注意! 内輪の会議の記録ですので、引用は厳禁です。NO ROBOT
「デジタル時代のことばと社会」研究会10月後半
平田 過去2回のような当然専門的な話ができないものですから、「現代芸術全般の動向」というようなもの、基本的なところをお話して、それから演劇についてもお話しながら、その中でできるだけ過去2回の話とか、ことばの話に近付ける形で話をしたいと思います前半は。そのあとはそのことについて質問していただいたり、せっかく芝居も観ていただいたので、あれはどうなっているのか、間違っているのではないかとか、ここは違うとか、そういう話をしていただけばいいと思います。
本当に全般的な話をまずしたいと思いますが、基本的に現代演劇とか、現代芸術というものを語る前に、「近代演劇とか近代芸術というものの特徴」を考えないといけないと思うのですけど。これは僕の考える近代演劇というものですけど、世界とか人間というのがあって、一方の側に作り手がいて、もう一方の側に観客とか受け手がいて、作り手の側に何か伝えたいことがあったというのが近代芸術の一番大きな特徴ではないかと僕は思ったわけです。それはテーマといってもいいと思いますし、主義、主張といってもいいと思いますし、それからイデオロギーとか、わかりやすくいえばテーマです。テーマがあってそれを伝えたいということがあって、で、それを世界に投影して、で、観客が受けとる。悪くいえば世界はテーマのためのジャンピング・ボードでしかない、これが近代芸術の非常に大きな特徴だったと思います。かつて宗教儀式とかと芸術が非常に密接に結び付いていたときは、こういう必要はなかったんです、これはもう大前提でしたから、もう常に共同体の中にテーマというのがあって、それを別に芸術で伝えるのではなくて、確認したりとか、そういったことが芸術の役割であったと思うのですけれど。それが作者の非常に個人的なテーマがあって、それを伝えたくて作品を作るというふうになってきた。
これは一番観念的にいまいいましたけど、具体的には現代国語の授業で、作者のいいたいことは何でしょう、50字以内で答えなさいとか、あるいはこの作品のテーマは何でしょうというような設問が出るような見方、もののとらえ方、そしてそれをうまくナチュラルに伝えた作者が、いい作者であり、いい作品であり、作者のテーマをうまくとらえた受けとり手がいい観客である、こういうふうにされてきた。
これに対して現代演劇とか、現代芸術というのの一番の特徴は、伝えたいことがなくなってしまったと思うのですけれど。伝えたいことがなくなったというのは、基本的に2つの側面があると思います。まず1つは、本当になくなってしまったということです。イデオロギーが終焉して、ベルリンの壁が壊れて、ソビエトがなくなって、それから価値観が非常に多様化します、例えば、エイズの問題であるとか、コンピュータの異常な速度での発達だとか、冷戦構造が終結したとか、そういったことで価値観が多様化して、何か1人の人間の中でも特別にこれだというものがなくなってしまった。それから、一つの大きな思想で個別のテーマが判断できなくなった。例えば、共産主義思想をもっているから戦争はいけないという問題、消費税はどうするかという問題、コメの自由化をどうするかという問題、援助交際はいいかどうかという問題、これ昔だったら一つの思想があれば全部の問題に、統一した見解ができたと思うのです。それが、例えば、右だから左だから、コメの自由化なんてまさにそうなんですけど、右と左で関係ないですそういうことは、もう個別になって、バラバラになってしまって、こういうことがあんまり成立しなくなってきたということが1つあると思うのです、これは社会全体のことです。
作り手の側としては、もう1つ、もうそういうのはいいよという雰囲気があると思うのです。テーマを伝えるのはいいよ、それはほかのことでやってくれよという感じがあると思うのです。それはもう芸術の仕事ではないということです。これは特に演劇なんかの場合は、メディアとしてかつては文字が読めない人が大半でしたから、そうすると文字の読めない人に、一遍にたくさんの情報を与えるのに、演劇というのは相当強いメディアだったわけです。プロパガンダのためにも非常にいい、強いメディアだったわけです。例えば、日本でいうと近松なんていうのは、事件があると3日後とか1週間後にはそれを題材にして書いて、大阪であった事件をそのまま東京に持っていって、東京でも芝居を打つから東京でも大阪にいなくても、観てきたように語る人が出てきて、それは講釈師とか演劇というのは、そういう役割になっていたわけですけど、いまはそれはもうないです。当たり前ですけど、演劇というのは一番遅いメディアになってしまいましたから、そんなものはもういいよということです。純粋芸術だから、演劇、美術、音楽というのは、メディアとしてはどっちかというと遅いものになってきましたから、こんなものを伝えるのだったら、もっとほかのものにしようと。例えば、戦争反対を伝えるのだったらば、演劇で表現しなくてもCNNで、ボスニアヘルツェゴビナの難民の子供の映像をずうっと見ていたほうが、よっぽどわかるよという感じです、そういうふうに変わってきたと思うのです。
だから社会全体の側の変化と、芸術の側がもうそんな役割はいいよという、両方があると思います。これは、ただ、演劇は非常に遅れてますからそういう意味では、特に日本の演劇は。だからこんなのなくなっちゃったというと、いやそんなことはないと、演劇の役割はまだまだ終わってないとかいう人は結構います。
現代美術の人と話をしていると、これはもはや大前提です。さまざまな別にテーマではなくて、さまざまな感想を見る側の人に抱いてもらいたいと、大前提になっています。そういうふうに変化してます。現代音楽もそうです、演劇だけが多少遅れているという感じがします。
これは作り手の側の問題ですけど、そうするとここがよく感違いされるところですけど、僕は基本的に挑発的な発言ばっかりするというか、挑発的な発言しかしないほうなので、もう伝えたいことなんて何もないんだということをよくいうんです。伝えたいことは何もないんだけど、じゃあお前何のためにやっているんだとよくいわれるんですけど、伝えたいことは何もないけど、表現したいことは山ほどあるんです、僕の内面の中で表現したいことは山ほどある。それを端的にいうと、恐らくそれは世界を直接的に把握したいという欲求があるんです。世界の形を見せたい、世界をどういうふうに見えているかということを、記述したいという感じです。だから僕の場合には、表現というよりも、記述とか叙述としたほうが僕のイメージには合うのですけれど、ディスクライブしてるという感じです。ただ、それが恐らく、これあとでもう少し詳しく話しますけれども、普通の人が見ている世間一般というか、その世界とはちょっと形が異なっているというのが、芸術の特徴なのではないかと思うのです。
だからある芸術家にとっては世界はこういうふうな形に見えるし、ある芸術家にとってはこういうふうな形に見えるし、ある芸術家にとってはこういうふうな形に見える。それを的確に示すのが現代芸術の大きな役割になってきていると思います。
その場合に、受けとり手の側も、そうするとこういう一方通行の形で受けとるということはあり得なくなるわけです。そうではなくて、こういううふうになっていたときに、受けとり手の側も直接それに立ち向かうというか、それを見るわけです。この現代美術なんかもまさにそうです。現代美術は美術館にいって、便器かなんか置いてあったりすると、だれもわからないです。一般市民というかまっとうな生活をしてる人はたいていわからないです。でも作り手の側は恐らくある瞬間に、世界は便器であると、あるいは人間は便器であると思ったというより、見えたと思うのですそういうふうに。世界は鉄くずであるとか、世界は竹細工であるというふうに見えたんだと思うのです。それを作っていく。そうするとそれを見た人は、当然それをそのままでは受けとれないのですけど、じーっと見ていると、ある瞬間に何かだまされて、ちょっとおれも便器みたいな気がしてきたなとか、あるいは、おれは便器には見えないけど洗面器には見えるとか、いろんなことを考えると思うのです。感想が多様になる、感想がさまざまになるというのが、現代芸術の大きな特徴だと思います、受けとり手の感想がさまざまなんです。
ここで1つ大きな問題が出てきます、マーケティングの問題が出てくると思うのです。受けとり手の感想がさまざまになりますから、たくさんのお客さんは集まらないです。うちの劇団がお客さんの数が伸びないのはそこが一番だ、現代芸術であるからだという理由が一番だと思うのですけど。ここもよく僕は誤解されるとこなんですけど、僕はよく、もはや観客の共感は必要ないというふうによくいうのですけど、観客の共感といった場合に、僕がいってる観客の共感というのは、観客同士の共感はもはや必要ないと思います。僕と観客は1対1では共感したいと思うのですけれども、観客同士が全く同じように共感する必要はないということです。
だから戦争反対というテーマがあれば、戦争反対というテーマの芝居で非常によくできた芝居だったとすれば、そこの劇場から出ていく観客の人たちは、ああ、これはもう戦争はいけないな、明日から反戦運動に立ち上がろうと思って出ていくと思うのです。
ところが僕の場合には、戦争そのものを描きたいわけですから、戦争というのは、私には戦争の構造はこう見えますよ。例えば、差別を描くのだったら、私は差別というのはこういうことの構造で、人間は差別するんだと思いますよと、そのものを描くわけです。そのときに感想はさまざまになると思う、ああ、やっぱり差別はいけないなと思う人もいるだろうし、いや、差別しょうがないかな、おれも差別してるな、おれは絶対しないな、いろいろさまざまな感想をもつと思います。決して、差別はいけないとか、戦争はいけないというふうな、同じ感想をいだくとは限らないと思うのです。
そうするとお客さんがなかなか増えないです、本当にそれはそうなんです。例えば、うちの劇団でも、大体アンケートを見ると「私は好きです」、好きですとだけ書けばいいと思うけど、「私は好きです」とたいてい書く。私は好きだけど、それはもうことばの外側に、私は好きだけど、ちょっと他人には勧められませんという感じなんです。大体おれはいいと思うけど、ちょっと他人には、なんていうのがあるんです。だからたくさんでは観にこないです、現代美術の美術館と同じです。現代美術の美術館は、僕はよくこれも比喩でいうのですけど、いきはたくさんで和気あいあいといくけれども、帰りはみんな静かに一人で帰っていく。相手と感想が共有できませんから、静かに一人で帰っていくという感じですけど、うちもそうなんです。そんなに何人もで観にくる芝居ではないと、盛り上がりませんからきても。デートにも向いてないです、デートに向いてないというのは致命的なわけです。いま、エンターテインメントとしては致命的なんです。
大体、2、3回目ぐらいのデートで、何か男性がすごく好きになった女の人がいて、その男性が例えば青年団を好きだとしても、連れていったとしても、その女性が気にいるとはかぎらないわけです。僕は自信もっていいますけど、絶対そんなことわからないですよ、それは五分五分で大きな賭になってしまうと思います。
ただ、逆にいうと、僕が非常に好きなお客さんというか、別にお客さんを区別するわけではないですけど、いいなと思うお客さんは、例えば、老夫婦がきて、ニコニコしながら帰っていったりすると、これはいいなと思うわけです。その老夫婦は、たとえ、おれはここが面白かったな、えっ、あなたそんなところを見てたの、私こっち見てたわ。うちの芝居はいろんな見方ができますから、そういう会話が成り立つと思うのです。人生の経験を2人とも共有してますから、そこでは会話は成り立つと思うのですけれども、デート2、3回目だとこれ成り立たないです、あんたばかじゃないので終りになってしまうわけです、そこの問題だと思うのです。だから唯一デートで可能性があるとすれば、何か私もうこの女と一緒に添い遂げようと思って、じゃあもう大体決心はついたけど、ちょっと不安が残るかな、青年団を見せてみよう。青年団を見せて気にいるようだったらば結婚しようという、そのぐらいの覚悟でお客さん観にきてもらってもいいですけど、安易にデートに誘うのは危険だと。
昔、12月に芝居を公演していたことがあって、クリスマスイブの夜にも公演したんです。チケットが全然売れなかったんです、ほかの日はもう全部売れていたのですけど、クリスマスイブの夜だけ全く売れてなかったんです、まさにデートに向いてないという感じなんですけど。ところが12月20日を過ぎたら急に売れ出したんですチケットが、予約、その直前ですから電話予約になるわけですけどすごく売れ出した。制作の者が大丈夫です、もうチケット売れました。で、きて僕は予約表を見せてもらったんですけど、そうしたら見事に全部1人なんです予約が。だからそれは、でも一瞬すごく寂しくなったんですけど、12月20日を過ぎて、たぶん今年のクリスマスは1人だと、あるいは今年のクリスマスも1人だというふうに思ったときに、青年団を観にこようと思ったんだと思うのです。それはよく考えるとやっぱり名誉なことなんじゃないかと。いろんなものがあるんだけれども、1人寂しく家で過ごすでもなく、どっか何か風俗産業にいくでもなく、青年団にいくということを決断してくれるというのは、僕は名誉なことだと思ったんです。
