注意! 内輪の会議の記録ですので、引用は厳禁です。NO ROBOT
松本 タイトルは一応「21世紀における(学術)出版の位置」というふうにしまして、一応私がわかる範囲で出版というのはどういうふうになるのかというのを、ここしばらく考えているものですから、それについてお話させていただきます。基本的には私なりに先日の平田さんの話を私なりに消化して、出したような感じになっているのではないかと思うのですけど。一応最初に結論みたいなことでそこに3つ挙げてありますけど、「啓蒙からエクササイズへ」というのと、「パッケージからコンポーネンツへ」というのと、「マスメディアからマイナー批評へ」という、それが私の現在の結論といいますか、そういうふうになるのではないかと思っていることです。それはいままでの大学も含めた「学校教育とその中での教科書」というものと、「啓蒙と教養書」というものの関係が関係しているのではないかというふうに思っているのですけど。
時代的な流れでいきますと、最初に効率的な近代化という大前提があったのではないかと思うのです。これは学校教育と、あと本に関しても同じことがいえると思うので、それでずっと続けていきますけど、明治とか、研究者でないので出ても変なのですが、実際に個別に調べているわけではなくて、かなり印象的な感じで書いてしまっていますけど。産業化に必要な知識とか、あるいは、産業化にするに当たって必要なそれまでの村とかの共同体から離れた新しい知識というのは、近代化の初期の頃は、学校と教科書がかなりなっていたのではないかと思うのです。学校にいくとそれまでと違う知識が得られるということもありましたし、本屋さんとかがなかったり図書館がない時代であれば、学校で配られる教科書というのが、当時の最先端のといいますか、知識をその地域で担っていたという時代がたぶんあっただろうということと。
近代化で西洋化という側面もありますから、基本的にすでにある程度モデルがあって、それを習得していくというのが、そのころの教科書とか、学校の主な役割だったわけで、当然ながら啓蒙主義というのが必然的にそういう中にあって、なおかつ学校というのは生徒がみんな机に座っていて、先生が教壇に立って上から話すわけですけども、それが必要であったり効率的であったりしたのは、やはり比較的決められた知識があって、それを生徒に伝えるという前提があったので、非常に効率的なシステムだっただろうと思うのです。なおかつ、読み書きという国語とか、科学を理解するための知識だけでなくて、例えば、体育ですとか本来的にいうと体を鍛えればいいだけであって、別に自分の家で、明治だとジョギングはなかったと思いますけど、勝手に運動していればいいはずだったわけですけど、そういうものを含めて学校というシステムの中に、教育がパッケージされていたという時代があったのだと思います。
昭和の初期ぐらいになると思うのですけど、そうして比較的本を読める階層というのができてきて、それに一つには、多分新聞が普及して、戦争とかによって新聞が普及したのだと思うのですけど、本を読むという人たちができてきて、多分学校の教科書が一つの雛形ではないかと思うのですけど、本を読めば知識が増えるとか、本を読めば上の階級にいけるとかという、そういう欲望が多分そのころはあって、なおかつ一部新聞とかで情報を提供されていたと思うのですけれども、それがむしろ知識欲をそれで充足されるのではなくて、むしろもっとより多くの知識を得たいという、知識の多分インフレが起きて、昭和の初期ですといわゆる円本とか、よくご存じだと思うのですけど本1冊1円で『文学全集』とかが改造社から出されて、それが圧倒的に支持を得て、改造社はかなりつぶれかかっていたらしいのですけど、それで復活するということがあって、それによって作家の印税が払えるようになったといわれているぐらいに、いろんな人がたくさん本を読み始めるようになるわけです。
それは昭和の初期から起きていることですけど、それが戦争が終わっ て、よくいわれるのは戦後岩波書店の『世界』を買うためにみんなが並ん
だというような話もありますし、そういうふうに知識を得ることによって 何かが自分が改善されるのではないかとか、ほかの人が読んでるから自分
も読みたいというのもあると思うのですけど。その絶頂期が私にいわせる と『文学全集』『百科事典』時代というのがありまして、60年代から7
0年代の多分前半ぐらいではないかと思うのですけど、猫も杓子も『百科 事典』を買ったという時代が多分あると思うのです。家には『文学全集』
とか『百科事典』を飾っておくという時代があって、それは必ずしも買っ た本人が読まなくて、セールス・トークとしては息子さんが読むからと
か、家族の人が読むから買っておいたほうがいいですというのがあったと 思うのですけれども。読まなくてもいい、使わなくてもいい人がたくさん
の本を買うという時代があって、その頃は出版社というと河出書房とか、 筑摩書房とかそういうのが全盛期、あと平凡社もそうかもしれないですけ
ど時代で、読まなくてもいい人が読んだという時代が多分あったと思いま す。
いまはパソコンがあってそうなっているかもしれないのですけど、リス トラにならないようにお父さんがパソコンを買って、実際は息子が使って いるというか、それと同じような。例えば課長さんという地位があって、 昔は結構部下とか家に呼びましたから、家に『百科事典』がないと格好が つかないというか、そういう時代が多分あったと思うのです。その頃は本 当は読まなくてもいい人が読んでいたという時代だと思うのです。あとで 触れますけど、それは非常にいいことではあったのです。というのは本当 に読まなければいけない人は、少ないおカネを払えば読めたということ で、実際に本当に必要な人は1%であっても、99%の人が読まないで買っ てくれていたわけですから、そのおかげで1%の人が安く値段を本を買え たわけです。なおかつ出しているほうも、実際の実情よりも100倍多い人 に売れましたから、出版社も助かったし著者も助かったということです。
ただ、それがここ20年ぐらいで崩れてきているということがありまし て、一つはポスト近代化というのがあると思うのですけれど、昔であれば
教科書を最たるものとして、それを読むことで新しい知識が得られたと思 うのですけれども、いま新しい知識というのは、多分本にはだんだんなく
なってきているということが、ひとつはあるのではないかということで す。例えば、昔は学校にしか顕微鏡がないとか、学校にしか望遠鏡がない
という時代があったと思うのですけれども。いまはむしろどの家庭でも、 どの家庭というのは極端ですが、大体の家庭にあるあるはずのパソコン
が、小学校、中学校にはないという。むしろ現実的な社会よりも遅れてい るという状態にすらなっているわけです。電話が1台しかなくて、オンラ
インにつなげられないとかいう状態であるわけです。
いろんな知識、近代化で西洋化して追いつけという流れがある程度一段 落していて、多分いま新しく起きていることは、アメリカでも日本でも ヨーロッパでも、同時多発的に起きてる事態だと思うのです。例えば、イ ンターネット化にしても、デジタル化にしても、アメリカのほうが数年 早いということがあっても、それはある意味で高々数年しか早くないわけ で、何がどうなのかというのは、すべての地域で同じように実験をしてい るわけですから、決まったモデルというのがないわけで、そういうときに いままでの学校で使われている教科書が、新しい知識を全然提供してくれ ないという状態にいまなっているわけです。
その一方で、「学校主義の絶頂期」と書いたのですけど、例えば、戦後 すぐであれば、職人の息子だったら小学校までしかいかなくて中学校から 中退してしまうとか、あるいは、商売人だったら必ずしも親が学校にいか すのはそんなに賛成しなくて、途中でドロップアウトするということが あったと思うのですけど。いまはそういうことがあまりなくなって、ほと んどの人が学校にいかなければいけないという状態になっているわけで す。その学校の知識の価値が落ちてるのと、だれも彼もが全部学校にいく というその状態があって、例えば、体育の話でいえば、別に学校にいって 体育の授業を受ける必要はないわけです。例えば、土・日サッカー・クラ ブとかあったりもするわけですし、昔だったら学校という一つのパッケー ジの中で、すべてが教育されていたわけですけども。それが全部が学校で 学ぶ必要が本当はなくなってきていて、その具体的な現れの一つが登校拒 否とか、別に学校へ本当は必要はないのにいかされているわけですから、 というのがあるのではないかと思います。なおかつ、同時多発的に新しい 時代が起きて、それは個々の人が対応しなければいけないわけですから、 知識自体も全部自分で、全部って極端ですが、組み直す必要があって、そ れは学校のほうではそういう情報を提供してくれなくなっていると思いま す。
いままでのことは全部出版にも当てはまるわけで、啓蒙的な出版という のも存在がほとんど必要がなくなってきているのではないかというのが、
私の一つの考えなんです。一つは、啓蒙されるべき解答というのが、どっ かから持ってくるということができなくなっているというのと、あと本と
か学校がすべての知識の供給源でなくなってますから、例えば、本で何か
を知りたいという人の数が、昔より格段に少なくなってきていると思うの です。本当に本で知識を得る必要がある人はそれは必要でしょうけど、別
にテレビでもよければ、ほかの情報でもいいし、インターネット上で直接 情報を得てもいいわけですから、量が縮小してきていて、例えば、本に関
していえば作るコストと販売数が合わなくなってくるということが多分起 きていると思うのですけど。
これからの流れとしては、一番最初に申し上げましたように、多分「啓 蒙からエクササイズへ」という必要があると思うのです。何か決まったモ デルがあってそれを学ぶのではなくて、何かやっていること自体の情報を 相互に交換するというか、それが多分知識の伝達とか知識の流通の仕方で いうと、これからはあり得べき方法なんで、それに本というものも対応し ていかなければいけないというふうに多分なってきていると思うのです。
そのときにいろんな問題が起きてくると思うのですけど、みんなが同じ ように読まなくてはいけないという啓蒙書みたいなものですと、マスメ ディアによる紹介というのがある程度有効なのですけど、問題が分散して きた場合に、例えば、新聞ですとか、そういったところの書評なり紹介と いうのがあんまり意味がなくなってくるわけで、そうするとここにどうい う情報があるぞというのを知らせるためには、新聞とかそういうものと違 う意味での紹介が必要ではないかという感じになってくると思うのです。
それが一応私の現状に対する認識で、流れとしては啓蒙からエクササイ ズにいかざるを得なくて、それに対応できなければ出版社にしても学校に しても、21世紀にはある部分はなくなってしまうだろうと思ってまし て、一応、ひつじ書房としてはそういったエクササイズに向かった本を作 るというのと同時に、メディア、マスセールスによらない情報交換のため の、一応「オンライン書評誌」というのをいま作ろうと思っています。
それが下のほうに書いてあるのですけど、研究自体が、例えば、昔だっ たらピラミッド型みたいな形で、必要な人とその恩恵をあずかる多数の人
がいたわけですけど、そうではなくて多分横になって、並列状態にいろん なトピックの人がいて、あと問題は横のある部分と関係するとかリンクす
るとかいうふうになりますから。上から情報を流すのではなくて、それこ そインターネットなり何なりを使って、横の紹介というのがこれから必要
を増してくると思うのですけど。それをこれから21世紀に向かって本を
出すということと同時に、そういう「shohyo.co.jp」という名前を付けてい るのですが、それを作ろうと思ってまして。それをしないと、例えば、言
語学の出版物だったとして、それが認知に関係したりとか、ほかの分野に 関係したりしたとしても、ほかの分野の人は知るすべがいままではないわ
けです。一応、例えばひっじ書房なら言語学界の名簿と国語学界の名簿が あって、それの分野の人には情報は郵便物で行き渡るようにしているので
すけど。とにかく名簿はないとか、それでも全部最初からデータを入れて ダイレクトメールを打とうとすると、かなり大変なわけですから、いまま
でと違うような紹介のシステム自体もつくらないと多分だめであろう、と いうふうに思ってるという意味です。
あまりにも早く終わってしまったかもしれませんけど。
「付記」はあとにいった書評を組織しようといま思っていまして、ひつ じ書房のホームページと同時に、書評のホームページを6月ぐらいに作ろ うと思っているんです。サーバを一応2つにするか。
高本 この「co.jp」というのは。
松本 だめじゃないのですけど、一応検索エンジンとかつけようと思っ て、私は、ユニックスもNTも使えないので、やっぱり自分のとこで、こ れ一応MACでやるつもりなんですが、作ったほうがいいのではないか と。
高本 あれで、後方支援か。
松本 高本先生に作っていただけばいいのかもしれないですけど。
