注意! 内輪の会議の記録ですので、引用は厳禁です。NO ROBOT

討議

 高本 いまのユニコードの実装という形で実装されて、どういう形で、例えば、日本語ですね、現に使用されているのかどうか、お話しておいていただけると。

 小林 日本での実装例というのはまだほとんどないと思います。一太郎は内部ユニコード使ってます、でも完全ではありません。だから外に出すときは0208、シフトJISに置き換えて出すようなことをしてます。たぶん現状の実装でそこで一番成功しているのはマイクロソフトのWindow NTというのは完全にユニコードになっているんですけど、ユーザーに見える形でうまくいってるのは、インターネット・エキスプロラIE、あれの3.0のインターナショナル・バージョンというのが一番うまくいってるような気がします。それは内部ユニコードもたしておいて、ユニコード対応のソフトももっていて、それぞれの、例えば、ハングルが入ってきたり、日本語が入ってきたり、中国語が入ってきたりすると、それに対するいわばローカル・バージョンというのを自由に切り替えられるようになっているんです。その使い方というのは、現状では一番メリットが大きいと思います。

 高本 さっき、これは間違いなくユニコードの時代なんだというふうにいまおっしゃったのは、コンソーシアムがどういうことを推進しているのかとか、あるいは、ジャストシステムが1企業としてどういううことを進めているのかと、総合的な判断だと思うのですけど、最も典型的にそうもう考えざるを得ないということで。

 小林 そう考えざるを得なくなったのは、去年の秋からです。というのは2つあるんですけども、1つはJAVA、平田さん知ってる?JAVAとかっていうの、言葉ぐらい聞いたことある?。JAVAというのはサンマイクロシステムズというワークステーションの会社が提唱してる言語なんですけども、大ブームなんです、本屋へいくともうJAVA、JAVAっていう感じで。そのJAVAがネイティブなキャラクター・コードとしてユニコードを採用したんです、それは大きな問題です。

 もう1つは、HTMLというのは、これは基本的にはボランタリーにインターネットの社会の中で作られ、叩かれてるほうなんですけど、オフィシャルなスタンダードじゃないんですけど。そのATMLがUPF8というんですけど、8ビットで通るような形のユニコードというのを正式にサポートした。その2つがやっぱり大きいと思います。

 インターネットの世界の中で、結局現在選択できるインターナショナライゼーションのために当てられた選択肢はユニコードしかないんです。インターネットがこれだけブームになっていて、そのブームの中核となっているJAVAとHTMLがユニコード化されるということは、世界がユニコード化されるということだな。そこの問題点も実はあるんですけど、正直いってそういうインターネットの世界のユニコード化というのに、ユニコード・コンソーシアムが逆に取り残されつつというか、ちょっと遅れをとってる節が見えるんです。例えばというか、そうなんですよ。ユニコード・コンソーシアムは正式な形でコミットできないところで、ユニコードがどんどん進んでいって、技術的な問題点が起こるというのはやや顕在化してきてる。

 アスムス・フライタークは、彼が詐欺師であるということを、そのサンの中のJAVAソフトというサングループの会社があるんですが、それのJAVAのユニコード化のコンサルテーションをやることによってついに露呈したんです。僕が要するにアスムスからコンサルテーション受けないという判断を下したことは正しかった、それがJAVAのユニコード化で証明されたと、こういうことなんですね。

2.1 ユニコードInc.の中の唯一のアジア人


 見城 そのユニコードInc.のほうでしたか、小林さんがボードになっている、そのボードの中に、非ヨーロッパ圏の人たちというのはどのぐらい入っているんですか。

 小林 僕がなった時点で、名前の上ではノベルの日本法人の社長さんの渡辺さんという方がメンバーに入ってましたけれども、きてなかった、その時点で僕1人、出てたメンバーがね。今度の改正で彼は抜けましたから、名実ともにいま僕1人でしょうね。

 見城 アジアから1人。

 小林 ちなみにテクニカル・コミッティーについていうと、日本からこの前僕1人だったけども、この前からサンソフトのアメリカの本社にいる日本人が、サンソフトはユニコードのスタート・アップの時点のコア・メンバーだったんだけど、途中に抜けていてJAVAの課題になんかいまアソシエート・メンバーで戻ってきていて、樋浦さんという日本人が出てます、彼と僕は結構連携とってやる。

 見城 ボードの会議とボードたちの会議と、テクニカルな面での、要す るに実際にコードを決定していく会議との関係というのは、要するにさっきはメンバーはテクニカルのコミッティーのメンバーは全部ボードである、違う、ボードのメンバーは。

 小林 ボード・メンバーというのは、正直いうとお飾りというか名誉職です。

 見城 何ら決定権はない。

 小林 決定はしますけれども、決定するのは、例えば、財務の問題であるとか、ユニコードのマークがトレードマークになっているんですけども、そのトレードマークの扱い方とか、そういったことです。ボード・メンバーそのものというのは、ディレクターズ・ボードというのは、ユニコードのフルメンバーによるメンバーズ・ミーティングに席、あるいは株主総会ですねそれが、株主に対する席をもっていると。一方株主の決定権持っている人たちというのは、大部分がテクニカル・コミッティーのメンバーですから、ディレクターズ・ボードというのは、その両側から挟み込まれているような形になっていて、実質上はそれほど大きな影響力は持ってない。

 松本 ダイナラブというのは、日本でいうと写研と大日本が合わさったような会社ですね。さっきアジアのメンバーの中の。

 小林 大日本印刷じゃないんですよ。

 松本 印刷屋さんと書体屋さん、両方兼ねてるような会社だと思うのですけど。

 小林 いや、書体屋さんとシステム屋さんを兼ねているんですね。 松本 その人は発言しているんですか。

 小林 ダイナラブはまずアソシエート・メンバーで、なおかつテクニカル・ミーティングには時々アメリカのコレスポンダントという、ダイナラブの人間じゃないんだけど、いろいろアクセス・ポイントになってるところの人が。