それはなぜかというと、恐らくその人たちは別に励ましてもらいにくるわけじゃないです、何かを。テーマというのは政治的なものだけじゃないですから、例えば、青春は素晴らしいとか、恋愛は美しいとか、僕はそういうものを扱った演劇は『少年ジャンプ』のような演劇と呼んでいるのですけど、愛や勇気や友情をうたった演劇です、ほかの小説でも何でもそうで。愛や勇気や友情をうたっていると600万部売れたりとか、CDが200万枚売れたりするわけです、共有できますから。そういうものではない、そのとき12月にやっていた芝居なんていうのは、サナトリウムを舞台にして、登場人物というのは半分ぐらいは1年後には死ぬという設定になって、何の救いもない芝居なんで。そういうものを観にきて、恐らくその人たちは、別に何かエネルギーを与えてもらおうと思ってくるという感じではないです。そうではなくて、その僕が描いた、あるいは青年団が描いた世界を見ることによって、自分の生活をもう一度見詰め直してる感じなんです。あるいは自分の生き方を見詰め直しているという感じなんです。ここが大きな近代演劇との違いなのではないか、というふうに思っています。
それはどういうことかというと、ここからは僕の解釈ですけれども、かつて演劇というのは特にそうですけれど、祝祭性が強いものだとされてきたわけです、祭りだというふうにされてきたわけです。これはいまでもそうです、祭りだというふうにされてきたんです。祭りというのはどういうふうに発生してきたかというと、単調な生活があって、例えば、農耕社会だったらば、田植えがあって、草取りがあって、稲刈りがあるとか。1日の生活だったらば、朝起きて、飯食って、田圃に出て、午後から山にいってと、その繰り返しです。繰り返しの中で、しかし人間は過剰を抱えてますから、必ずストレスが生まれます。そのストレスを発散するために祭りというのが用意されていたと思うのです、そこから芸能が生まれ、芸術が生まれてきたと思うのですけれども。
ところがいまほとんどの、日本に住む7割から8割の人間は都市に住んでいるわけです。都市ではそういった単調な生活が用意されているわけではなくて、逆にいまサラリーマンでも何でも、実際の情報とか、事件とか、刺激というものが町にはものすごく溢れてるわけです。テレビつければいろんな情報が流れてくるわけです、オウム問題もあるし、消費税のこともあるし、君島一家はどうなったとか、さまざまなことが一遍に、同じ速度で入ってくるわけです。そういう中に私たちはいて、そうすると自分がいまどこにいるのかとか、自分はどうやって生きているのかとか、本来自分はどういうふうに生きたかったのかということが、よくわからなくなってきてしまう、そういうストレスが生まれてきていると思うのです。これは新しいタイプのストレスだと思うのですけれども、都市のストレスといってもいいと思うのですけど。
そういった状態の中では、こういうストレス発散型の祭りだけでは補いきれないストレス、というのが生まれてきてると思うのです。そうではなくて情報とか、刺激とか、そういったものを排除して、何か自分の生活を見詰め直すとか、自分の生き方を見詰め直すような、あるいは自分の生きている座標軸というものを、もう少しはっきりさせるような空間としての劇場というものが求められている、空間としての演劇というのが求められている。自分を見詰め直す場としての芸術というものが、求められているのではないかという感じがするんです。これは非常にゆっくりとした流れで、近代演劇から現代演劇に移行しているので、まだまだ近代のほうが多数ではあります、マジョリティーは近代のほうにあるわけです、小室哲哉のCDがあれだけ売れるということは、近代のほうが多いのですけれども、徐々に現代に移っていると思うのです。これは社会全体の動きはそういうふうになっていると思うのですけれど。
僕はこれはよくプロテスタントの教会に通うのに似てるというのですけれど。教会というのは1週間に1回、日曜日なら日曜日に、週に2時間なら2時間、静かな時間を持つわけです。同じ場所で持つということが大事なんですけど、で、神に向かって、神と1対1で対峙して、そこで自分の1週間の生活を見詰め直す、自分のあり方を見詰め直す、あるいは自分を取り戻す時間を必ず持つ、習慣的に持つということです。僕はクリスチャンではありませんから、カソリックとプロテスタントで、両方ともいい面も悪い面もあると思いますけれども、一ついえることは、プロテスタントというのが生まれてきたのは、やはりヨーロッパに近代都市が生まれてき<たときに、その都市のストレスというのが生まれてきて、カソリックのいわゆる祝祭性の強いミサだけでは補いきれない部分ができてきたと思うのです。カソリックというのは神の代理人である神父が裁いてくれるわけです。ここはいい面も悪い面もあるわけです。そういった神みたいな大きな存在がなくなってしまったという、プロテスタントの問題もあると思うのですけど。カソリックの場合には、裁いてくれて救ってくれるわけです、テーマがあるわけです。そして判断をしてくれる。ところがプロテスタントの場合には、牧師というのは別に神の代理人ではないですから、人間の側にいて、ただ、若干導いてくれる、あるいは見解を示してくれるぐらいなんです。
判断する側は観客の側にある、ですから芸術家の役割というのも、そういうふうにちょっと変わってきてると思うのです。絶対的な価値観を示すのではなくて、作家の個人の世界観を示すことによって、観客の側に判断を委ねるというのが、現代芸術のあり方だと思います。これは社会全体が少しずつですけれど、そういうふうな方向に変わっていっているのではないかと僕は思っているのです。
例えば、一番わかりやすい例というか、身近な例としては、いま動物園より水族館のほうが流行ります。あれは大体僕と同世代から僕よりちょっと上の方はよくわかると思うのですが、『タイガーマスク』という漫画がありましたね。『タイガーマスク』というのは、苦しいことがあると動物園にいくんです、主人公のたてたて直人(?)というのは。虎の檻の前に立って「虎だ虎だ、お前は虎になるんだ」といって励まされて、力を与えられて、虎の仮面を被って悪役レスターをやっつけるという構図になっているわけです。これはまさに高度経済成長の思想なわけです。いまは水族館ですから、マグロがぐるぐる回ってるだけですから、これ全然「マグロだ、マグロだ」といって頑張れる人はいないわけです。そうではなくて、マグロがぐるぐる回ってるのをただ見ることによって、何となく忘れてた自分の何かあり方とか、自分が何をしたかったとか、自分は本当はだれを愛してるかとか、自分はだれが好きなのかとか、そういったことを思い出したり、あるいはまた新たに再生したりする、そういった空間が少しずつだけれども求められてるのではないかというふうに、僕は思っているんです。
そういったところで成立してくる演劇は、市民の演劇といってもいいと思いますし、あるいは、新しい都市の演劇といってもいいと思うのですけれど、僕自身はそういうものを作りたいと思っています。ただ、これは大変難しいです。お客さんの数が増えないというのは、ですから簡単にいえばそういった自立した市民の数に比例すると思うのです。もちろん僕たちの作る作品の善し悪しの問題もありますけれど、マーケットとしては、マーケットをどうやって広げていくかということは、その自立した個であるところの市民の広がりというものが、どれだけ広がってくるかということにかかってると思うのです。もちろんまだ日本では、そういった1人で劇場に足を運ぶ、自分の生活を見詰め直すために芸術作品を見るなんていう習慣はないですから、ほとんどないですから、この数が増えないことには、うちの劇団の観客動員は増えないです、絶対的には増えない。そこでそれを解決しようとして一生懸命ワークショップをしたり、出たくもないテレビに出たり、いろんなことをしながら啓蒙、普及活動に努めていると。
啓蒙という思想は近代の思想ですから、これ矛盾するんです。以前、つい最近かな、磯崎新さんが岡本太郎さんについてお書きになってて、岡本太郎の偉大であり、また特殊であるのは、日本というものが前衛と啓蒙を同時にやらなければいけない。啓蒙があって前衛があるのですけど普通は、ところが日本の場合には明治維新以来先を急ぎますから、革命がなかったのに近代社会をつくろうとしたり、近代化がなかったのに、いま非常に現代化に突き進んでるわけです。そこのところが芸術家としては大変困るわけです。ですから市民社会がないと、いわゆる近代を前提にして、近代主義の果てに成立した近代市民社会がないと、現代演劇というのは成り立たないんだけれども、この近代社会がないですから、ここのところの近代社会への移行が日本の場合なかったですから、そこはちょっとやらなければいけないです。そこをやったうえで、啓蒙活動をやったうえで、表現としては現代芸術をやらなければいけないというのが、大きな矛盾というか、困ったところなんです。これをどうにか一遍にやれないものだろうかというふうに、日々苦労しているわけです。
1つ問題は、人間の価値観には「真・善・美」という3つ大きな価値観があると思うのですけれども、例えば、「真」に関しては、これは受けとり手が自分が決めるんだということは比較的はっきりしてきてると思うのです。これはどういうことかというと、例えば、真理、だから科学的真理ですね。神様というか、例えば、教会が地球は真っ平らだといっても、実験で丸いことが証明されれば丸いんだということです。これは小学生でも一応認識としてあるわけです。実際には、電子レンジの中身どうなっているかだれもわからなくて使っていたり、いろんな問題ありますけど、そうはいっても科学的な判断というのは個別に行われるのだと、個人が行うのだ、だれか他人が決めるのではなくて、客観的なものがあるということはみんな知識として知っていることです。
「善」ということに関しても、これも、例えば、王様が何かいったから、あるいは天皇が何かいったから善なのではなくて、道徳なのではなくて、正義というものはその社会を構成する多数によって決定する。少数意見も尊重されなければいけないという民主主義のルールというのは、これも小学生でも知ってます。選挙とかやるわけですから、これはわかっているのですけど。
ところが「美」についてだけは何もないです、ほとんどないわけです、日本の社会にはほとんどないわけです。例えば、地方自治体が高いおカネを出して絵を買います、印象派の絵なんかを買うと、たいてい問題になるのは税金の無駄遣いだといって問題になるのですけど、それは絵を買うか買わないかの判断で問題になるのです。それがどれくらい価値があるかは、必ず大学教授とか、美術界の何か大御所とかが意見をいって、そこで意見が分かれたりして問題になるのです。決してその市民たちが、この絵は私たちにとって必要だとか必要じゃないということをいったためしはないです、日本の場合には、これが一番問題なわけです。
例えば、ある美術館の学芸員に聞いた話ですけれども、スイスのバーゼル美術館は結構近代から現代にかけての絵画が揃っているのですけど、ピカソの絵が何点かあって、それはバーゼルのある会社のオーナー社長が寄付をしたらしいです。その寄付をしたときに、その会社がゆくゆく危なくなったら返してくれというそういう条件が入っていたらしいです。そうしたら本当に危なくなってしまったらしいです、最近になって。そのときに市が新聞広告を出して、こうこうこういう条件でこの絵は美術館に寄贈されたんだけれども、返さなければいけない、どうしようかということを市民に呼び掛けたらしい。したら市民が、この絵は大事だということで寄付が集まって、その企業も救われて絵は残った。そのあとその企業はどうなったかわからないですけど、そのことはまず日本ではないと思います。その絵が必要かどうかということの判断ではないです。その絵が価値があるのかどうかということに対しては、他人に委ねてしまう、それで価値があると認められたものに対してだったらおカネを払うし、価値のないものに関しては税金の無駄遣いだということになります。自分で判断してるわけではないです。