高本 MACというのは 、ユニックスで すると不便 なわけ。なぜ不便かというと 。結構面白いと思うのです。 サーバーはマッキントッシュでほかのユニックスを走らせるサーバーとい うのは、非常にたくさんあります。要するにMACの表現力の良さという のをそのままホームページへ反映させたい人は、マッキントッシュは 。
松本 LCノブって、かなり非力な機械なんですけど、それでちゃんと サーバーを、CPはあんまり関係ないですから、メモリーと。 高本 基本的にはLCCPのやってることというのは非常に単純なことだけですか ら。データを蓄えておくのと、それから同時にいくらのアクセスまで耐え られるかというのが決まりますから、それを同時に1人までに設定します よといえば、恐らく10年前の日本の駆け出しの頃も大丈夫なんです。た だ、自分自身が表示機能を持ちませんから、そういうふうにリクエストが きたらそのファイルを転送するだけですので、それだけですね。
「shohyo.co.jp」を創設というのは、その背景にあるお考えというのにつ いても、またもう少しおうかがいしたのですけれど、具体的なところか ら、今日は松本さんがずっと考えてた一つの世紀の大事業なんですけど。 そのことはよくわかったのですけど、いまどういうようなメンバーとかを 巻き込んで、どういう形で具体化しようとしているのかというのが、その 出版が置かれている現状なんかと関係して、少し情報としていただけると 面白いかなと思うのです。
松本 「shohyo.co.jp」の話ですか、高本さんにも入っていただいてるわ けですけど、いま大学出版協会というのがありまして、そこで去年ちょっ と私話をしたのですけど、そのあとで大学出版協会でメーリング・リスト を作ったんです「ネット・パブ」というのですけど、ここも一つ自薦の書 をたくさん出してる人というのが数が多いので、そこの人たちの数字で ホームページを作っている人とかといまはいろいろ打ち合わせをしてい て、広告代理店の人は書籍の広告代理店の人には一応話をしていて、比較 的感触はいいと思うのですけど。システム的には収入源は2つありまし て、1つはサポート会員というのを作るうと思っているのですけと。例え ば、1,500で基本的には職業のリンク誌なんです。例えば、ある本があっ たら、小林さんのホームページへ飛んでいって、小林さんが紹介している 紹介が見れるようにしておくという。オンライン上でも書評、紹介を書い てる人がそれなりにいますので、リンク誌を作って、そこに飛んでいける ようにしたいと思っています。あとは、もちろん専門家の人も、専門家と いうか予算があれば書き下ろしのやつも入れてもらったりとか、それから 大体の人でどっかに投稿して、それが自分のホームページにあったり、な いのはこちらに移動してもいいと思っているのですけど、そういうのを積 極的にオンラインにあげてもらって、それを入れてもらうようなことを やって、リンク誌ができるのですけど。
ただ、リンク出されただけだとどれがいい情報かというのは全然わから
ないので一つはサポート会員の人に趣旨を理解してもらって、例えば、半 年1,500円というのにして、500円は運営費にしてもらうのですけど、その
残りの1,000円を投票権にしようと思っているのです。1,000円を例えば10 等分にして、1個の投票が100円とすると、鉛筆でもいいのですけどユニ
鉛筆1本とかにして、例えば、小林さんの書評がよければ1票を投じるわ けです。そうすると小林さんのとこの★が1個、鉛筆が1個立つわけで
す。あと、例えば、票に。
小林 ★が付くわけね。
松本 そうです。あとで見た人の、リスト誌を見た人は、小林さんのと こに★が10個付いているから、これは多分よさそうだろうというので見 て、その人がもしサポート会員であったら、やっぱり小林さんの書評は的 確だと思った場合は、またそのあとに1票投じるわけです、そうすると★ が付いてくわけです。
小林 サポート会員にそうするとあれだな、「読んでね」というメール を出さなければならないな僕は。(笑)
松本 とりあえずサポート会員がどういうのかわからないのですけど。
小林 なるほど、それを何かだれかに裏から手を回して、そのリストを 手に入れるとかというのもやらなければだめだな。
高本 僕は「週刊ブック・レビュー」というのをBSでやっていますね、 あれを一番日曜日の深夜の再放送というのは、ほかに何にも見る番組が、 いいときは日テレのドキュメンタリーを見るのですけど、少し時間が遅く なったので。それを「ブック・レビュー」を見ているのですけれども、そ うすると本を紹介するコーナーがあって、評者が1人ずつでやって。その ときによく思うのは評者が何をいっても本を紹介してくれただけで、今日 は見てよかったなと、もういうな、お前何もいうな、本の表紙だけ映して いればいいというような実感はあるんです。ところがそうではないときに は、あっ、この本は多分つまらないだろうと、この人が巧みにいま話をし ているからきっと面白く見えるんだろう、両方あるんです。だからそうい ういろいろな変な出会いとか、こんちくしょうとか、いろんなことが起き ていくだろうと思うのですけど。
ちょっと話をずらすようなんですけど、「同時多発的エクササイズ」と いうことになると、何か演劇界なんていうのはまさにこれでしかないとい うのですが、それから「マスメディア、マスセールスに支えられなくても 成り立つにはどうあるべきか?」というのは、平田さんが直面している問 題じゃないかと思うのですけど、いかがですか、そのひつじ書房と。
平田 そうですね、内容的には非常に似てると思うのです。「パッケー ジからコンテンツ・コンポーネンツ化へ」というのは、ちょっとよくわか らなかったのですけど。
松本 例えば、学校の教育を例に挙げると、国語の授業もあれば数学の 授業もあって、理科も社会も全部ある、体育もありますね、あと家庭科も あったりするわけですけど。それを全部無理やりパッケージングされてい るのではないかと思うのです。例えば、料理の作り方だったら、本当に学 校にいって勉強しなくてもいいわけです。体育だって体を鍛えるだけだっ たら、別に学校にいかなくてもいいわけで、それが無理やり学校に全部集 められているのが、例えば、体育に関しては勝手にしろとか、将来的にあ るかわかりませんけど、例えば、生涯教育で100ポイントというもしポイ ントがあったとして、基礎的な教育は学校でやっていいけど、例えば、料 理の作り方というのは別に学校でないとこで、自分の生涯教育のポイント を使って勉強してもいいということだって、あり得るかもしれないわけ で。そういう考えに立つと、いままで学校に全部集められてた教育の一部 が、一部というか大部分がそれぞれ分割されて社会に還元されるという事 態もあるのではないかというか。同じことが、本も多分あると思うのです けど、いままで本1冊全部まとめられていて、印刷されて製本されている わけですけど。部分的に本当は改定したいというときがあったりしたとき に、例えば、オンライン化されていれば、1章だけ新しくしてそれを本を 買ってくださる方に読んでもらうということもできたり、最初から1章だ けしか買わないということだって、もしかあり得るかもしれないわけで す。いままではパッケージになっていることによって、出版社の利益とあ と著作が保証されたわけですけど、それが分割させて売られていくように なったときに、それに対応しなければいけないということなんです。
小林 わりとアメリカの大手の教科書会社が教科書を全部postscriptの ファイルにしておいて、そうすると大学の先生が今学期の講義では、この
本のこのページと、この本のこのページ使うからというふうにして、注文 出すんですって。それで受講生が25人いるから30部作ってやると、生協
でそれをプリンとアウトして、それで1冊にまとめてそれで教科書にして くれて、著者のほうには1ページ10円とかで印税がいくという仕組みをつ
くって、僕がその話を聞いたのは2、3年前ですけども、結構商売になる ようになっちゃってて、その出版社はほかの出版社からもそういう仕事を
請け負ってやろうというのをやってるって話しましたっけ。
松本 ええ、聞いたことがあります、小林さんかどうかわからないです けど、その話は聞いたことがあるんです。
高本 ハーバードにいってる人の話だと、もうその方式というのはかな り一般化してて、もう新学期前には、もうその専門のやっぱりスタッフが いるんですね、そのテキストブックの編集とコピーの、それから製本の。 だからそれまでに向こうの人というのは非常に綿密な年間計画を立てて、 この回はこの本の何ページから何ページまでという、その計画を作れたら そういうこともできるんだろうと思うのですけど。非常にそれができてい るので、逆に日本にレクチャーしにこられる方いますよね、それが日本に ないので何かとても戸惑う。毎回何か印刷機のインクと闘っている日本の 教授を見るのは寂しいものだなんていうことをいってましたけど。
平田 韓国は全く別な事情で同じことがありましたね。あそこは僕がい た頃はまだ著作権に加盟してなかったから、教科書は外国の本高いわけで す。だけど外国のを使いたい場合には、教授がそれ1冊持ってて、それを そのクラスのリーダーの人に渡す、これ今学期の教科書というとそのリー ダーが、大学の正門の前にワーッとコピー屋さんが並んでるんですよ、そ れでそこへ持っていくと、で何部というと製本まで全部やってくれるんで す、翌日ぐらいまでには。それだからもうおカネも何にもなし著作権に関 しては、もう野放し状態でしたね。
高本 いま落選しましたけど、つくば市になって2回目の市議会議員選 挙か何かで、コピー屋の人が合格しましたね、合格というか当選しました ね。それは市議としては全国で最年少だったと思います、20歳そこそこぐ らいの、20何歳かな被選挙権ぎりぎりだったと思うのです。それもやっぱ りそこへ持っていくと、次の日までに作ってくれるんです、韓国方式なん ていってましたよ。
平田 うちの近くにも1個ありますけど、全部製本までやってくれると ころが。でも韓国のは本当に特殊というか、すごい組織で。あと非合法の ところもあるんですよ、非合法というのは非合法専門のコピー屋というの があって、それは当時はまだ全斗煥の独裁政権の頃だったから、 も あって、きんしょうはどんどん複写して回るんだけど学生の間を。それ普 通のコピー屋でやるとそこから足がついちゃうので、学生運動あがりで就 職もできなかった人たちがやってるコピー屋さんというのがあって、そこ に持っていくと内緒でやってくれるという。
高本 一時期文法研究室で『品詞別日本文法講座』というそういう本が
あるんです、全部ならべるとこれぐらいで10巻ぐらいあるんですけど。韓 国の釜山でこれのコピーが出ているんですが、コピーすると分厚くなりま
すね、このぐらいになっちゃうんですね。それ何の本というと内容がそれ だったんですけど。
パッケージ化に関係してなんですけども、それは何というのかな、知の 集約化みたいなことと関係しているんですか。さっき分散というのが一つ のまたテーマですよね、いま要するにインターネットを使うというような ことになると、当然いろいろなところにローカル化されて、いろんな情報 が置かれていると。それがつながっていくから、見掛けの上でグローバル なんだけど、本質的にはローカル化だと思うのですインターネットのいろ んな。それはしかし分散化という点では分散化なんでパッケージ化という のは分散パッケージではなくて。
松本 結局パッケージから分散化ということなんですけど。
高本 だからパッケージ化された教育ということを考えるときに、僕も 教育に携わって10うん年なんですけど、結局いまいろいろなところから学 校に対して問い掛けられているというのは、学校で同じ教科書で学ぶ必要 があるのかという問い掛けが松本さんの中にありましたけども、本当にそ こだと思うのです。一種の強迫観念とか、あるいは事なかれ主義で学校に いかなくちゃいけないとか、いかせなければいけないとかというふうに 思っているのですが。しかし、いま学校にしかないものは何かなあとい う、さっき顕微鏡でも望遠鏡でもコンピュータでもないという発言ありま したけれども、いま学校にしかないものはないのか、教科書にしかないも のはないのかというと、そのあたりの松本さんの考えというのは何かあり ますか。
松本 いまのところは特に思いつかないです、職員室とかそういう意味 で。(笑)
高本 そんなものやっぱりないんですかね。
見城 いやありますよ、それは要するに人が集まるということでしょ う。それで、例えば、図書館だってもういまやああいうふうに本を集める
必要あるのかという、1ヶ所に物理的に本を集めておく必要ない、倉庫に 置いておいて必要なときに必要な人がそれを取り寄せればいいじゃないか
という議論もありますけど。図書館にああいうふうに物理的に本が並んで
ることによって、書庫に入って、その中を歩くことによって初めて発見で きることとか、あるいは本の側をを見ることによって初めて見出だされる
ことというのもあるわけです。それは一つの手掛かりになっているわけで す。それと同じように、大学でも別に高校でも中学でもいいのですけど、
人が集まるという単にそのことだけによって、知識に何かが付け加わって いくということもあると思うのです。ただ、別に僕は、だからといって大
