注意! 内輪の会議の記録ですので、引用は厳禁です。NO ROBOT

「デジタル時代のことばと社会」研究会10月

私たちが使っているのは誰のことばなのだろう?

―「言語抑圧」と「解放の言語学」―


高本條治

目次

1-1 相互理解という誤謬
1-2 ことばの「構造」と「解釈」 3
1-3 Whose Language 4
1-4 言語弾圧 バスクの杖 5
1-5 言語抑圧 6
1-6 世界をことばにする 8
1-7 トンネルの出口を示す明りは見えるか? 9

2 討議 コンテクストをめぐって 11
2-1 語用論の領域 11
2-2 コンテクストとは何か 11
2-3 受け手と送り手の交替 15
2-4 コンテクストを説明する 16
2-5 共感と連帯って? 19

3-1 エイズ撲滅運動が撲滅するもの 20
3-2 ネ・サ・ヨ運動 22
3-3 ネ・ハイ運動 24
3-4 様々なネ 27
3-5 助詞を無理に無くした結果? 28

4-1 正しいことばを指導する 30
4-2 湘南ことばの逆襲 34
4-3 日常のことば、思考のことば 35
4-4 言語の文化侵略 37
4-5 会話のつなぎことば 38
4-6 差異の認識の仕方 42
4-7 厳然たる言語の力関係 45
4-8 言語を学ぶということ 46




 高本 前回というか、その前からもそうなんですけれども、社会とこと ばとの関係ということで、ここに持ってきました資料のうち、2ページ目以降が、前に日本プラグマティックス学会という小さな、やがて大きくな るであろう小さな研究会があるのですけれども、そこのところで少し発表したものが、そういうテーマと関連があったもので、それを一部流用とい う形で持ってきました。タイトルとしては「私たちが使っているのは誰のことばなのだろう」というこのタイトルは、あとで出てきますヤコブ・メ イ(Jacob・Mey)という言語学者の立てている(whoselanguage)という問いを敷衍したものになっています。


 1-1 相互理解という誤謬

 1番のところに、何度かこの席でも言ったことがあるのですけれども、 われわれは本当にコミュニケーションを行っているうえで互いに理解をしあっているのかという、このWHETHERという問いが従来あまり問われて なかったと、こういう指摘はテーラー(Taylor)という人が『MutualMisunderstanding』という本の冒頭のところで問いかけをしています。従来 は、WHATとか、HOWという側面が中心課題とされてきた。テーラーはジョン・ロックの主張をそこで引用してまして、ジョン・ロックは「二重 の一致というものをわれわれが無意識のうちに仮定しまっている」という、そういう誤謬を指摘しています。それは(1)(2)と書きましたけれども、
 (1)表象の一致
 自分の考えは、当然、自分が考えている当の事物と一致しているものと 信じている。

ということで、例えば、僕が小林さんのことを頭に思い浮かべると、それ は自分が思い浮かべたものは小林さんそのものなんだというふうにどうしても考えがちであると。
 (2)間主観性の一致 
自分がある言葉によって表明した考えは当然、他の人が同じ言葉によって 表明する考えと一致しているものと信じている、というもので、これも例えば、あの人はこうこうだというその判断を誰かが口にしたとするなら ば、同じことばを口にした人は、自分と同じことを考えているというふうに見做しがちだけれども、そういう二重の一致というのは本当に保障され
ているのかというと、これは保障されていないのではないか、というよう なことがジョン・ロックの主張です。

 そこでそうすると、相互理解というのは多くの場合あやふやなものとい いますか、危ういものになっていくわけで、それがいま僕が一番関心をもっている「相互不達」と僕は呼んでいるのですが、ディスコミュニケー ションの問題につながっていきます。


1-2 ことばの「構造」と「解釈」

 僕はディスコミュニケーションを考えるうえで、どういう枠組の中に自 分がいるというふうに自己認識しているかというのが2番にかかわりまして、これはデービット・クリスタル(David Crystal)という言語学者が語用論(pragmatics)をどういうふうに位置づけるかというところで使った模式的な図なんですけれども、言語というのは従来の言語学が中心的な関心と してきたのは、ストラクチャー(structure)、構造のほうだったわけですけれども、その中には音韻論とか音声学とか文法とか意味論というのが含ま れています。ところが言語にはそれをいかに使用するかとか、あるいは使用実態、使用意識みたいなユース(use)にかかわる側面があって、構造と ユースをどういうふうに結び付けるのか、これがプラグマティックスという分野なんだと。僕もこの考え方概ね受け入れておりまして、自分自身を こういう位置に位置づけようとしています。

 そうすると人間がことばを使うというときに、二つの条件が絡んでいる だろうとずっと思ってまして、それは一つは、個々の人間がもっている認知的な条件、内的な条件と言ってもいいと思うのですけれども、これが一 つあるだろうと。もう一つは、社会的な条件があるだろうと、これは外的条件と言ってます。そのプラグマティックスは内的条件と外的条件の両側 面をみなくてはいけないのではないか、という問題意識をもっております。

 『岩波国語辞典』の意義記述を出しておりますが、そのうちの注目した いのは「構造」のほうではなくて「解釈」のほうなんですけれども、その1番目のところに、なかなかいい意義記述だなあと思っているものなんで すが。「文章や物事の意味を受け手の側から理解すること」と、さり気なく書いてあるんですけど、僕はこの解釈というものを考えるときに、受け 手の側からという条件をかなり重要であると、こういうように考えております。言い方を換えると、発信者の側が受け手の側に期待した解釈という
のは、必ずしも満足されるとはかぎらないということを暗示していると思 います。

 2ページ目のほうに移りますけれども、ここからは大学の演習みたいな 感じなんですが、ヤコブ・メイの「プラグマティックス」という分厚いイントロダクションがありまして、その中の一番最後の章が(“Societal Pragmatics”)という「社会的語用論」というタイトルになっています。その内容を、ポイントを羅列している資料が続くわけですけれども、ここで 主張されていることというのは、これはMey自身の考え方なんですが、しかし僕もかなり共感できる部分があるのは、「語用論」というのは先程も 言ったように、認知的な部分も取り扱うんだけれども、言語使用の社会的条件についても、十分考えなくてはいけない。そこで、Societal Pragmatics、SocialPragmaticsではなくて Societalということばを使っているのは、社会を全体としてあるいはダイナミックなものとしてとらえるという含みをもたせてSocial PragmaticsではなくてSocietal pragmaticsと呼んでるようなんですけれども、こういう章があります。

 その2ページ目の左の欄のちょうど真ん中あたりに、 Meyの問題意識の行き着くところとして挙げてありますが、太い字のところです。「私たちは「誰の言語」で話しているのか、また、なぜそうしているのか、という 永遠の問いかけ。」これがマクロ語用論の問題意識の行き着くところなんだ。


1-3 Whose Language

 この考え方自体はMeyという人が1985年に『Whose Language』という本を出しているんですけれども、そこで提示された中心課題でした。この14章というところはこの問いをめぐってさまざまな観点から考察を進 めている内容になっています。

 主な論点を2ページ目の4のところから見ておきたいと思います。4. 1のところで、これは序論として「言語学と社会との関係」というのが書いてありまして、黒丸を追っていきますと、まず、

・語用論の位置づけ いま社会的感度の高い語用論が求められている。

・語用論の独自性 というのは、言語の使用者と、言語使用の条件に焦点 に置く。しかし、単に使用者との関係を問題にするだけではなくて、使用者の活動を可能にする条件要因である社会的コンテクストの中に使用者を きちんと位置づけなくてはならない。

ここの主張のところがいわば従来プラグマティックスを規定するときに、 言語とその使用者との関係という、記号学的な定義がずっと継承されてきたわけですが、使用者というのは社会の中にしか存在し得ないんだという ことを、積極的に明示している。

 次が僕としては注目したいところなんですけれども、

・語用論の思考パターン 語用論というのは時としてレジスタンス意識を 呼び起こすと、また、当初から教育関係者・社会学者の関心を引き付けてきたことは、その思考パターンに理由がある。

というふうに言ってます。Meyはまだその思考パターンが何であるかをこ こでは明示しないわけですけれども、これは一つかなり示唆的な発言だろうと思っています。(略)

・語用論の中核的問題 語用論的な決定子というのは姿を隠しているもの だと。社会構造と支配に関する隠れた条件に目を向けるこ と。

それが語用論の中核的問題なんだと、そうすると語用論が説き明かす社会 構造と支配に関する隠れたさまざまな条件があって、その条件を露わにすることによって、社会構造や支配構造のさまざまな歪みを日のもとにさら すと。

 そのときに中心主題になるのは、繰り返しになりますけれども、

・語用論の中心主題 「私たちが『われわれの』言語を使用するときに、私 たちが話しているのは、いったい誰の言語なのか」

こういう問いをまたここで新たに提示します。

4.2のところは教育の話です。これは前回のこの場でも出ましたけれど も、教育の問題というのは特権がからんでいる問題で、

・教育は誰のものか 教育の特権というのは、高度の教育制度を確立して きた社会階級に属する人々の手ににぎられている。

これは背景としてはイギリスの学校制度を念頭におきながら書かれている ものと思いますが、日本でも、例えば、学校へ行きたくないと思いつつもいかなければいけないとか、クラスや担任を自ら選ぶことができないと か、つまらない授業でもサボることは許されていないとか、というような背景には、やっぱりそういう一定の権力が優先的に何かパワーをもってい るということが言えるのではないかと思います。


1-4 言語弾圧 バスクの杖

 次に言語弾圧というのが出てきまして、

・言語弾圧 支配層は言語の使用の仕方をコントロールすることで、 住民 全体の将来をもコントロールするんだと。

 方言処罰の問題とか、「バスクの杖」というのは、バスク地方でバスク 語を使うと杖を持って立たされるんだったでしょうか、要するに罰ですか、ありますが、杖で殴られるんじゃなくて、その杖をずうっとある姿勢 で持たなくちゃいけないという罰だったと思います。そういうようなのがあると。日本でも方言札というのを首に吊るされたとかということ。

・言語使用の標準 「誰の言語が人々の言語行動をコントロールする規範と 指針であるのかを問う必要がある。

 僕前勤めていた大学では、昭和女子大学というのですが、「昭和のこと ば」というのがありまして、あることば遣いをしなくてはならない環境には、あることば遣いをするんです。それはかなりアナクロな、いわゆる女 学生ことばというのですか、そういうのがありまして、それを使わなくちゃいけなかった。もちろん私が使うのではなくて学生が使うのですけれ ども、それで私はこういうふうにことばがきれいになったかというと、そんなことはないんですね。


1-5 言語抑圧

 次に、言語弾圧と言語抑圧を区別してまして、

・言語抑圧 言語による隠れた社会的コントロール、弾圧ほど露わではな いということです。露骨な弾圧ではないのですが、やはり悪性である点には変わりはない。

ということになります。教育の分野にからんでこういう主張をしている。

 それから3節では、「その他の社会的コンテクスト」として、

・言語抑圧のケース 教育以外にメディアのことば、医療面談のことばで は、社会的特権の不公平な分布に根ざす抑圧がしばしば問題になる。ここにも「隠された前提」が潜んでいるんだ。