「美」に関してだけ、自分で判断するということは何もないわけです、ここが一番問題であって。少なくとも僕は「真」と「善」に関しては、まだちょっと近代市民社会の要素というものを、日本もさすがにこの戦後50年の間に培ってきたと思うのです。目茶苦茶なことは、例えば、いますぐにファシズムの政権ができたりとか、いますぐに何かものすごい新興宗教が世間を席巻するようなことというのはまずないと思うのです、それは。そのぐらいの正常の判断は、日本人はできるようになったのではないかと僕は思っているのですけど。ただ、「美」に関してだけは全くそういうのはないです。だから目茶苦茶な状態になってしまうわけです、ある種のブームによって「美」の価値判断が右往左往してしまうというようなことがよく起こる。
これをどうにかしないと。だから僕は「美の民主化」と呼んでいるのですけど、美について一人一人が、自分は何を美しいと思うかということを判断できるような社会をつくらないと、これは成熟社会とはいえないと思いますし。これはだから鶏と卵みたいなものなんです、そういう優れた現代芸術がないと、個別の美の判断というのは生まれてこないし、そういった判断ができるような受けとり手がいないと、優れた芸術は生まれてこないというので、これはどっちが先ということはないのですけど、少しずつでもそういうふうにしていかなければいけないだろうと思っています。
逆にいうと、「真」や「善」はみんなで判断しますけれど、「美」については非常にだから他人が判断するということは当たり前になってますから、非常に権力性が強いです。だれかが「これは美しい」といったものに対して抗えないわけです。例えば、いまでいうと平山郁夫さんが美しいといったものは、だれも文句はいえないです。僕の予想では、いま国会議員が二世とかばっかりになってしまって、幅が少ないですから、その幅を埋めるためにタレント議員というのはたくさん出てきてます。いま一番多いのはスポーツ選手です、スポーツ選手というのはあれは過渡期だと思うのです。たぶん21世紀に入ると、恐らく芸術家というか、芸術家の中でもうさん臭い連中がたくさん、僕は国会議員になるのではないかと思うのです。何でかというと、それは抗えないです、そのことには。これは美しいといって、さっきいったようにピカソの絵はこれは50億の価値ありますというと、日本人は抗えないですそこには、違うとはいえないです、価値があるといわれてしまうと。そこのところが非常に危険であり、問題であると思うのです。
いまものすごく文化予算というのは増えてまして、文化庁の予算ももちろん増えているんです、ほかのところがゼロ・シーリングで全然増えてないのに対して、毎年10%ずつ増えている。それ以外にも、例えば、通産省も自治省も外務省も郵政省も、みんな文化関連の予算をどんどん増やしているんです。で、ものすごいおカネが入ってきますから、いままで貧乏だったところへものすごいおカネが入ってきますから、恐らくたぶんスキャンダルとかそういうものもものすごく多くなってくると思います。何でかというと、建物1個造るのでも、橋や道路だったら使いますから、便利か便利じゃないかというのはわかります。ところが美術館造ったときに、この壁を予算は倍かかりますけれども、青で全部塗りましょうといったときに、いや、こうしなければだめなんですというふうにいったら、それは抗えないのです。そこのところにはいくらでも汚職とか何かそういったものが生まれてくる土壌は、いくらでもあるんです。だってことば一つで何千万というおカネが動いてしまうわけですから。だから相当に危険なことがあるんです。地域の住民が自分でそれを判断できるようにならないと、21世紀に大変な混乱が起こるのではないかというのを、僕は危惧しています。この話はそれでいいのですが、あんまりこういう話ばかりしていると、文化予算の伸びとか、そういう話はまたあとでしますしますけど。
いま、観客の側の話をしてきたのですけれど、「作り手の側の問題」として、じゃあ世界を記述するとか、世界を描写するというのはどういうことなのかということを、ちょっとお話したいと思うのですけれど。基本的には、私には世界はこう見えている、あるいは音楽家なら、世界はこう聞こえているとか、そういったものを示すということが芸術の大きな役割になってきてると思うのです。そのときに大事なのは、世界の見方とか人間の見方というのは、もう人によって全く違うということが非常に重要だと思います。
これは、例えば、最近の大脳生理学なんかでも明らかになってきたことですけれども、人間がものを認識するというのは、個別に認識するんです。個別というのは細胞が1対1で認識するわけです。例えば、色だったらば、三原色を別々に認識して、しかもそれを統合する器官というのがあるわけです。これはもうご存じかと思いますけれども、NHKなんかでも何度か特集しましたからご存じだと思いますけれども。例えば、動いてるものというのは、100メートル先にあるものと、目の前にあるものとを別々の細胞が別々に認識するんです、これを統合するわけです。だからその統合する器官がないと、それが欠落してると、これは動いてると認識できないです、デジタルにものが見えてしまう。それを私たちは普通の生活を営むために、アナログで認識できるような器官というのがあるわけです。この器官がない病気があって、そういう人たちは町に出られないわけです、だれかと一緒でないと、だって100メートル先にあって、何秒後かにいきなり車が目の前にきてしまうわけですから、危ないわけです。
そういう統合する器官がない病気というのがあって、そのある種の器官が偶然ないと、例えば、山下清に象徴されるように、山下清にはああいうふうに世界が見えてたんです、色があのまま見えていたわけです。普段私たちはああいうふうに、もちろん最初はああいうふうに認識するんだけれども、それを統合して丸く収めていま大体みんなが見えてるような刺激の少ない世界に見えるんだけれども、あんな世界に見えてたら大変です、ずうっとああいうふうに見えてたら疲れてしまいます。それからよくいわれるのは、モーツァルトです、モーツァルトというのはああいうふうに音が聞こえてた。あれは明らかに脳に欠損があってああいうふうに聞こえてたんだと思うのです。あんなメロディーがずうっと四六時中脳の中に鳴り響いてたらこれも大変です、社会生活を送っていけないと思いますけれども。よくいわれるのはモーツァルトの楽譜には書き直しがなかった、それはもうああいうふうに聞こえて聞こえたままを書いてるから、書き直す必要はないわけです。言語でもたまにいるんです。三島由紀夫の原稿には書き直しなかったといわれるんですけども、三島由紀夫の場合はちょっと変わっていて、ずうっと考えていて一気に書くらしいのですけど、畑正憲さんなんかもそうです。そういうタイプの人というのは何人かいるのですけど。
もちろん言語を使う、例えば、文学とか演劇とかと、直接的に世界を描写する音楽とか美術とはちょっと違うとは思いますけれども、似てるところもあると思います。それはどういうことかというと、私たちは普段社会生活を営むために、あるいは極端な刺激を避けるために、世界というのは大体こんなものだろうというふうに丸く収めて、まさに日本語でいうところの丸く収めて生きてるわけです。ところが実際に私たちの細胞が知覚している世界というのはもっといびつであって、こんな形であったりとか、こんな形であったりするはずなんです。それをどうにか統合して収めていて、自分の生きてきた常識とかから外れるものに関しては、見なかったことにしてるわけです、目を伏せている、あるいは見過ごしている、見えていない、この3つがあると思います。「見えていない、見過ごしている、見なかったことにしている」こういう3つがあると思うのですけれども。
芸術というのはそういう部分を、実際には知覚しているはずなんだけれども、何らかの理由で、見えなかったり、見過ごしていたり、見えないふりをしていたりするものをあらわにするということがいえると思うのです。僕はそれをことばを通じて、あるいは人間の肉体を通じて明らかにしたいと思っているのです。これは音楽も美術も全く同じではないかというふうに思っています。それを僕はことばを通じてやりたいと思っているので、そのことについて、特にことばのことについて、あるいは話しことばのことについて、日本の演劇界というのはあまりにも無関心だったのではないか。私たちが本当はどういうことばをしゃべっていて、どういうふうに人とコミュニケーションをしていて、あるいは自分の意識とことばというのはどういうふうにつながっているかということに関して、あまりにも無頓着だったのではないか。
そのは1つの大きな理由は、テーマが非常に強かったということです。テーマが非常に強くて、これを主張するためには世界は丸くないと困るんです。人間のいびつな部分を描いていてもしょうがないというか、そんなむだなことをしている時間はなくて、世界は丸である、その世界に対してジャンピングボードで理性的に把握して、世界の形を円だったものをさらに大きな円にしなくてはいけない。豊かで、楽しく、美しいものにしなければいけない、人間進歩しなければいけない。そのためにはこの形を変えては困るわけです、全然いびつなものとか、そういったものは排除されてきた、そういうところが特に日本の演劇界には強いと。
せっかくですから日本の演劇界の事情を少しいうと、築地小劇場というのができたのが1924年です、関東大震災の翌年にできた、これは関東大震災で全部焼け野原になってしまって土地があったということと、もうちょっと詳しくいうと、土方与志さんが関東大震災の年に留学するんです、それまでの演劇運動に飽き足らずに、10年計画で留学をするわけです。これは貴族の息子ですけど、ところが東京が関東大震災で焼け野原になってしまったというのをヨーロッパで聞いて、急いで帰ってくるわけです、自分の家もどうなったかわからない。で、10年留学する予定でおカネを用意していたのが9年分余ってしまったんです帰ってきて、それで建てた。非常にブルジョアが建てたんです。これはプロレタリアートの牙城に後々なっていくのですけど、もともとはブルジョアが建てたものです。 1924年で、しかもドイツから帰国早々の土方さんが建てたものですから、このときはダダイズムとか、ドイツ表現主義の影響で大変前衛的な活動をしてたのです。舞台装置の模型なんかありますけど、いま見ても何じゃこれは、という感じです。もう空に魚が浮いてたりとか、二階建ての家なんですが、もう黒と白のモノトーンの感じのセットです、もう何だか全然わからない、抽象的なセットです。芝居も何かそういう傾向だったそうです、僕は生前のそこら辺の方と何度かお話をうかがったことがありますけど、相当変な芝居で、自分たちも何やっているのかよくわからなかったといってましたから。
ところが、これは1924年という年は相当遅いです、近代演劇が入ってくる年にしては相当遅いわけです。これは大正ですから、もうすでに美術、音楽は上野に西洋式の美術学校と音楽学校ができていたわけです、ところが演劇だけはできてなかったわけです。これはいろんな理由があると思いますけれど、一番大きな理由は、演劇だけは歌舞伎と能という、19世紀後半における世界的に見ても相当に優れて、相当に緻密な演劇をすでに持ってしまっていたわけです日本の場合には。だから近代の西洋演劇がなかなか入ってきにくかったんです。
で、これももうちょっと詳しく、せっかくの機会ですからあまりこういう話はお聞きになる機会がないと思いますので詳しくいうと、明治期に天皇が歌舞伎を観にいくんです。これはもういろんな画策をしている、野球の天覧試合と同じで、天皇が観にいくことによって、それまでは下世話なものとされていた歌舞伎が芸術として認知された。それ以来日本の演劇は歌舞伎であると、まずとにかく歌舞伎であるということになってしまったものですから、なかなか西洋の演劇が入ってくるのが遅かったのです。ゲリラ的には入ってきて、いろいろな活動はこれまでもされていたのですけれども、本格的に入ってくるのは1924年を待たなければならない。
ところが遅かったものですから、何にも確立しないうちに、さっきいったように前衛と啓蒙が一緒に入ってきたようなものですから、1930年代に入ってもうファシズムの時代に入ってくるわけです。で、1945年に敗戦を迎えるわけですけれども、もうこの期間というのは、結局選択を迫られるわけです演劇人が。左翼になって地下に潜るか、あるいはプロパカンダのために満州や台湾や朝鮮にいって演劇活動を行うか、選択を迫られたのです。どっちにしろテーマ主義なんです、右にしろ左にしろ、どっちか選ばなければいけなかったわけです。この期間だけが非常に牧歌的な時代でテーマ主義ではなかった時代があったにもかかわらずこういうふうになってしまった。劇団体制というのができて、非常に主義、主張の激しい演劇を続けてきたわけで、僕はこれはしょうがないと思います。一国が危急存亡の危機にあって、自分の国がそうなったときに、どっち側につくのかはっきりするということは、これはしょうがなかったところがあると思います。