学を擁護しようというわけじゃなくて、別にだから、要するに意味付けが 変わってくると思うのです。いままでは初めに大学ありきと、そこにみん
ながあつまることに意味が、というかまず集まることに意義があるとい う、いや違う、集まることに意義があるというよりは、要するにそこは価
値があるからみんな集まれという感じだったんだけど。いまは別に個々の 知識だったら、サテライトでもインターネットでも手に入る、だけれども
みんながそこにいるということに実は意義があるということは、これから もっと強調された形で出てくるような気がするんです。
いってみれば一種のボランタリーな場として、場を提供するという。い まの学生なんか完全にそうで、要するに大学の講義になんか何も期待しな いんだけど、そこにくることによって自分のネットというものが広がる、 あるいは自分のネットワークはそこにしかない、そういう形で大学を使っ ているんですけど。別にいまの学生のあり方が、大学の使い方がベストと は僕は思わないんだけども、でもそれを考えただけでもすべてを分散して しまえばそれですむか、コンポーネント化してしまって、自分の好きなオ プションで身につければそれですむか、それでみんなは満足するかといっ たらそんなことはなくて、実は大学という場自体に意味を見出だしてる人 というのは結構いるんじゃないかという感じがするんです。
松本 というか、むしろそういうすべてを閉ざそう、除いてあとに最終 的に何がのこるかというか、 というか、じゃないかと思うので す。みんな集まるということ自体が重要で。
見城 まあ残るものというか何というか。
松本 出版は多分そうだと思うのです。ちゃんとした情報が集まるとこ でなないと多分だめだと思います。今までは、情報が集まってくるのは当 然みたいな感じだったんですけど、でも多分そんなに気安いものじゃなく て、ちゃんとした仕組みをつくったり、ちゃんとしたやり方をして情報が 集まってくるような仕組みがないと、場にはならないと思います。
見城 うん、そうですよね。
小林 教育の場というのが、人が集まる場としての意味があるというの
はわかるけれども、人が集まる場を提供するのは学校だけではないでしょ う。
見城 うん、ではなくてもいい。一つの選択肢でいいわけです。
小林 結局だから、要するにさっきの高本さんの質問というのは、学校 にしかないものという問い掛けだったわけで。
高本 そのあたりを考えるうえで、学校というのはさまざまな、本もそ うだし、制服とか、いろいろなマーケットにもなってくる。商売人の方か ら見れば、あれはやっぱり置いておいてもらいたいマーケット。例えば、 辞書作っている人は学校がなくなると大変だろうと思うのです。
だからそれはそれとして、営利的な面は置いておくとしても。大学院の 授業で僕は義務教育というのはどういう意味なのか、自分でもよくわから
ないものだから聞いてみるんですけど、僕もよくは本当はわからないので すけれども、調べよう調べようと思って調べてないですけど。義務教育と
いうのは恐らく権利と義務というのはペアになっているんだろうなと思い ますから、教育を受ける権利を保障する義務だろうと思うのです。だから
その期間を法律で定めて、9年間は義務教育期間ですよというのは、教育 を受ける権利を持った人の権利行使を邪魔立てしてはいけない、その親権
者はそれを保障しなくてはいけない、ということだと思うのですが、学生 はそうは答えませんね。義務教育というのはいかなければならない、いか
せなければならない、だからそこに抜け落ちているのは、教育を受ける権 利の行使というようなものについての反省といいますか、自覚、そこに自
己選択権がはたしてないのかということです。従来はなかったわけです、 住民票があるところの校区のところへいくか、ないしは私立をイレギュ
ラーな形で受験していくかっていうことだけでしたけど。自己選択権とい うことを考えると、さっき小林さんがおっしゃった、学校でなければなら
ないのかという問題、既成の学校でなければならないのか。どこで集まる のかとか、何のために集まるのかとか、あるいは、いつ集まるのかという
のは、もっとそれぞれが自分で自己決定をしていけばいいという流れが、 かなり大きくなってきて、フリー・スクールであるとか、あるいは不登校
の権利であるとか、学校へいかない権利であるとか、そういうようなの が、特に朝日新聞はよく報道してくれると思っていますけれども。それが
偏った一部の反体制的な人たちの動きだけでなくて、文部省もそれをもう
認めざるを得なくなっているというのが、現状だと思うのです。
その中で学校は変わっていかなければいけない。そこでいろんなことを いうわけです。特に大きく打ち立てられたのは、前にもお話したことがあ ると思いますけれども、「学習指導要領」の中で個性化みたいなことをい うわけです。もう少し高級な言葉で「新しい学力観」というふうにいうわ けですけど、新しい学力観というのは、平べったいいい方をすると一人一 人が頑張っているんだったら、その一人一人の頑張りを認めようと。成果 をみるのではなくて、一人一人の頑張りを認めようと。
そうすると一方では個性が認められたというふうに、万々歳の面もある けれども、だれが認めるのかという問題が常に出てきて、それを認めてく れる人の目を気にするように、プロセスをさらけ出すようになってくると 思うのです。私は、はい頑張っている、頑張っている、頑張っている。成 果として出すことも難しいですけれども、そのプロセスをさらけ出すこと もやっぱり難しいのではないかと思うのです。
その学校というようなものが、学校にしかないものがあって、しかもそ ういうようなプロセスをさらけ出してもよいような人間関係が保てるよう ないま現場であるかというと、ほとんどの学校はそうでないと思うので す。ですからそういう点では、本当は大学なんていうのもそうだと思うの です、大学は何となく皆さん不干渉で、それぞれ勝手にやってろなんてい うことですから、あんまり問題表面化してないだけかもしれません。しか し、多くのところでさまざまな社会的な、常に心理的な抑圧というのは起 きていて、そこの上にある部分僕は商業主義的なものもいまの学校を温存 させるうえでは、働いているのではないかと思っているんですけど、どう でしょうかね。
見城 学校というのはもともと何というの、もともとかどうかしらない けど、学校にやっておけば、子供を学校にやっておけば親は手間がかから ないから、仕事できたりとか便利じゃないですか、そのためにあるんじゃ ないの。
高本 なるほど。
見城 やっぱり結構1対1で自分の子供を教えるというのはコストがか かるから、そこでも効率化みたいなことがあるんじゃないかと思うけど。
ただ、近代的な学校というのは、明らかに近代社会の形成の一つの有力な 単位であって、松本さん書いていらっしゃるように、要するにみんなが知
るべきこととか、産業を底上げするためには絶対に必要な知識というもの があるのであれば、それを能率的に広めるのには、軍隊と並んで一番いい
ところです。要するに同じ年齢の子たちを集めて、みんな同じような知識 をワッと流せば、それだけべらーっと全体が平準化していくわけだから。
問題は、一時期は社会的一つの資本主義の完成という点からみて意味を 持っていた制度が、いまやちょっと時代の要請とずれちゃってるぞという
ところが、大きな問題なんじゃないかと。
高本 いま兵役の話が出ましたけれども、戦前のどうも義務教育という のは、国民の三大義務というのは教育と納税と兵役ですよね。そのために この前の紀田先生のお話なんていうことも関係しますけど、戸籍をきちん としなければいけないと、一人一人がアイデンティティファイできるよう にしていないといけないというようなところで、要するに中央集権的なと ころから義務教育制度というのも当然出てきているのではないかなと思う のです。それが制度としては敗戦のところでかなり大きく変わったはずな んですが、どうも義務教育という言葉が持っているニュアンスは、戦前の 義務教育という言葉のままきているのではないかと。私なんか教えて、中 学校の公民みたいなところで、国民の基本的人権を教えるんだけど、義務 教育とは何かということはあんまり教えると自分の首締めるからやめよう かなと思ったりしているんですけど。
小林 ちょっと話ずらしていいですか、さっきの場の話があったんだけ ど、学校のね、学校もそういう場だという話でしたけど、僕はその松本さ
んの「shohyo.co.jp」というのはすごく面白いと思うのです。面白いと思う んだけれども、どこまでうまくいくのかなというのにちょっと疑問があっ
て、疑問があるというのは、否定しようということじゃなくて、うまく いってほしいんだけれども、やるからにはこういう点は気をつけたほうが
いいですよということなんですが。それは何かというと、コンポーネント 化と同じ、パッケージ、コンポーネントの話と同じで、コンポーネントと
いうのを突き詰めていくとフラットになっちゃいますよね。その中で何に 意味があるのかみたいな、情報の価値付けというふうなところが、はっき
りしなくなってきますよね。そこで松本さんの賛助会員制度を入れて、あ
る人たちによるエバリューション、それでもって重みづけをやろうという のは非常に面白いと思うのです。
それはだけど、いまのとこ匿名で、それで★付けるやり方をやっていく と、恐らくそれはインフレーションを起こすわけで、★が付いてないとこ ろというのは、どんなにいいものであっても付かないで、付いたとこには どんどんくっ付いてくるという可能性は非常に高い。そこのところでだか ら、例えば、裁定承認インデックスだっけ、ああいうふうなのと同じよう な形で、価値が増幅される可能性は非常に高いというのが一つです。
それはそれで置いておいて、書評を読むときにどういう読み方をするか というと、やっぱりわりと僕なんかは、だれがその書評を書いてるかとい うのを見て、逆に例えば、朝日新聞の書評がいいとは僕はいいませんけれ ども、やっぱりここのところの上野俊哉さんが取り上げる本というのは気 になります。彼が取り上げたということだけで、ちょっとマークという か、記憶に引っ掛かるということがあるわけです。同じようなことという のは、このミスにもいえるわけで、このミスってわかりますか、このミス テリーがすごいって、宝島から毎年暮れにミステリーのベストテンみたい なのが出るんだけど、それの見方というのは僕はあると思っているんで す。去年出た本で僕ものすごい面白かったんだけど『傭兵ピエール』とい う、ジャンヌダルクが死にそびれて傭兵と結婚しちゃう、子供までつくる という話を日本人が書いているんだけど、集英社から出たすごい面白いと 思って、その帯に内藤しんというミステリー研究会かなんかの会長がいる じゃないですか、彼が「これで今年のこのミスは決まりだ」みたいなこと を書いているわけ。(笑)やつはだけど96年末にこのミスで裏切ったわ け、ベストテンにも挙げてなかった。僕は内藤しんにだまされて買って読 んで、結果的には非常に面白かった。で、そうするとでも、その『傭兵ピ エール』を取り上げてる人とか団体とか同好会とかあるんだけど、いくつ かあるんですよ、いくつかあって挙げてるところは全部それを1位に挙げ ているのね。2位と3位とかってなくて、全然ないという感じなの。
確かに衆目が一致して認める面白い本というのはあるわけです、いまま でのこのミスの歴史でいくと、エコの『バラの名前』というのが断トツの
過去10年の中でも金字塔をなすような、集約度をもっていたわけ。それ はそれでいいけども、それから去年の暮れの海外部門での1位というの
は、『死の蔵書』という、全部ホームページに挙げてありますけど、本好 きの警察官が辞めちゃって古本屋になって、その過程で本の売買やってる
人が対象になった殺人事件を解くというやつなんだけど、それはやっぱり
断トツにいってましたけど。もう一個面白かった『千尋の闇』という、1 00年ぐらいの間のある失脚した上院議員と、その元婚約者をめぐる歴史
みたいな話があって、それは入ってないんだけど僕が読んで面白くて、何 人かの人が1位に挙げているんですよ。
前置きが長くなりましたけど、僕は書評ってそういうものじゃないかな と思うのです。というのは、そういうものじゃないかなというのは、すべ ての人にとって意味のある書評というのは恐らくなくて、自分にとって面 白いか面白くないかということなわけです。そうすると自分と感性の近い 人のいったことはわりと信用すると、だけどほかのやつが何をいおうと関 係ないという仕組みになっていると思うのです。
そうすると「shohyo.co.jp」に求めることって何かというと、実をいうと 多分この「マスメディアからマイナー批評へ」と松本さん書いていらした まさにその点であって、マイナーな人たち、何人かの人たちが読んだ本に ついての書評がそこにあると、しかしそれは1,000人とか10,000人とかで はなくて、もしかしたら10人とか、100人でも多くて数10人、そこに何 人かの非常に個性的な読み手がいて、その読み手がどう読んだかというこ とがそこにいけばわかるという仕組みになっていると、非常に面白いん じゃないかな。
松本 もう小林さんに書いていただくのが一番いいんですけど。(笑)