 松本 アジア人ですか。

 小林 アジア人ですね。それからオラクルからきてるのがアジア人ですね、台湾人ですか。この前思わず英語で僕喧嘩しちゃった、通訳にやってもらうのももどかしくて、そうしたら何かしら、あとで樋浦さんが慰められたけど、小林さんが怒ってるということだけはみんなわかった。(笑)ちなみにあれが、ハングルガコンピュータというのはこの前までフル・メンバーだったんだけど、アソシエート・メンバーにおっこってるのね。穿って見るとすると、ハングルが全部入ったでしょう、もういいよと。

 松本 そのハングルのコードの移動はマイクロソフトが関わったんですよね。

 小林 これは正確のところはわからないんですよ。考え方とすると、僕ハングル語に詳しくないんで平田さん話してほしいんだけど、あれって、ほとんど発音記号みたいなもので組み合わせなんでしょう。それで全部の組み合わせを作るとやっぱり11,000ぐらいになって、ただし、現在のハングルで使われるのは6,000ぐらい。

 平田 それ数学的には11,000だし、使われるのが6,000といいますけど、そんなに人間が発音できるわけないんですよ、だからそんなにないんですよ本当は。

 見城 実際いまの普通の韓国の発音はどのぐらいあるんですか。

 平田 どうでしょうね、使われるのはたぶん1,000ぐらいでしょうね、長音、だから日本語がいくつですか長音とか全部入れても。

 高本 数え方にもよりますけど、まあ100そこそこと見ていいですね。

 平田 それ「じゃあ」とか、「じゃ」と「じゃあ」とかを全部区別したとして、300とか500でしょう。だからそれの倍としても、1,000ぐらいだと思うのです、せいぜい。ただ、書くことになるともうちょっと増えるだろうけれども、現代のことだけでいえば、たぶんそれは5,000もあれば。

 高本 例えば北朝鮮とそれから韓国とで、綴り違いがありますね。

 平田 それはあります。

 高本 そのあたりは飲み込んでるんですか。

 平田 ただ、逆にいうと北朝鮮の場合のほうが単純ですから、韓国を超えるということはあり得ないです。

 見城 それは部分集合とか。

 平田 北朝鮮はものすごく単純化させます。

 高本 非常にあれはやってますね、統一化を政治レベルではなくて、流通レベルというか。

 平田 というか韓国の学者のほうが気をつかって、あんまり変えないようにしてるというか、統一されたときに混乱しないようにいましてるとか。北朝鮮は独自でどんどんものすごく何ていうか、ものすごいナショナリズムですから、全部漢語もできるだけ使わないようにして、それから漢字からの音というのも、規則的に全部直して使ったりしてますから、北朝鮮のほうがちょっと体系的には独自の道をいってます。ただ、文字でいうと、それは非常に単純に教育しやすいような文字体系になってますから、韓国より多いということはあり得ないです。

 高本 あと小林さん、そのユニコードの中に取り込まれている文字というのは、何らかの基準で決められるんでしょうけれども。その委員が出ているか出ていないかにかかわらず、これはこの言語の文字は重要だから入れようというのもあるだろうし、そのあたり何か基準みたいなの話し合われることってあるんですか。つまりある意味では、その言語の文字が持っている一つのパワーですよね。

 小林 現状、先にいまの松本さんのハングルの話簡単に答えておくと、わかりません正確には。一説にもともと組み合わせで表現する、コンピュータでやると組み合わせで表現するという一派と、決め打ちで出来上がったもので表現するという一派があって。マイクロソフトは決め打ち(?)のほうをとって、最終的にはマイクロソフトの方の組み合わせで、国のそういうスタンダードもそっちのほうへ流れていって、マイクロソフト・コリアのナショナル・ボディー、マイクロソフト・コリアとコリア・ナショナル・ボディーという線がくっついて、マイクロソフト・コリアからの圧力でレッドモンドがそういうふうに動いて、ユニコードを動かして。

 松本 ユニコードだけでなくて、国内のコードも変えるわけですか、ユニコードは変えないんですか、いままで組み合わせ文字だって、一文字にしてワーッと文字が増えてるわけですね。

 小林 国がどうなったか僕は知らないんです、韓国の中で。ユニコードはそこで11,000で、なおかつそのオーダーに整合性を持たせるために、別の場所よこせというのでそれもとっちゃうと。

 松本 前のところは確保した上で、またその……。

 小林 前のところは空いたんです結果的に、それ一番大きな問題なんですけど。空いたところに漢字の追加で6,000ぐらい入れようというのを、いまIRGとかはやっているんですけど、それについてもいろんな問題があって。

 松本 混乱しないんですかね。

 小林 いや、混乱しますよすごく。日本にとってもその混乱の、いや、日本がいまのハングルの問題について反対してる最大の論点は、混乱するぞと、JISの78JISと、83JISの過ちを二度と繰り返さないようにしたほうがいいよというのが論点です。だけど現実問題としては、ユニコードでバージョン1のインプリメンテーションというのはほとんどないから、気遣いないだろうと、そういう説もある。いまはほとんどそっちの新しいほうで、みんな意見がとられてますので。それでさっきの選び方ですけど、 で、そこにハングルガコンピュータがどう関わってきたか僕わからないんですよ、これはかなり興味がある。ぜひ水越さんが落ち着いたら、奥さん共々その辺の話というのを調べてほしいなと思う。それに対する日本の反応も、僕なんかも韓国とか朝鮮に対してある種の、いいか悪いかは別としてリプレゼンテーション持っているんで、その中でどういったらいいかというのはすごく難しいです。