その隠された前提はどういうものかというのは、ここでは詳しくは触れな いことにします。

・メディアのことば は中立性というのが問題になるわけですが、つまり 報道の良心とか客観性とか公平さがそこから出てくるはずですが、これが中立だという判断を誰が下すのか、その人の中立性がまた問題になってく るので、これは循環的にしか定義できない、所詮、想像の産物である。

・医療のことば というのは、厚生省のいまの問題なんかでもよく出てき
ますけれども、社会制度の内側にいる医師の発言と、社会制度の外側にい る患者の発言は、異なった語用論的条件に置かれている。

・制度化された談話 制度の内側にいるか、外側にいるかで、言語表現の もつ価値が変わる。制度に裏付けされた権限を持たない者は、服従であるとか、自己断罪、あきらめなどの被拘束的傾向を 帯びる。

つまりそういう傾向を帯びたものは、制度化された談話で制度の内側か外 側か、その権威構造にかなり大きな違いが出てきてしまう。

 3ページ目のほうへ、第4節では「言語と操縦」という問題が取り扱わ れておりまして、

・言語による操縦 その人の気づかぬうちに、ある一定の行動をとるよう に仕向けること、すなわち操縦には、多くの場合、言語が関係している。言語は、しばしば、社会的弾圧の事実を覆い隠しつつ、人々を操縦する。

ちょっと基本的概念だけ出して、具体的な例は日本語に即してあとでまた 出したいと思います。

・おとし穴 現実自体を覆い隠すことばによって私たちは簡単に操縦され てしまっている。その例としてMeyが挙げるのは、‘em-ployer’と‘employee’というのは、ことばとしては対称関係をもっているけれども、 実際雇用の決定権は‘employer’だけがもっていて、‘employee’はもっていない。ことばは対称性をもっているけれども、現実世界では全く対称性 をもっていない。

 というふうなことを指摘しています。言葉だけを見ていて社会を見よう とすると、それはおとし穴になる。

 4.5では「文化における語用論的前提」ということで、文化的前提と いうのはあるのは確かだろうと思いますけれども、それは前提であるがゆえに露わにはなっていないので、

・文化的前提 文化の被膜の下に隠された語用論的前提について、被膜が ひび割れて、下の地が覗いて見えるような所を見つけるような努力をしなくてはいけません。

 と、こう言ってるわけです。そういうのがひび割れが見えるのは、多く の場合異文化間の誤解なんかというというときにひび割れが出てきてしまう。そこでは、文化に根ざす語用論的前提の違いが、理解の障害をもたら す例として、奈良の東大寺の例が挙げてあったんですけれども、奈良の東大寺で外国人の観光客がトイレへいきたいと、こういうふうに言ったら、 どう考えても目の前にトイレがあるわけですけれども、日本人の人はあっちですと、あっちのほうへいってくださいと随分遠くを指差してそちらを
案内した、怪訝だったというのがあるのですが。それは日本人の案内をし た人が、この人は外国人だ、そうすると洋式のトイレしかだめだろうと、いま目の前にあるのは和式だから、この人たちはだめだろう、ショックが 大きすぎるだろうというので案内した。そういうようなことが背景として理解されていないと、相手の発話意図が伝わらない。日本人というのは随 分不親切だなあということになってしまう恐れがあると。

・理解に必要なリンク 従って使用されたことばと、それを使用した者の 属している世界とは、語用論的な前提を介してつながりをつけられている。

ということで、直接的なつながりをつけられているのではないということ です。


1-6 世界をことばにする

 第6節では「世界をことばにする」という(wording)の問題が取り扱わ れてます。

・ことばにすること 言語形式にするということですけれども、それは自 分の環境や世界に気づいて、それとの相互関係の中で、この気づきを言語形式のうちに自覚をする過程である。

・弁証法的な動き いったん世界をことばにすると、それが環境に対する 見方に影響をしてしまう。言語から世界へ向かう一方で、世界から言語へ向かう、という弁証法的な動きがここに生じてしまう。

ということになります。このあたりはかなり古くから、例えば、色彩語が どういうふうに色を区別しているのかというのが、人間の認知そのものに、あるいは文化もかかわっているというような影響があったと思いま す。

 それからメタファを次に挙げてますけど、

・メタファ 類推に基づくメタファ的理解は、世界を知覚し、世界をこと ばにするための主要な方法である。

メタファというものを駆使しながら、世界を知覚する。言い方を変えると そういうことばをメタファ的な言葉遣いをすることで、自分自身が世界をどのように見ているのかを自覚するということにもなろうかと思います。

・共感と連帯 理解には、相手の「ことば世界(word-and-world)」 のコン テクストを把握していなければならない。

 ことばだけでもない、世界だけでもないというところが重要なんだろう
と思います。ことばは世界を切り取って世界はそのことばに影響を与えて いる。「ことば世界」というのは熟してword-and-worldとして使っています。

 そこでは「共感的」な理解、使用者のコンテクストを用いて、「連帯の 中で共にことばにするということが大切である。

 前回のこの場でメディアが果たさなくてはならない媒介的な機能、仲介 的な機能ということを少し話題に出したのですけれども。その中で前提にあるのは、こういう「共感的」な理解とか、あるいはことばを使ううえで の「連帯性」をいかにメディアが保障するのか、そういうことが絡んでくるだろうと思います。

・実際に使用される言語 使用者が用いる言語は、認知に必要な手段であ ると同時に、当の認知そのものでもある。

これはいろいろ言い方を換えていろんな人が言っている見方だろうと思い ます。

 第7節では「語用論と社会闘争」の問題。

・言語の社会的役割 社会的に恵まれていないことの原因に対する洞察が、 社会プロセスにおける言語の役割についての洞察をもたらす契機となる。

 社会的に恵まれていないことは、どういう原因で起こっているのか、そ こに言語がどうかかわっているのか、これを見ないといけない。

・解放のための言語 言語が社会的不平等を映し出すという意識をもつこ とが、そうすると社会的にも「解放」されていく、そのためにはどういうふうにことばを使っていくべきなのか、そういう 解決策へ向けての道筋 を教えてくれることになる。

・2つのコード こういう研究はBasil Bernsteinがすでに、彼は自分自身でそれが当時は「社会言語学」というふうに呼んでいたんですけれども、いまは恐らく教育社会学の中に位置づけられるのが多いと思いますけれど も。BasilBernsteinの「精巧コード」それから「制限コード」というよう な区別が先行研究としてはあるという指摘です。

 だらだらやってますが、最後に8節のところで14章の終りになりま す。8節のところでは、さて、


1-7 トンネルの出口を示す明りは見えるか?

・トンネルの出口を示す明りは見えるか? (という問いをMeyは立てて います)重要なのは、何が達成されたかではなくて、正しい方向を向いた
動きがあるのかどうかである。(「解放言語学」と呼ぶわけですけれども) 「解放言語学」として語用論を実践していくことのできる望みはあるのだろうか。

 社会はいろいろ閉塞的な状況とか、あるいは抑圧的な状況にある、それ を解放するために言語をどういうふうに運用していけばいいのか、使用していけばいいのかということについて、語用論という分野は答えをまだ出 してはいない。成果はないわけですけれども、ちゃんと成果を出すような向きに向いてるだろうか、そのことを自問しています。

 さて、そこで問題なのは、

・ニワトリが先か卵が先か? 社会が言語を左右し決定するのか、言語の ほうが社会を左右し決定するするのか?

という、ニワトリと卵のような問題が出てきます。しかし、この問題自体 にはMey自身はあまり気にすることはないんだと言っています。どっちでもいい、とにかく重要なのはトンネルの出口を示す明り、そこに向けて進 むことなんだ。

・言語と意識 言語は私たちの行為を反映し記録する一方で、私たちのこ れからの行為に指針を与え、現実を(再)創造する契機となり得るのだと。

ことばがわれわれ自身、あるいはわれわれの世界そのものを変えていく、 改めて変えていくきっかけとなり得るのだ。そうするならば、解放に向けた変革に向けていくのは自然な流れであるということで、

・解放に向けた変革 偏見や歪みを排除した、解放のための言語を使用す ることで、差別する側の意識も差別される側の意識も変革されていくのではないか。

そこで「なぜ語用論なのか?」という問いですが、

・なぜ語用論なのか? 語用論は、言語研究の中でも、先程の解放に向け た、変革に向けた問題意識に直結しやすい分野である。従って、社会的に必要とされており、また、一人一人の解放に向けた、改革に向けての意識 面での相互作用、これをもたらしてくれる局面をもっているんだ。

という考え方なんです。

 ちょっと長く時間をとりましたけれども、例の盛岡のときに申し上げた ようなこと、あるいは、平田さんから出されたり、見城さんから出されたり、場合によっては小林さんから出されたりした内容というのは、いまま で僕が自分の頭の中で、このMeyの見方のフィルターを通して位置づけてきたので、ちょっとそのことをわかっていただくために、少し長めですけ れども話をしました。


2 討議 コンテクストをめぐって


2-1 語用論の領域

 見城 僕は非常にこの分野に関心があるので、すごく面白くうかがっ て、Meyの『プラグマティックス』を読もうと思って読んでなくて、これは何か今日は得したという気分が。

 その「語用論」と言ったときに、僕がいつも考えることは2つ、いま思 いつくのは2つありまして、1つは、語用論て確かに統語論、意味論というものに対して使用者ですね、言葉の使用者というものを入れてくること によって、その社会性への契機を開いたことは確かだと思うのですが。ただ、やはり語用論の主流としては、今度新しく「統語論的規則」「意味論 的規則」に代えて「語用論的規則」というものをもってくる。しかもそれを非常にリジッドな形で体系化しようとすることによって、やっぱり一面 で社会性というのを落としてしまっている側面があるのではないかと。そういう意味では、例えば、社会言語学と呼ばれるような分野で語用論は、 どういうふうに斬り結んでいくつもりがあるのか。あるいは、エスノメソドロジーとか社会学の分野とどういうふうに斬り結んでいく用意があるの かということが1つです。


2-2 コンテクストとは何か

 それからもう1つは、これは本当に僕も自分ですごく面白く、かつ難し い問題でいつも悩んでいるんですが、語用論におけるコンテクストという概念です。コンテクストという概念は非常に重要で、語用論でコンテクス トという概念が強調されるのも非常に理由があることだと思います。それはつまり閉じた体系としての統語論的規則、意味論的規則というものに対 して、規則をそもそも妥当たらしめているところのコンテクストというものをもってくることによって、それまでのやはり言語学に対する批判、非 常に根本的な批判になっていると思うのです。ところがそういう形でコンテクストという概念はすごく重要だということはわかるんですが、同時に そのコンテクストという概念自体が、今度はわけのわからないものに、魔法の言葉になってしまいがちであって。つまり、例えば、表面上は同じ言
葉であるのに、使われる場によって意味が正反対であると。なぜそういう ことが起こるかといえば、コンテクストが違うからと、それは確かにそうなんですけれども、そう言われてしまうと確かにそれまでであって、その 場合コンテクストというのはいったい何なんだろう。