ところが問題なのは、そのあとも日本の新劇は、テーマ主義の体制を引き続き引き継いでしまったんです。非常に労働運動とかと密接に結び付いて、ずうっとプロパカンダのための演劇というものを続けてきてしまった。いま、例えば、税制なんかでよく、確定申告とか源泉徴収の制度なんかが、よく昭和15年体制とかいいます、1940年に大体つくられた制度というのが、戦時下につくられた制度がいまだに法律として残っていて、それが日本のさまざまの問題を生んでいるから規制緩和が必要だという論調があると思うのです、これはまさに同じなんです演劇界も。この非常時に目茶苦茶な中でつくられたシステムというものが、かつてもあったかのように普遍的に信じられて、まさに最初に見城さんがお話されたのと同じです。だから社会的な背景とか歴史的な背景を無視して、かつてもそうだったと思われてずうっと続いているという状況が、演劇にもあるのです。
そこではあまりことばとか、人間の行動とか、そういったものを科学的に検証しよう、あるいは、芸術として独立して考えようということはなされてこなかった。ただ、なかったことはないです。例えば、岸田国士ですとか、系譜としては、日本語の側から考えるということだけでいうと、三島由紀夫ですとか、あるいは寺山修司ですとかいたわけですけれども、ただ、いかんせん、例えば、岸田国士というのは大政翼賛会の初代の会長で、文化部の部長です。三島由紀夫もそうですけど、大体右寄りなんです、ことばの方向で考えようという、非常に愛国的な人が大体そうなるんです傾向として。何でかというと、その一方で左翼新劇というのは翻訳劇が中心なんです。翻訳劇に対抗する形で日本語の演劇というふうに出てきますから、構図として出てきますから、どうしてもそうなってしまう何でか、これは大きな不幸だったと思う。
もう一つは、岸田国士さんは比較的長く生きましたけど、でも志半ばで亡くなってます。三島由紀夫も寺山修司も若くて亡くなっている。寺山さんは別に右寄りではないですけど、本流ではなかったということです。寺山さんも小劇場界ではあまり本流ではないです、社会的には非常に認知されてますけど、演劇界からは異端視されてるわけです。アングラ小劇場の世界でも、あれは演劇人ではないというふうにされていたわけです。ですから本流ではなかったということと、比較的早くに亡くなられているということが大きな悲劇で、あまり日本語について、話しことばについて突き詰めた論議がなされずに、演劇界でここまできてしまった、ここが大きな問題ではないかと思います。
例えば、英語がシェークスピアのことばと呼ばれるように、あるいはノルウェーにイプセンがいるように、演劇というのはその国のことばを代表する非常に大きな役割を担っているわけですけれども、近代日本にはそれがないです。歌舞伎や能というのは、私たちが話してることばとあまりに離れてますから、これが日本語ですという典型を示すわけではないです。それは小説でしか果たされていなくて、夏目漱石のことば、あるいは芥川のことばというものが、一つの近代の日本語の典型とされたと思うのですけれども、演劇からはそれがついに出なかったんです。そこのところがちょっと大きな問題ではないか。
で、遅れ馳せながらというか、遅まきながら、これから少しずつ演劇というのは非常にことばを使った非常に優れた芸術ジャンルなんだということを、示していければというふうに考えて、いま活動をしてるんです。これは大体そういう構図です。
あと、関連していうと、前も少し話しましたし、盛岡で僕が逸脱して話したことでもあるのですけれども、基本的に演劇とか文化行政に非常におカネが出てくるようになったというのの一つの大きな理由は、やはり日本の産業構造が大きく変わりつつあるということと、密接に結び付いていると思います。産業構造が変わっていくと、結局資本は日本にあるけれども、工場は海外にあるわけです。そうすると日本人は資本家になるか、管理者になるかしかないわけです。その資本家と管理者を楽しませるためのサービス産業だけが日本に残る、あとは流通業です、モノを動かす、モノといっても情報とか金融とか、そういったものを動かす産業です、それとサービス業だけが産業として残る。
そのときに、資本家を楽しませなければいけないわけですから、当然資本家は努力しませんから、当然自分のことばで自国語で楽しみたいわけです、外国語で楽しむということはあり得ないので。そのときに日本語によるサービスというのは非常に大きくなると、これはいまでも顕著になってきていて、例えば、高級な料亭では日本語で話されるけれども、町の居酒屋ではよくわからない日本語で話す、中国語訛りの日本語や、韓国語訛りの日本語で話す。どうもサービスを受けてる気がしない、「揚げ出し豆腐一つ食べますか」とか、「揚げ出し豆腐美味しくないか」とか、そういう日本語でしゃべられると、どうもサービスを受けた気がしないという人が出てきて当然だと思います、資本家階級の欲求としてはですね。
その場合一番端的に現れてくるのが演劇です、演劇の場合には自国語でしかできないという、翻訳ではどうしても伝わらない部分が非常に大きいわけです、小説なんかよりも非常に大きいわけです。イギリス演劇が強いのは、まさに植民地主義だからなんです。イギリスで作ったものを旧植民地を回していくわけですずうっと。ロイアル・シェークスピア・シアターなんて日本にきますけど、あれ日本にくるのはほとんど3軍ですから。大体旧植民地は2軍が回るんです。1軍というのはロンドンにいて滅多に動かないです。だから1軍がきたというと僕たちも観にいくんですけれども、一般の人は1軍だか3軍だか区別つかないですから、大体観にいって、ああ、シェークスピアはやっぱり本場はいいなとかいって帰ってくるわけです、全然違うんです。もともとロンドンのプロデューサーというのはそれを、アメリカ市場はもちろんですけれど、ブロードウェーはもちろんですけれども、それ以外の全世界規模で計画をして予算を組みますから、これ博打として成立するんです、ショー・ビジネスとして。イギリスの場合には僕の聞いたとこではGNPの約10%が観光産業だといわれています。その観光産業の一番の中核はミュージカルを観にいく、全ヨーロッパ、あるいは全世界から英語をしゃべれる人、英語を知っている人がミュージカルを観にきて、そこでおカネを落としていく。当然ホテルにも泊まりますし、飯も食わなければいけないわけですから、そこでものすごいおカネが落ちるわけです。
日本の優秀な官僚は、当然もう日本もそうなっていくだろうということに気がついてるわけです。ですからいま一番おカネ出そうとしているのは外務省と通産省です。やっぱり外国と付き合いの多いところが、一番おカネを出そうとする。そこのところはアーチストも認識してないといけないです。そういう植民地主義の先兵になるのかどうかということは、ほとんどの芸術家はわからずに、予算が増えた増えた、よかったよかったといってると思うのです。そこが非常に問題でしょうね、そこが一番問題だと思います、ことばにかかわってくるところでは。
それどうしていくのかということです。いま、例えば、劇団四季というのは韓国、あるいは中国にも、この間僕中国へいってきたんですけど、そうするともう中国の学校では、劇団四季の寄付した音響セットとかもバーンと置いてある、もう一番頭いいですから。ODAがもうすでに始まってるんです。文化関連のODAというのは始まっていて、劇場を建てます。劇場建てて、それで劇団四季がいってやるわけです、おカネ回収してくるわけです、円を回収してくる。それはもう全く土建業者がやったのと同じ構造がこれから出てくる。しかもさっきいったように値段がありませんから、ものすごく変なことがたくさん起こってくる。
日本て面白くて、今度新国立劇場できますけれども、初台にできますけれど、これはオペラもできる初めての国立劇場です。ところが日本はODAですでにカイロに、エジプトに国立劇場建ててるわけです。外国にオペラハウスを建てていて、自分の国に国立のオペラ劇場を持っていないという変な国になっている。全くいびつなわけです、何でかというと、文化戦略がないんです、基本的には。それはさっきいったように、近代市民社会が成立しないままに、現代芸術までも含めた一つの文化というものが、社会の中で大きな役割を果たすような現代社会に突入してきてしまいましたから、国家自体の文化戦略、文化を国家のどういうところに位置付けるのかという戦略が全くないままにいまきているんです。単純にいえば、歴代の総理大臣で日本の文化をどうしたいかといえる人は、1人もいないと思います。でもフランスの大統領で、自分の文化をどうしたいか、あるいはどういうふうに外国に伝えたいかを語れなかったら、フランスでは大統領になれないと思うのです。アメリカでもたぶんなれないと思う、そこが大きな違いだと。それはこれから先、さっきいったように、その状態だと芸術家が直接国会議員にならざるを得なくて、その人たちに振り回されて、非常に悲惨なことになるというふうに私は思ってます。
ちょっと今日は何か政治的な話が多くなりましたが、別にそういう意図ではなかったんですけど、大体こんなところでいったんとめたいと思います。
小林 今日はかなり何というか、防御というか、わりと磐石の構えで落ちがないから、どこから攻めようかとなると思うのですけど。高本さんいきます?。
高本 僕はまず最初に平田さんのおっしゃった、芝居をこの前2本立てのを拝見しまして、そのときに感じたことからいまのお話につなげたいなと思いますけれども。平田さんの盛岡でのワークショップを拝見したり、あるいは間接的にビデオだったのですけど「東京ノート」を拝見したりして、まず気がついたのは、日常生活と同じように自然の対話とか発話とか会話が、いわば特定のワークショップという文化や日常文化の中で、繰り広げられていることの不自然さですね。そのところで一見何の企みもないように感じさせるせりふのやりとりというものが、実は創作的な企みを内包しているんだと気がついたときの、何というか難しいことばでいえばメタ認知的な快感とでもいうか。そこのところを今回2本観せていただいて、一番強く感じたのは、いままでメッセージのやりとりというのが、せりふを聴くときの一つの観点だとすると、そうじゃなくて交話的といいますか、phaticなコミュニケーション、とにかくつながっているということが重要なんであって、そこでやりとりされるコミュニケーション、メッセージの代用ではなくて、コミュニケーションがまさに行われている。電話の「もしもし」みたいなのがありますね、ああいう交話的なコミュニケーションの中に、それを通して得られる一つの認識。私たちは必ずしもメッセージを伝え合っているのではないとか。そういう半ば意識的、半ば無意識的なある種の虚構に満ちた世界がわれわれの世界であると。
そこでちょっと話が変わるのですけど、清水寺でもうお亡くなりになった、大西良慶さんという、五つ子に名前を付けたので一時テレビにも出ましたけれど、あの人の録音テープを聴いていると虚々実々、世の中は虚実に満ちていると。例えば、遅れて僕なんかいろんなところにいくんですが、そうすると「遅れてすみません」というと、「いや、いいですよ」といってくれるんですね、「いいですよ」といってくれるんだけど、心の中ではこの野郎遅刻しやがってと思ってるかもしれません。だから「いいですよ」というのは虚なんですけれども、実ではないのですが、しかしそこにある種のまことみたいなものがある気はするんです。虚々実々の世界を超えたまことみたいなものを垣間見させてくれるのが、いってみれば平田演劇の一つの自覚的な部分じゃないかなあというふうには思うのです。 そうすると先程の、メッセージがテーマとか主義、主張だとか、イデオロギーだとかによって枠づけられて、その部分がもはや問題ではないのだというのは、とても平田さんの芝居と重ね合わせてみるとよくわかる側面だと、これをまず第一。
そうするとそこに出てくるのはいったい何かというのが問題なんですけれども、平田さんはさっき観客同士の共感はもはや求めないといわれたんですが、結局しかしつながっている、phaticなコミュニケーションが行えるというのは、ある種の共感的世界を当然描いているんじゃないかなと思うのです。そのあたりをもう少し僕は、またあとで時間があれば聞きたいのですけど。
平田 さっきも教会の比喩のとこでもいったんですけど、やっぱり同じ場所を共有するというのが大事だと思うのです。共感ではないのだけど、共有というのはあると思うのです。時間や空間を共有するということによって、他人との差異が生まれてきますから、共有しないと差異も生まれてこないという感じなんです、そこのところは僕はあると思うのです。だから僕の理想としては、同じ空間を共有してて、同じものを観ているのに、客席のあの男女とか年齢と関係なく、客席の半分は笑ってて、半分は泣いているような芝居ができたら、それがたぶん理想型だと思うのです。そのときにはものすごいことになると思うのですけど。