 で、選び方ですが、基本的にはだれかが。2つの話があって、ある言葉があって、それに使われてる文字を全体としてどう扱うかという話と、ある文字系があって、その中の固有の一文字、一文字を入れるか入れないかという話と2つあるんです。基本的には電子的に扱われている実績があるものについては、可能な限り入れていこう。それを入れるに当たっては、必ずしもその当事者、使ってる人の提案である必要はない、そういうことです、その問題もあると思いますけど。だから、こういうのあるよってだれかが、ユニコードのメンバーがいう場合もあるし、ISOのある人がいう場合もあるし、それでそれについて追加要求みたいなことが出てきて、じゃあそれを入れるに当たっては、実際にどういう実績で使われたか、電子化されてるかされてないか、されてない場合の議論もあるような気がします。メジャーなものか、マイナーなものか、方言あるのかないのかみたいなことを、かなり一生懸命手紙を出したり、現地に調査にいったり、調べにいくときにおカネがないからどうしようかとか、そういうことをやりながらやっていって、正式に入ると。一つのキャラクター設定についてはそうですね。

 いま話になっていて面白いのはクリンゴン、クリンゴンってスタートレックに出てくる何かあるでしょう、クリンゴン文字というのがあって、クリンゴン文字というのはもうインターネットの中で使われてるんだってね、そういうまさにソサエティーがある。そのクリンゴン文字どうするかというので、いや、使っている人がいるのであれば、それを入れる必要があるだろう。ただし、BNPではないねって、そういう議論を。

 高本 楔文字なんかも入るんですかね。

 小林 入ります、歴史的なものというのは比較的プライオリティーは低い。

 高本 いま使われているものですね。

 小林 いま使われていて、メジャーなものというのがプライオリティー高いわけですけど。このメジャー、マイナーというときに、僕自身も含めてだけども、気をつけなければならないのは、少数民族だからといって、 使ってる人が少ないからといって、その言葉が質的に劣るとは絶対考えてはいけない。結局そこの区別のところで、さっきいったBMPに入るか入らないかという議論があるんですけど。僕が主張していてわりとみんなが納得してくれてる考えというのは、BMPであるかどうかというのは、実は言葉の貴賤を分けるものではないので、であるからしてできるだけ早くBMPの外に出て、あるステータスを持った部分が外に出て、それでもいいんですよということを身をもって示すべきであると。国内の委員会でもそうですけれども、僕自身の漢字の追加に対するスタンスいうのはそうです、BMPの中では必要ない、むしろ率先して出ていくほうがいいんじゃないかと思います。

 高本 まさにいま気にしているのはその言葉の貴賤といわれましたけど、ユニコードにサポートされた文字、あるいはユニコードにサポートされた文字を使っている言語とか、あるいはその文字で記録された文化とか、そういうものはいわばカネになる文化であったり、言語であったりする。それに対して少数民族の言葉であったり、あるいは文字体系自体が十分に記述されていない。あるいは、現に電子化されていないようなものというのは切り捨てられていっているのか、それともそういうものをできるだけ公平にフェアに取り上げようという、そういう一つの動きというか、計らいというか、それがコンソーシアムの中にあるのかどうか、そのあたりはどうなんですか。

 小林 僕は両方あると思います。両方あるけれども、公平に見て、UTCのメンバーというのはその後者、すくい上げていこうとするほうの人が多いと思う。それに対してISOでの議論というのは、そこにやっぱりナショナル・ボディーが介在してくるので、切り捨てようということ以前に、自国の利益を守る、自国の主張を通すという形で働くので、結果的に切り捨てる方向に動く場合があるような気がする。

 松本 国内の少数民族という形ですか。

 小林 いや、全体としての動きですね。だから少数民族のこと、全体としてユニコードの流れというのは遅いんですよ、本当に嫌になるくらい、ユニコードでなくてISOの流れというのが嫌になるぐらい遅くて、モンゴルなんかまだ議論してる最中なんです。モンゴルの人がじゃあISOの場に出てくるかというと、出てくることもできないようなあれでしょう。例えば、というか、国内の少数民族の話とかというのは、たぶん問題としてはあるし、やらなければならないことだと思いますけれとも、全体の流れとしてまだそこまでいってないと思います。

 いまのそういうことでいうとIRGの中にいまベトナムが入っているんです。IRGは現在、日本、中国、韓国、台湾、香港、シンガポール、ベトナムという7つの国と地域なんですけど。

 高本 ユーブラティック・ラポート、とにかく漢字の文化圏ですね。

 小林 そうです、そこの中でバーティカル・エクステンションと呼んでいるんだけど、まだ足りないから追加要求をSC2、WG2に対して投げる。それについてはやっぱり2万ぐらいあるのかしら全部で。レベル1、レベル2、レベル3とかいってますけど。

 高本 それはBNPを使うということ。

 小林 そこのところでIRGとしては、何とかBMPに入れたいという努力をしているわけです。6,000空いた、ハングルの空いたところにそれ入れたいといってるんだけど。それをやるときにベトナムなんかはチュノムで現在使われているものではないので、必ずしもBNPではないですよということをいってますね。だけど早く入れたいわけですみんな、IRGの人たちというのは。この前それでIRGとしてはそれ追加要求についてはきちんと文字の整理なんかもして、SC2に上げたんですよ。それでユニコード、UTCというのはそれまで一貫してその追加要求に対して反対はしてたんだけども、僕がいったときを境に態度を変えて、賛成というふうになったんです。もちろん僕は賛成のほうに1票を投じたし、非常にいいことだと思ったんですけど。そうしたら、日本のIRGもそれに賛成したんです、そこでいたし。

 そうしたらSC2の日本の委員長が反対だといった。その反対の論拠というのは、芝野さんなんだけども0208が今度、0208の1990何年版というのがもうすぐ出ますけど、そこでもって調べてみたら、バグがあったと0208に、日本のJISでもバグがあるんだと。それについて要するに典拠を示しなさいと、出典をはっきりさせてやれと。日本のJISにも典拠不明のものが2文字ありましたと、ついてはこのバーティカル・エクステンションついても、日本と同じ基準でやらないので、典拠を示さないのであれば賛成できませんというわけ。ほとんど切れそうでさ、いいよ、いいけれども日本は日本で、世界は世界で、いい加減な国だってあるわけよ。それを国民性が違うわけで、それで日本の基準でもってバグがあるから動くなって、それはないんじゃないかなと思った。