平田 さっき見城さんがここの話でいったことというのは、非常に大き な問題を含んでいると思うのですけれども、結局そういう啓蒙の意味はも
うなくなって、で、個別になってくるわけですよね。しかし、個別になっ たときに当然一緒に集まって、例えば、図書館にいってほかの本を眺め
る、目的の本以外を歩いていくまでの間にほかの本の背表紙を眺めるとい う無駄な時間がなくなってくるわけです。インターネットとかということ
は、基本的にはそういう無駄を省いて流通コストをできるだけ低く抑えて 対抗するという側面がありますよね。この「マスメディア、マスセールス
に支えられなくても成り立つにはどうあるべきか?」というのは、マスメ ディア、マスセールスに支えられなくても、コスト的に成り立つにはどう
あるべきかという側面がどうしてもありますよね。で、コスト的にという ことは、効率よくということですね。情報の流通も、それから販売の流通
も、コストを下げれば『百科事典』でなくても単体でもどうにか成り立つ し、著者にも印税が払えるということだと思うのです、経済の側面だけ考
えると。そのときに無駄は省かれてしまうわけですね逆に、それは松本さ んの意図するところではないんじゃないかという感じがするんですけど。
松本 そうですね、その普通のコスト主義的な立場と、無駄があったほ うがコストが少ないんじゃないかという気もするんです。というのは、多 分通常のコストだけを考えれば、マスセールスに勝ち残れないわけです。 マスセールスにないものが生き残るためには、無駄がちゃんとそこにある ようにしなくちゃいけないと。
平田 いや、それはわかるんです、僕はよく地方の文化関連の講演会や なんかにいくときの枕で必ず話すのは、いま地方都市、これはお話したか もしれないですけど、いま地方都市の郊外の風景が全部同じになってし まっている。たいてい一番真ん中にイトーヨーカ堂かジャスコがあって、 その周りにDIYショップがあって、それから靴屋さんと背広屋さんと本 屋さんと玩具屋さんがあるんです、もう本当にそっくりです。その真ん中 にファーストフードのお店とかがあって、子供を遊ばせる施設があってと いうことです。そこにみんな車で乗り付けて買い物をするわけです。
これは僕はここ10年ぐらいのことだと思っているんですそうなったの は、非常に急速にそうなったという感じがあるんです。それはなんでそう いうふうに感じるかというと、僕は一番最初にアメリカにいったのは19 79年なんですけれども、そのときにアメリカってまさにそうじゃないで すか、アメリカの郊外って。そのときにはすごいなと思ったんです、全部 どこにいっても同じで、自転車でいきますから30キロごとに同じ街がある んです。ああすごいな、みんな同じだよ、こんな小さい街なのに全部スー パーから揃っていて便利だなと思ったんですね。僕、そのアメリカのスー パーって、いまはああいうアメリカ型の巨大なショッピングセンターなん てたくさんありますけど、その頃はすごいいくのが楽しくて、毎日のよう に夕方になると買い物をしていたんです、ただ何となく。それは日本には ないものだったんですね、僕の記憶の中では。
それが80年代に入ってバブルと同時に、僕は田中角栄の夢がバブルど 同時に実現したというふうにいっているんだけども、そうなって、それは
僕はいい面もあると思うわけですよ。どんな地方に暮らしている人にも、 東京と同じだけの最先端の商品を安く手に入れることができるようになっ
たわけですから、いい面もあると思うのです。それを東京の人間が一概に 否定するのはよくないと僕は思うんだけれども。しかし、同時に、例えば、
本屋さんにいくと、もう並べ方まで同じなんですね、POSシステムで全 部なってますから。最初いくといきなり『脳内革命』がボーンと置いてあ
るし、売れる上場に置いてあるわけです。僕の本なんて絶対置いてないわ け。これはもう資本の論理というのはすごく強烈で、例えば、沖縄県の与
那国島にいくともっと極端で、雑誌しか置いてないです、売れる雑誌、漫 画の雑誌しか置いてないです。「週刊朝日」がぎりぎり置いてあるか置い
てないかぐらいです、「ポスト」と「週刊現代」ぐらいしか置いてない。 ちょっと普通の本で、『脳内革命』はあるかもしれないけれども、普通の
本はないですほとんど、文庫本もないわけです。それ買いにいこうと思う と石垣島まで飛行機に乗って買いにいくわけです。生活路線だから日帰り
でよく皆さん買い物にいくわけです。さらに僕の本を買おうと思ったら、 那覇までいかなければいけないわけです、那覇ならあるんですけど。とい
うふうにもうはっきりしているんです。確かにこういうことが行われて、 インターネットで買物もできるようになれば、確かに与那国の人も僕の本
が那覇までいかなくても買えるようになる、だからその無駄は補償される 側面はあると思うのです。
そうなんだけど、ただ、そのときにもう何というかなあ、じゃあ今度は そのときに通信のほうのシステムの問題になってくると思うのですけど、
ニフティーサーブの「演劇フォーラム」というのがあって、これはニフ ティーの中でも相当活発で、何か5本の指に入るぐらいにうまくいってる
らしいんです聞くところによると。プロが多く参加してるということも あって、人気があるんですけれども。これは最初僕が入った頃で、僕が
入ったのは5,000人目ぐらいだったんだと思うのですけど、その頃までは 相当すごくよかったんです。よかったというのは、無駄なもののほうが保
障されてて、劇評をみんな書くんですよ、前にみんな観てきた劇評をどん どん書くんです。それを見てそれを羅針盤にして演劇を観にいくというこ
とが成り立っていたんです、そのぐらいの人数まではぎりぎりで。うちな んかはそれの恩恵に預かって結構動員を伸ばしたり、知名度を伸ばしたと
いうことは確かにあるんです。ところがいまはそれがあまり増えてくる と、今度はミュージカルとか劇団四季の評が急に多くなるんです、一般に
なってきますから。それでしょうがないんで会議室を分割してミュージカ ルの会議室と、劇団四季の会議室と、普通のストレート、プレイとか小劇
場の会議室に分けたんです。分けてもやっぱり多くなって、いまは15,000 人とか20,000人ぐらいいると思いますけど、そうするとやっぱり第三舞台
とかキャラメルボックスとか、何万人も動員する劇団の劇評があって、そ
の中にちょこっ、ちょこっと小劇団の劇評が入ってくるようになるから、 あまり目立たないです、数的には。
それから、例えば、面白いのは毎年やっぱり投票をするんですそこで も。そうすると92年ぐらいまではマイナー劇団が一つだけ傑作をつくる と、その年の2位とか3位になるんです。第三舞台の次が何とかって全然 知らない関西の劇団だったりする、そこに熱狂的なファンが投票するんで す、持ち点10点だから、10点全部注ぎ込むんですよ3人ぐらいが、そう すると30点でももう1位になれちゃったりする。そうすると3点ぐらいの 人が10人いるよりも勝っちゃうという現象があって、なんだこの劇団と いって、でも僕なんか一応プロで携わっている者なんかやっぱり気になる から観にいったりということが起きるんだけれども。いまやもはやその機 能はなくなっちゃってる。
だからそれがいつも通信の問題で、そこのフォーラムとか、そういうも のがサークルが優れていれば優れてるほど、いろんな人が入ってくるか ら、どんどん規模が拡大してしまって、結局はマスメディアと同じになっ てしまうという矛盾というか、そういうものがあると思うのです。それは どうですか。
松本 まず最初のマスセールスに支えられなくてもあるべきかというの の、まず前半に関していいますと、学校との交換させたいと思っているん
です。学校がパッケージ化してとり込んだ部分を、部分的に経済的に出版 社のほうに回してほしいというふうに思ってまして。例えば、読み書きと
いうのに関してなんですけど、いま学校で10やってるとしたら、10のう ち2ぐらいは残しておいてもいいのですけど、8ぐらいを分散してほしい
と思っているんです。例えば、学校でちゃんと司書がいない学校もあると 思うのですけど、それでやれば、例えば、もしまちの書店にちゃんとイン
ターネットの端末があって、本に本当に詳しい人がいれば、例えば、生徒 がきてこの本見たいというときに、それはもう絶版だから図書館にいきな
さいとか、それはこのぐらいの値段だけどお母さんに相談して買ってきた らどうですかというのが、まず学校で読書習慣をつくるのではなくて、書
店とかそういうとこでアドバイスできればいいと思うのです。それで例え ば、国語の先生が10人いたら2人にして8人首を切ったわけですから、そ
の予算をさっきの生涯教育のポイント制じゃないんですけど、子供が例え ば、読み書きクーポンというのを持っていたとしまして、それはその書店
で決算するわけです。その書店がちゃんとしたそういうアドバイスをして たというのが、ポイントがついたことに関して、少しずつ8人首にした分
の給料から、そこにバックされるシステムがあってもいいんじゃないかと いうふうに思うのです。
それは例えば書店なんですけど、ちょっと話がかなりずれるかもしれま せんが、いままで学校が担っていた部分を地域が何かやった場合に、それ は売り買いというのと違ったやり方で、それが経済的に、あるいは評判と いう形でフィードバックされていいんじゃないかと思うのです。
それから、例えば、料理の本にしても、家庭科に関していうと、包丁の 使い方ぐらいは教えてもいいと思うのですけど、それ以外、例えば、ある 子供がお饅頭の作り方を知りたい、ある子供はフランス料理の作り方を知 りたいと思えば、お饅頭の作り方を知りたい人は、お饅頭屋さんにいって お饅頭作ってるとこで教えてもらって、それをさっきの家庭科クーポンと いうのを、そこで決算してもいいんじゃないかと思うのです。もし学校の 制度がパッケージ化されて、分散化された場合なんですけど。それが一つ まずあるんじゃないかと思うのです。
これはもともと平田さんの話からヒントを得た話ではあるんですけど。 ある種文化的に貢献するということに対して、いまは現実に文化庁とか、 地域がフィードバックしているわけです。それと同じことがもしパッケー ジ化していた学校の教育の内容が地域に分散することによって、ある部分 が地域が担うということが、それをバックするというシステムができれ ば、単にコスト的な問題のコストによる売買でない部分で、支えることが あるんじゃないかというのがあります。書評のさっきの★取りの話をしま したんですけど、サポート会員によるサポートと、もう一つは、もしそこ に人がたくさん見にくるようになれば広告をつけられると思うのですけ ど。広告収入のある部分を★取り表に合わせて、例えば、1,000★取りが あって、その中の10取ってる人が1%ですね、もし仮に100万円余剰が 余った場合には、その1万円を★取りに合わせてフィードバックするとい うことが、もしかしたらできるんじゃないかという意味での、クーポン制 の実験をもしたいと、まずちょっと思っているんですけど。
それから後半の部分で、マスメディアになってしまった場合どうするか ということなんですけど、それはちょっとまだそこまで、(笑)検索をう まくして……。
高本 そこまでいったらもうそんなのはあとの若い人に任せて、新しい
会社をつくるとかね。(笑)でもパッケージ化やいまの話と関係して、例 えば、東京や大阪だといい曲目を演奏してくれてるオケとかカルテットと
か、地方都市へいくと途端にベートーベンやチャイコフスキーになってし まうという現象があるわけです。これはもちろん商業的なさまざまな事情
と、それから地方都市というのは、せいぜいこれぐらいの聴き手しかいな いだろうなという、何かよくわからない先入観みたいなものでしょうか。
いままでこれでやってきたんだからこれでいきましょうという安全牌みた いなこともあって、結局なかなか面白いものというか、つまりマイナーな
ものであったり、日頃聴けないようなものであったり、そういうようなも のに出会うチャンスが地方都市へいくと比較的ない。しかしないというの
は、逆にいえば地方都市にしかないものがやっぱりあるわけで、中央で面 白いことをやっているのを、そのままの形でいわば地方都市にそのままを
持ってくるという考え方自体が、もしかすると誤りなんであって、東京で やっている面白いのがあるんだったら、それは東京へ出掛けていけばいい
という時代になってきたんだろうなと。地元の学校の講堂で呼んだりする んじゃなくて、自ら出掛けていけばいいだろうと。
そういうことを考えるときに、さっき問題に出てきた、じゃあ何が効率 的なのか、あるいは何が無駄なのかということを考えると、インターネッ トのウェッブ・ページをたどるなんていうのは、これぐらい無駄なことは ないだろうと僕は思うのです。効率的でないという意味でも無駄だ。た だ、そのことによって、例えば、アクセスした情報の、いままでのアクセ スの仕方からいうと時間的に倹約できたり、郵送料がかからなかったりす る部分はあって効率的かもしれない、しかし効率的でない部分もまた同時 にある。それと同じで、さっき平田さんがいわれた、どこも同じような郊 外の風景というのが、それはとっても便利だと思う人にとっては便利なん だろうと、こんなの嫌だと思う人はまた嫌なんだろう。僕はそこは直交し てる概念で、効率的か効率的でないかというようなことと、その人にとっ て価値があるか価値がないかとか、あるいはその人にとって十分な意味を 持っているかどうかというようなのは、必ずしも同じ軸上に重なるのでは なくて、直交しているからいろいろな見方があっていいんだろうと。一方 ではインターネット非常に効率的だと宣伝しまくってる人がいます。一方 では、あんなものはもう落書きにすぎない、トイレの落書きだといってい る人もいるわけです。そこもその人にとっての有効性を判断する基準で あって。