小林 僕もそこのところを聞きたかったんただけども、さっき「美」の話のあとで、モーツアルトの話やなんかいったときというのは、出だしはたぶん相互の了解不可能性みたいな話から始まって、その話がどっかへいっちゃったわけね。その了解できないのかもしれないと、しかしどっかで、だからいまの高本さんのことばを借りると、横のつながりがないとどうしても作者と見ている人の縦のつながりはあるということを、平田さんが実感してると。そのつながりを保証しているものというのはなんなのか。たぶん原理原則からいくと、了解できないんだという、いわゆるインコメンショビリティーというのですか、そういう共約不可能性みたいなものがあって、原則としてはそれはわかりますよと、しかしどっかでやっぱりいまの高本さんの言葉でいうとつながってるとか、何かあるという、そこがどこで起こってくるかということなんです。
平田 これは僕のまだ印象でしかないのですけれども、例えば、僕の感じでいうと、私には世界がこう見えますよということを、力強く示せれば示せるほど、観客の側は、ああそう見るのかと、いやおれは違うねとか、おれは少しそうだなとかっていうことを判断を明確にできるのか。そこのところは信頼関係です、まさに、民主主義ですから。僕は戦後民主主義の側に立ちますから、そこでは信頼関係だと思うのです。だから違う意見をいう人のことを尊重するということ、だから民主党の公約みたいになってしまうのですけど。個の自立と共生というのは、恐らくそういうところにたぶん由来しているのだと思います。違うからいいんだ、違うことに価値を見出だすんだということが大事になってくる。その違いを明らかにするためには、できるだけ作り手が普通の一般人にはできないほどに、明確に世界を示すということが必要だと思うのです。というか、普通の一般の人でもできるのかもしれないけど、そんなことは社会生活を営むうえで、時間を先に進めなければいけないですから、経済的な理由やなんかで放棄してしまっている部分というのはあるものですから、そんなこと突き詰めて考えていたら生きていけないよという部分を、突き詰めて考える人というのは社会の中に必要だと思うのです。そこが大事だと思うのです、これはでもヨーロッパのメセナの考え方は基本的にそうですね。だから芸術家というのは自分と違う世界を見せてくれる、自分と違う世界を見せてくれる人たちなんです。自分と違う世界とか、一般市民と違う世界を見せてくれるからには、何かを犠牲にしているだろう。家族とか友達がいなかったりとか、何かを犠牲にしているわけです。だからその分少なくとも経済的にちょっと支援しなければいけないんだというのが、ヨーロッパの基本的な考え方です。
僕は別にそんなに犠牲にしてるつもりはないですけど、幸福な家庭を築いてるつもりですけど、でも大変ではありますね。それはやっぱり作家がそこは同じ共通の苦しみを持ってると思います。ですから普段丸く収めてるものじゃない部分を描こうとするからには、人生の中でもその部分を若干は引き受けないといけないですこれは、そこの苦しみというのはあります。そこを信頼してもらえるかどうかと。演劇というのはまさにそういう観客との信頼関係で成り立ってるということは確かです。
見城 一つ感想と、一つ質問があるのですけど。まず一つは、僕は平田さんに長生きしていただきたいと思うのですけど。(笑)やはり平田さんの演劇って、通好みというか、ある程度劇を観た人じゃないとわからない面があると思うのです。というのは、観客というのはやはり一つの制度としての劇というのを期待して、劇場にいくという側面がありますね。つまりそこにいけば舞台と観客席というのがあって、舞台の上であるストーリーが繰り広げられて、最終的には何らかのカタルシスが得られるであろうという期待をもっていく。ところが、恐らくその現代演劇というのは、そういう制度としての演劇自体を解体しようというか、それ自体を批判していこうという動きが、一つのモチベーションとしてあったと思うのです。恐らく僕は平田さんの劇にもそれは強くあるんだろうというふうに感じるんですけど。
そのときに、ぼくはこの前劇を拝見してて思ったのは、平田さんの劇は恐らく寺山さんがやろうとしていたことと、すごく裏表の形で共通している部分があるんだろうと思った。僕、寺山さんが生きていたときの劇は観たことはないのですけども、前もちょっと平田さんにお話しましたけど、『青髭侯の城』という劇がありまして、それは劇中劇なんです、劇の中で『青髭侯の城』という劇が繰り広げられて、しかもその劇の中でリハーサルと本番というのがいくつも入れ子構造になっていて、これ観客としては初めあるレベルで劇を観ているつもりだったら、実はそれは劇中劇であって、そこでふと登場人物が「はい、カット!」とかということばが入ると、それまでそれは劇だったんだというような振る舞いを始める。そうすると観客はだんだん自分がどのレベルで劇というものを観ているのかわからなくなっていく。最終的には劇を観ているはずの自分というものと、劇との境も曖昧になっていくという形で、最後は劇が終わったかどうかもわからなくなっちゃうような劇なんです。
平田さんの劇というのもまさにそうであって、まずもって始まりがどこにあるのかわからない。普通だったら照明暗くして、真っ暗にして、さあ、ここから劇ですよという形で始まるのに、もう照明は初めからついていて、始まったかどうかという区別もはっきりしない。終わったときもはっきりしませんね、どこで拍手したらいいのかもわからない。最後に役者さんが出てきて、挨拶しなければ、あれはだれも拍手できないで終わってしまうと。
平田 あれは商業的な理由で最後出さないと、拍手しないとお客さんこないんですよ、これはやりたくないんですけど本当は。
見城 だからそういう意味でいうと、寺山さんがいったん劇という制度の中に人を引き込んだうえで、でも実は劇と日常というのは区別できないんだということを、最後にガーンと打ち出すのだとすれば、平田さんの場合もう始めっから劇を期待してきた人たちに対して、もう初めっから劇と日常というのは連続性の中にあるんだよということ。いってみれば劇の中で日常性という制度を一つ提示することによって、劇と日常との区別を曖昧にしてくというところがあるんじゃないかなあと思って。
ただ、そこで一つ面白いと思うのは、寺山さんの場合には、さっきいったように、一度劇の中に引き込んでおいて最後に、でも実は、日常だって劇場じゃないかという形で、恐らく終わるんだろうと思うのですけれど。平田さんの場合は、もう初めっから、そんな区別をなくするという方向で、ちょうどコインの裏表みたいになっているところが、すごく面白いと思ったんです。それが感想なんです。
もう一つ質問なんですけど、さっき「真・善・美」の話をしていらっしゃいまして、これはさっき演劇というのがある一つのテーマとか、主義、主張を反映するものではなくて、いってみれば世界を記述するものだというふうにおっしゃって、それはすごく共感するところありますよね。つまりコミュニケーションとか言語に関する学問というのは、どんどんことばというのがある一つの原理に従ってというか、世界の背後にある原理を説明しようとするほうから、世界を記述するというか、要するに裏に隠れているものは何もなくて、表に出ているものがすべてなのだ、それを記述することが問題なんだという方向にどんどん動いてきてると思います。そういう意味でいうと、平田さんの演劇というのは、要するに20世紀的な思想とまさにシンクロしていると思うのですけど。
ただ、そこで僕が思うのは、そういうふうにいってみれば世界の意味というものが、深いところにはないんだ、僕たちが日常生活してる表層的なところにすでにあるんだという主張は、一面では人々に苛立ちを覚えさせるというか、大変な負担をかけることだとも思うのです。つまり、いろんな現象の背後に一つの原理があるんだったら、その原理さえカバーしておけばもうそれで把握できてしまうわけなんですけど。それが現象をちゃんと丹念にその違いを見ていきましょう、あるいは、一見違うと見えてるものの中に共通性を探っていきましょう、それを横着しないで丹念にやっていきましょうとなると、それはいってみればカリスマが生まれるような危険性というのはなくなるんでしょうけれども、いままで一部の人にかかってた負担が、すべての人にかかっていくということですから、そうするとその中では、やはりそれは大変だ、これはできたら降りてしまいたいと思う人もたくさん出てくるはずだと思う。
それを考えると、さっき「真」と「善」に関しては、絶対的な基準に従って、人が動くことというのはなくなってるというふうにおっしゃって、僕もそれはそうだと思うのですけど。ただ、その背後には、やっぱり絶対的な真とか、絶対的な善というものを求めたいと思うような人々の欲求もあるのではないだろうか。それがある瞬間に一つの方向に雪崩をうって出てしまうこともあるのではないだろうかなというふうに思ったんですね。それについては平田さんどういうふうにお考えですか。
平田 いや、それはまさにそうだと思います。だからそこで、プロテスタントだけでいいのかということありますので、だからカソリックの存在意義というのもあると思うのです。もしかすると人間を超えたような存在とかというものが、あるかもしれないし、少なくともあるということを想定したいという人間の気持ちがあるということは事実であって、そこのところを無視してはいけないと思うのです。ですから問題はただ、そこのところまで含めて自立した判断を促すというか、そういう社会が可能であれば、可能であればというか、そういう社会を可能にしたいというふうに思っているんですけど。
見城 結構まだ先は、何となくありそうですね。
平田 だからこれは宗教改革と同じぐらいの大きな変動だと思うのです、この20世紀の芸術の移行というのは、近代芸術から現代芸術にいくというのは。とにかく祝祭性から個別性へ移るわけですから、これは人も死ぬし、血も流れますよ。宗教改革と同じぐらいの激動がなければ、それは成立しないと思います。だから僕なんかものすごい風当たり強いですよ、すごい単純なところで風当たり強いんです。例えば、ある戯曲賞のコンクール、ジャストシステムなんで新宿、去年広島のがあったんで、僕はそれ反対したんです、こんな一般庶民はみんな正義の味方で、軍人はみんな悪者で描かれている戯曲はだめだというような話をしたら、半年ぐらいしてから、広島の人から、広島ではあなたは大変評判が悪い。(笑)広島の平和運動の歴史を理解してあなたはそういうことをいってるのかと、だからそういうその思想自体が間違ってる、平和運動と演劇は関係ないんだということを僕はいっているのに、そういうのは至るところでありますそれは。現状としていまがそうなんで、まだ絶対的なものがなくなってしまうことへの危険性を話している段階よりは、まだ全然いってないという感じなんです、演劇の場合には。ちょっとそれよりも、まずもうちょっと民主化しようよ、一人一人がちゃんと判断できるような土壌をつくっていこうよという段階ですから。現実にはそんな感じですね、現実の運動としては。
寺山さんの話は、僕は何度かエッセイにも書いたんですけど。これは作家の資質の問題だと思うのですけれど、人間のどういう部分、どういう感情の振幅を描くかというときに、例えば、去年僕は『火宅か修羅か』という作品を書いて、これは檀一雄みたいな小説家がいて、ずうっと家から離れて暮らしているんですけど、奥さんはもう死んでて、娘が三人いるんです、それが再婚するんです。娘も三人とも成人していて、一番下が高校生かな、一番上の長女とほとんど年の違わない女性と再婚するんです。もう大人になってる娘たちですから、真っ向から反対はしないわけです、ただ、何となくいい気持ちはしないわけです。しかも高校生か、成人してるかによっても違うし、あるいは、自分の母親の記憶があるかないかによっても微妙に違ってくるわけです。その微妙な違いを描いた作品なんですけど、それを富山県の利賀村でやったんですけど。同じときにギリシャ劇の『エレクトラ』を上演したんです。『エレクトラ』というのはご存じのように、父親アガメムノンを殺してしまった母親を、父親のことが大変好きな娘がお兄さんに頼んでその母親を殺してしまって、母親が死んだことで喜んで自分も踊り狂って死んでしまうという話なんです。これ非常に大きな精神の振幅です。
これどちらもさっきいったように、人間の見えていない部分というか、見ようとしてない部分だという感じがするんです。一つは、大きすぎて見ないようにしているという感じです。例えば、母親を殺したいという気持ちを抱いたことがある人はたくさんいると思うのです、でも実際に殺すのはそのうちのもう何百万分の一だと思うのです。それは見ないふりをしているんだと思います、そういう気持ちはあっても見ないふりをしていると思います。で、大きな精神の振幅。それに対して、例えば、父親が再婚するといったときの精神の振幅というのは、これは今度は小さすぎて見えないものがあるのです。これも本当に現実にはあるけれど、客観的には見たことのないものだと思うのです。例えば、今回ご覧になったので、『科学する心』のほうで、男の子が振られちゃいますよね、すごく悲惨に振られます。大体20ぐらいの大学生が、男の子が振られるときというのは、ああいうふうに本当に救いようがなく振られると僕は思うのですけど、ただ、それを、男性ならたいていそれは直接的に自分の経験がなくても思い当たる節はあると思うのです、本当に滑稽に振られると思うのですけど。でもそんなものを客観的に見たことはないのです、自分たちの生活の中で。