 高本 そんなこというんですか芝野さん。

 小林 なおかつもっと大きな問題というのは、これは僕の憶測ですけれども、彼はいまのバーティカル・エクステンションをつぶしたいんだと思 う。なぜかというといま彼は、0213相当といわれてますけれども、JISの第3水準、第4水準というのを作ろうとしているんですよ。それは0212という補助漢字をつぶして、それは棚上げしてしまって、吉目木さんの「吉」も入れるような形で、いま現状使われている日本人の名字に使われている文字、それから歴史上使われていて教科書に載っている人名、地名、それをすべて入れる。それはJIS、シストJISの上に載せるような形で、5,000文字を目途としてやっていくということをやろうとしているんです。それが規格になったら、それについてはBNPへの追加要求を出す。BNPというのは、10646への追加要求を出すといってるわけです。それの目途というのは大体2年で、だから僕は芝野さんはいま自分がやってるものをBNPに突っ込むために、現在のバーティカル・エクステンションをつぶすか引き伸ばすかということを、やろうと考えているんだと思う。

 松本 エクステンションて。

 小林 拡張です。

2.2 自分の名前の文字にこだわる根拠


 見城 この問題は非常に面白いので、まさに表象する側とされる側の問題、あるいは主体の構成の問題でもいいですけど、結局人の名前にしてもそうなんですけど、例えば、自分の名前って初めは偶然親から与えられるんですね、だからそういう意味でいえば僕は見城じゃなくても、松田でも武秀じゃなくても何でもいいわけだったはずです生まれたときは。だけどそれがその名前を張り付けられて生きていく中で、僕は見城武秀で外のほかの何ものでもなくなっていくわけで、それがまさに自分の主体になっていくわけ。文字の問題も同じで、どんな文字で自分が自分の主体を構成していくか、言葉でも同じですけど、言葉といっても文字といっても同じだと思いますけど。どのような言葉を使って、どのような文字を使って自分の主体を構成していくかというのは、初めは偶然だったはずです。だけどそれがある程度固まっていっちゃうというか、ある一つのコアを形成してしまうと、それ以外の可能性というものに対して、非常に違和感というものが生じてくるんです。それはだから漢字だけじゃなくて、その歴史的な仮名遣いといま僕たちが標準化されてる仮名遣いでも同じですよね。僕はすでに歴史的な仮名遣いでは教育を受けてこなかったから、あれを見ると古臭いという感じがするけれども、歴史的な仮名遣いでなければ自分を表現できないという人がいるのもわかるんです。それはそういう想像力を働 かせれば。

 小林 ちょっと間違えたら歴史的な仮名遣い風をやることによってしか、自分を表現できないというのは悲しいですね。

 見城 それで何がいいたいのかというと、要するにこの文字の問題というのは、アイデンティティーをかけた争いなので、非常に血みどろの争いになりがちである。合理的な解というのはないと思うのです。それに対していってみれば、例えば、僕が歴史的な仮名遣いというものに対して、それを抹殺するには及ばないだろうというか、そういうあり方もあるという形で認めるということは、想像力を働かせればできると。同じようにいま、例えば、「吉」という字をずっと使って生きてきた人たちというのは、当然それでアイデンティティーが構成してるわけだから、それを認めるにやぶさかではないんですが、しかし一方でそれを際限なく認めていっていまうと、要するに情報の流通性というのが制限されてしまうという面が一方であって、そこが最大の問題だと思う。それはどこかでネゴシエートすることによって、一方が折れる、あるいは双方が折れる、あるいは双方とも満足するというような形で、要するに収斂する点を、収束点を見つけていかなければならないでしょうけれど、そこのときに要するにお互いに、全然立場が違う人たちがネゴシエートするわけですから、お互いに譲り合うというか、お互いの土俵、初め全然違う土俵の上に立って話し合いをするわけなんだから、初めとにかく共通の土俵というのをどっかに見つけなければいけないわけで、それをどこに見つけるかということで、そこのところに対する、要するに共通の土俵というものを模索していこうという想像力がないと、水掛け論で終わってしまうんでしょうね。

 もう一つは、表象する側とされる側の問題というので、要するにオリエンタリズムの話ですけれども。表象する、されるという関係は対称ではないんです。つまり強いものというのがあって、覇権を握ってるものは常に表象する側であり、その中で従属化されているものは、表象されることによってしか自分の主体というものを構成できないという、そういう現状があるわけです。表象される側、要するに侵略を受ける側は、それに対して何とか抵抗することによって、外圧に対して抵抗することによって、自分の主体というものを構成しているんだけど、実はそれは覇権を握ってるものに対して反発することによってしか自分の主体を構成してないわけだから、実は表象する側と補い合うことによって、補い合ってるわけです。だからきれいな日本語を守ろうという議論というのは、実は外圧というものと表裏一体の論理構造になっているわけであって、やはりそこのところの 論理、補い合ってる、そういう言説で補い合ってるというところを意識化しない議論というのは、非常に陳腐なものになってしまうであろうと。

2.3 帝国主義にあらがう


 それで小林さんが恐らく悩んでるのはそこのところで、要するに帝国主義に屈するつもりはないと、だけどそれに対して反帝国主義運動を起こしても、じつはそれは帝国主義を補うものになってしまうのではないかという。