 それでコンテクストという概念は、すごく難しい概念であって、つまり 僕がいまとりあえず理解しているところでは、コンテクストというのはメッセージの伝達の対象にはならないんですが、メッセージに意味を与え ているところのものです。だからコンテクスト自体をメッセージというか、伝達の、コミュニケーションの対象にしようとすれば、そのようなコ ミュニケーションは別のコンテクストに照らし合わされることによって行われなければならないと。そうすると言ってみればそこでメタコンテクス トが生じてしまっているわけであって、そのメタコンテクストに関しては何も明らかになっていないということになってしまうのではないだろう か。

 とすると、それは別にコンテクストでないにかぎらず、そういう自己言 及性というのはいろんな分野でいま問題になっているのですが、であるからこそ語用論の分野においても、もう一度コンテクストという概念自体を 対象、突き放してとらえ直してみるという努力は、たぶんもうすでにされていると思うのですが、それについてもうちょっとまとまった見解という のを、僕は知りたいなといつも思っている。それが語用論に関してとりあえずいま思っている、語用論という分野を実体化したくはないんですが、 とりあえず今日高本さんの発表を聞いて思った2点なんです。

 高本 1つ目の問題というのは、どういうふうに領域を見るかという問 題だけにかぎらず、どういう問題意識を核心と見るかということだろうと思うのですけれども。最初に従来の語用論というのは、僕は認知の側面を 重視していた「認知語用論」だったろうと。だから哲学や心理学とは非常に親和性をよく保っていたけれども、社会学とか教育学とかとはあまり仲 良しではなかったと思うのです、必ずしも。

 先程のMeyの考え方だと、もう一方でいえば「社会語用論」みたいなも のを立てなくてはいけない。それは言語使用と社会状況というので、認知語用論が言語使用と認知条件を言おうとしていたのとは、相補う関係に立 つだろう。ではそれはエスノメソドロジーとか、それをもう少し拡大した社会学とか、あるいは言語学の内部でも社会言語学と言われていたような 部分とどういう関係をとりもつのか、どちらかがどちらかを含むのかというようなことについては、やってみないとわからないという部分もあるだ
ろうと思うのです。

 恐らくこの手のものというのは、いろいろな分野が泡のように生まれて は消えていき、あるいは統廃合されていくという流れがあって、僕は逆にそういう流れのほうが、知の営みとしてはある意味で健全なのかもしれな いと思ってますので、このあたりについては確定的なことは言えませんけれども。語用論といってもその中に客観的観察に基づこうとする一派と、 主観的内省に基づこうとする一派があるように思います。また言語はいずれもそうだと思います、文法でもそうですね。

 それとまた別に、原則的な説明を立てるグライスとかの立場を継承して いる人と、それをもっと厳しくした条件的な説明をしているネオ・グライス派の人たちとは、ちょっと違うだろう。特に後者のほうはさっき見城さ んがおっしゃったような新しい規則体系を求めていこうというようなニュアンスがありますけれども、これもまだ生まれたばかりみたいなところが ありますので、今後そのままでいくのか、それがどういうふうになるのかというのは、僕もはっきりとしたことは言えないです。

 もう1つ、コンテクストのほうについては僕は僕なりにこれやっぱり考 えました。リシンキング・コンテクストという本もあるんですね『コンテクスト再考』という本もありまして、要するにその本ずうっと一生懸命読 むんですけど、結局コンテクストは定義できないというのがコンテクストの定義になっているんですけど。こういうことってあってもいいと思うの です、語用論の一番の究極の問題はコンテクストだと僕も思います。シンタックスの究極の問題が文であるのとどっかパラレルな問題があって、シ ンタックスというのは文を定義しようといういろんなアプローチがあるけれども、結局のところ文を定義できないところにシンタックスの面白さが あるんだろうと。同じように語用論というのも何かこう言うと逃げみたいですけれども、コンテクストを何とか定義しようといきながら、できない ところに語用論の問題意識の循環性のもとがあると思います。

 僕自身がとっているのは、ちょっと認知的なコンテクストの考え方で、 従来の記号論的な発信者がいてその間が経路で結ばれていて、チャンネルで結ばれていて、受信者がいて共通のコードがあってというようなとらえ 方でやると、コンテクストというのは発信者と受信者で共有されている情報というふうに大体定義されるんですけど、そうじゃなくてさっきの岩波 の「受け手の側から解釈」というところがポイントだと思うのですけれども。それを「解釈する側が利用可能なすべての情報」だというふうに、こ れは僕が定義したのではなくて、レリバンス・セオリーの「関連性理論」
の枠組の中での文脈の定義、コンテクストの定義ということになるんです けれども。だから必ずしもそれを話し手はそんなこと思ってないかもしれない、こちらの人生経験とか、あるいは信念とか、宗教信念とか、金銭信 念とかいろんな信念がありますけど、そういうようなもので裏付けられたある一つの判断のタイプとかスキームとかというのも文脈になるだろう と。

 それぐらいで、じゃあそれは定義したことになるのかと言われたら、定 義したことにはなっていないというのは、自覚したうえで。でも従来の共有された情報であるというところは、ちょっとキャンセルしたいなと思い ます。

 見城 1つは、例えば、語用論という領域と、社会言語学と、エスノメ ソドロジーとかというのを、領域確定しようとするのは全く無益な試みだと思います。それで恐らくそれらの領域には共通する問題意識というもの があるのだろうと思うのですが、ただ、僕が語用論という領域の中でやられていることの中で、非常に気にかかることがあったのは、要するにコン テクストについて非常にセンシティブなわけなんですけれども、にもかかわらず語用論の教科書の中で取り上げられている語用論の例文というの は、非常ーに特殊なコンテクストの中で、特殊な意味を産出するような文だけを、ほらこれが見事なコンテクスト論じゃないかというふうに取り上 げていて、実際の会話、データの中で……。

 平田 それはどういう例ですか?

 見城 例えば……。

 高本 これウイドーソンという人が挙げてる例なんですけど、「電話よ」 と奥さんが言ったら、主人が「風呂にはいってるんだ」と言うんですよ、それに対して奥さんが「わかったわ」と答えて、これは要するに明示的に は何も言ってない、「電話よ」「風呂にはいってるんだ」「わかったわ」何がわかったのかわからないけれども、そういうような特殊な、いかにもつ くったか、それとも日常的にあるか、微妙な例です。

 見城 そういう形で、人工的にコンテクストをつくる、例文というのを 人工的にコンテクストを構成することによって作り上げるというところが、例えば、社会言語学、実際に会話で得たのを取ってやるような立場か ら見ると、ちょっと要するにコンテクストを限定しすぎているんじゃないのという感想をもつんです。

 ただ、全体的な方向としては、やっぱり『プラグマティックス』の中で もMeyはいま読んでて本当にどんどん、社会言語学との間という、そうい
う領域自体をなくしていこうという方向にいると思うのですが、全体とし てはそういうもうちょっと実際のコンテクスト、社会的なコンテクストという方向に動いているんですかねというのが1つ。

 高本 Meyのとらえ方の中には、ミクロな語用論と、マクロな語用論と いうのがあって、見城さんが先程疑問をもたれていたのは、Meyのことで言うと、ミクロ語用論のほうに当然なってくるだろうと思うのです。じゃ あマクロ語用論というのはそれを解決できるかというふうになると、これはまだ提唱されていて必ずしもそれが実際に動いてないというのが現状だ ろうと思う。気がついてみれば従来社会言語学をやっていたのが、それがマクロ語用論だということになるかもしれないわけですけれども、しか し、そのあたりについては僕もいま何とも言えない部分が強いわけです。見城さんのおっしゃる問題点は確かにその通りだろうと思います。


2-3 受け手と送り手の交替

 見城 あともう1つ、コンテクスト概念について、レリバンスのコンテ クスト概念というのは僕も面白いと思うのですが、それで「解釈側に利用可能なすべての情報」というのが、コンテクストの1つの定義というか規 定として妥当なものだと思うのですけれど。そこでもやはり1つ僕は思うのは、受け手側といっても、送り手と受け手の関係というのはやっぱり入 れ替わるものですね。それである人が発言する、それを受け手があるコンテクストのもとで解釈するわけですが、次の瞬間に受け手が何か発言する ことによって、今度は初め発言した人が今度は受け手になることによって、自分の発言がどういうコンテクストで了解されたかということを確認 すると。言ってみればその中では常に送り手と受け手というものが交渉する、自からの発言のコンテクストというものについて、自分はこういうコ ンテクストで言ったんだ、いやこっちはこういうコンテクストで解釈したんだ、あるいは相手がそういうコンテクストで解釈したというのは、自分 には思ってもみなかったけれども、でもそれは結構面白いぞとか。そういう形でコンテクスト自体の構成というものが、送り手と受け手の相互的な 関係の中で構成されてくるものだと思うのです。

 レリバンス理論はそこまでは突っ込んでないのではないかというふうに 僕は思っているのですが、そこはどうなんでしょう。

 高本 大きく言えばそこのところを乗り越えるために関連性の原理とい うのを言ってるんだろうと思うのです。つまりすべての発話というのは、
それが最適関連性をもっていると、見込みを伝えているという中で、そこ のところで発話者がもっている意図というのが、十全な形で送り届けられるという基盤を、そこに理論上は構築しようとしている。それはそれとし て、ちょっとこれは反証できない問題ですから、だからちょっと強すぎるんですね関連性理論というのは。それはあんまり人気がないところだと思 うのですけど。

 それとはまた別にいまの問題は、語用論では「文脈化」というふうに訳 しています、「コンテクスチュアライゼーション」の問題だろうと。どういうふうにコンテクスト一緒に、メッセージと一緒に送り届けるかという ような、コンテクストのパッケージ化みたいな問題が当然出てくるし、相互のフィードバックと言いますか、相互に相互を観察しながら、どういう ようなコンテクストが使われているのかについて、一種のモニタリングが行われているだろうと。そのあたりは当然あってしかるべきなんですが、 しかしそのモニタリング情報もいわば文脈なので、そこへ取り込んでいけば、文脈の中にはすべての認知的な資源というものを取り込んでしまうこ とによって、そういうモニタリングの情報も当然入ってくる。あるいは自分がいまどういう位置にいるのかという社会的なアイデンティティーと か、あるいはその相手との対人関係上の自分の位置についての自己イメージとか、そういうすべての想定がコンテクストという中に取り込まれてい くというふうに見てる。そういうので細かい何か。