そういうふうにやっぱり演劇というのは、現実にはあるんだけど、さっきの近松と同じなんですけど、現実にはあったんだけど、見たことのないものを見せたいわけです僕としても。別に退屈させるために芝居作ってるわけじゃなくて、見たことのないものを見せたい。ただ、そこをどこを見せるかということは、作家の資質によると思うのです。だから僕はよくいうのは、寺山さんが「見世物小屋の復権」といって、そのときに寺山さんが作りたかった見世物小屋というのは、魑魅魍魎が出てくる、例えば、蛇女とか、いたち娘とか、蜘蛛女とかが出てくるような見世物小屋を見せたかったと思うのです。そういう大きな精神の振幅。僕は非常に精巧にできた覗きからくりを見せたいと思ったんです。見世物小屋に変りないです、普段外では見れないもの。その点ではある意味での祝祭性はあるんです、覗きからくりもお祭りには必要なんで。そういう意味では大きな意味での祝祭性はあるとは思っているんですけれども。
あともう一つ、これ盛岡のワークショップのとこご覧いただいたかもしれないのですけど、ワークショップの一番最後に、時間があるときに劇場から外に出ていくというのをやるんです。ここでワークショップをやっているんですけれども、これを拡張していって、外側でもやるんです、どんどんワークショップの参加者が外に出て芝居をやる。例えば、ロビーなんかでも同時に芝居をやる、テキストはあるんですけど。ロビーで普通に話してる人もいるんです、一般の全然そのことは知らない。その人たちの間に入ってでもせりふをずっとしゃべって、ギャラリーはそれを移動して観るというのをよくやるんですけど。これはビル中全部演劇とか、そういうことをよくやるんですけど。これはゆくゆくはもっと船中全部演劇とか、町中全部演劇というのをやってみたいと思っているんですけど。これはもうまさに寺山さんがやっていた市街劇と同じなんですけど。 そこで大事なことは、それを民主的に成立させたいと思っているんです。市民社会の中でちゃんと成立させたいと思っています。最終的にはたぶんそれ全部拡張していくと、僕は世界中全部演劇というのになると思うのですけど。世界中全部演劇というのは非常に簡単で、例えば、国連の事務総長か何かが、「これから5分間演劇です」というわけです、それをいうだけでいいです。そうするとこれ全部演劇になっちゃう、何をやっても演劇なんです、殴ろうが、戦争しようが全部演劇なんです。そのときにファシストが登場して世界を征服してしまうのか、世界平和が訪れるのかは大きな賭なんですけど、そういう瞬間が5分間ぐらいあったら、まあ面白いかなと思うのです。演出家のたぶん究極の野望はそこにあるんじゃないかと僕は思ってるわけです。
ただ、そこで大事なことは、それが民主的な手続きを踏んで行われているかどうかということです。こういう話をあるシンポジウムでしたときに質問が出て、「葬式ごっこはどう思いますか」という質問が出たんです。それは暗にそれは葬式ごっこじゃないかという批判だったと思うのですけど。そのときに僕が答えたのは、葬式ごっこというのは、葬式ごっこをされる人間は参加してないです、葬式ごっこに、そこが問題だと。それは民主的ではないです、全員参加かどうかということが大切です、全員が了解してる、演技をする側に立つか、観客の側に立つかは別として、そこに全員が参加してるかどうか。だから信頼関係が成り立ってるかとか、さっきの話の。そこが一番違うと思うのです、そこが一番寺山さんとも違うとこだと思うのです。寺山さんの時代には、そういった市街劇を、いわゆるスキャンダラスに行うことが一番意味があったんだと思うのです、制度の枠組みを壊すことが意味があったと思う。しかし、もはや壊すだけでは全く意味がない。それを壊したうえで、それが新しい都市の市民社会の中に、市民生活の中で、有効に表現されるかどうかのほうが、実際に面白いです、その手続きのほうが。壊すことなんてそんなに面白いことではもはやないんです、それはだって、オウムが出ちゃった以上、もう壊すことはそれほど面白くないです。何でも壊せるんだということは、もはや明らかになって、都市の機能なんてそれほど大したことはないということも明らかになっちゃったわけですから。神戸とか見たら、もう壊すなんていうことは、そんなに楽しいことでもクリエイティブなことでもないということは明らかになってしまったんです。
そうではなくて、例えば、保健所も消防署もだまして、どうやってそういうものを組織的に実現していくかということのほうが、クリエイターとしては全然興味があるんです。だからいま僕は行政と積極的に付き合っていくのも、すごくその瞬間にクリエイティブなものを感じるからなんです。くだらないこともたくさんありますけれども、そこまで含めて表現だという感じになってきているんです。それをどうやって整理させていくかと。
見城 恐らく普通に考えれば、寺山さんの劇というのは、コンストラクティブというか、クリエイティブというか、それで平田さんの劇というのは逆にそういう波がないという意味では、コンストラクティブでないというふうなイメージがあると思うのですけど。でもいまのお話を聞いてて思うのは、寺山さんはディコンストラクティブであったんでしょうけど、コンストラクティブという面からいうと、それは時代的な制約によって制限があったと思うのです。それを考えると、いままさに平田さんが日常というものの中に内在しながら、汲み上げるというか、それをあえていままでだから目の前に、これまでもずうっとあったものをもう一回、だけどさっきのことばでいえば、見えていない、見過ごしてる、見なかったことにしているものを、もう一度目の前に提示するというほうが、すごくコンストラクティブな試みなんですね、それは面白いです。
平田 だから僕、別に外見も普通というか、しゃべってるぶんには普通じゃないですかというか、(笑)ちゃんとしゃべって、少なくともなんかアングラの人とか、そういう感じではないでしょう。それ目茶苦茶じゃないかという感じではないと思うのです、一応ちゃんと、一応市民社会のボキャブラリーで僕は話していると思うのですけど。それで、そこが何かアングラの人たちから見ると変な感じがするらしいです。なんでお前そんなんで演劇やってるんだと。
見城 そんなにノーマルな。
平田 そうそう。だけど僕の感じからいうと、それは表現上で出していけばいいことなんです。しかもそれを売り物にする必要はないわけです、それはわかる人にだけわかればいいわけで、例えば、この間2本立てやりましたね、あれ30人役者が出てるわけです。ある種相当な訓練を積んだ役者が30人いて、組織化されて動いているわけです。あそこまでいくのに10年かかってるわけです、これものすごいエネルギーというか、ばかみたいですよね。だって儲かりもしないのに、そんなことに人が集まってきて、もちろん離れていく人もいて、だんだんと補充されていって10年。だから芸術というのは結局、いくら理屈こねてても実現しないと意味がないので、それにすごい時間かかるんです。小沢征爾がボストンに入ったときに、ボストンの栄光を取り戻すまでに10年かかるといったんですけど、オーケストラもまさにそうです、10年ぐらい大体かかると思うのです。
それが実現できるかどうかが問題なんであって、どんなに豊かなイメージを持っていても、演劇の場合にはそれが実現できるような集団を組織化して、実現しないことにはだれにも相手にされない。そこのところのエネルギーが大事なんであって、そんな普段の生活でどれだけばかみたいになってるとか、この間も太田省吾さんて、60年代からずっとやっていらっしゃる方がずうっといってたんです。あの頃は病気自慢と孤独自慢しかしてなかった。
見城 あと貧乏自慢です。
平田 そうそう、自分がどれだけ病気かということと、どれだけ自分が孤独かということを競い合ってるという感じで、それはもはやいまは90年代には全く意味がないです。
高本 先程平田さんの芝居を観て感想を書くと「私は好きです」というのを、わざわざ「私は」というのを入れているというのは面白いと僕は思ったんですね。例えば、「私はピーマンが嫌いです」というのはいうことができると思うのです。そのとき、ピーマンがなぜこの人は嫌いなのかというのを、ちゃんと説明することというのは、その本人においても難しいことだと思うのです。もちろん何らかの動機があったり、きっかけがあったりしたかもわかりませんけども、じゃあそういうきっかけがあればみんなピーマンが嫌いになるかというとそうでもないし。それからピーマンというのは非常に有効な栄養素を含んでいて体にいいというのを、一方では知的にはわかっていても、でもなおかつピーマンが嫌いだともいえると思う。ピーマンが嫌いだということは非常に自由である。ところが、例えば、それを渋谷のホームを歩き回りながら、「私はピーマンが嫌いです」といったら、これは何か違うと思う。一方でなにかおかしいと思われる場合と、一方では、あいつは何かやってる、例えば、何かカネをもらってピーマン業者を追い込もうとしているとか、何かそこに企みを感じてしまう。
平田さんが先程おっしゃった演劇の部分というのは非常によくわかるんですけれども、例えば、地球全体5分間演劇タイムとか、お葬式ごっこも当事者が参加すれば認められるんじゃないかというのは、一方ではちょっと危険な部分がある。それはどういう危険さかというと、例えば、寺山修司はアナーキズムだ、あれはアングラだといえる。しかし、民主化といわれているのが、例えば、美の観点で一人一人に美の基準があっていいというところにいくんだったら、一方ではデモクラシーだけれども、一方でアナーキズムたり得るわけですね。例えば、地球全体を5分間演劇タイムにしましょうと国連総長がいったときに、なんてアナーキストだと思う人もいて、参加しない自由というのがそこに生じてくるだろうと。たとえ国連総長がいったからといって、みんなそういうふうに従うはずはなくて、むしろ参加しない自由、例えば、それは学校制度でいうならば、学校にいかない自由ですね、平田おりだの演劇を見ない自由というのも、一方ではあり得ると思うのです。そういう全体、全員参加がもし平田さんのデモクラシーの一部にあるとしたならば、それはもしかすると全体主義に。
平田 そうじゃないです、制度としてそういうものが可能であるということの前提には、参加しない人もいるだろう。しかし、5分間は演劇であるということだと思うのです。それから、当然その過程は、こんな話しててばかみたいなんですけど、その過程では当然、いや、おれは5分間演劇には反対だと、反対だけれどもいまどうしても必要ならやろうじゃないかと、消費税と同じですね。いや、5分間は長いから3分間のままにしておこうとか、(笑)いろんな論議があって5分間になるんだと、そこが大事だと思うのです。
高本 そういう中で、そういう時間が確かに一人一人が認められたり、あるいは社会の中の価値観が多様であるということを認識したりするのに役立つという点では、そういうのを癒しの側面、癒されるという側面だと思うのです。メディアというのは、前回もその前も少し出しましたけれど、ただ単につなけばいいという問題ではないと。いまよく問題になっているのは、例えば、インターネットでいろんな画像が出てきて、うちの子どもにはこんないやらしいの見せたくないわとかいうのがあって、そこにフィルタリングをあらかじめ設定しておくというのが出てきますけれども。そうすると、ただ単につなげはいいという問題ではなくて、そこから、例えば、良いものをとか、善なるものをとか、美なるものをというのが、どうしてもここにもすでに入ってきてると思うのです。そうするとそれをうまく取り結ぶ調停者としての側面がなければ、一方においていまのメディアというものが、劇場も含めて、インターネットのようなものも含めて、卑しいメディアだと見る人がいるわけです。それが卑しさだけではなくて、癒しのメディアになるためには、何らかのそれをリードしていく人が必要である。それが先程平田さんがおっしゃつた、例えば、見えない部分を見せていく人が必要になるということと同じだと思うのですけれども。
演劇というのは離れて、それ以外のメディアにも含めていくと、そういう役割というのを、例えば、芝居を作る人というのが担い得るのか。もう少し端的にいうと、平田さんが例えば国会議員にならないのかというような。(笑)
平田 ならないです。