 小林 そうでしょう、恐らくそう。

 見城 ところだと思うのです。僕もそこのところはすごく難しいと思うのです。恐らくそれを回避する道というのは、要するに表象される側が自分の言葉を持つ、自分の言葉を発していくということなんでしょう。恐らく自分の言葉を発していくときに、常に帝国側に理解される言葉を使わなければいけないのであろうと。例えば、英語というものが覇権を握っている社会において、非英語圏の人が自分というものを主張するには、やはり英語というものを使っていかなければいけないという側面がある。だけどもそれは別に覇権を握っている文化に屈することではないのであって、要するにいってみれば純粋な英語というものも一つの、つまり覇権を握っている文化というのも一つのフィクションというか、歴史的な産物なのであって、それに対して自分が関わり合うことによって、その覇権を握ってるかの文化も変えていく、あるいは自分が現在属してるというふうに考えている文化も変えていくというような形。要するに双方が変わっていくことによってしか、現状というのは変えられないというか、どっちか一方だけ変わるということはあり得ないだろうというふうに思う。

 そう考えていくとこのユニコードの話でも、だから小林さんが出ていって、文句をいうということにまさに意味があるのであって、小林さんがそういうふうに出ていきもしないで、うちに籠ろうとする情報鎖国主義のことを批判しましたけど、僕もまさにそう思いますよ。そこのところでいかに覇権に屈せず、かといってただの文句いいでもなく、コンストラクティブに自分の意見というのを出して、それに対していろんな人たちがネゴシエートしていくか。交渉することによって、新しいいってみれば新たな境界というのを生み出していくかというところが、いま非常にビビッドな問題となっているんだろうなというのが、今日の小林さんの話を聞いてすごくよくわかりました。

 できればだから、まさにそういう主体構成というときの境界というものの存在自体を疑うというか、その境界の構成がどういうふうら行われているかという観点から、そういう言語なんかを見ている、田中克彦さんとか、川村湊さんとかの人たちが、こういう議論を、例えば、江藤さんとか、この吉目木さんの議論を読んで、どういう意見を持つかなというのはすごく関心あります。

 小林 いま見城さんの話聞いて、一ついい忘れてたというか、やっぱりこの1年半ぐらいの間で気になってたのは、読んでもいないというか、読んだのは1個だけ、スチュアート・ホールの『あるディアスポラ的知識人の遍歴』だっけ、「思想」にインタビューが載ったのがあって、それ水越さんに勧められて読んだんですけど、僕はスチュアート・ホールのものというのはそれしか読んでないんだけど。そこの中に出てきた「ディアスポラ」という言葉がすごく気になっていて、高森さんいったと思うけど、ディアスポラというのは離散ユダヤ人ですね。僕の覚えたディアスポラというのは、ギリシャ語を話すユダヤ人というふうに僕は覚えてたんです。それはシトギオーデンの中に出てくるんですけれども、要するに初代教会の中でイエス教団というのがユダヤ教の伝統の中で出てくるわけで、割礼やってたわけです。ところがその割礼をやらない人たちの中にも広がっていって、割礼やらないからそれはユダヤ教の伝統にもとるのでイエスの教団に入れてやらないよという議論と、いや、割礼やらなくてもイエスの教えの仲間だというふうな議論があるんです、いくつもの教会が出てきて。その中で割礼やらない人たちのことを、ギリシャ語を話すユダヤ人というのは割礼をやらないというような形で出てくるわけで。それと僕、ディアスポラというのを混同してたんです。

 あるとき何か不安になって見てみたら、『教会史』というでっかいやつが上智大学の研究所の翻訳で出てたんだけど、それの中に出てきてて、そのギリシャ語を話すユダヤ人の可能性としてディアスポラであることもあるとか何とかというのがあって、そこにディアスポラいう言葉が出てきてて、それと僕混同してたようなので、それ話したことなかったっけ高本さん。僕訂正いましておきますね、必ずしもギリシャ語を話すユダヤ人イコール、ディアスポラというわけではないけれども、そのディアスポラの問題というのは、やっぱりすごく大きいと思うのです。僕はディアスポラというわけではないけれども、そこのああいうユニコードの中に出てって話をしたりするときに、自分自身の存立基盤、拠って立つところというのがものすごい不安定だということを実感するわけです。いったい自分は、 さっきいろいろ責任があるとか何とか、どこに責任があるのかというのは本当にいい澱んでしまうわけだけども、いったい自分はどういう立場でここにいて、何に対して責任をもっていってるんだろうかというのが、非常に不安になるというか、不安定に状態なんです。

 はっきりいって、見城さんはすごくきれいに絵解きをしてくれたと思うけれども、僕そんな簡単にいかないような気がする。恐らくスチューアート・ホールにしても、サイードにしても、解を持ってないと思うのです自分の、だからディアスポラだと思うんだけど。僕自身もそこのところで、じゃあこうすればいいという解は、正直いって持ってないです。

2.4 ディアスポラ状況


 見城 小林さんそこで踏み止まってほしいわけです。自分は外に出ていってディアスポラ状況になって、そこで自分の帰るべき故郷というものをそこで想定してしまって、本当はありもしない故郷というのをそこで、何となく懐かしくなってしまって、ああ自分の帰るべきところはここだったなんていい出すと、非常に困ってしまう。

 小林 だめなんだ。(笑)