さてそこが、例えば、書評の話にそれを置き換えると、ある書評がさっ
き小林さんがいったように、自分の感性みたいなものとぴったりきた論者 が書評を下しているという場合は、文句なしにオーケーになるということ
も当然あるでしょうし、逆に自分が読んだことのある本を取り上げている と、うん、なるほどなるほどと、自分の読み方と比べることができるとい
う点で、相手の書評が読める。自分が全く縁のないようなものというの は、最初から書評自体も読まないだろう。そうするとすでに持っているそ
の人その人の有効、価値付けの十分さみたいなものが、そこに反映されて いったときに、はたして松本さんが目指しているような新しい知の世界を
一歩リードする形での書評というのが実現できるかどうか。
それからもう一つは学校の話もありましたけれども、学校のある部分を 商業ベースのところに置き換えるというのは、当然いまの学校システムを どっか根底から壊さないといけないと思うのです。ところが学校教育が もっている一つの意味づけとして、一つの継続性ということは重要だろう と。例えば、ひつじ書房が10年後まで請け負ったいた一つの業務を、半 年ぐらいで倒産して、松本さんどっか山の中に逃げちゃって、人相変えて 北朝鮮に亡命したりするかわからなくなってしまう。そういう継続性、安 定性ですね、そして安全性みたいなものがどうしても、親が子供をどうこ うするという、施設に任せるとか、システムに任せるというときに当然問 題になってくるので、そういう部分をどういうふうにケアしていくかとい うことが出てくれば、実現性のない話ではないと思うのです。実際の場合 塾とかそういうふうなものが、これからだんだん再編成されていくと、大 手書店とか、大手メディア業界とかと当然結託を始めるはずですけど。
ただ、どうすればいいのかとか、こうもできる、ああもできるかという 問いを共有する次元と、こうするべきじゃないかみたいに、答えを共有す る次元と、いまどっちにあるかというと、まだ恐らく問いも共有できてい ないところにあると思うので、こういうふうなシステムにしましょうと か、したらいいとかという共有された答えが出るのは、きっと無理だか ら、じゃあいまのままでいきましょうということになっているのじゃない かなと思うのですけど。
松本 学校のパッケージ化からコンポーネンツへと考えたのは、例え ば、本屋さんですけど、21世紀に大活動がきてみんな結構心配していろ
いろ考えてるわけです。それを出版社もそんなに考えてない人が多いので すけど、書店の人は書店が中抜きになってなくなるのではないかと、結構
危機感をもっているわけです。再販制はなくなるかもしれないし、もし再 販制がなくなれば本当にそれこそ、ある部分では個人の裁量が利く部分も
ありますけど、マスの力がより強くなる部分もあって、ほとんど駄目に なってしまうのではないかと、みんな心配するわけです。また、インター
ネットで直接大きい書店が販売を始めてしまうと、全部壊滅するんじゃな いかと恐れてるわけですけど。その心配は確かにあるんですが、多分本屋
さんだけが変わるんじゃなくて、世の中全体の中で変わる中で変わるんだ と思うのです。その前見城さんがおっしゃった、一つのメディアだけが変
わるのではなくて、その中で組み込まれていって、周りのやつも変わって いくというのが一つのヒントだったんですけど。
仮に出版業界というか、本屋さんを含めて変わるのと、同時に変わると したら学校はどういうふうに変わるのかなというのを考えたときに、こう いう考えになったわけです。多分、すべてがいままで通りではあり得ない と思うのですけど、それが出版界だけでなくて、多分ほかも全部ごちゃご ちゃっと変わって、その中で本の流通の仕方も全部変わるはずなんで、そ のときの一応出版と学校というのを一応考えたんです。ほかの部分も多分 別のやり方で、別にこれが新しいわけではないですけど、そういうふうな ことから考えたんです。だから別にこう実際に変わるかどうかは全然わか らない、変わらないかもしれないですけど、少なくとも多分全部がそれぞ れ変わっていく中で、本を出したり書いたり流したりするというのも起き てくるはずなんで、そういう感じなんですけど。
平田 ただ本屋さんなんかは、つぶれちゃってもしょうがないかなとい う部分もあるわけじゃないですか。僕は本屋さんで本探したりするのはも
のすごい好きなんで困るんですけど。ただ、例えば、これもちょっと演劇 とは直接比較するのは無理なんですけど、演劇のチケットというのは昔は
プレイガイドというのがあったわけですけど、いまプレイガイドはほとん どだめで、ぴあとセゾンのオンラインで、いまはコンビニでも買えるよう
になってますからね。ただ、これも過渡的なもので、例えば、オーストラ リアなんかでは第三セクターがチケットの販売のそういう、日本でいうと
社団法人ですね、そういうものをつくって全部一括管理しているんです。 非常に安いコストで、ぴあってものすごいんですよ10%取るんです手数料
を。だから3,000円のチケットを売ると300円ぴあが持っていくわけです。 私たち劇作家に入るおカネは高くて5%なんです。何でチケット売るやつ
のほうが食ってる人間より、一番劇作家とか演出家は大変なはずなんだけ
れども、ただ売るだけで、ただ売るだけといったら怒られるんだけども、 10%はないだろう。10%から高いと12%ぐらいになるんです、いろんな手
数料が入りますから、税金とかも入れると12%ぐらいになるんで、それは ちょっと相当取ってるという感じがするんです。オーストラリアなんかそ
れがほとんどないわけです、本当にもう本当のランニング・コストだけな んです。それは政府と、それから企業の寄付によって成り立ってるわけで
す。それが成り立ってるおかげで、例えば、当日の昼になるとコンピュー タで全部一括管理してますから、当日の昼になるとワーッと安い、これ
ニューヨークなんかもそうですけど半額になったりとか、学生割引とか、 ハンディキャッパーに対する割引とかが非常に細かく設定できるんです。
いまぴあとかセゾンでそれをやろうとすると、これ民間企業ですからそん なことやろうとするといちいちコストがかかってしまうわけです、こっち
側にコストがかかってしまう、向こうではやってくれませんから。それ向 こう側が全部やってくれるというシステムが、いずれ日本でもなってくる
と思うのですけれども。 本なんかもそういう、知的な書籍みたいなもの は、国民の共有財産であるということになれば、そういう流通システムの
ほうがいいかもしれないです。だから逆の発想で、もちろん文部省とか文 化庁が直接管理するのは無理だから、第三セクターみたいなものをつくっ
て、そこが一括して管理して、そうすればいまの流通の東販とかに小さい 出版社がいじめられることもなくなるし、いいじゃないかという考え方も
できますよね、書店ももうなしでいいじゃないかということも、僕は一つ はあり得ると思うのです。
見城 それは知の公共性ということと関わってくると思うのですけど、 僕もちょっと違う観点からやっぱり本屋さんで、要するにさっき松本さん おっしゃったような意味で、本屋さんをサポートしていくというよりは、 社会全体が変わっていくのであろうと。それでいってみれば要するにいま の日本だと本というのは個人が買うものですね。だから短期的に見合わな ければやっていけない、いい本でも売れなければ絶版になるという形に。 それを例えば、ヨーロッパは図書館長い伝統があるからなんですけども、 要するに各図書館が自分の専門分野というのをしっかり持って、非常に高 度な専門知識を持った司書を雇って、その図書館にはその専門分野に関す る本は網羅的に集めるというような形で、要するに個人は本を持ってなく てもその図書館にアクセスできれば、要するに知へのアクセスは確保され るというような形で、そういう形での知の社会全体での保ち方というあり 方もあるわけです。
そういうふうにすれば、例えば、いくら高い、要するにごく一部の人に しか売れないから高い本でも、買われることによって運営していくことは できるわけ。そういう意味でいうと、やっぱり社会と知との関係のあり方 というもの自体が変わるという可能性も、一つ考える必要があるだろう。 そんなこといっても、松本さんにとっては何の意味もないということはわ かっているんですけど、(笑)でもその方向も考えていかないと、やっぱ り議論としては、短期的な利益か長期的な利益かというような、やっぱり 効率だけの話になっていっちゃうような気がするんです。それは別に出版 社だけの問題ではなくて、僕たちというか、要するにこの社会に生きてる われわれが、いまの社会住みにくい、だから個人でそんなに本代払わなく ても、本にアクセスできるようにしようよというような形で、みんなが考 えていかなければいけないことなんですけど。
あともう一つは、学校のパッケージとコンポーネント化の話なんですけ ど、僕は松本さんの話、さっきの話をうかがって、確かにもう要するにコ
ンテンツの部分では、学校はもう完全に放棄しちゃって、松本さんがさっ きおっしゃったような形であれ、ほかの方法であれ、外部化しちゃえばい
いなというのは、全くそうだと思うのです。と同時に、ここからが自分の 信念なんですけど、要するにパッケージかコンポーネントかという対立と
同時に、もう一つコンテントかプロセスかという、そういう対立もあると 思うのです。要するにいままでの大学というのは、コンテントの部分を囲
い込んでたわけです。つまりそこにいけば図書館のほうにアクセスできる とか、そこにいけば専門的な知識を持った人にアクセスできる。逆にいえ
ばそこの集団に入らなければアクセスできないといわれて、コンテントの 部分を囲い込んでいたと思うのですけど。そのコンテントの部分はどんど
ん流動化いましていって流れ出しちゃって、もうほとんどゼリー状態で何 もないわけです。それに対して、その知識をだけど生み出した結果だけ
じゃなくて、生み出すプロセスというものがあるであろう。そのプロセス の部分というのは、実はあんまり本とかという形で流すことはできないも
のだと思うのです。例えば、専門家の養成ということを考えても、専門家 の養成って実は知識の伝播だけではなくて、一子相伝みたいな形で、これ
これこういう奥義があるみたいな形で、教えるというだけじゃなくて、優 れた研究者とその場に一緒にいることによって、その人の情報収集の仕方
であるとか、あるいは発想の仕方であるとか、あるいはその人の生活態度 全般とか、あるいは、ああなるほど優れたことをいってる人でも、人格的
には大したことないなあとか、そういうことを知ることによって、自分も
専門家になっていくという、そういう部分があると思うのです。
そういう意味でいうと、やっぱりプロセスという部分で、学校というの は一つの役割を果たし得るのではないか。どうしても何か今日の話でいう と、僕は別に学校を擁護するつもり全然ないのですけど、ただ、要するに いま高本さんもそうだと思うのですが、やっぱり大学に携わっている者と して、要するに大学というのも一つの社会のユニットとして、何か役割を 果たし得るとすれば、それは何かなというふうに考えていったときに、そ ういうプロセスの部分というのは一つ残ってくるのではないかなという気 はするんですけど。 小林 学校というのと教育というのを、分けて考え たほうがいいような気がする。
高本 僕は大学生よく、さっきもいったように裏日本でございまして、 日も差しませんし、雪も積もって閉ざされるので、辞めたくなる学生が冬 場になるとたくさん出てくるんです、(笑)じめじめとした感じで。僕の 部屋へきては、私いったい何のために大学にきたんでしょうかなんていう わけです。僕はそのときは、あっ、君ね、高いおカネ払って無駄な時間を 正々堂々と買っているんじゃないですかというんですけど。人を見て多少 言葉を変えますけれども。要するに正々堂々とモラトリフムできるんだ と、そのために難しい試験を突破して、突破したら途端に何もしなくてよ くなると、そういうことを繰り返してきたんじゃないのという話をするん ですけれども。それが僕はある意味で時間の浪費、非効率性なんだろう。 学校って効率性ばっかりを追ってるというふうによくいう方がときにいま すが、そうじゃないと思うのです。あんな長い時間だらだらだらだら、あ んまり意味のないようなことをだらだらだらだら、僕なんて微分方程式な んていうのは、卒業後一回も使ったことないですけど、そういうことも一 生懸命覚えたりして、何かやってる振りをして、教師の側も生徒の側も振 りをしながら、実は何もやっていないというシステムを温存しているとこ ろに、学校という場の存在価値があると見ているんです。人は集まらなく たっていい、1人だけの学校であっても、そのだらだらとした時間、空虚 なんだけれども、それはさっき見城さんいわれたように、プロセスとして の意味があるだろうと。振り返ったときに存在感があるんじゃないかな あ、何か山田洋次の映画みたいな宣伝なんですけど。そういう何か感じを 持ってるんです。