2-4 コンテクストを説明する

 平田 僕もすごく今日、これは僕はほとんど語用論というのは名前ぐら いしか知らない、僕が大学で習ったのは、こっち側の言語学でしか習ってないですからもちろん、それでしかもうちの大学、英語の僕授業だったの で、それで嫌いになっちゃったんです。(笑)もともと英語が好きなやつしか言語学科の授業はとらない大学ですから、語学科の。非常に僕がやっ てることと近いなという印象があって、今度皆さんにお渡ししますけど、最近紀伊国屋書店から僕が出したビデオで、ワークショップのビデオを出 したのですけど、これは京都で3日間かけて一つの小さな芝居をそれぞれの4つのグループが作るというワークショップだったんです。この間岡山 でやったのもほぼ同じ内容なんです。

 いまそういうできるだけコンパクトにして1つの芝居を作るというよう なワークショップをやっているんですけど。これはもう全くゼロから作る
んです。ただ、作る順番は決まっていて、ある程度短い時間でもこうやっ ていくと作れるという方法論はあるんですけど。場所を決めて、状況を決めて、登場人物を決めてというふうにやっていくんですけど、それをグ ループ・ディスカッションでやっていくんですけれども。そのときにとにかく一番重要なのは、僕はイメージの共有と言っているんですけど、まさ に連帯の中で共に言葉にするということが行われないとだめなんです。

 それを単純に言ってしまうと、何を面白いと思うかを共有しないとだめ なんです。これが非常に難しいことで、特に一般市民を対象にワークショップをしますから、1つのグループの中にいろんな人が集まってくる わけです、おばさんもいれば、主婦の人もいれば、女子高校生もいれば、サラリーマンもいるわけです。その人たちがまず場所を決めましょうと 言ったときに、じゃあここがいいだろうというので、そのときに場所を決めるときの一応のヒントとして、自分がどういう場所にいて、どういう人 たちの会話を盗み聞きしてたら面白いと思うかで考えてくださいと、もちろん全然違うわけです。それ1つ1つ案が出るわけです。それがパッと 言ったときに「わあ面白い」というときもあるんですけど、全然そうじゃないときもあるんですね、人によって。そのときに当然発案者は面白いと 思って言ってるんで、発案者じゃない人が発案者に対して、何でそれ面白いと思うのかを聞いてください。そうするとだんだん突き詰めていくと、 その人のまさにコンテクストですね、その人の全体の人生とか生活を語っていかないと、だから私は面白いんだと思うということが出てこないんで す。

 それは非常に面白いというか、その作業自体を見てることが面白いわけ です。お互いにそのことによって、まさに人生の結構深い部分、ふだん絶対に、例えば、親子であってもしゃべらないようなことまでしゃべってし まうということが起こってくるんですね。それはまさにたぶんいま、今日お聞きした話と近いんじゃないかなと思って。

 ただ、やっぱりそれは、ある限られた目的があると、ここの場合でいう と演劇を作る、演劇作品を作る、10分間の演劇作品を作るという目的があると、それは比較的容易に行われるんですけれども。そういうことが実際 の社会でどういうときに可能かなということが、たぶん最後の「トンネルの出口に見える明り」ということになってくると思うのです。教育システ ムの問題が一番大きいと思うのですけれども、たぶん日本の教育システムに一番欠けてるとこだと思うのですけれども。ああ、自分のやってること はこういうことなんだなというふうに、今日のお話はすごく参考という
か、言葉を与えられたような感じがありました。

 高本 僕は芝居を作る側ではなくて、授業の中なんですけれども、学生 と一緒に詩を読む授業をやるんです。そうすると最初の1ヶ月、2ヶ月ぐらいは、中学校や高等学校の国語の中で教えられたような読み方に制約を 受けていて、なかなかその詩から本当に受けている読み方というのか、イメージというのかを語れないです。それは何かに本当に縛り付けられてい るように語れない。それはクラスの中でお互いに討議をしたり、あるいは気持ちを和らげたりしながら、だんだんと語るようになってくると、まさ にいま平田さんがおっしゃったような、己の人生経験と、己の信念を語る部分が出てくる。なぜこの詩のこの部分はこういうイメージで読んでいる のかを言おうとすると、自分でもそんなことは解釈してるときには思わなかったはずなんですけども、説明をする段になってくるとそれを持ち出さ なければいけなくなってくる。きっと文脈というものがもっている特性というのは、それを理解するときには、実は意識されていないけれども、ど う理解したかを説明する段になって、自覚されるようなものだろうと。

 岩波の解釈のところの2番目に、解釈は1番目は「理解すること」だけ ど、2番目は「理解したところを説明すること」というふうにあるんですね、ここのところで実は文脈とかコンテクストというのは自覚される。1 番の段階では、多くの人は文脈の存在自体を自覚していないからこそ、それがコンテクストなんだろうと思いますね。

 平田 面白いことというのは、本人にとっては別に説明する必要がなく 面白いわけですから、僕がそれを言うときも、場所を決めて、状況を決めて、それから登場人物を決めて、それから出来事、プロットを決めて、最 後に括弧付きで「もし決められたらテーマを決めてください」というのですけれど、このテーマというのが先にきちゃうわけですね普通の場合に は。そうするとテーマというのはコンテクスト抜きで共有できるんですね。「戦争反対」というと、戦争反対という言葉で、これは抗えないです ね誰も、そのメンバーは。何で戦争反対なのという人はいなくなっちゃうわけです、そうするとコンテクストが問われなくなっちゃうんです。普通 の芝居の、従来の芝居の作り方というのは、これがテーマがあったためにコンテクストが問われなくて、その劇団というのも非常に思想的な集団に なってしまっていたし、また芝居というものも非常に素人には参加しにくいというか、一つの思想を共有してないと入れないものになっていったと 思うのです。

 ここがたぶん変わってきたというのは、言語学の中でこういうものが出
てきたということも、例えば、演劇が変わってきたということも、実は一 つの脱イデオロギー社会というものが前提になっているんじゃないかと思うのです。

 高本 さっきいった、詩を読ませて、最初の1ヶ月、2ヶ月がんじがら めになってるというのは、まさにいま平田さんがおっしゃった通りで、どんな詩を読ませても現代社会への批判とか、(笑)なっちゃうんですね。何 か夕焼けで、ブナの林が染まって、そこで子供が早く帰らなくちゃいけないのに遊んでいるというような、そういうのを易しい言葉で、ただ単に描 写した詩があって、それを読んだら、誰でもかつて見たことがあるようなイメージ、自分の中を手繰り寄せて読むわけですが、それが失われた現代 というのは、これはあかんというようなことになるんですね。

 (略)


2-5 共感と連帯って?

 小林 僕の疑問って、これたぶん深追いしていくと収拾つかなくなるん で、問題意識だけ出しておくと、まず概念と事物との間に、常に何かのずれがあるだろう。それから相互の理解、複数の人がいてその複数の人のリ プレテンゼーションでも何でもいいんですけど、それとの間にずれがあるだろう。その間というのは果たして一致できるものかどうかということに ついて言えば、僕自身はかなり悲観的なわけですよね。それは原理的な部分でかなり悲観的にならざるを得ないという部分があるんですけど。それ とMeyがそこのところで「共感と連帯」みたいなところに飛んでいる、何か飛躍があるというか、どっかごまかされてるような気がするんですよ ね。

 高本 僕のまとめ方も間飛ばしてますから、それで僕の責任かもしれな いんですけれども。ただ、やっぱりそこのところが完全な一致というのは恐らくあり得ないでしょうと。特に背景になっている文化とか価値観の差 があるならば、同じ事物も当然違うように見えるだろうと。何かコカコーラの瓶についても、何か映画ありましたねそういうのが。そういうような ことは当然出てくる、だからこそだと思うのですね、何らかのスローガンをここで挙げてしまいたくなるんだろう、それか共感であり、連帯である と。そうするとそのスローガン自体がかなり、今度逆にいかがわしさをもってきてしまうと。そこのところが実は問題で、このあと事例で考えて みたいと思うのも、そのあたりだと思うのです。

 小林さんに逆におうかがいしたいのは、飛躍があると言われたけど、そ の飛躍というのは、一人一人の主体的なかかわり方で埋めることのできない飛躍なのか、それともその飛躍はむしろ難しいからこそ遂げなくては いけないのかというところの問いは、どちらを背景にしておっしゃってるんですか。

 小林 それはですね、何かそれこそさ、信仰宣言を迫られたようなもん なんだけれども。僕自身は要するに相互理解というのは原理的に不可能だろうと思っていて、にもかかわらずMeyのどっかにも、「正しい方向を向 いた動きにあるかどうか」とありますけれど、その不可能だからといって諦めるんじゃなくて、不可能だけれどもそれを目指して努力するというこ とですね、僕は。

 見城 何か実存主義的ですね。(笑)

 高本 でも僕も実はそこは同じで、発想としては本当に同じになるんで す。僕も、例えば、先程詩の話を出しましたけれども、これ一人一人に、そう難しい言葉を使った詩じゃありません、僕がよく例に使うのは、「象 さん」の詩を使うんですけれども、「象さん象さんお鼻が長いのネ」これもう本当に典型的なクラスだったら、20人いたら20人みんな違うのを出 すわけです。でもみんなわかったつもりになって、みんな共有してるつもりになっているというところが、実は連帯であり共感なんだろうと。場合 によってその共感というのが、社会問題が露わになって噴き出してるときの共感の問題が出てきます。

 例えば、「いじめの問題」なんかというとそうだと思います。いじめと いうのは、「いじめられてるという認識を持った時点でいじめの問題が存在するんで」という話前にしたことがありますけれど。いじめという事実 があったかどうか、それが確認できるかどうかが、いじめのいわば問題の確認ではなくて、いじめられていると思ってる人がいるとか、あるいは、 それを何らかのサインで、表に出しているような人がいるということ自体がいじめなんだ。そうするとそれは周りの人の解釈的努力がなければ、表 現の責任ではないわけですね。そうするとやはり相互に理解ができないからこそ、逆に解釈のほうがアンテナがより鋭くならなくてはならないと思 います。


3-1 エイズ撲滅運動が撲滅するもの

 高本 難しい話を最初にもってくるのはあんまり気が進まなかったんで
すけど、あとは事例的なことばかりで散発的になります。前にお話したこ とが入ってますので、そういう点ではいままで言ったことのまとめみたいな部分があります。

 まず、5.1のところは、Meyが指摘している「言語による操縦の問題」 で、「エイズ汚染」「エイズ撲滅」という例を出してます。これは石田吉明さんが生前に、マスコミや医療専門家が使う「エイズ汚染」「エイズ撲滅」 ということばに対して、繰り返し異議を唱えていました。朝日新聞にも何度も投稿されていました。

 かれが『中学生日記』に出演したときに、これはなかなかいい番組でし て、役者として出た子供たちがみんな泣いているという、ビデオを撮っておけばよかったという番組なんですけれども。その中で、HIVウィルスは、 感染者の細胞の中でしか生きられない。それを撲滅するというとき、撲滅されるものはHIV ウィルスだけというわけにはいかない。また、エイズが何かを汚染するものであるならば、エイズ患者がその何かを汚染しているということになる。ということで、「エイズ汚染」とか「エイズ撲滅」と いうのは使わないでほしいというような主張をされていました。