 高本 文字コードの持つ社会的な意味というのは、吉目木さんでしたか、18の13というところに、ちょうど真ん中ぐらいですかね。最初の18の13の前半のところには、ワードプロセッサーの文字で足りないなあというような、僕はこの認識というのはある意味では漢字制限という、戦後の国語国字問題の一つの代表的な論点であった、その漢字制限と非常に密接な形で文字が足りないというのは、論を構成し得ると思うのです。ところがそのあと、一つ次の段落ですけれども、今度いま問題になっているのは、その前に本当の形の問題がありましたけれども、本当の問題、数の問題、本当の問題、そしていま新しいコードがどういうふうに体系化されるかという、恐らくこれは一般の人にとってはわからない。つまり非常にブラック・ボックスの中身に立ち入ろうとした部分で、しかしだからこそ影響力も大きいと思うのです。そこに吉目木さんの断片的な表現だけを見て何かいうのはおかしいかもしれませんが、文字コード策定の中枢にいる情報工学の専門家たちは、分野の異なる国語学者たちに文字コードの持つ社会的な意味を十分に理解できる形で説明してきたのだろうかとありますけど、専門家が専門家に何か情報のやり取りをして、それでOKということはあまり面白い話ではないので。むしろ文字コード策定の中枢にいる人 が、一般の人に向けてわかる言葉で、文字コードがこうなるということはどうなることなのか、そしてそれがいま、例えば、インターネットという文脈の中で語られるんだとすると、一般の人は使っている人と、それからインターネットというのをいわば言葉だけで幻影として見てる人、あるいは多くのマスコミが伝えている何か非常に作られた一部分だけのイメージ、そういう文脈をどういう人がどういう形で利用しながら、ユニコードの問題であるとか、文字コードの新しい策定へ向けての話であるとか聞いてるか、うまく把握できていないのが現状じゃないかと思うのです。だからユニコードの問題批判する側も、肯定する側も、それがどういうふうに一般の人に聞こえているのかというのが、意外とわかっていないんじゃないかと。

 今日小林さんの話を聞いて、ある程度知らないほうではないと思いますけれど、しかし新しい情報があまりにもありすぎる、なるほどこういうふうになっていたのか。そういうことというのは、どうも知られないままに、今後はユニコードが決定的ですよといわれると、えっそうなのかと思ってしまうんですね。そういうところの、文字コードのもつ社会的意味というのは、これからもっと大きな文脈をもってくると思う。社会というのは本当にローカライゼーションのごまかしの言葉のグローバライゼーションではなくて、本当のグローバライゼーション迎えるために、文字コードというものはかなりフェアネスをもって、非常に均等な形で、しかも意味の識別ということにも十分な意識をもって、形が出ればいいというのではなくて、それがまさに使われてる言葉の何か生々しさを反映する形での文字コードというのはほしいと思うのですけど。しかしその背景で一部の人が日本から1人、アジアから1人という形で、それで、ハイ赤ですか白ですかみたいな形というのも、あまり健全ではないなと。しかし議論をすると保守と革新との間に挟まって、何もことが進まなくなる。そのあたりが非常に国語国字問題というものがもっている、さっきもアイデンティティーをめぐると、血で血を洗うようなという話がありますけど、そこにまた立ち戻ってきちゃったなあという。特に日本人というのはどうして、所詮借り物であった漢字をそのまま曲用したり、歪めたりしながら、この前の紀田先生の言葉じゃないですけど、非常に恣意的な形で使っているにもかかわらず、そのことをある程度自覚しているにもかかわらず、何かを決めようとしたり、広げようと、あるいは狭めようとするときに、どうしても反発を感じてしまう。それが発言力を持ってる人はこういう形、あるいは江藤淳さんみたいな形で出てくるだろうと思うのです。そのあた りの国語国字問題というものが持っている、僕は日本人が持っている一つの文字に対する自信のなさじゃないかと常に思うのです。それに対して、むしろ平田さんにおうかがいしたいのですけど、ハングルというのはあるときに、文字改革をして人工的に作るわけですね、そしてここまで普及すると同時に、彼らは自信と誇りを持ってると思うのです。そのあたりは日本の文字の使い方、結局書くほうでもいろいろワープロで書くと不都合な点とかあるんじゃないかと思うのですけど、何か。

2.5 日本語はまだ確立していない


 平田 だからここでわからないのは、例えば、菅原道真の漢詩を後世に残すのに、現在の教育されたテキストを廃棄すべきだとはいわないだろうということで、これが検索の対象にならないのが問題になるというふうになっているんですけど、検索する場合にはこれ日本語で検索することを、たぶん彼は想定してるわけですよね。日本語で検索する分には、日本語対日本語ですから日本語の体系の中だけでやってればいいんで、文字数の問題だけですね技術的には、数入ってればいいということです。だからそのことがたぶん何で問題になるのか、ちょっとよくわからないです。

 それで恐らく問題は、シェークスピアの文章は原文のままでも、いまそのままで読めるんです。日本語の場合には古い文字だといまの、例えば、子ギャルは読めないわけです。そこが一番たぶん問題で、まだ日本語は近代化されてないというか、近代化の過程にありますから、そこのところの議論を抜きにして、過去の文章も一律にだれでもが読めなければいけないという議論自体がまずおかしいです。そこは江藤淳の一番いつもおかしいなと思うところ、丸谷才一もそうなんですけど。そんなこといったって、だってまだ変わってる最中なんだから無理だよという感じがありますね。それで少なくとも戦後50年の間に書かれた文章だったらば、それはたぶん日本の高校生以上の人間はコンピュータの使い方さえ知っていれば、自分で検索ができるし、そのことに関しては全く問題は起こらないと思うのです。当然言語というのはそういうふうになっていくものなのであって、それと過去のデータをどうするかという、非常に学術的なこととは。

 日本の1億何千万かの人口のうちの、恐らく99%は菅原道真の漢詩を検索するということはしないと思うのです。残りの1%とか0.何%の人のために、多くの利便性を放棄してしまうというのは、あまりにこれは非民主的だと思うわけです。それはこう書くと何となく文化が侵蝕されるように 思うけれども、本当に民主化を考えたときには、どちらが民主的かということになると思うのです。

 小林 そうですよ、自分の字が出ないなんていって、こういう論を張るのはやめてほしいですね。(笑)少なくとも例は自分の名前じゃない例にすべきで。

 平田 だから例はそれぞれ非常に何ていうか、説得力は、そう見えるんだけど、よく考えると全然自分たちの生活にはふだんは関係なくて、それよりは、例えば、日本の子ギャルとアメリカの高校生がもっと楽に文通ができたりするようになるほうが、よほど文化のためには有意義であるし、世界平和にも貢献するはずなんですよ。そこのところを抜きにして、だれがどうやって得をするかということが語られてないから、すごく尊王攘夷というか、過度のナショナリズムに見えてしまう。