だからリアルタイムに価値をもっていくものという点で、さっき書評の 話の中で、何でしたっけ、同時的批評の重要性というようなお話もしてき
ましたけれども、何かやっているうちに何の意味があったかどうかよくわ
からないんだけれども、ふっと振り返ってみると、ああこんなに時間が たっていたかというような楽しみが、僕はウェップサイドにはあるような
気がするんです。そこの面白さも同時に保障をして、もう一方ではそうい う何か先に向けて新しい将来を切り開いていくというベクトルも重要だと
思いますから。その何か両方がうまくバランスとれたときに、居心地のい い「shohyo.co.jp」になるんじゃないかなという感じがしますね。僕ちょっ
と、3枚目何かコメントほしいな。
小林 ちょっとそれを僕聞きたいんだけど、終りかなと思ってたけど。 さっきの平田さんの、どこの本屋さんも同じだみたいなのと、それから地 方にいくに従って階層制みたいな話というのは、僕はやっぱり気になって いて、無駄の話というのと関係するんだけど。本買うときというのは二つ あって、この本読もうと思って買おうと思って本屋さんへいくのと、何か ないかなと思っていくのと二つあるわけだ明らかに、たぶんそれはだれも そうだと思うのですけれども。 書評というのを、今朝久々に神保町へ いって本の匂いをかいできたんだけど、1冊も買いませんでしたけど。何 冊か注文しようかなと思って、その「shohyo.co.jp」というのは、やっぱり そういう無駄な部分を担うべきさいとうであると思うのですよ。
松本 自分第一場面関心があるところは、たぶんまさにいくと思うので すけど、見ようと思えば下まで引っ張っていけばいい、全然関係ない、普 段は気にしない園芸の本の書評があったりとかするわけなんで。
小林 その関係なさという話なんですけども。
松本 ランダムに表示せよという。
小林 ランダムじゃ駄目なんだこれは、そこはやっぱり重みづけがな きゃならないんですけど。どういうことかというと、今日僕三省堂しかい
きませんでしたけども、案外いいのが東京堂の1階の平積みなんです。あ そこっていうのは別にジャンルがはっきりしてるわけじゃないんですね、
ジャンルがはっきりしてるわけじゃないんだけれども、結構気になる本が 置いてあるんですよ。で、よくだから僕の知ってる編集者なんかいうの
は、ズバリいうと哲学書房の中野さんなんだけど、彼はやっぱりそうい う、一緒に神保町昼飯食おうとかといって歩くことあるわけ。そうすると
パッと東京堂のあそこのガラスの入ったショーウインドー見て、それから 冨山房ピッと見ていって、こうやって歩いてるわけです。それで鰻屋かな
んか入って、いやあ、三省堂の4階も本当に駄目になりましたねとかいう わけ。4階というのは思想書です。例えば、池袋のリブロがよかった時期
があって、そこがあってというふうに、やっぱり中野さんの興味のある分 野に限っても、その本屋さんの並べ方というのは変わっている。ほとんど
はそれはもうそこの担当の店員で決まるわけですけど。逆にいうと、だれ が書評を書いたかというふうな話と同時に、その本屋さんの棚をどういう
人がつくってるかというもとが、やっぱり僕らにとっては重要で、そう いったようなものが反映されるような、それが僕はやっぱり場だと思うの
です。そこへいって、それはだからいったときに、変な話無駄なんだけど も、ああ、東京堂のここで平積みになってるからこの本買おうという、そ
れだけじゃないですけど。だから書評で見て、だれか書評を書いてたなと いうのが、ここで平積みになってると思ってそれで買うとか、そういうこ
とってすごくやっぱりあると思うのです。
松本 本屋さんでもスポンサーになってもらおうと思っているんで、オ ンライン・システムと、あと書店員さんの書評を載せるというとこまでは 思っていたんですが、いまの小林さんの話を聞いて、書評の順番並べ方 は、東京堂バージョンとリブロバージョンというのを作ってもいいかもし れないですね。
小林 そうすべきだと、べきだというかそうだと思いますねやっぱり。 だから場といえば場だし、場というのは要するに一般的なフラットな場が あるのではなくて、複数の個が構成する場があるわけです。そうすると行 き着く先は個体というか、わりとはっきりした個人というのが見えてい て、それが場を構成するという形だと非常に何か魅力的になってくる。
見城 僕は書評にこだわる必要はないんじゃないかなという気がするん ですけど。
松本 それは本でいいという意味ですか。書のほう、評のほう、どっち ですか。
見城 評です。要するに帯を見て買う本もあるけど、さっき高本さんも 小林さんもいってるように、ある人が紹介してるからとか、要するにその
存在を知ったからほしくなる本というのもあるわけで。例えば、タイトル だけ見ただけで自分を呼んでる本というのはあるじゃないですか。だから
そういう意味でいうと書評のフォーラムというか、試みは確かに一つの手 掛かりではあるんですけど、それと同じぐらい重要なものとして、例え
ば、このジャンル、このキーワードだとこんな本があるよと、みんなが知 恵を寄せ合うというか、自分の知識を寄せ合って、例えば、僕の関心なん
かじゃコミュニケーションとか、言語政策とかというキーワードでいく と、何かみんながこんな本もある、こんな本もある、それは当然全然なん
かピント外れな本もあるけれども、時々キラッと光るタイトルの本があっ たりとか、タイトルだけでいいから、そういう場があれば非常に嬉しいと
いうか。簡単なというか体系性のないビブリオグラフィーみたいなものが ウェッブの場合あれば、それはすごく重宝だなあと、個人的には思いま
す。余分な書評なんかいらないものも多いと、逆に書評を見てほしくなる 本もあると思うけど。
小林 書評でもさ、ゆっくり雑談モードへ入ってもいいですか、裁判 長。(笑)
高本 はい。
小林 あれは僕だからね、ある時期まで全くホームページなんていうの は持たなくてもいいと思ってたという話しましたか。
高本 はいございました。
小林 しましたよね、要するにあれだからさ、呟きなんだよね。非常に 何ていうの、パッシブな呟き、で、それをいわば見にきてくれる人があれ ば歓迎というふうな形の構造だと思うのですけど。だけど本というのは、 読んだ本のことってだれかにいいたくなるんだね、(笑)だから別に読ま なくてもいいし、聞かなくてもいいんだけども、そういう自己満足の場を 与えてもいいと思う。
見城 まあそれはそうですね。
松本 ニックスだったら、いい自己満足してるなと思ったんです、その 人の意見を、それこそナンセンスと、私と同じような自己満足の仕方だと か、いい自己満足だなと。
高本 僕は僕のホームページには細々やってるというのを付けるんです けれども。例えば、先程ニフティーの話が出てきましたが、ニフティーの
フォーラムとインターネットのページとは僕は違うと思っているんです。 それから電子メールとも違う。電子メールというのは特定の相手に向けて
発信をする行為だと、ブロードキャストやっても特定の相手が前提とされ ている。フォーラムという形式も一応そこに集まったメンバーを前提にし
て、必ず少なくとも指数オペとか、それに相当する人はその内容をチェッ クしているだろうという話ですが、ホームページというのはだれもアクセ
スしてくれない、自分しか見ていない可能性が大いにあるわけです。そこ でアクセス・カウンターを付けていろいろ確かめたりするんですけど、あ
れは本当は人間が見てるかどうかわからなくて、検索ロボットが走ってる
だけということもありますよね。僕検索ロボットここのところずっとファ イヤウォールのシステム管理してる人と見て、どんなのがきてるかという
のを見るんですが。ある晩なんか100件ぐらいの問い合わせが、これはほ とんどロボットとおぼしきやつが、同じシステムいったり出たり、いった
り出たりしているんで、あれは何を調べているのかよくわからないのです けど、向こうのシステムがボロだけかもしれませんが。それでカウント数
が上がっちゃうということもあるんですけど。
小林 それでもいいな。(笑)
高本 場合によってはもっと寂しいのは、自分でカウントを上げている というのがありますけど。(笑)しかし、いずれにしても僕はホームペー ジというのはそっとおいておいて、だれかがくるまでじっと待っていると いう点では、伊奈かっぺいさんが講演で、「私は昔万置きをした」という 話を、自分が最初に、何か自分に宛てた手紙をずっと書いてたらしいです ね伊奈かっぺいさんというのは、もう寂しくて寂しくて仕方がないから、 自分に手紙がほしいというので、じゃあ自分で書こうというので、毎晩自 分に宛てた手紙を、しかも郵便切手を貼ってちゃんと出して、だから下宿 のおばさんは何かあんたはたくさんいろんな人から手紙がくるわねえっ て、いろんな人物に成り代わってその手紙を書いた。それを1冊の本に、 最初に彼は青森放送でしたか、いまでも勤めていらっしゃるんでしょうけ ども、本にしたときに、どうやって本を売ればいいのかわからないから、 本屋へいってベストセラーのところにそっと置いたというんですね。だか ら万引きをしちゃうと叱られるけれど、万置きはどうなのかなという話 を、よく講演でよくされているのですけど、それに近い部分があると。
小林 よくわかるな。(笑)
高本 本というのは本屋でも随分商店街の寂れたような場末の本屋なん て、あれはそっと置いてるだけじゃないかという、3ヶ月ぐらい前の雑誌 がほこりを被ってまだ残ってたりするような、あれはそっと置いているだ けじゃないというかもしれませんが、やっぱり現物が流通しているという 点ではインターネットとは違うと思うのです。だからそこに流通問題が起 きてくュる、再販制の問題なんかも当然出てくるだろうと。
書評の話で思い出すのは、北島町の町立図書館の小西まさゆきさんね。 図書館のライブラリアンなんですけれども、一方ではサラリーマン・パン クの会会長であったり、疾風怒濤の会とか何かそんなのがありますね、い ろんな活動をされているのですが。一つは公共ライブラリアンとして公共 スペースの文化活動、例えば、NHKのハイビジョンというの、いま著作 # 権があんまり本放送になってもないものだから、公共スペースは自由にで きるらしいですねああいう録画したものの紹介というのは。それをやった り、それから図書館のミニコミ誌でいろいろな活動をされているのと同時 に、地域の徳島の「あわわ」というあれは地域マガジンみたいなのがあっ て、そこに書評を連載というか毎号掲載されている。そこまでだったら普 通の地域文化人がやることですが、小西さんの偉いなと思うところは、自 分が書評で紹介した本は、地元の本屋に必ず置いてもらうというところま でケアしているんです、買いたい人がいったらあの本屋へいきなさいと。 実はその本屋が突然社長が店を閉めるといって、全員突然解雇したので、 いまその闘争本部もやってますよね彼ね。そういう活動の中から、小西さ んの批評も面白いけれども、取り上げる本ももちろん面白いんだけど、そ れが直接アクセスできるという状態で、現物を確かめることができるとい う状態で、徳島という大きいのか小さいのか僕ははっきりわかりませんけ れども、地方都市ですね、さっきの話ではだんだん個性が失われていって るような地方都市、そういうところにあると。 同じような活動というのは、僕は小さい本屋さんたくさんやっていると 思うのです。知っているのでは香川県の高松に、子供の本だけしか置いて いない駅前の小さな本屋さんがあるんですけれども。これは完全に広島や 岡山から子供の本を買いにいくんだったらあそこにいくという、本当に小 さな本屋さんなんですけれども、青山のクレヨンハウスと同じような、あ んなに大きくないのですけど、そういう形にしてます。しかし、一方では 違う店舗を持って、そこではコミックとビニールに入ったエッチな本も売 らないと実は商売にならないんですよともおっしゃってるのは確かなんで すけど。 だからそういういろいろな従来の形式で行われてきたミニコミ系とか、 そういうので行われてきたものと、インターネットという媒体、 「shohyo.co.jp」との間につながりはきっとあるはずなんです。そういう従 来型の活動をやってる人たちを取り込むというようなことも、いままでは 分散してるだけでした、それをネットワークしていくということも面白い んじゃないかなと思うのですけど。 松本 それは本当にできるといいと思いますね。なお自分で書評誌を 作って配っているような奇特な本屋さんもたくさんありますから、そうい うとこだったらそれを載せる、オンラインに載せてどこのものだという か。一つは、本屋さん全くつぶれるんじゃなくて、ちゃんとケアできる能 力があるところはどこだというのが、わかるようになるといいんじゃない # かというのがあるんです。だからチラシとか、そういう単にこめことか、 そういうところはあんまり絡ませたくないというか、向こうも関わりたく ないというかもしれませんけど。ちゃんとその中で情報を持ってるところ にカウントし、さっきの図書館の例でいうと、ただ普通の人だったら買い にいくときにいい本屋さんがあって、そこそこの本があるところはあった ほうがいいとは思うのです。