 いまの問題は僕もちょっと経験したことがありまして、ボランティア活 動を大学生のときにするサークルに属してたんですけれども、車椅子の介護というのがありまして、Sさんという人なんですけれども、車椅子で外 出を保障する会というのがありまして、車に乗せてある繁華街のところまで連れていってこうこうするわけですけれども。そのときに、「次にSさ んを降ろしてね」と僕は言ったんです「Sさんを降ろしてね」と。そうすると何か随分怒られまして、「降ろす」じゃなかったかな、何か物のよう に扱う言い方を僕はしてしまったんですね。そうすると「私は物ではなくて人です」というような。こちらのほうには差別する意識は何もなく使っ ているんだけれども、それが受信する側にとっては非常に心に傷を負う。

 5.1.2は、また、ちょっとそれとは違うのですけれども、要は社会 的レッテルが貼られている言葉というのがあって、「銀行」というのはサラ金に比べるとそういう権威をもってると。朝日新聞の記事の中で(4)に挙 げたような文がありました。太い字のとこだけ読みますと「銀行は消費者金融(サラ金)と違い、無理な融資をしない」とか、その次の「銀行だか らと信用したのに」とか、「信用をバックにした銀行」ということで、うちは銀行ですから心配ありませんと、何か言いそうな気がするんですね、 「うちはサラ金じゃありませんから銀行ですから」というような。そういうところに言葉によって何か操作されているという側面が出ている。

 次の「指導」については前もお話しましたけれども、学校教育の中では 「指導」という言葉は本当に一日のうちで腐るほど出てきまして、ところがそれを英語に訳そうと思うと結構大変だと、teachとか、coachとか、英 和辞典いろいろ引いて、こういうのが入るか、こういうのが入るか考えたんですが、最後のほうにcriticizeとか、encourageなんかも入りますが、 threatenだとか、purgeだとか、beatだとかいうのも、これも指導ありがたく「指導ありがとうございました」とバシッと殴られて「指導ありがとう ございました」というわけなんですね、体育会系なんか。

 そうすると「指導」の適用範囲はあまりに広いと。言い方を変えると「こ れは指導だ」とことばにすること、あるいは、そう意識することが、教員側の一種の免罪符や正当化になっていないか。逆に生徒の側は、先生がい まやってることは指導ではありませんと言う権利は与えられていないのが、日本の教育の現状ですから、これはどの国もそうかもしれませんけれ ども、教育がもっている一つのシステムかもしれません。

 その下に小さい字で、

*1995年7月17日に福岡県飯塚市の市立女子高校で、当時16歳 の女 生徒が副担任の体罰によって死亡する事件があったが、事件後、「指導熱心な先生だったのに」と、かつての教え子たちが「減 刑」を求める嘆願書の署名を集める活動を始めた。これに対して、目標の5万人を大きく超える7万人強の署名が集まったという。

これは途中経過ですから、その後もっと集まってるはずです。こういうと きに「指導熱心だった」とこう言うんですね。そうするとこの体罰によって死に至ったその行為も指導の中に入る。そうすると殺人というのも、も しかすると結果的にはですけど、指導の一部に入ってしまうということで。しかし「指導」という言葉を使うことができる側、あるいはこの言葉 の主体に立つことができる人はすべての人ではないという点が、重要な点だと思います。


3-2 ネ・サ・ヨ運動

 次に5.2のところは、少しここからこの話でずっと長く書いてあるん ですけど、「ネ・サ・ヨ運動」と「ネ・ハイ運動」というのがありまして、これはMeyの引用から始まってますけれども、「己れの言語は己れの生活 であり、己れの生活は己れの言語である」という言い方をMeyは中にしてました。

 これとよく似たキャッチフレーズを碑文として刻む小学校があります。 神奈川県の鎌倉市立腰越小学校、江ノ島の近くです。1960年代初めに校内に建てられた碑には次のように刻まれているんです。

(7)きみのことばのなかにきみがいる。

  あなたのことばのなかにあなたがいる。

ちょっと恥ずかしくなるような言葉ですけど。

 この小学校は、当時、口頭表現から助詞の「ネ・サ・ヨ」を追放しよう という「ネ・サ・ヨ運動」の中心であった。大石初太郎さんはこの運動を次のように紹介しています。

(8)腰越小学校のネ・サ・ヨ運動については、「くらしのことば」という、こ の学校の発表物について見ると、

   それでネ それからネ あのネ 

   それがサ そうしてサ あのサ

   そいでヨ ああしてヨ あのヨ

  などの、ぎこちない話しぶりを、なおしていこうというねがいです。

 と言い、さらに、

ネとサとヨは、たんなる間投助詞としてとりあげられたのではあり ません。人間の関係をこわしてしまいがちな、わるいことばの象徴として考えられたのです。

と言っている。だから

この学校のことばの指導のしごとは、ネ・サ・ヨ退治にとどまるも のではなくて、日常生活の中のことばの全体をよくしようというものである。

と言っているんです。「そいでヨ」というのはちょっとわかるんですけれ ども、「それでネ」というのは人間関係を壊してしまいがちな悪い言葉とみなされていたと。神奈川県ですか小林さんは、あります?、1960年当時 は。

 小林 その頃僕は関西にいってました。

 高本 それで関西弁に順応しようと、小林少年は頑張ってたんでしたっ け。

 小林 そうそう、東京弁って。(笑)

 高本 これも言語抑圧の問題で。

 ところが、「ネ」という助詞について、これと逆の取扱いをした小学校 があります。


3-3 ネ・ハイ運動

(9)ネ・サ・ヨ運動に対して、ネ・ハイ運動というのがあります。福岡県嘉 穂郡筑穂町の大分小学校というところです。間投助詞のネをなるべく使うように、返事のハイをいうようにという指導である。“きれいな標準語”を 使わせようというものである。ここもことばの荒い炭鉱の町の学校で、「美しいことばの運動」を、腰越と同じように町全体にひろげようとして いるのである。

 ネに関しては、腰越とまさに反対の扱いだが、地域によってこ の同じ ことばに対する見方がちがうというのはおもしろい。腰越 のネについては十分にわかりかねるところもあるが、こういうものをさしはさまない、 すっきりした、明せきないい方を、ということなのだろうか。(そのあとが重要だと思うのです)大分小学校は、ネという間投助詞は標準語、すな わち共通語のしゃべり方の基調を作るものというふうに認められているのだろう。

 そうすると、それは当然誰の言葉かと、そしてその標準語とか共通語と ここで呼ばれているものは、誰の言葉をもとにしてつくられたのか、なぜそれを使うと安心なのかという問題が出てくるだろうと思います。

 5.2.2のところでは、「ネ」がもってる語感についての、大体当時 の指摘を集めてみたんですけれども。

 助詞「ネ」の使用とそこから受ける語感について、次のような指摘がさ れています。(10)・(11)が批判的、(12)は肯定的です。

(10)某教育大の付属小学校で、当時有名なある先生が言語の研究授 業をしたことがある。五・六年生の学級であるが、子どもたちはやたらに「ね」を使う。「あのね、この本ね、こうしてね、もったら ね、本がね、やぶけてね、ぼくね……」こういった調子である。けれどもその有名教師は内容にはふれるが、ことばそのものには一言 もふれなかった。

怒っているわけですね、やたらに「ね」を使ってはいけないと。

(11)青森県のように方言に「ね」の用いられない地域で、「ね」を使
えばただちに共通語になるように心得て、教師がこれを乱用し、児 童までが教室における問答や討議でこれをしきりに間投するありさまには、賛成できない。

といってます、乱用しなんて言ってます。

NHKの学校放送で東京のこどもたちの物言いを聞くと、一般に  この「ね」や「あのね」の間投詞が多すぎるようで、いわゆる「−−しちゃった。」のチャッタことばなどとともに、わたくしはこれ を東京方言的なものと思っている。こういう癖をほうっておくから、おとなになると、例の間投詞「ですね」の乱用をも平気でする ようになるのではなかろうか。

忸怩たるものがあります。(12)これは肯定的なほうですけれども、

(12)筆者の中学時代は「ネ」という助詞をたいそうあかぬけのした  都会風なことばだと感じていた。自分たちのそれは「ネヤ」であり、助詞は「ノウ」であった。それが今では小中学生の間で、少し のためらいもなく「ネ」が用いられるようになっている。この変化は、二十数年間の時の流れの中における、ことばの移り変わりであ ると同時に、それはまた、生活の変革でもあり、あるいはまた文化の発展の一断面を表すものともいえよう。

ちょっとニュートラルな立場で書いています。

 こういう印象の違いがあるわけですが、実際にそれでは「丁寧を表す助 詞、終助詞はどういうふうに分布」しているのか。前回も標準語とか共通語の話題が出てきましたので、それに関係一部はすると思います。

 大雑把に見ますと(13)番というところで、

(13)東日本ではぞんざいな場合は男女とも〈ナ〉を用い、その丁寧 表現が土地ことばでも〈ネ〉あるいはネの系統の語を使う地方が多い。

小さい字で書いてありますが、東京は当然この地域に含まれて、これが標 準的な用法になっています。女性は〈ナ〉は使わない、竹内さんはどちらでしたっけ、ご出身は、長野ですか、長野はナを使うんですか女性が、使 わない、東京も使わないでしょうかね〈ナ〉は。そうすると女性というのは〈ネ〉しか持ってない、終助詞、こういう用法としては、そういうこと になりますか。

(14)西日本では、丁寧な場合にも〈ナ〉を用いる点、東日本の〈ナ〉 とは待遇上多少のずれを感じさせる。

愛知あたりから西の近畿、私もこの範囲に入ります、岡山県ですので。

 平田 〈ネ〉に当たる部分がほとんど〈ノー〉になるということですか。

 高本 えーとですね、いま私は「えーとですね」と言いましたけれども、 これが普通だと「えーとなあ」になります。「ノー」の場合はちょっと年を感じさせます、「えーとノー」

 平田 ああ、あの小津安二郎の『東京物語』みたいなのですね、あれも まさにそうですね。

 高本 だから〈ノー〉というのは僕の住んでる岡山、それから倉敷と尾 道に分布するような範囲では、お年の方という。あるいはそれを逆に使って何か相手に対して高圧的にものを言うようなときに使います。つまりぼ くは〈ナー〉なんですね、〈ネ〉じゃないですね。だからこれは獲得したんです、学習の結果。(笑)ところが学習が行き過ぎまして、どうも使い すぎるみたいです。特に〈ナ〉とも使い分けができない、東京の人だったら当然〈ナ〉と言ってるところが全部〈ネ〉になってしまうので、どうも これではないかと(笑)思われた時期があります。これは岡山だけではなく、茨城の出身の僕の友人がいるんですが、茨城も〈ネ〉は使わない、そ うすると〈ネ〉を使うために努力が必要だ。そこでどうしてもばか丁寧に聞こえるからオカマっぽく聞こえるかという印象。例えば、「明日いく な」って男同志だったら言うような場面でありますね、そこが全部〈ネ〉になっちゃうもんですから「明日いくね」と男同志。