 松本 ナショナリズム以前に自分イズムで。

 高本 例えば、文字がもっている、僕の友人に川嶋という人がいて、「嶋」なんですけど、ある日大学から臨時のおカネをもらえることがあって、事務局長のところへ取りにいくと、封筒に「川島」と書いてあると怒っているんですね、こんなカネ受け取れなとかなんとかいって、一応受け取って帰るんですけど、何だかんだいいながら。僕は戸籍だと高本の「高」は「はしごだか」で、「條」は条件の「条」を書けばいいのですけど、難しい旧漢字のほうを書くので、それは一応JISの第2水準に入ってるから使っているんですけど、どっちでもいいんですね簡単な「条」のほうでも。ただ、何か非常に気にされる方がいて、その気にされる方というのは、例えば、大学の事務であったりするんです。「こういうことを命ずる」とかというような、例えば、「入試センター試験の監督を命ずる」が出てくるんですけど、えーと高本さんどっちの「高」てしたっけと、必ず出てくる。4月になってると事務の方の特に教務と学生係の人が協力してやるんですが、外字作りをやるんです。つまり新しい学生がきて、いままでストックした外字の中にないと、もうそれをちゃんと作って待つと。それに費やされる労力と無駄な時間、それは一度も使わないかもしれない外字なんかもあるわけです。そこに非常に滑稽な何かを見るわけですよ、楽しいなと。

 平田 さっきの、生まれてたまたまその名字になったという話で、うちの劇団員に原田というのがいて、この「原」は点がないらしいんです。お父さんの名字なんだけど、お母さんのほうは別にそこに嫁いできたから、僕がそれで点がないのはどうせいつか戸籍係が書き忘れたのをそのままなっちゃったんだよいったら、私もそう思って、うちのお母さんもそう いってるんですよ。その話を父にするとすごく怒られた。(笑)だからお母さんは嫁いできたから何にも別に、面倒臭いなと思ってるんだけど、お父さんは生まれたときからそれだから、人のプライドを持ってる。

 小林 僕はよく笑い話するんだけど、僕は「龍生」の「龍」てこういうのですよね、ここまでいいんだけど、僕は昔子供のときにこうだよと習った、こうだと思っていたわけ。そうすると学校へいくと判子を作るじゃないですかゴム判、こうなってるのね。最初はこれにこだわってたんだけど、いつの間にかこれでいいやと。ところが許せないのは僕の親父が、実の親が息子に対してこの「竜」を書いてる、(笑)手紙とか何か。僕は結構これにはこだわってるんだけど、これ略字だと思ってたんだけど違うらしいですね。それとあとである活字屋さんに聞いたら、これはやっぱり用意するって、これにこだわる人は結構いるといってましたね。

 高本 異体字というのはもう本当に昭和初期ぐらいまでは、出版でもごく普通にいろいろ出てきますね。

 松本 目茶苦茶だったんですね。

 高本 それを統一しようという動きが、戦後教育的配慮、何か鍵付きの民主主義的配慮から生まれてくるんだけど、それが一方では何か妙な統一しておけば何でもいいという感じで、書き順とかっていうのはそうだと思うのです。ワープロの時代になってあんまり皆さん書き順のことをうるさくいわなくなったのはとてもいいことだなあと思うのですけど。例えば、うちの入試なんかでも書き順を問うたりするわけです、本当に愚かなことをしていると僕は思うのです。基準はあってもいいんです、書きやすさとかそういう利便性という点で。ただ、そうしなければ何か誤りであるとかという点で、だから「龍」だって、テを書けば「龍」という漢字を書き取りで出すとこはないと思いますけど、もしテを書いたら減点の対象とか、ペケになる可能性はありますよね。その何か愚かしさがいろいろなところに波及していて、例えば、菅原道真の漢字というのでも、菅原道真の漢字というのをどこまで遡って、オリジナルな形で書くのか。

 平田 そうなんです、だからそうするともうそれは、原本を保存してるということしか、だってコンピュータに入れるということは、もう記号化されてることじゃないですか、これだと変なことですよね。それはだって図書館で見にいくしかないじゃないですか最終的には。それ象形文字をロゼッタ・ストーンを見にいくのと同じことだから。

 高本 そこでデジタル化されているものと、アナログ的なもの、あるいはオリジナルな遺物、遺産としてのもの、それからそれが検索可能な形で デジタル化されてメディアの中に蓄積をされたり、流通されたりしていく段階。そこを区別しなければ、いまでもワープロで作文を提出しちゃいけませんとか、卒論を出しちゃいけませんというところが実際にあるんです。それは私筆性、自書性というのが疑われると、自分がやったかどうかわからない、人が打ったのを見てたかもわからない。そんなこといったって、人が代筆してるかもわからないわけで、そういうところで非常に精神主義的というか、武士道的というか、これも鍵括弧付きね、何か変なもんね、非常に変なものが日本語で文字、特に国語国字問題というのを議論されるときには、常におどろおどろしく裏のほうへふわふわ、ふわふわ亡霊のように漂う。あれを何とかしなければ、ちゃんとした理屈の通った合理的な論議はできないと思うのです。常にエキセントリックな形でものをいう人が勝つんじゃなくて、普通の人がもうあほらしいから黙るだけで、それ勝ってると思うわけです。