高本 なぜじゃあならないのかというようなことも。
平田 それは女房に離婚されちゃうから。(笑)
高本 そのアナーキズムかデモクラシーかというので、例えば、ギリシャにプロタゴラスなんていうソフィストがいて、「人間は万物の尺度」だみたいないい方をしますね。前回僕の資料に出てきたジョン・ロックなんていう人も個人個人の感覚に基づいて、経験に基づいてというところから、近代民主主義みたいな三権分立だとか、信教の自由だとかというのを語ったわけですけど、そういう一種の相対主義ですね。長く相対主義というのはあんまりよろしくないものと退けられていましたけど、平田さんの考え方というのは、大きくいえば相対主義的なものだと思います。
平田 そうです、まさにそうだと思います。それは集団論なんかにしても全くそうです、僕はだから美というのは強い権力性を持つので、それを回避する装置をシステムとして、集団論の中に組み込んでいかなければいけないと思ってますから、それは政治システムも同じです。それからメディアも同じです、常にそれはものすごい権力性を持つので、真や善に比べても、さっき説明したように、ものすごい権力性を持つので、だからそれをシステムとしてその権力を分散することと、それから腐敗しないようなシステムを早急につくっていかないといけないと思いますね。
小林 この前平田さんの劇を観にいって、暇な時間があって随分高本さんに聖書学の講義をされられたんだけど、僕はゴリゴリのカトリックですから。それで一つ思ったのは、劇の話で、受難劇というのがあるんですけども、『聖書』って『福音書』って4つあって、『マルコ』『マタイ』『ルカ』『ヨハネ』とあるんですけど、その前の3つを教会福音書(?)というのです。その3つの部分の『福音書』は非常に共通したところが多くて、『ヨハネ』は全般的に少ないんです。ところがイエスの受難に至る過程の部分というのは、『ヨハネ」も共通しているんです。そのことからどうも『福音書』の成立よりも以前に、その受難劇という通り、読んでみても非常に演劇性が強いのですテクスト自体が。そのことから『福音書』の成立以前に、受難劇というのは巷間に流布していたんじゃないかというふうなことをいう聖書学者がいる、たぶんそれは正しいのではないか。もちろんその流れの中に、バッハの《受難曲》とか、ペンデルスキーとか、いろんな人が受難劇書いてるわけですけど、そういう受難劇の流れというのはありますよというのが一つです。
それから、さっきの作者の側と見る側という話のところで、ハイパー・#
テキストのことを考えたわけで。ハイパー・テキストというのの本質というのを考えていったときに、いったい情報量ってどうなるのという問題があるんですよ。要するにどう考えてもシャノンという情報理論をつくった人がいますが、シャノンの情報理論で考えると、小説よりもハイパー・テキストのほうが情報量が少ないです。それは要するにシャノンは熱力学のエントロピーを援用して情報の話をするわけですけど、秩序立っているもの、誤解の可能性の少ないものというのは情報量が高いというか、情報の伝達ということを考えられるけど。そこで情報の欠損が少なければそれだけいい情報というか、そういうふうなとらえ方をするわけです。
ところがどう考えてもハイパー・テキストというのは、受け手側にいろんな選択肢を残してしまっているから、情報としてのエントロピーは高いんですよ。そのことが僕はなんでそうなってるのかなあということを随分考えて、どう考えても僕らの側から見ると、多様の読みを可能にしてくれるテキストのほうが、豊かで情報が多いと思うんだけど、シャノンの理論でいくとそれが逆になってしまう。そのことを一つ思ったんです。
それから、ここのところでもう一個あれすると、1年以内前だと思いますけと、「現代思想」に三宅なおみさんて認知科学者が、インターネットの特集のときに、「ウェブのホームページって何?」みたいな話を書いてて、これもこの前高本さんと暇にあかせて話をしてたんですけど、普通はいままでの表現というのは、ブロードキャストって一番わかりやすいし、バブリケーションでもいいわけだけども、自分が思ってることを人に対して伝えていくといううか、そういう方向性がありますよね。「これ読んでください」と、平田さんもこれを僕らのほうへ配ってきて、ものがこないと僕ら読めなかったわけです。ところがどうも三宅さんにいわせると、いまのホームページを作る若い人たちの感覚というのは、見てくれというふうな、ざあまあみろ、見ろよみたいな、そういうふうな雰囲気ではなくて、もっとひっそりしてるというか、何となく読まれなくても構わないけど、こうやって表を向けて置いておくと、それを見にきてくれる人がいればそれはありがたいことだけれども、見られなくても仕方がないというふうな、そういう何か変化が起こっているというのです。それもさっきの平田さんの一番最初の、現代的な演劇、その枠組みの話として思い付きました。
もう2つぐらい、あと、さっきの脳の話で見えなくなるという話で、僕ものすごく印象に残っていることがあって。大江健三郎さんの息子さん、大江光、大江親子を僕軽井沢で見掛けたことがあるんです夏、その見え方というのがちょっと僕としては何かものすごくショッキングな見え方をしたんだけど。大丸屋というスーパーみたいなマーケットみたいなのがあって、そこに買い物に車でいったわけ、それで駐車場に車を入れようとしたときか、出ようとしたときかな、パッと入ってくるのがまずヘテロなものが存在するなというのが入ってくるんです。これは結構不幸なことだけれども、異常な人ってわかるじゃないですか、瞬間に、あっ、この人何かおかしいな。そういう形でまず、自分たちが存在がいるなあというのが視野にはいってきて、そのうえで、あっ、どっかで見掛けた顔だなと思って大江光だなと思って、そのあとで見るとその横にお父さんの大江健三郎がいるっていう構図なんです。そのこと自体がものすごく僕にとっては、いわば印象深かったんですけど。その大江光の音楽を聴いてみると、全くモーツァルトなんですよ。僕はだからその時点で何人かの人、その時点というか、その頃大江光のCDを聴いたりなんかしているし、それから彼ら親子のドキュメンタリーを2回くらいNHKが追っかけてやったとか、そういうのを興味深く見てたんだけれども、大江光の音楽というのはモーツァルトだなあと思っていたんです。たぶんモーツァルトは何か犠牲にして、大江光が犠牲にして得たものと同じようなものを犠牲にして、モーツァルトの音楽を得たんだろうなと思ったんだけれども。いまの平田さんの話で、モーツァルトの脳に欠損があったとかという話は本当なんですかと。
平田 それは相当いろんな代表的な学者がいってます、それは僕がいってるわけじゃないんで、事実はわからないですけど、分析ではそういう説は僕は複数読みました、3つぐらい。
小林 それはだから、僕の直感と合うんですごく。
平田 もし何かあればあとでお送りします。
小林 かなり興味ありますね。それとさっきの、切れ切れという話は、時間の感覚にものすごく関係すると思うわけで、モーツァルトいうのは、瞬間に音楽を理解してたとやっぱりいいますね。瞬間にというのは、普通僕ら音楽を考えるときに、時系列に沿って考えるしかないわけで。ベートーベンなんて、例えば、《運命交響曲》を作曲したら、どんなに短くても35分なら35分ベートーベンは絶対必要だったと思うわけ。だけどモーツァルトは60分の《レクイエム》にしても、ほとんどそれを一瞬で頭の中に、だから時間の流れではなくて、ある種、別な次元のものとして認識してたんじゃないかというふうないい方をする人もいますね。
平田 それは作家でも時々いて、さっきいった畑正憲さんとか、村上龍さんなんかもそうらしいですけど、最初に原稿用紙が映像として浮かぶ、#
畑さんなんかは、最後まで。それであとは書けばいいと。ただ、その状態になるまでが大変なんで、1週間麻雀をしたり、それは大変なんだけど、それじゃあまり不健康なんで動物と遊ぶようになったんだというのですけど。(笑)
高本 プログラマーの話でそういうのありますね。ソースコードを書く前に、もう仕様というかそういうものがすべてもうわかってしまって、それをあとつむぎ出していくだけなので、天才プログラマーという人は比較的バグが少なくて、最初から完成度の高い、しかも新しいものができていくという。
小林 雑談になっちゃうけど、その話と、でも同じかもしれない、要するに優れたプログラマーというか、ぼくも一時優れた時期もあったわけで、(笑)その語法がわかっちゃうんです。あっ、こういうことをやりたいなと思うと、もうあとはそれを書き下だしていく部分については、自分の中にそういうまさにレトリックがあって、それをことばにしてくだけというふうなことなんです。そのこととモーツァルトの時間感覚というのは、ちょっと違うような気がするんです。
高本 あとは夏目漱石の『夢十夜』の第何夜かに出てきますけど、運慶だったか快慶だったか、要するに木を彫って仏を作るのではなくて、仏が出てくるというような話ですよね。そういうようなやっぱり比喩的に語られてきた芸術家の持ってる一つの側面というのは、確かにあると思うのです。作られた成果というのは、現実世界に残すために楽譜であったり、仏像であったりというマテリアルな部分だけれども、その芸術活動というのはじゃあマテリアルというプロダクトをつくっていくことかといわれると、やっぱりそうではない側面を期待しているからこそ天才だとか、いろんなことばを冠して呼ぶんだと思うのです。同じものを作るのでも、時間をかければ普通の人だってできるかもしれないけど、そこにない何か霊的なもの、スピリチュァルなものというのが、しかも時間をかけてではなくて一瞬のうちに出てくるという一つの天才期待感みたいなものも、一方にはあると思うのです。だから必ずしもぼくはモーツァルトの例というのは、検証ができないからこそ、むしろ伝説として語るに相応しいもの。
例えば、大江光さんの例だと、大江健三郎の『新しき人よ眼ざめよ』の小説の中に、脳の検査を受けて、それがどういうようなことで、そしてどういうような癒しを発見していくかというところまで語られていますね、非常に鳥の泣き声をよく覚えてというようなところ。そういう一つの新しい、われわれはほかの人も自分も、同じ認知機構を持っているという点で#
は信頼をしているわけですが、一人一人の違いになかなか目を向けていかないので、さっき小林さんがいったように、ほかの人、異常な人だという直感が小林さんのほうに働くといったけれども、大江健三郎が語っている話だと、それは普通の人がこの子が異常だと感じる以上に、光さん自身が、あっ、そういう目で見られているというのを非常に強く感じている。だから電車の中でもパニックに陥るということが何度もあるんだ、というような話をされてました。それはそういうことに関する感覚の鋭さですよね。
自分自身も、僕なんかもつまらない人間ですが、人と同じであってほしいという願いと同時に、人とある部分は違っていてほしいという願いもまたあるように思うのです。だからこれが実は重要な点で、人間と人間は同じなんだという側面と、人間と人間は違うんだという側面を、いかにバランスよくいうか、それを何かバランスを崩してしまうと、ある人にとっては民主主義なんだけど、ある人にとってはそれは破壊主義だとかということにされてしまうかもしれない。そのあたり、僕はできるだけさっきの平田さんの丸くじゃないですけど、世の中丸くあったほうがいいと思っているんです。丸くあるためには、一人一人の違う部分を問い直したり、ほかの人がどう違うのかというのを常に検証しなければいけないと思いますから、だから必ずしも最初から丸いのではなくて。
平田 だからこれはさっきのヨーロッパのメセナの話の続きですけれども、だからそういうものを社会の中で機能として、私たち普段の生活はできるだけ丸く収めたいと。そのためにこそ人為的に芸術という行為を通じて、別の世界を見ておかないと、シミュレーションしておかないと、危機管理能力がなくなっちゃうわけです。だから若い人が新興宗教に走ったり、だまされたりというのは、そういう危機管理能力が欠如しているわけです、簡単にいえば。それは別の世界を見てないわけです。そのときに何か疑似的に別の世界を見せられてしまって、そっちに走っていってしまう。だから丸く収めるためには、本来自分で丸く収めていかないといけないです。それが他律的に丸く収められてしまうと、これは非常に危険である。それはだからその社会の中で、かつてはさっき見城さんもおっしゃられたように、そういうことを考えなくてもいい人が大半だったわけです。世の中の95%の人はそういうことに無自覚であって、あとの5%が社会についてとか、歴史について考えてればよかったわけだけれども、いまは全体が世界について考えなければいけないし、歴史についても考えなければいけないような社会がもはやきてしまったと。成熟社会というのはそういう社会だ、だとすればそのための訓練として、子供のときから優れた芸術に触れて、自分と異なった価値観というものを許容するような人格を形成していこうというのを基本的に考えるんです。