 平田 女性的になっちゃう。

 高本 しかももっと重要なことは、「デス」「マス」のいわゆる丁寧を表 す学校文法でいう助動詞関係が、岡山ないですね、あまり使わない。で、茨城もないんですよ。そうするといま僕は「デス」といってますが、これ も学習の成果なんですね。そうすると「デスネ」というのがどうしても一緒になって出てきてしまって、さっきも言われてましたけど「デスネ」の 乱用ということになって、何かを守ろう、言葉遣いの中で守ろうとしてしまいがちになります。

 小林 ちょっと雑談になるんだけど、例えば、〈ネ〉と〈ナ〉の違いで、 僕の周辺を考えてみると、僕はふだんは自分のことを「僕」と言うんですね。そうすると僕と言うのと〈ネ〉というのはわりに結び付くわけだ。そ れで息子何かを見ていると、「おれ」という言い方をするんですよ、僕はやらないのね「おれ」という言い方は。で、息子も相手によって変えてる。 そうすると「僕いくからね」になるし「おれいくからな」になるわけね。

 高本 係り結びみたいなものですね。

 小林 僕自身はだから〈ナ〉という言い方というのは、何か少し乱暴な
言い方というふうなニュアンスがありますね。

 平田 〈ナ〉はもう30超えるとほとんど使わなくなってくるんじゃない ですかね、局面としては。相当ぞんざいな感じになります。

 高本 そうすると岡山弁でいう〈ナ〉と〈ノー〉の違いが、こちらで言 えば〈ネ〉と〈ナ〉の違いに相当するのかもわからないですね。

 小林 僕のあれで〈ナ〉というのは、少し相手に対して上のあれをもっ てるようなニュアンスがあります。

 高本 見城さんどちらですか。

 見城 僕は東京近辺ですねずうっと、だから埼玉とか。

 高本 いろいろぐるぐると、埼玉のあたりも、しかし地域によってはか なり差がありますね。

 見城 ええ、だから要するにベッドタウン近辺なので、あんまり言語的 アイデンティティーないんですが、ただ、両親が群馬なので、北関東の言葉というのはわかるんです、だからぞんざいに聞こえるというのはよくわ かって。

 高本 喧嘩してるみたいに聞こえますね。

 見城 丁寧語ないんですよ、女性でも何でも「何々なのかい」とか言っ て、「何々だんべ」とか言って。

 高本 だからそういう人たちが「デス」「マス」を獲得していくという のは、適切なところだけにむしろうまくいけばいいですけれども、失敗するのを恐れるとどうしても付けすぎになる傾向というのは出てくると思い ます。そういうことでちょっと先へ、ついでですから。それで5ページ右のほうへいきますけれども、

(16)〈ネ〉は、東日本だけでなく、西日本にも共通語として若い層に 広まっています。

 *西日本の辺地(これまずいですね)、たとえば紀伊半島、山陰、 九州、 四国の山間部などに〈ネ〉〈ネー〉〈ネヤ〉〈ニ〉〈ニー〉など、(〈ヌ〉というのが意外と出てきませんが、〈ナ〉〈ニ〉〈ネ〉〈ノ〉というナ系統があり ます)この系統の複合的なものもある。そして、標準語とは逆に、これらの地方では、たとえば、鹿児島では〈ナ〉は敬う、丁寧な、〈ネ〉という のはそうでもない普通の、というところがあるわけです。

そのことが次の5.2.4にありますが、


3-4 様々なネ

 共通語と方言とで、終助詞、間投助詞の体系性にずれがある場合、その 違いをどのように処理し、また、合理化するかという点が問題になります。

 (17)番にこういう逸話があります。

(17)ある学者は「鹿児島市付近の方言では間投助詞にナーとネーの 二つあって、前者は目上・年上の人に向かって言うときに、後者は目下・年下の人に向かって言うときに使われる。したがって、この 地方の人が共通語を話すときには、両者の区別を捨て、いつもネーといわなければならないのであるが、ついうっかり段階の高いナー を使ってしまうことはあっても、いつもネーで通すことにはかなりの抵抗を感ずるようである」

1955年当時ですから、いまはかなり変わっているとは思いますけれども、 こういういわゆる共通語教育とか、標準語教育の中で、心の中の一つの引っ掛かり、そしてそれが実際に人間関係の中で、「なんでお前こんな乱 暴な言葉遣いをするんだ」「だって学校で教えられましたから」なんていうやりとりがあったかもしれないわけです。

(18)群馬や関東において(これすごい比べ方です、群馬は関東では  なかった)聞かれる[敬語]の誤用の根本には、この(これは僕 が入れたんですが)[近畿以西に多く見られる複雑敬語に対して] 簡潔敬語系の生活言語という基盤があったのである。この地域においては、標準語の敬語の指導に際しては、まったく新しく身につけ るときのような慎重さが必要である。またこの地域で女性が生活言語の中間に間投助詞「ね」を用いて、特別な待遇表現をしていると 考えたり、「なぜヨ」「おれのだヨ」と「ヨ」をつけて言って待遇表現を表しているのは、この理由によるんだと。

結構やっぱり群馬とか栃木とか茨城、この「ヨ」がよく出てくるんで、共 通語感覚でこの「ヨ」を聞くと、何だか変でかえってぞんざいに聞こえるんですが、実は使っているほうは一種の丁寧語として使っている可能性が あると、大変なことです。しかしいまのは1957年当時の指摘ですから、そのあたりちょっと割り引いて、歴史的証言として聞いてください。

 今度は少し新しいものも入ってきますが、


3-5 助詞を無理に無くした結果?

 終助詞、間投助詞の問題と、イントネーションの問題とが関係するとい
う指摘があります。

(19)たとえば、名古屋市方言で、若い女性が「ソレデネー アノネ  ー」という「ネー」の部分は、そこだけ卓立して、高から低へ急に落ちて、長く引くといった調子のものであるが、このイントネー ションは名古屋市方言で「ソレデヨー アノヨー」または「ソレデナー アノナー」の「ヨー」「ナー」のイントネーションと まっ たく同じものである。方言のイントネーションで東京共通語 の「ネ(−)」を口にしているわけである。

これは柴田武さんの考え方ですけれども。こういう方言のイントネーショ ンというようなものがかかわっているという考え方です。

 もう少し新しいところで筑波大の城生佰太郎さんの考え方は、

(20)「それでー」「だからー」という、語尾を伸ばしてイントネーショ ンを上げるしゃべり方が出てきてから随分と時間がたつ。そもそもこんなしゃべり方が世の中に浸透してしまった原因は何なのか。 「一つの説として有名なのが“ネサヨ廃止運動”ですね。終助詞の『ネ』『サ』『ヨ』は品が悪いので禁止しようという教育が、60年代 に小学校の授業で活発に行われていたんです。ところが、終助詞を禁止してしまうと「それでー」「だからー」と語尾を伸ばしてしゃ べるしかないわけで、それがしり上がりのイントネーションの元祖というわけです」

本当かどうか知りませんが、学生運動のアジ演説がもとになってるとい う、これも本当かどうかわからないのもありますけれど。この記事を僕見て、すぐ城生先生に電話をしまして、あの通り先生はお話になったんです かといったら、結構これは記者が作った作文のようです。そこまでは僕は言っていないけれどもと。

 見城 そこまではと。(笑)

 高本 そこまではと言ったということですね。ネサヨ廃止運動について 少し話をして、そういうのもイントネーションに影響を与える一つの要因になっているかもしれないけれども、そんなことは慎重に調べないとわか らないみたいな言い方をしたらしいんですが、それは断定で伝わっております。

 5.2.6が結論みたいなことですけれども。

 以上のように、終助詞、間投助詞の「ネ」の使用については(1)国語 教育における言語矯正という観点があります。言語矯正というのは言葉を直すことによって、何かいいことがあるということが目指されていたわけ
です。例えば、方言による差別意識、被差別意識というようなものからの 解放というのが念頭にあったからこそ、共通語を使おう、美しい言葉を使おうということがあったはずです。

 (2)社会言語学的な観点、共時的な、例えば、終助詞のいまの分布である とか、歴史的にどう変わってきたのか、そういうような観点を有機的に結びつけながら、社会語用論の立場から考察する余地がありそうである。だ から方言研究とか社会言語学というのは、どちらかというとこの(2)番の側面をいままで取り扱ってきたわけで、あるいは、教育学というのはどちら かという(1)番の観点を取り扱ってきたわけで、その間を横断するようなものの見方を、もしかすると社会語用論は提供してくれるかもしれない。

 そのことは「ネ」について、(A)使用意識と使用実態の変化に伴う文法化 の問題、これは難しい問題でいまは解説しません。

 (B)使用意識と使用実態の背後にある言語抑圧と解放(場合によっては補 償)の問題を、マクロ語用論の立場から考察することに通じる。さらにそれは、すでに多く蓄積されてるミクロ語用論的な「ネ」の研究成果、「ネ」 の研究成果って本当に多いんです、いまでも日本語教育をやってる人は必ず一本ぐらい「ネ」について書くんじゃないかと思わせるぐらい「ネ」の 論文は多いのですけれども。そういうのも改めて見直す機縁となるのではないかということで、今日の話はむしろいまの(B)のところで、使用意識と 使用実態の背後にある言語抑圧と解放の問題ということを中心にお話をしました。ではよろしくお願いします。


4-1 正しいことばを指導する

 見城 ちょっと前に全く同じようなことがありまして、つまり全国レベ ルで言葉の乱れと見なされるような現象が見えてきて、それに対して新聞の図書欄で「あれはけしからん」というのが出てきたら、「いや、あれは 実はこっちの地方では昔からある言い方で、それを否定されてしまったら困る」という、あれ何でしたか。

 松本 「ラ」抜き言葉です。

 見城 「ラ」抜きか。

 平田 「ラ」抜き言葉が何度か波があって。

 高本 新聞の投書というのは、その手の何か足りなくなるとそういうの で間を埋めるというところもありますからあれですけれども。

 平田 「ラ」抜き言葉の場合は、やっぱり国語審議会の答申が大きく
かったんです。で、本多勝一さんなんか、伊那は「ラ」抜きなんでしょう もともと、津軽も「ラ」抜きだし、それは局地的にもともと「ラ」抜きのところというのはずいぶんあって。

 高本 そういうのは体系としてそれぞれが持っている問題と、それを教 育の中に認めて、いわばお上の、権力側のお墨付きを与えるかどうかというところの問題と、かなり違う部分があると思うのです。共通語としては 認められていないような言い方も、生活言語の中ではどんどん使っているわけで、そこまでのことを、生活言語レベルでも使うなというところまで はいってはいないわけですね、学校教育のほうも。しかし、実際にはそこのところが得てして拡大解釈をされてしまうところから、そういう何か議 論にならない議論みたいなのが生まれてくるんじゃないかなと。