 小林 話がかわりますけど、一つ補足というか、さっきの吉目木さんの専門家云々という話がありましたけども、どうやってそういう規格が決まるかという話があるわけです。この場合で僕はいいと思うのですけど、この場合、ここの話でいくと、「日本は」といういい方をこれなんかしてるわけです。確かに日本のISOの対応の委員会は委員が出てるわけです。ここの論調というのは、アメリカのコンピュータ・メーカーが恣意的に決めたとなってるわけですけど、ではその日本の代表として出ていってる人たちはだれかというと、日本のメーカーの人なんです。下手すると日本だけではなくて、外資系も含めてメーカーの人なんです。この委員がどうやって決まるかというと、大体70万払うとだれでも委員になれるわけです。学識経験者、大学の先生です、それとメーカーの人で日本のそういう情報規格の委員会というのは大体つくられている。その委員というのは、いわばだれに対しても責任を負わないというか、だれかによって選ばれたものが、非常に恣意的に決まっている。自発的である場合もあれば、委員長のお仕着せで決まる場合もあるけれども決まってる。それに対して、それを監督官庁である通産省の工業技術院の情報、最近情報電気規格課といったかな、そこのところも責任を負わない、ここはそうやって決まる。

 だからここでの「日本は」といった場合と、アメリカでいった場合というのは、実をいうと真っ赤な嘘であって、「アメリカの企業は」、「日本の企業は」というだけの話であって。

 高本 すべてじゃないですね。

 小林 僕ら関係ない、僕らというか、僕は不幸にしてかかわってしまい ましたけど、見城さんの問題でもなくて高本さんの問題でもなくて、ましてや一般の日本の人々の問題ではなくて日本の企業の問題なんですよ。それをさっきの話と同じで、日本という国があって、それを代表して自分行っててやってるみたいな議論にすり替えているんですね。それに乗るばか、こうなるんですよ、それが一つ。 国語審議会でも同じような構造があります。国語審議会の委員てどうやって決まるかというと、文化庁文化部国語課の国語調査官たちが、鳩首会談をやって、某、自分たちの先生とか高本の先生とかに相談しながら決めるわけです。辞令を出すのは文部大臣でしょう。それでその人たちが決めたことだから、その答申は尊重しますという、エイズでは散々問題になった審議会行政というものの典型というか、全部同じだと思うけどそういう仕組みがあるわけです。片や文化庁の国語審議会はそんなことでやってるし、片やJISを決める委員会も大同小異でそうやってるし、いいけどさあ、僕はどうなるのということですよね。それをちょっと一ついわせてほしかった。

 見城 ドイツ語で■をなくそうとか、あとスペイン語で字母を2つ減らそうとかというのがあるんですね。それはドイツ語圏何とか会議とか、スペイン語圏何とか会議と呼ばれているんですが。それはどうして、スペイン語のほうは明らかにコンピュータ時代を迎えるに当たって、要するにキーボードに乗らない字母を持ってるというのは不利だからというので、コードにはちょろっと書いてありますけど。そういうので小林さんがいくユニコードの会議で、話に出たりしませんか。

 小林 ユニコードは基本的にはそういう、2つのあれがあって、テクニカルの解決の仕方として2つあって、リガチャーの問題とそのアクサンの問題というのはちょっと違うんですよね。違うんだけれども、個人的には減らせるものは減らしたほうがいいと思うけど、要るよという人がいるんだったらば入れましょうという考えです。

 見城 いや、そのユニコードの見解じゃなくて、要するにスペイン語圏からきているユニコードが、そういうことについてちょろっと話したりしませんか。

 小林 スペイン語の問題というのは、終わってるような気がするな、ユニコードは全部スペイン語も……。

 松本 コードとしてあっても使わないようにしようという、そういうことですか。

 見城 表記は字母使わずにといってますか。

 小林 8ビットの中で収めようとかというのはあると思うのです。

 見城 あとだから、キーボードの問題が結構多い。

 小林 キーボードの問題が大きいと思う。例えば、そういう■であるとか、アーエイのリガチャーとかというのに関していうと、アップルなんかすごく優れていて、コードとしては、例えば、■はSSですね、こういうふうにもってるものが出てきたときに、レンダリングということを画面に出すときに、こいうふうに■で書くし、例えば、アーエイとかというのを、こういう並びがくるとアーエイとこういうふうにやる。これは歴史的には写本なんかの手書きのときの略記法ですよね、それがグーテンベルクの時代にできるだけ写本のいわば見てくれというか、プレゼンテーションを生かす形で活字作ろうと思って生き残ってるわけです。だから、例えば、リガチャーでいえば、FFIなんていうのがあると、FFIという並びはこういうあれを作っているんです。こういう問題というのはあるんだけど、基本的には原理的に考えていくとこれ別なもの、コードとして別な形で用意しておいて、紙にとか、ディスプレーに出すときにまとめるというのがいいだろう。ハイフォンメーションなんかやる場合なんかでも、結局、例えばC とKが並んでて、ここでハイフォンメーションで切れる場合、語尾にくるとCというのはKに変わりますね、で、次のところはKになったりするんだけど。僕なぜこれ知ってるかっていうと、学生時代にレクラム文庫でこれ読ませて、切られてるのをKKで、リジョイントさせてるのね。(笑)こういうふうなことがあるんで、大きな流れとしては、情報の電子化ということで考えると、できるだけキャラクターというのはきちんと分けてやっておいて、プレゼンテーションのレベルでの違いというのを、そこの表現のところまで残しておくようにするほうがいいと思います。そうするほうが情報検索やなんかずっとやりやすくなりますから。それは漢字の問題なんかでも同じことがいえるんだけど、スペイン語の話、僕残念ながらそれ知らなくて、議論としてはね、何かキーボードの入力の速さとか、そういうふうなところ関係あるかなという気がする。

 この前バルセロナか何かでウェッブのあれがあったんで、インターネットのカンファレンスがあって行きそびれたんだけど。もういい、そろそろ解放してくれる、今日は被告は辛かった。(笑)

 高本 もういい残すことないですか、当分また順番回ってきませんよ。

 小林 まああとだから、この次国語審議会の答申でも出て、2年後ぐらいですかね、それまで生きてればだけど。     (了)

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