浮かべますか。獅 子舞、神楽、盆踊り……。連想はどう転んでも、牧歌的かつ予定調和的 な光景をたぐりよせるはずである。近年、その「民俗芸能」が以前にも まして脚光を浴びている。最も大きな契機といったら、やはり平成4年 (1992)に制定された「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光 及び特定地域商工業の振興に関する法律」、いわゆる「おまつり法」であ ろうか。「民俗芸能」を利用して地域を活性化しようというわけである。 今日、「民俗芸能」は観光資源化してしまいかねないくらい生々しくも同 時代的な文化現象であるらしい。

 賛否両論を仄聞する。しかしながら、「おまつり法」の是非や功罪を問 うよりも、その手前で考えなければならない課題がある。あらためて「民 俗芸能」という4文字に注目してみたい。今日、私たちは「民俗芸能」が あたかも自明な何ものかであると思いこみがちである。ところが、この 4文字はあくまでも「現在」を前提しており、能や歌舞伎に比肩するよ うな一定の形式や内容を指示していない。含意するところがまったく異 なっているのである。しかも、本来は戦後ようやく誕生した学術用語で あり、「伝統」「素朴」「古風」等々のイデオロギーを同伴していた。

 この懐古的なイデオロギー群はそもそも近代の所産であった。近代以 降、農村の人口が都市に多数流出していったばかりか、鉄道・郵便・ラ ジオ等々の近代的な諸メディアが発達した結果として、人々は新しく 「郷土」に伝承されている芸能――今日いう「民俗芸能」を発見する。そ して同時に「民俗芸能」に対する入射角、つまり「伝統」「素朴」「古風」 等々を前提する視線をも獲得していった。そのような視線じたい近代的 な諸メディアをくぐって発現、広汎に流通していったのである。

 民俗芸能研究もこうした動向が結晶化したものであった。こちらはあ まり知られていないが、民俗芸能学会という学会もある。昭和60年
(1985)にできた比較的新しい学会である。といっても、民俗芸能研究じ たいは新しい領域でも何でもなかった。前史こそ近世にさかのぼるが、 本格化したのは大正末期〜昭和初期。すなわち、「民俗芸能」を生産して いった当時の社会的な動向に深く呼応しながら出発していたのである。

 したがって、民俗芸能研究は当初から一定のイデオロギー的偏向を持 ちあわせていた。民俗芸術の会が発足した昭和2年(1927)以降、民俗 芸能研究における主要な潮流は折口信夫に代表される民俗学的研究と小 寺融吉に代表される美学的研究であった。両者は少なくとも「伝統」「素 朴」「古風」等々を絶対視してきたところで一致している。そして、今日 でも民俗芸能研究における認識論的前提とでもいうべき地位に君臨して いるので、ある。

 だが、「おまつり法」を待つまでもない。近代化の過程を含む社会の構 造的な変動は、「民俗芸能」の存在形態をも大きく変化させた。今日、「民 俗芸能」は必ずしも牧歌的かつ予定調和的な光景を維持していない。む しろ逆説的な事態を感じさせるのである。そうだとしたら、「おまつり 法」は「民俗芸能」にまつわるテンヤワンヤがいきついたところ、出る べくして出てしまったものであり、「民俗芸能」における「現在」を最も よくあらわしているのかもしれない。したがって、民俗芸能研究もその 認識論的前提を批判的に検討しなければならない時期にさしかかってい る、はずであった。それは対象じたいが問いかける、きわめて今日的な 課題である。

 たとえば、民俗芸能研究に従事している人々の大半は、「おまつり法」 に対して大なり小なり違和感をいだいているらしい。正直な話、筆者も 違和感を隠せない。ところが、異議を提出するさい立脚しているのは、あ いかわらず「伝統」「素朴」「古風」等々。こうした価値を持つ「民俗芸 能」を観光資源化してしまうのはよろしくない、というわけである。し かしながら、対象じたいが大きく変化しつつある現在、またぞろ伝家の 宝刀を持ち出してみても、「おまつり法」に対する批判力たりうるどころ か、問題の所在を隠蔽してしまいかねない。だからこそ、私たちは「お まつり法」の是非や功罪を問う手前でたちどまり、「民俗芸能」を対象化 する私たちの視線を考えなおさなければならないのである。

 私は数年前かくも錯綜した状況に対峙するべく、民俗芸能研究の会/ 第一民俗芸能学会という異端的かつ正統的な名称を持つ研究組織を発足
させた。平成5年(1993)に出た『課題としての民俗芸能研究』(ひつじ 書房)はその成果を集大成したもの。収録した16編の論考はいずれも民 俗芸能研究を脱―神話化するのみならず、民俗芸能研究の可能態を構想 する試みの第一歩を踏み出しており、「民俗芸能」を対象化する多種多様 な実践をしめしているはずである。「民俗芸能」や「おまつり法」に対し て関心を持っているあなた、そして別に……というあなたにも、ぜひと も一読していただければと思う。

 私じしんはいわゆる「民俗芸能」のみならず、どこからみても同時代 の芸能であるストリップの世界とも深くつきあいながら、「民俗芸能」に おける「現在」という、民俗芸能研究の根幹にもかかわる未発の主題を 主題化してきた。だが、こうした実践は「民俗芸能」を規定している外 在的な諸条件を主題化するものであり、過度の文脈主義に終始してしま いかねない。その効用と限界を理解してこそ、あらためて考えなければ ならない課題がある。

 そもそも「民俗芸能」は神秘的な雰囲気を醸し出すものであっても、や はり身体技法の一種であり個別的な演技の集合体である。民俗芸能研究 が演技を記述する試みを放り出したら本末転倒。したがって、今後は「民 俗芸能」を形成している内在的な諸条件を主題化していかなければなら ない。こうした視座は「民俗芸能」における「現在」の重層的な構造を 照射するのみならず、「演技の民俗誌」とでもいうべき新しい研究領域を 呼びおこす。それは演技という身体的な知識を習得する/させる方法お よびそのような方法を内在する共同体の機構を解明するものであり、民 俗芸能研究のみならず社会科学における広汎な関心に貢献する可能性を 持つはずである。

 再びいう。私たちは「民俗芸能」を囲いこむ神話化の過程を回避して、 その因習的な枠組じたいを放棄するべき時期に近づいているのかもしれ ない。「おまつり法」以降だからこそ、「伝統」「素朴」「古風」等々を脱 ―中心化する、「民俗芸能」のまったく異なった表情を思い浮かべてみな ければならない。そして、「民俗芸能」にかかわる当事者たちがメディア・ ミックスとでもいうべき今日的な状況を前提しながら、いかなる身体的 な知識を維持している(いない)のか。その消息を深く問うていかなけ ればならないのである。

[付記] 本稿は平成6年(1994)7月に完成していたが、諸般の事情
で函底に眠っていたものである。今日、時宜を逸してしまったきらい がないわけでもないが、ここで提起した課題は依然としてその有効性 を失っていないと考えている。

(はしもと ひろゆき 橋本裕之/歴史民俗博物館民俗研究部助手)


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