 見城 でもその、要するにそれは教育のための言語であって、生活言語 でないというのは、ちょっと無理がありますよ。日常生活では勝手にしゃべっていいけど、学校では。

 高本 元来教育の側の人はそういうふうに思ってないはずなんですよ。 日常生活の言葉もより豊かで、より正しく、より美しく、エレガントにというのを考えるから、学校教育の場合そういうこと出てくるんだと思うの です。使い分けろとは言ってないはずです。

 見城 この前の美しい日本語を響かせるという話とかかわってきますけ ど。

 平田 これは雑談ですけど、「指導」というののこの英語訳で、桐朋学 園という演劇の専門の大学があるんですけれど、ここでは演出のことも「指導」と言うんです、だからディレクションも入りますね。(笑)だから、 例えば、蜷川幸雄さんていま桐朋で教えているんです、その蜷川さんという国際的な演出家が演出しても、大学の中でやる以上はそれは「指導」に とどまるんです。何でかわからないですよ、それは。文部省との関係なのかどうかわからないんだけれども、指導という。

 高本 文部省はそんなとこまで言ってないはずだから、むしろ学校から の。

 平田 何かの習慣なんだろうけれども。まあ逆に演出家が責任逃れをす るために指導という言葉を編み出したのかもしれないですけど、自分の演出作品ではないということにするために。

 小林 何かこの前長男が煙草所持で、(笑)呼び出し食らって、それで 僕フーコーへいっちゃったわけだから。そのときに校長先生が、まず指導主任かなんかのおばさんが、こんな感じのイヤミ君のお母さんみたいな感
じのおばさんがまずきて、司会進行役か何か、校長先生は静々と入ってき てさ、「ただいまから指導を始めます」と言うんだね。やっぱりあの学校での「指導」という言葉というのは、本当に素晴らしい言葉ですね。(笑)

 高本 普通の日常レベルだったら、それ笑うでしょう、ところが笑えな いんですねそのときは。すると小林さんも……。

 小林 笑うことが許されないわけ。

 高本 笑わなかったはずですよ。

 小林 いやもう、ほとんど切れかかりましたけどね。だからそこでのそ ういう学校という空間の中でも、まさに言葉の使われ方というのは特殊ですよね、ものすごいね。

 高本 はっきり言ってしまえば、学校がそういう制度である以上、授業 のやり方とかということでいくら頑張ろうとしてもだめなんであって、もうすでにそれは崩れかけているんだろうと。そのことの逆に、僕は学校と いうのは権威をもっていなければ教育というのは、ある意味では成立しないと思うのです。権威がない人が何かやろうと思っても、それはアナーキ ズムに陥るだけだと。ただ、ある意味では学校がうまくいってないのは、学校が権威を持ちすぎているからじゃなくて、学校とか教員が権威機能を 果たしていないとか、権力機能を果たしていないから、こういう状態がだんだんと、まだ蔓延するだろうと思いますけれど。学校がそういう権力を 持っていることは、教育という制度を認めるのであるならば、同時に認めなくちゃいけないことだろうと思うのです。そのあたりの議論が民間の教 育サークルなんかが言ってることを、すべてもし学校側が受け入れてしまって、よくいえば民主化する、悪くいえば一種のアナーキズム状態に陥 ると、なってしまうとそれはもはや学校とは呼べない何か別のものになるんじゃないかと、個人的にそんなことを思っているんですけど。

 小林 さっきの話に戻ってしまうのですけど。さっきの「共感と連帯」 みたいな話のところで、あれっと僕が思ったのをあとで整理してみると、要するに共感と連帯ということが、そこへ入れない人は排除するような仕 組みというのがあるわけで、そういうことを一瞬僕は思って、何かこの言葉に対する違和感を持ったんじゃないかなと、これ補足ですけど、さっき の。

 高本 共感しろ、共感しろと言って、これ何か共感て自然に共感できる ことであって、共感しようと思うから共感できるというのは、本当はちょっと違う共感だろうと思うのです。小林さんがいまおっしゃることと いうのは、実は前回僕が少し言いかけたことと関係するんですけれども。
メディアが持っている一つの構造として、例えば、電話のメディアという のはいまはNTTだけではありませんけれど、いくつかの電話会社が、あなたもうつなぎませんよと言ったらつながれないというような一つのシス テムを持っている。

 いまの「デジタル時代のことばと文化」ですから、多少新しい話題を、 1950年代、60年代から離れていまの話にもっていくと。いまのインターネットを中心としたような電子メディアというのは、まさに小林さんがい まおっしゃった、入れない人を排除するという仕組みをどの程度もっているのかということがまず一つですねシステムとして。もう一つは、いまま でのメディアでは共感や連帯が持てなかった人たちに、新しい可能性を与えているかどうかという点で、僕は後者についてはこれ与えていると思う のです。

 まだあまり表には出ていませんけれども、これからもっと増えるのは ネットを使ったいろいろな心理療法、セラピーというのが出てくると思うのです、インターネット・セラピー、一部の人はもうやっているはずです けれども。そういうようなものというのは、従来電話を掛けて肉声を伝えたい、あるいは手紙に書いたり、直接出向したりすることでは伝えられな かった相談事とか、さまざまな問題に対する指摘とかというようなことが、そのインターネットのメールとか、それに類似した媒体を使うことに よって可能になっているのだとすれば、Meyの言う共感と連帯に一歩踏み込んだメディアが、仲介者として果たすべき一つの役割を担っているん じゃないかと思うのですけど。

 ついでに肯定的なことに必ず否定的なことが伴うと思いますから、否定 的な点を言うと、逆に操作がしやすくなっているという点も、同時に言えるんじゃないかと思うのです。その操作がいい方向に向かう操作である場 合というのは、言語操作というのはあまりそういう事例というのはないんで、そのときはみんないいと思って、例えば、「ネサヨ運動」というのを やってるときは良かったんだと思うのです。僕の調べた範囲では、これは腰越小学校からいきなり北海道へ飛びます。北海道からどんどん南下して いくという構造で、全国にこれは広まっているんです。この腰越小学校、江ノ島の水族館のあたりにいかれたときはちょっと寄られてみると、全国 の協力校の名前が石碑にずっと彫ってあります、全国にまたがっていて楽しいですね。いま悪口しか言われないんですけれど、僕はそれはやってた ときには熱意を持ってやってた方は、きっと何か信念を持ってやってた。悪い側面ばかりじゃなくて、この運動をもう一度見直してみると、そこに
は何かいい面もあるんじゃないかと思っておりますけれど。

 小林 この(6)番のMeyの引用と、(7)番の石碑って、これすごいよね。 (笑)まさにコンテクストによって意味合いが逆転しちゃうわけでしょう。

 見城 「ネサヨ」という言葉も、やはり一つの機能、会話の中で一つの 機能を果たしているわけですから、その機能を代替するものを与えずに、一つの要素を消してしまえば、無理はきますよね。


4-2 湘南ことばの逆襲

 高本 僕はそんな深く考えないけど、そのくらいなことわかりそうなの に、どうしてこんなに広まったのかというところが、やっぱりその時代背景、社会とのかかわりですね。当時集団就職とかでさまざまな問題があっ ただろうし、地域差別、いまで言えば鎌倉というとちょっといい感じで、いってみようかなと思うけど、その当時は漁師町のその腰越なんかで何と かかんとかでというのはあったかもしれない。

 小林 60年代の初めでしょう、加山雄三が出てくるのが60年代の半ば ぐらいだと思うのです。実をいうと加山雄三の出てきた頃の彼の言葉、湘南言葉なんですけれども、要するに腰越の言葉とほとんど同じなんです、 彼はもう少し茅ケ崎あたりなんで。だからそのときの加山雄三が出てきた 頃の「だからさー」という「さー」というのはものすごく新鮮に響いたは ずがね、そこのところで何かその5年ぐらいの間で随分言葉のニュアンス が変わったんじゃないかと思う。
 高本 石原裕次郎はどうなんですか。
 小林 裕次郎はもっと前ですね。
 平田 もうちょっと出てるんじゃないかなあ。
 高本 裕次郎にしても加山雄三にしても、やっぱり影響力という点では かなり大きいですね。
 平田 僕はあと『お化けのQ太郎』の主題歌もそうなんで、あれは「あ のね、Q太郎はね」でしょう、全部出るんです。「お化けなんだけれどや さしいやつさ」と「サ」も出てくるし、全部「ネサヨ」は出てくる。
 小林 あれっていうのはちょっと穿った見方すると、藤子不二雄ね、片 側いま、だけだけど、その彼ら富山でしょう、そういう人たちから見たあ る種のモダンさというか、そういうのが何か主題歌の中に入ってるとも考 えられますね、あれ作詞だれなんだろうね。
 高本 二番目の『おばQ』は何年ぐらいでしょうかね、1970年代の半ば
ぐらいですかね。(略)
 平田 この「ネ・ハイ運動の」の「ハイ」のほうというのは、これはやっ ぱり「ウン」とか「アア」とかですかね。
 高本 たぶんそうだと思うのです。何か福岡県の筑穂町というところへ いってみると、それが何と言ってるか。
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4-3 日常のことば、思考のことば