それがさっきのは図書館連動させることが私はできないかと思ってまし て、例えば、明日文部省に本を持っていくんですが、文部省助成金という のがあるのですが、あれは要するに印刷、製本代は援助しようということ だけで、出版社は援助しない、要するに出版社は利益高く見積もってはい けないと書いてあるんです。要するに本を出す場合には物理的に作る過程 があって、出版者が編集して書店があるんですけど、実際には印刷、製本 の助成しか出してないんです文部省は。それは結局、本はやっぱり読まれ てなんぼのほうですから、読むところまで助成すべきだと思うのです。そ うしたら、例えば、いまは印刷代と製本代しか助成してないのですけど、 例えば、一応これを助成しようと決めた本があるとすると、全国例えば 200ヶ所の書店にはそれを買わせるというか、買ってもらうというシステ ムをむしろつくれば、なおかつ、例えば、○○図書館がありますね、そう すると納入するとこはちゃんとノウハウを持ってる書店に決めて、別に急 いで納入しなくてもいいわけで、納入する前に、例えば、2ヶ月かその本 屋さんに置かせると、そうすればもしかするとそれは売れるかもしれない わけで、売れたらまたもう1冊入れればいいわけです。 再販制がまず起きて、どうしようもない本屋さんはつぶれてほしいと思 うのです。で、なおかつ売れる本だけではなくて、意図的にちゃんと棚揃 えをしよう思う書店があったときに、さっきのポイント制と、なおかつ助 成のシステムを最終的な読者までつくれば、図書館もちゃんとコンサル ティングできるし、それに付随したいい本屋さんも残っていってくれれ ば、買う場合でもコンサルティングできるし、それに売るということにな るので、それができればいいと思っているのですけど、両方できるという か。 高本 読まれていくらのものというのは、そうでしょうけれども、現実 には買っていくらで終わっているので、さっきの僕も読まない本ばっかり # です、本当に買うんですけど、この前も1冊お届けいただきましたけど。 そのときに書店の側というか、書店はやっぱり売ろうとする。しかし、僕 は、例えば、本の宅配で白猫八重州とかいろいろあるでしょう、あれって クーリングオフが利くのかなあといつも気になるのです。例えば、10日ぐ らいで100冊バーンと送っておいてもらって、その中から自分の目で選ん で読みたいものだけ10日かけて読んで、で、バンと送り帰す。そういうシ ステムがもし認められれば、本屋やっていけないですね、きっとどっかで 制限しててそうはいかないような仕組みになってるはずなんです。なって いるんですか。
松本 クーリングオフって、別に注文したほうが楽です。最初から、ダ イレクトメールから、どういうことでしょうか。
小林 いま、でもある程度大規模な会社なんかになると、持ってきて選 べるように、いまだけではなくずっと前からそうです。
高本 会社に、事務所に持ってきたりするというような形はありますよ ね。そうじゃなくて、個人でこちらが選定をした上で、ミステリー部門か らパッパッと選んでおいて、実際に目で見て、これ読む価値があるかどう かを判断した上で読んで、それは買いましょう、これ99冊を返すという。
小林 それはだからある程度買えばいいんですよ、確実に高本は毎月30 万買ってくれるとわかっていたらやってくれますよ。
高本 しかし現実問題としてそんなには買えないので、できるだけ本を 楽しみつつ、本にかけるおカネを少なくするにはどうすればいいか。一つ は、図書館を使うという従来型ですよね。でも図書館を使うというのは、 図書館へのアクセスをまず物理的にしなければいけない。やっぱり図書館 もこれからは宅配サービスのようなものとか、特にお年寄りなんかに対し ては。地域では巡回バスのような形で、かなり近くまできてますけれど も、しかしまだまだこれからだろうなと思うのです。
もう一つ、僕は大切なのは、本というのは回し読みをすればいいのでは ないかといつも思うのです。別に新本買う必要はないので、ある意味では
古本屋さんでもいいんだけれども、そういうのを介してでもいいんです が。例えば、ニフティーなんかの上で初期の段階で、あまり回線速度が速
くないときに、大きなフリーソフトとかの束を回覧して、フロッピーの束 がドカッと送られてきたら、それをまたカチャンカチャン、コピーをし
て、終わったらまた次の人に送るというシステムが僕はあって、かなりそ れが草の根であるソフトとか、フリーウェアが伝播するのを助けてたと思
うのですけれど。そういうような形で、おれ、この本を読んだよ、書評も #
書いた、読みたい人手を挙げて、じゃあその順番でこれから回しましょう というのにしちゃうと、書店の人はそんなの嫌だときっというはずなんで
す、それじゃ売れないので。
松本 そうしたら、要するにパッケージ、10倍点つきの本を買っていた だくという形になるんですけど。10倍はしないで5倍でとか。 高本 でも、本の使い方というのは個人レベルでいえば、そんなには規定されてい ないわけでしょう。
松本 法律的にはですね。
平田 これ参考になるかどうかわからないですけど、それに近いことと いうのがあって、盛岡、いらっしゃった盛岡劇場、あそこは町の中にある こともあって、普段から人の出入りがある珍しい公共ホールなんです。普 通の公共ホールというのは、劇場の公演がないときはもう本当に寂れて て、門を閉ざしているんですけど、それは日本だけのことであって、本来 は劇場というのは人の溜まり場なわけで、公演がないときも何か人がワサ ワサしてないといけないところなんですけど。盛岡劇場というのは館長が 代々変な人がなってることもあって、僕なんかが何か仕事の打ち合わせか 何かで事務所なんかにいっても、その横を高校生とかが普通に歩いてたり して、事務所の中をですよ、歩いてたりして、そういう雰囲気のいい劇場 なんです。何でそうなってるかというと、あそこは1室を演劇図書館にし て、そこに戯曲がたくさん置いてあるんです。その戯曲は職員の人たち が、盛岡にはあんまりいい書店がないので、弘前の紀の国屋にいったり、 あるいは仙台、東京に出張にいったときに少しずつ買い集めて溜めた戯曲 が結構あるんです。高校生たちとかは、高校演劇で上演するために戯曲を 探さなければいけないのでそこにくるんです、こざるを得なくなって、そ こで人がワサワサ溜まるようになったんです。
ほかの公共ホールにもそれを僕はすごく勧めてて、もうこれからは演劇 図書館のない公共ホールはだめだよということは常にいっているんですけ
ど。一方で、例えば、帯広の高校生たちは、僕はずっと帯広にいっていた わけですけど、帯広の高校生たちはどうしてるかというと、たいてい札幌
の芝居を観にいくんです。札幌の芝居を観にいくときは札幌まで3時間な んですけど、朝からまずいくんです、お弁当とか持って、朝からいって、
まず札幌の紀の国屋書店にいくんです芝居観る前に。それで何人でもいっ てワーッと、とにかく戯曲を全部見るんですよ立ち読みして、それで自分
たちがやれるような作品があったらそれを何冊か買って、読んでる暇なん かないから、あてずっぽうに何冊か買って、それから芝居を観て、帰って
#
からちゃんとその晩読んで、それで秋のコンクールに何をやるかを決める んです、札幌までいかないといけないんです。しかもそれもあてずっぽう
で、ゆっくり読んでる暇ないから。
盛岡の子たちはそういう空間があるから、そこでみんなずうっとダラダ ラ放課後集まって読んでるから溜まり場になっているんです。それからほ かの高校との情報交換の場にもなっているし、当然そこに地元のアマチュ ア劇団の人たちとかもくるから、蓄積があるんですね、技術の蓄積と伝達 が起こるんですそこで。こんな面白い本があるよとか、今度はこういう芝 居をやりたいんだけどといったときに、もう何歳も上の人たちが相談に 乗ってくれたりということが自然に起こるようになっているんです。だか ら本を媒介にして、そういう人が溜まるような、演劇の場合非常に特殊 な、高校演劇でコンクールがあったりとか、そういう特殊なことはありま すけれども、それは各ジャンルでそういうことっていうのは、これから起 こってくるんじゃないかと思っているんですね。だから学校もそういう開 放系の場になる可能性は、僕はすごくあるんじゃないかと。
高本 好きなときに、興味があるからそこにいくというのは楽しいこと ですよね。
平田 ただそのときに本は当然、その町では恐らくおカネ出して戯曲買 う人なんていうのはあんまりいなくなってしまうから、そのときにその本 屋さんの生活をどう保障するのかという問題がある。劇作家の生活もどう 保障されるのかという問題もある。
高本 何か本に親しんでいれば、逆に本の購買層としてよい購買層が育 つというふうにも考えられるけど、短期決戦でいくと買ってくれないじゃ ないかという。
平田 いずれは手元に置きたくなるだろうからというふうなところに期 待するしかないんだけど。でもそこは、持っていってしまって返さないや つというのが必ず出て、いついってもこの本を探してます、持っていった 人は必ず返してくださいとか。僕の本は結構人気があって、必ずなくなる という。
高本 サインでも入れてあれば。
小林 盗んでいくやつがいるから、補充しなければならなくなって、そ の本屋さんがちゃんと。
見城 盗みたくなるような本を書けということですか。(笑)
高本 僕の地元の図書館には、いらなくなった本を置いてくださいとい うワゴンがありまして、僕もよく小説なんか雑本を持っていくんです。逆
#
に持っていった3倍ぐらい持って帰ったりもしますけど、全然本が減らな いんですけども。ただ、持って帰るとき何か後ろめたいんですよ、自由に お持ち帰りくださいなんて、図書館から本を持ち出すという行為自体が 持っている、何か呪術的なものがありまして。持っていくのも何かおかし いような感じもまだあったりする。その本が持っている、本は汚してはな らないとか、本を踏んじゃいけないとか、本を投げ出したらいけないみた いな、かつての本がまとっていた、本の内容じゃなくて、呪術的性格みた いなものがあるんじゃないかなと。それを払拭しないかぎり、新しい書籍 の知みたいな世界はなかなかいかないんじゃないかなあ、というふうなこ とも一つ思います。
もう一つは、さっき回覧すればいいじゃないかという話で、僕前住んで いた川崎に虎の門病院の分院がありまして、地域に回覧が回ってくるんで す。お宅で読まない本がありましたら、長期入院の人が多いので、廊下に 待合みたいなところに書架を設けましたので、お好きなときに置いて、お 好きなときに持って帰ってくださって結構ですからというような形できた んです。そのときも病人の人が読んでもいいかなと、妻と相談して「死」 が出てきたり、「不治の病」だからやめようなんて、恋愛物みたいなのを 置いたりしたんですけど。それも本というものが物理形式であるからでき る一つの活用の仕方であって、そこにコンピュータを設置して、その端末 に座ってなければ何かができないとかという形ではなく、本というのは本 当に自由に物理的に流通をする、その良さというのは今後も失われてはい けないだろうと思うのですが。ただ、さっきもいったように、ただ単に物 理性を超えたアウラみたいなものがもしあるとしたら、その部分を何とか できるだけ削減をして、裸のままの書物といいますか、さっき松本さんい われた、読まれることでなんぼのものだというようなところに立ち返るた めには、どういう手立てが必要なのかなと思ってます。
小林 これ答えはあとでいいけど、自費出版のことをどう思うかという のが一つと。
松本 どういう意味でどう思うかですか。
小林 いろんな意味で、僕はいま自費出版といったのは、やっぱり エ コの『フーコーの振子』に出てくる本屋さんというのがあって、2つ入口
があるんです。こっち側から入るとすごく格調の高い硬い本を出してて、 #
こっち側々入ると本を出したい人から高いカネふんだくって、それでいわ ば商売やっているんです。それが一つのあれであって、それが舞台になっ
ているんだけど。それが頭のどっかにあって、最近国書刊行会でなくて何 といったか、出版する本を……。
松本 図書刊行会です。
小林 図書刊行会?、すごいあるじゃないですか。
見城 「原稿探してます」ね。
小林 そうそう、あれだけでなくて、岩波にしても中公にしても、結構 自費出版のあれってやってるんですねサービスって。本出すということに 対する執念というか怨念みたいなものが、どっかにあるのかなあみたいな のが一個ね。
これまた全然話が違うんだけど、東大出版会から出てる一連の教科書本 があるでしょう、あれでいえば、『知の技法』とか、『論理』とかというの とか、英語の教科書でいえば、『ユニバース・オブ・イングリッシュ』の 系列のものとか、あのあたりも本のことをどう思うか。
松本 私の話ですか。
小林 そうそう、気になりませんかというの。