小林 平田さん、さっきから僕すごくびっくりして聞いているんですけど、村上陽一郎さんと何か話をされたことありますか。
平田 直接はないです、一応僕ICUの先生ですから、知ってはいます。
小林 あのね、ものすごく驚くのは、この前、高本さんきてたっけ、認知科学会のレクチャーで、村上陽一郎さんにここで話をしてもらったことがあるんですよ、そのときに彼がテーマにしたのが、共約不可能性という、さっきのインコメンシャビリティー、その話をして、いくつかのテーマの話をしたわけですけれども。簡単にいうと翻訳の話で、「白足袋を穿いた紳士」というのを、何か小説の一節があって、それを翻訳するときに、「ジェントルマン・ウイズ、ホワイト・ソックス」じゃなくて「ホワイト・グラブズ」というふうに訳したと、これは名訳といわれているらしいです。例えば、「白足袋を穿いた紳士」というのを「ホワイト・ソックス」とやっちゃうと、何か青二才というふうな雰囲気になって全然意味が違う。しかしそれは名訳だといわれているんだけど、村上さんにいわせると、それは実は全然別なものだ、翻訳でも何でもなくて別な表現をしたことになるんだという話が一つです。
それからもう一つ例を挙げたのは、彼は科学者ですから、クーンのパラダイム理論を援用するんですけども、古典力学というのがあります。古典力学というのは相対性理論によって一応克服されるわけです。しかしよくいわれているのは。相対性理論が出てきても古典力学が当てはまる範囲では当てはまるものであるから、それはそこで生き残ってるといういい方をするんだけれども、村上さんにいわせると、相対性理論が出てきたあとの古典力学というのは、もはや相対性理論以前の古典力学ではない。そこの間にいわば共約可能性というのはないんだというふうな、そういうふうな話をしているわけです。そういう話の流れの中で、かれは徹底的な相対主義にいかざるを得ないという論を進めるわけです。びっくりしたのは相対主義になったときに、じゃあお前はナチスを認めるのかと、オウムを認めるのかというふうな話になったわけです。そのつながり具合までよくわからない、もう少しゆっくり村上先生からうかがいたいと思うのですけれど。
最後相対主義が、しかし、ナチスはだめだと拒否すると、それからオウムも拒否するというふうなことができるとすると、それは自分の主張と違うものがあるということを認めるか認めないかと、その相手を認めると平田さんおっしゃったのは、そこの部分の一点になってしまうというふうなことをおっしゃるわけです。全く僕はだからそれ、いまの平田さんの話と村上先生の話というのは、同じ問題同じような形で話してると思って、偶然とは思えない。
平田 それは偶然ですね。
小林 これが偶然であるとすると、僕はその次どうなるかというと、時代が引き起こす偶然というのはあるわけで、そういう何かある種のそういう考えにいかざるを得ない必然というのは、いまの世の中にあるのかなと思うわけです。びっくりするぐらい。
高本 僕の考えでは、要するに一人一人の自由を認める、個の自由を認めるということは、結局ある意味では破壊活動も認めることになるわけなんですね。だからそれはアナーキズムなんです、基本的にはアナーキズムを認めるということになるんですね、最大限認めるということ。しかし、そこにいわばデモクラシーみたいなものを取り込もうと、そういう何か一つの思想的枠組み、これが救いなんだというのを期待するためには、何らかの神話が必要だと思うのです。僕はそれは神話的な共感世界というものを、これが描けるかどうかによって、一人一人が全くバラバラな、得手勝手な方向にいくか、それとも何らかの共同体意識というものが、稀薄であるかもしれないけど維持できるかというところに、そのせめぎ合いがあると、それは結局つながってるという意識というふうに最初いいましたけれども。
例えば、小津安二郎の映画なんかもそうだと思うのです。メッセージ、せりふが何かを伝えているのではなくて、せりふがやりとりをしているということが何かを伝えていると。そういうのはたぶん『東京ノート』の椅子の話なんかにも平田さん語っていたことを、僕が取り込んでいるのかもしれませんけど。そういう何かメッセージの情報内容からは、一定の距離を保ちながら、舞台の登場人物の相互のやりとりの世界、これが描かれている。そうするとせりふのやりとりの中から、見えないところでつながっているという認識が、やがて観客のほうにもそれが溢れ出していく。そこに構成されるのがいわば芝居的な世界、それは神話的な共感の世界で、それは静かではあるけれど、かなりはっきりとした形で感動が立ち現れてくると思うのです。それはこの前の北限の猿の最後、ラストシーンと呼んでいいのかどうかわかりませんが、そこでの思い、重いけれどもちょいと救いがある感動。あるいは『東京ノート』の美術館のロビーでしたっけ、あのラストシーンの、何かわからないんだけれども、確かにそうだ、生きてるというのはこういうもんなんだというような実感、それは、人生ってこんなものかって、突き放すのではなくて、ああ、自分の人生をもう一度引き受けてみようかというところに通じる実感だと思うのです。そういうのは結局人間が生きている、そのやりとりの中、舞台の中で生きている人間のやりとりの中から感じとられる、私もその中の一員だという。はっきりとした目に見える形でつながっているんじゃないけれども、何かつながっているんだという実感だと思って。それがやっぱりメディアというものが、広い意味でのメディアですね、もっている癒しの機能というのは、そこになくてはならないんで、それが孤立していく、何でもいいんだ、何でもつながるんだから何でもオーケーなんだではなくて、何らかの共通した基盤というものを求めていく。
そこにさっき小林さんがシャノンの情報理論の情報量の観点を持ち出してましたけれども、静的、客観的にとらえる情報の量と、主体的にとらえる情報の量の違いがあるとすれば、そのリンクにどういう情報の価値をもたせるかによると思うのです。AとBという静的な情報があったときに、それをどういうダイナミズムでとり結ぶか。つまりAとBとの間のリンクですね、その情報を測る概念というか、測る観点というものをいままでのサイバネティックスの計算法では取り込んでなかったんじゃないかと思います。
小林 あとで本一冊お貸ししますけど、引用の関係の話が、昨日、一昨日とわが家でやったのは、愛情表現ということばが流行っているんですね、息子がくだらない駄洒落をいって、頭にくるから僕は殴るわけ。殴るときに愛情表現といったら、それをわりと次男がそういう異常なわけですけど、変な駄洒落というかことばの感覚があって、その言葉をパッと浮き上がらせちゃって、それから何かあるともうすぐポーンとつついて、愛情表現とかね、蹴っ飛ばして愛情表現とか、すごい昨日、一昨日わが家で盛り上がっていたんだけど。そこで何が起こってるかというと、やっぱり#
さっきの5分間演劇じゃないけど、そのことばをある種の、新しい意味を付け加えて、それをもて遊びながら家族の間である種のコミュニケーションをやるみたいなことが起こったのかななんて思って。
高本 同じ物理的な刺激というのが、一方で愛の鞭にもなり得るし、一方で憎しみの鞭にもなり得るんです。こちらは愛の鞭のつもりでやってても、相手のほうはもうそれを一生根にもって。この前何かおばさんいましたよね、高校のときの教員の、そのときに何か随分なこといわれて、その息子がどっかの社長か何かしているんで、そこへ無言電話を掛け続けて、で、逮捕されていたというのがありましたけど。そういうのって非常に難しいですね。一方から判断できることと、もう一方から判断できることというのが、いままでの、例えば、さっきシャノンの話が出ましたけど。通信理論が描く、チャンネルがあってその間をコードがあって、メッセージがそこで走っているというような理論だと、要するに発信者側のメッセージというのは受信者側に誤りなく伝わるという理論だったわけです。さっきの情報量の計算というのもそれに基づいているわけです。ところがそうではない部分というのは、平田さんがさっきからずっとおっしゃっているように、受け手側が持っている一つの独自の解釈というもの、そこに自由を認めなくちゃいけないということになったら、従来のコード理論だけでは十分太刀打ちできないわけです。そうすると情報量の計算というのも、当然それを乗り越えたものが要求されてくるだろうと思います。
平田 いろんな話が出たので、簡単にあれします。一つは、最後に高本さんがおっしゃっていただいたように、やっぱり何だかんだいって、表現するということは、生を肯定していると思うのです。情緒的にいえば、人生は苦しく厳しいけれども、捨てたもんじゃないよというところがなければ、表現なんかしないと思うのです。それが大前提としてやっぱりあると思うのです。たぶん信頼関係とずっといってきたところは、そこだと思うのです、そうじゃなければ劇場にこないと思うのです、自分の人生を何らかの形で豊かにしたいと思わなければ。それは単純に元気づけてほしいとか、そういうことではないけれども、しかし何か考えてなければこないですわざわざ。
見城 その場合の共感というのは、自分というものがあって、つまり劇場に集まってる人たちが、自分というものを持ったうえでの共感というよ#
りは、むしろ一回、つまり共感の最小限の単位である自分でさえも、実はその中に違和があるという、そこまでいったうえでの、つまりいってみればどうしようもない宙ぶらりんの状態に対する共感というか。
平田 だってそれは僕自身がそうですから、例えば、『ソウル市民』という僕の代表作で、これは1909年のソウルに暮らしている日本人一家の話、明らかに差別の話を書いてるわけ。それはずうっと差別的な話をするわけです家族が、朝鮮人の使用人とかに対して日常会話の、同じような調子でずうっと世間話をするんですけど。当然その当時の話をリアルに再現するわけですから、もうことばの端々に、来年から同じ国になるんだから、朝鮮人もちょっと考えてもらわなきゃ困るねとか、そういう話をずうっとする。その作るということは、当然差別はいけないということはあります、僕の中に、しかし差別をしてしまう私というのも当然入ってるわけです。そして差別をしてしまうくせに、してはいけないと思ってる私というのも当然入ってるわけです。それを表現しようとしている私というのも、その作品の中にもうすでに取り込まれて入ってるわけです。そこに観客も当然入り込んでくるわけです、で、その多様性と宙ぶらりんの中で、自分の座標軸をどうにかして、少しでも定まった形にして人生を先に進めていこうという営みだと思うのです。だから非常に小さい営みだけれども、これは大事な営みだと僕は思っているんです。だからそんなはっきりしたものではないし、非常に機能的ではないけれども、そのことがかえって非常に機能性の強い現代社会においては大事なんじゃないのかというふうに僕は思っている。 それから、一つだけ、美術とか音楽と違って、演劇は相当複雑な作業なんで、情報量の話でいうと、いろんな見方ができて、いままでの話とちょっと逆に思われるかもしれないけど、ある部分に関しては相当論理的にできるんです。ある部分に関しては相当共有できる部分があるんです。例えば、リアリティーとは何かということをよく聞かれるわけですアマチュアの演劇の方に。僕はリアリティーの8割は確率だと思っているわけです、非常に単純なんです。例えば、1時間半の芝居で、同じ登場人物が4回トイレに立ったらリアリティーないです。2回でぎりぎりです、1回かゼロなんです、これはただの確率です。極端に確率の低いものを舞台に出したら、それはリアリティーがないです、脚本の上で。だけれどもリアリティーを高める工夫というのもできるんです、これも論理的にできるんです。例えば、トイレに立つということでいえば、秋風が吹き始めた夏の終りの札幌ビール園だったらば、4回立ってもいいわけです、確率が高まるわけです。確率を高める方法もあるわけです、これを技術として持ってるかどうかが、プロとアマチュアの差なんです。そこは僕は論理的にできると思うのです、僕は演劇の8割は論理的にできると思うのです。プロかアマチュアの差かというのは、残りの2割で逸脱できるかどうかだと思っているんで、そこのところは8割は僕は今日の話でいくと、8割は僕は共通のものというか、共通認識ができると思うのです。人間はそんなには違わない、しかし違うところが大事だということです。そこのところの、僕は8割の部分に関しては徹底的に論理化したいと思うのです、そうじゃないと残りの2割について語る資格がない。
だから論理化しなければ生きていく資格がないけれども、残りの2割の逸脱を語らなければ生きている意味がないという、そいふうにいえると思います。大体こんなところで。
(了)