松本 まず、自費出版のことなんですけど、自費出版はいまに始まった わけではなくて、多分もしかしたら自費出版のほうが歴史的には古いかも しれないです。で、自費出版でも専門書出している立場からいうといろい ろあって、厳密にいうと自費出版というのは、例えば、朝日新聞がやって いるみたいに本を全部買い取るというのが自費出版の純粋な形だと思うの です。もう一つは、共同出版というか、全コストかはわからないけどいく らかを出すとか、何冊かを買うという。それと全然商業的に独立して出版 の形というのがあると思うのですけど。
例えば、岩波書店が自分がスタートしてる頃というのは、共同出版だっ たんです。要するに、夏目漱石はおカネ出しているんです、その代わり印 税が20%とかなってるのですけど。ですけど出し方としては一概に否定す べきものではないと思うのですけど。でも小さい出版社の多くは、ある程 度自費出版的なもの、私もそうかもしれないですけど、入れないと多分
やっていけないのではないかと思います。ただ、自費出版専門屋さん、 さっきの図書刊行会とか、近代文芸社とかありますけど、あの原稿探して
ますという広告に関して、本をもってるおばさんいるじゃないですか、何 か古い化粧というか、(笑)編集をやってる人だとは思えないのですけど、
何であんなのが載ってるのかと思いますけど。あれ社長さんですか、本 #
持ってる人ですか、あれ社長さんなんですか。
高本 われわれのところに下手な論文書くとくるんですよ、ぜひこの論 文を本にしませんかとくるんです。あれ何か写真入りのがあって、社長か どうかわからないけど、要するに責任者なんだあの人。私がご案内します みたいなパンフレットを送ってくる。3回ぐらい無視してると、ちょっと 安っぽいチラシみたいになるんですけど。
小林 ああそれ見せてくれる。とってある?、捨てちゃった?。
高本 いやもう捨てちゃった。
平田 演劇系もありますよ、演劇系は劇作家はみんな活字にしたがりま すから、やっぱり活字になった瞬間、大体有名な劇作家もみんな自分の本 が活字になった一番最初というのは覚えてるぐらいに、消えてなくなって しまうものですから台本というのは、だから活字になっていると嬉しいで すから。だからテアトロ社というところは雑誌を出しているんですけど、 雑誌は赤字ですから自費出版で、あれは1,500部刷って1,000部買取りか な、200万あれば出せるんですだから。それで「テアトロ」に劇評を書い てる評論家が評論を最後に入れて、ボーンと「テアトロ」の雑誌で広告が 載るだけでも嬉しいわけです、全く無名の人にとっては地方の。それはよ くやっています、それでもっているんじゃないかなあ多分。
小林 否定できませんよねそういうのは。
平田 あと、例えば、僕の本なんかの場合でも、『戯曲集』なんか売れ ないですから、晩聲社から全部出してて、何で晩聲社から出すんですかと よくいわれるんだけれども。例えば、『現代劇口語演劇なんかのために』な んかは、もっと白水社とかから出したほうが売れるに決まっているんだけ ど、ただ、『戯曲集』も出してくれるから、それは継続して全部の本を出 してくれるというほうが、僕にとっては大事なんであそこを選んでいるわ けです。ただ、あれはほとんど僕は印税はおカネでもらったことはほとん どなくて、現物でもらって、僕の場合にはそのほうが劇場で自分で売った ほうが儲かるんで、8掛けでもらうからものすごい儲かってしまうんで す、で、印税分を8掛けで本でもらうから、それが販売のルートを持って いるからすごく儲かるんですね。(笑)だからそれはある意味でいえば自 費出版みたいなものなんだけど、印税分はあれしてるから、それだから夏 目漱石に近い形になりますね、それは。
高本 そういう本という形にして残したいというのは、若い戯曲家もそ うですね。
平田 そうですね。僕この間珍しい体験をしたのは、僕の戯曲がいまカ #
ナダ人の大学教授が訳してくれているんですよ次々に。一番最初『東京 ノート』が訳されてきたんですけど、初稿のラフなドラフトがきたんです
けど、そのときは何か思いがけずすごい嬉しかったんですよ。それはよく よく考えると多分何か劇作家のDNAが、英語になったから読む人の可能
性が目茶苦茶増えるわけじゃないですか、多分15倍ぐらい増えるわけで す。日本語だったら1億人しか読まないんだけど、どんなに頑張っても1
億人しか読まないけど、15億人ぐらい読めるわけでしょう英語、もっと読 めるかもしれないです。だから何かすごい嬉しかったのね、だからそれ活
字になるということは多分そういうことなんだと思うのです。読む可能性 がやっぱりバーンと増えるということだと思うのです。だからみんながイ
ンターネットに熱中するというのも、そういうところはあると思うので す。現実に読むかどうかということではなくて、読むかもしれないという
ことの興奮というのはやはりある。
小林 あるね。(笑)
高本 そこのところで、確かにインターネットというのは世界からアク セスがあるかもしれないとか、場合によっては1日に10万件あるかもしれ ない、そんなすごいコンピュータ使ってないくせに、思いの中だけではそ んなことを思ってたりするわけです。いまの可能性というのが潜在的な隠 された可能性として、そこに喜びを、フフフッと感じるというような部分 というのは大切なことで、そこの部分を無視して何か同じところに理由も 聞かずに、同じ時間に集まれとか、そういう専制的なことが行われると、 これは恐らくいまの人はみんなそっぽを向いてしまうのではないかなと思 うのです。さっき小林さんが聞かれた、本という形にすることへのこだわ りというのは、小林さん自身も持っていますね。例えば、ホームページみ たいな代替物があったとしても、活字にしたいとか。
小林 難しいね、それは非常に難しい質問ですね。やっぱり僕も本書い たことないわけじゃないけど、やっぱり嬉しかったですよね、それがなっ たときというのは。でも、一番嬉しかったのは、小学校のときに自分の作 文が文集に載ったときね。(笑)
平田 ただ、やっぱり本になったときに、この間の英訳のものがきたと きもそうなんですけど、渡せるというのは嬉しいことなんです。だからい ままで外国人と会っても話すだけで、説明はするんだけれども、あとビデ オとかを見せることはできますけど、私はこれですという存在証明みたい なとこありますから。
小林 それから、自分が書いた本が本屋さんに並んでるのをそこで見る #
という。
平田 それはチェックしにいきます、(笑)並べ変えたりして。
小林 この前僕熱海の温泉にいったわけ、水曜日に。その温泉のロビー に朝日新聞の夕刊が置いてあってザッと見たもので。(笑)
高本 さり気なく自分のページを出して見ると。
小林 万置きはしなかったけど。熱海の温泉のロビーの朝日新聞に自分 の書いたコラムが載ってるというのは変な感じですね。(笑) 見城 なかなか第一回目のあの写真はよかったものね。
高本 写真が付いていたの。いまの手渡せるという存在証明になるとい う部分はとても大切だと僕は、本というものが持っている。それは学校と いう古いものが持ってるのも同じ部分があるかもしれないです、直接的な 触れ合いと同時に。僕なんかだと知り合いが、あるいは先輩の先生が本を 作られたら送ってくださいますね、別に中を読むわけじゃないんですよ ね、大体その人が書くことわかってるし、目次ぐらい見ますけど、ああこ れか、前に書いた論文を集めただけだなあ。しかし、その人と会ったとき に、この前本をありがとうございましたと。あるいは、送ってもらったけ ど、あの本買いましたよ、見ましたよとはいわないです、本買いました。 というような形で、それぞれの何かの証明につながっている。
平田 そういうものにするという機能が大きいです、これはネットには ない情報なんだな。
小林 でもやっぱり、高本さんが読んでくれたという、例えば、ホーム ページにアクセスしてくれたというので、それでメールくるじゃないです か、その嬉しさと何だこのやろうという、(笑)それっていうのは僕は共 通する部分あるような気がしますね。紙でなきゃならないということはな いような気もします。
高本 そこが難しいところで、本というものが本当にわれわれが目指し ている情報授受にとって、都合がいいのかどうかということと、つまり内 容を読んでくれて、それにレスポンスを返してくれることが一番の目的 だったら、本という形式をとる必要は何もないわけです。ところがそれと 同じことは、例えば、芝居の代替物としてテレビがそのまま機能するか、 情報としてはそんなに欠落してないじゃないかといわれたときに、そこに 大きな違いが出てくるだろう、そのあたりをどうするか。学校も同じだと 思うのです、バーチャル・ビジョンか何かで、居ながらにして先生が語り 掛けてくれて、それで同じことができるじゃないか、いかなくていいじゃ ないかという。 # 平田 ジャストシステムから出てる本で『脳型コンピュータと猿の ……』。
小林 松本先生の。
平田 あれにも出てきたと思うのですけど、どうしても通信を使うとデ ジタルな情報だけが行き交うわけですから、そこに隠れているコンテクス トというのはあそこでは何だっけかな、お小遣いをもらったんだよ、これ でだれかにプレゼントおじさんに買うんだよという文章は、お小遣いをも らったという情報と、プレゼントを買うという情報しか伝わらなくて、そ の子供が嬉しいと思ってる気持ちは伝わらない、いまの状況では。本を送 るという行為も、著者にとってはレスポンスがあるということで同じかも しれないですけど。例えば、僕はよく何か、例えば、女子高生に何かプレ ゼントをしなければいけないというときには、必ず坂口安吾の『暗い青 春』『魔の退屈』を送るようにしているんですけれども。それを送るとい うことは、ただ、これを読んで何か人生について考えなさいということだ けではないと思うのです。私はこれを読んだことによって何かを感じたと か、そういう二次的な情報も当然渡してると思うのです。で、そういう関 係みたいなものを築こうとしているのだと思うのです。
だからそれはここのデータは面白いから、これ読んでおいたほうがいい よというのとは、ちょっと違うものなんじゃないかなという感じはしてい るんです。
小林 オフレコ(笑)、いうなよ、特に僕の家内には。要するに若い頃 好きな女の子がいて。
見城 若い頃ですか。(笑)
小林 若い頃というのはご幼少のみぎりに、それにやっぱりある本を、 自分が読んで感動した本を送るわけよ、何か書いて。それで破綻して送り 返されてくるくるんだね。(笑)その本どうするかって、これ大問題です よ。
見城 僕の友達で修士論文の謝辞に、そのとき付き合ってた彼女の名前 入れちゃったやつがいる、その後別れたんですけど、一生の恥みたいな。 (笑)
小林 これは大変。
高本 妙にこの本いいよと勧める人がいるんですね。それをそのままに しておくと、また次のときに、読んだ?っていうんですね。いやまだ
ちょっと、そのまた素晴らしさをまた語る。またしつこいぐらいにいう人 というのがいて、あんまりいうから読んでみるんですね、つまんないこと
#
があるんですよ。でも読んでしまったからまたどうせその話になるだろう から、さあどういったらいいものかというので、何か悩んだりすることが
ある。
平田 そうそう、マイナスのこともあります。だから僕、何年か前です けど、昔ほかの外の仕事で芝居で一緒にやった役者がいて、それで彼が 4、5年振りにうちの芝居を観にきたんですよ。おう珍しいねっていっ て、帰りにつかつかっと寄ってきて、いやあ僕は最近いい本を読みまして といって、パッと大川隆法の、(笑)それを渡すためだけに観にきたとい う。そういうのとか、あとこの間も何だっけなあ、テレビ見てたら、その 『脳内革命』の何かがどれぐらい売れてるかという特集だったんだけど、 そのインタビューに答えて、普通の奥さんなんだけど、いや感動しました と、もう4冊も人に送りましたと、送られてきたら嫌だなあと思うわけあ んな本がね。(笑)そういうこともあるんですよね。
小林 ひどい目に遭ってますから、『ゲド戦記』の4巻目というのを、三 宅さん読め読めといって、本当にしつこくいわれて、読んで一生懸命感想 書いたら、うん、やっぱりつまんなかったでしょうと、(笑)だったらい うなよなって。
見城 自分の思い入れのある本を人に送るって、すごくリスキーで、僕 なんか嫌です。だってその本否定されたら、自分が否定される危険性があ る。
高本 僕一度だけそれやったことがあって、最初に受け持った高校の教 師で、卒業祝いというので、なんであの本選んだのかって、そのときの気 持ちになるといまでもわかるんだけど、いまから思うと恥ずかしいなと 思って、岩波文庫でシュトルムの『みずうみ』という翻訳が出てたわけ、 薄いから買っても150円ぐらいだから、これならクラスで買えるなと。
小林 非常にロマンティックな。
高本 しかし考えてみればその当時の高校生があんなの読んで、戦前派 ですからね。
小林 せいぜい僕が小学6年生から中学2年生ぐらいのその頃の本だ よ。(笑)
高本 どちらにしても、何であんなことしたのかなと。
平田 でも高校の先生でありましたよ、僕の本を『自転車』の本を中学 だったかな、20冊ぐらいまとめて注文して。
高本 そのほうが健全だなあ。
小林 15分だけ事務的な話やって、飯食いにいきませんか、今日は皆さ #
ん時間があると思うので。
平田 僕はまだ大丈夫ですけど、ちょっと電話で聞いてみます、7時か 7時半に劇場に戻らなければいけないから。
小林 じゃあ益々急ごう。
(了)