 平田 僕また今月末もいきますから、僕いま毎月通っているんですここ に。この女子校生の死んだ飯塚もいってるんです。それから飯塚、中間、 岡垣、筑豊の旧炭鉱地区にいっているんですけど、確かに言葉はすごい汚 いです。それで小指のない市議会議員がいるようなとこですから、すごい んですもう。それで僕が面白かったのは、去年最初にワークショップに いったときに、僕のテキストを使うわけですけど、僕のテキストは「ね」 とか「さ」とか「よ」がたくさん出てくるんですけどやってもらって、別 に自分たちの言葉に変えてもらってもいいですと言ったんですけど。その うち50代ぐらいのおばさんたちが、このテキストはおかしいと、こんな普 通にしゃべってるのはおかしいと。だから芝居の言葉というのはもっと格 好よくないとだめだということ、もう相当、これ津軽なんかでもそうなん ですけど、方言がひどいところほど、その生活言語と舞台言語の乖離が激 しいんですね。格好いいこととか、知的なこととか、論理的なことは標準 語で話さなければならない。で、話し言葉も話し言葉であって、舞台言語 と別だという認識が非常に強くなっているんです。
 これお話したかもしれないのですけど、去年高校演劇の全国大会の審査 員をやったときに、四国のある学校が、高校生が、これ先生が書いたんで 先生が明らかに悪いんですけど、前半は兄弟の会話でずっと方言なんで す、香川県なんですけど。が、後半のちょっと野田さんっぽい感じの芝居 なんですが、後半そういうふうになっていく、イメージの世界に入ってい くと、長い台詞が全部標準語になるんです。だから舞台があって、役者同 士が向かい合ってしゃべってるときは、お客がこっちにいると、横向きで しゃべってるときは方言なんです。ところが役者が観客のほうを向き出す と、これ全部標準語なんです。訴えかけること、主張すること、論理的な こと、イメージの格好いいことは標準語でしか表現できない。で、本人た ちはそれ全く無自覚にやっているんです。
 高本 その問題で僕も実は別なことから関心をもっていたんです。形の ない言葉を研究したいと、つまり内言なんですけど、心の中の言葉はどう いうう形式をもっているだろうか。女房は岡山なもんで、我が家では岡山 弁でずうっとしゃべっている、岡山弁忘れないでしゃべることができてい るんですけど。心の中で自分でモニターしながら、どうだったかなと時々 思うのですけど、そうすると、例えば、こういう難しいようなことを考え てるときは、本の言葉というか、活字の言葉で考えているんですね。畜生 あの小林はというような感情的なことを表現するときには、方言が出てま す。そういう何か、よくわからないですね、モニターしてるときはモニ ターされているということを自分で気がついてるからそうしているのかな と思ったり、はっきりしたことは言えないのですけど。
 もしかすると、もうその人は本当にうっかりして、戯曲を書いてる人は そうしているんだったら、それは論外かもしれませんが、もしそういうこ とも内省した上でやっているのであるか。
 平田 そうなんです、だから僕の友人で青森に住んでる長谷川こうじと いう、いま売り出し中の劇作家がいるんですけど、かれは方言の芝居書く んですけど、戯曲書く段階では全部標準語で書いているんです。彼は大学 が東京だったので、ものをまとめて書くという作業は標準語でしかできな いんです。それともう一つはワープロの変換ができない、津軽弁で変換で きませんから。で、それを稽古場で津軽弁に全員役者を通じてなおしてい くという作業をしているんですね。
 見城 それは何か論理的に思考するときに標準語というか、一種独特の ニュートラルな問題を考えていくというのはすごい圧力であって、僕の妻 は大阪なんですけど、要するに面と向かって恋の告白するときは絶対「好 きやね」という言葉しかあり得ん。だけどラブレターでそれをやれるかと いいったら絶対できない、要するにラブレターを書くときには「好きで す、付き合ってください」という形で標準語でないと絶対それはおかし い。
 小林 そういうのは奥さんの?。
 見城 の主観ではなくて、それはもう関西の統一的な見解。
 高本 でもそのときにさ、「好きです」じゃなくて「好きですウ」にな ると違います。(笑)
 見城 いや違う。

 平田 あと、だからパソコン通信のときどうなるかというのも問題です ね。
 見城 パソコン通信は問題で、ただね、そこで複雑なのは「F関西」と
いうフォーラムがあって、そこは関西弁しかしゃべっちゃだめというよう なフォーラムもあるんです。ただ、一般的にフォーラム見てて、書いてる 言葉だけからその人の出身地を当てるということは至難の技ですね。
 平田 金田一先生でもちょっと難しい。
 高本 それが逆に言えばさっきの話でいうと、いろんな情報を隠すこと ができるというのは、それがいい面に働けば遮蔽された中で自分の出した い部分だけを出せるということになるかもしれないですね。話し言葉だとどうしても、あっ、この人はあっちの出身だなみたいなことを、僕も意識 がいってしまうことがあります。
 見城 だからそれは話し言葉と書き言葉というのは、決して書き言葉と いうのは話し言葉の模写ではなくて、やっぱり一つの論理を持った別の言 葉、いってみれば別の言葉なのであるということの証左だと思います。
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4-4 言語の文化侵略

 平田 ただ大きな問題は、これもたぶんもう話したと思うのですけど、 僕韓国に留学してたときに、担当の教授が60歳ぐらいだったんですね、当 時。それでふだん僕との話は韓国語で話すのですけれども、日本語はもち ろんしゃべれるんですけど拙いです、ほとんど使ってないので、日常生活 使ってないですけど。ただ、時々日本語の本を持ってきて、これを漢字、 訓読みをどう読むんだとか聞かれるわけです。哲学科の先生なんですけ ど、現代思想の本なんかでも、韓国語訳と日本語訳があると日本語訳を選 ぶと。だから彼は大体旧制高校ぐらいまでを、だから哲学の最初のカント とかを読んだのが日本語なんです。だからその難しい理論的なことを考え たり、読んだりすると書くのはもう韓国語だと言ってましたけど、吸収す るほうは両方出てたら、いまでもですよ、例えば、デリダの本で日本語訳 と韓国語訳が出てたら、日本語訳を選ぶというんです。
 これは相当深い部分まで、文化侵略してるということだと思うの
です。で、それを最大限延長して、さっきの津軽の劇作家の話に考えると、 かつて日本の帝国主義がそういう形で文化侵略していったのと同じよう に、いま高度資本主義経済がテレビというものを売るための箱を使って、相当地方の文化を侵食しているのではないかということは言えるとは思う のです。でも、その側面でもちろん植民地主義にもいい点があって、悪い 点があったというのの、総体的な比較でいえば悪い点のほうがものすごく 多くて、しかし高度資本主義社会がもたらすいい点と悪い点というのは、
これとはちょっと比べられないという点はありますから、そんなに単純な 比較はできないけれども、文化の側面だけいうと、そういうことは言える のではないかと僕は思っているんですけど。
 見城 いまの韓国の先生の場合には、韓国語の中でも漢字を減らすとい う方向がありましたよね。それで、でも絶対その先生は教養として漢字文 化に属しているんです。
 平田 そうなんです、だから一つにはその問題があって、ハングル世代 じゃないですから、それ以降の人たちはハングル世代だから、ハングルだけでイメージで、いわゆる表音文字でその難しい論理も理解できるんです けれども。いま、哲学書なんかは漢字も表記されてますけど少ないですか ら、やっぱり漢字の多い日本語のほうを選んでしまうわけです。だから韓 国の場合非常に特殊な事情もあるわけです。これがたぶん中国や、あるい は台湾だったら、そうではないかもしれないですけれど。だから単純な比 較はできない。
 高本 中国へいくと、うちにも留学生がきてて、『言語学用語辞典』の 類いがいま中国でも非常にたくさん出てまして、それでなんか面白い項目 を、これどう読むのってちょっと留学生に読んでもらったりするんですけ ど。そうするとパニックに陥る部分がありまして、というのは日本語だと 片仮名で固有名を書きますけれども、それがすべて漢字になってるもので すから、何か途中までいってまた帰ってくるという大学生もいる、言語学 で「ガーデンパス文」なんていいますけど、そういうことが非常に頻繁に 起こるのです。それから、何か面倒臭いとかなんかいって途中で投げ出さ れたり、それもあるんですけど。
 小林 さっきの言語侵略、これは僕知らなかったけど、面白かったな あ。全然知らなかったんです、こういう人がいるというのも、恥ずかしい 話だけれども。で、この前国際社会の中の日本語という、国研がやってる プロジェクトがあって、あれの中間報告のシンポジウムにいったんだけ ど、それを聞いてて、この人たち能天気なことやってるなあと思った。 (笑)それ読んでみたら、要するに発想として、いわば戦前の帝国主義的 なその軍事による文化侵略というのと、全然変わってないねやっぱり。そ れはさっきおっしゃったように、平田さんおっしゃったように、武力が経 済に変わっただけで、構造は全く同じ。だからそういう「国際社会の中の 日本語」なんていうテーマ立てること自体が相当やばいんじゃないかと。 これ出すときあとでいろいろ消しましょうね。(笑)

<4-5 会話のつなぎことば

 見城 ちょっと話戻っちゃって個別な話なんですけど、「会話のつなぎ」 というのは、やはり個人によってすごくバリエーションあるし、文化に よってもバリエーションあって、見ていくと面白いと思うのですが。一般 的な印象として僕がいつも思うのは、英語を話す人たちというのは、わり と(You know)とか(I mean)とかという言葉を入れてつなぐんですけれども、わりといま僕「その」と言ったり「あの」と言ったりしますけど、 そういう余分な言葉というのが日本語に比べると入らないような印象があ ります。どこで調整しているんだろう、つまり初めから頭にすべてが入っ ていて滔々と話しているという側面もあるのかもしれないですけど、やは りどこかで調整をしている、つまりこういうふうにして話に詰まりそうな ときに、こういうふうに調整するという、何らかのストラテジーが働いて いるはずだと思うのですけど、どこにあるんだろうなというのがわからな いという。
 一つには、語のスピードというのがあって、話と話のつなぎのところで は、ちょっとスピードを緩めたりしてるという傾向があるかなという感じ もするんですが、そこは要するにトレーニングで、プレゼンテーションの トレーニングを積んでるから、そういうふうに滔々としゃべれるのか。 やっぱりそれとは違って、何かその場その場でアドホックに会話を自然に つなげていく、やはり一つのテクニックというのがあるのかなあというの を、疑問に思ったことがあるんですけど、高本さんそれについて何か見解 をお持ちですか。
 高本 そのあたりの調査はちょっと古いものですが、バーンスタインが やりますよね、その精密コードと、あのコードの中で、精密コードのほう はそういうつなぎ言葉というような。
 見城 つなぎ言葉の話も入ってましたっけ。 
 高本 (You know)とかっていうのはあります。そういうようなものが 比較的少ないという、そのために語彙数が増えるというのがありました ね。やっぱり一つは、見城さんがそういうのを聞かれる方というのは、日 本とは比べものにならないくらいの話し言葉についてのインストラクショ ン受けていると思います、さまざまな学校、家庭で。もう一つ別の側面で いうと、そういうプレゼンテーションをしたり、何か発表したりするということの気持ちの持ち方も違うんじゃないかと、その準備の仕方も含め て、あるいは表現の仕方も含めて。何か日本人というのはどちらかという
と、「こんなつまらないことやっています」というような、そういう謙虚 な姿勢を見せて、訥々と語るというようなのが、まだいまでも一つの美学 であったりしますから、そういうところとの調整をする、一種のスレシュ ホールド(?)が違って、高いレベルでそういうものを非常に排除するレ ベルで、自分の意思が働くのと、そういうのを少しは入れたほうがいいん だと、「えー」とか「あのー」とかと入れることによる効果というものを 期待する、それが共有されている風土と社会との違いがあるような気がし ますけど。
 平田 やっぱり韓国語なんかも、間投詞とか「ね」とか「ネ・サ・ヨ」 に当たるものもよく使いますし、それから「その」とか「あの」とかとい うのもよく使いますから。だから僕が韓国語を話すと、ボキャブラリーの わりに韓国人にすごくうまく聞こえるのは、その使い方がうまいからだと 僕は思っています。それだけ言ってれば、大体韓国語らしく聞こえるとい うとこがあって、逆によく言うのは、英語をちょっと覚えたてで、少し上 達し始めるとやたらと、(You know)を使う人とか、(I mean)を使う人が多くいて。それは僕はだから、でも韓国人は演説なんかうまいですし、話 し言葉の訓練はそんなにちゃんとしてるとは思いませんけれど、話すのは うまいと思います、日本人に比べれば少なくともうまいと思うのです。
 そうすると言語全体の構造の問題というのが一つあって、その「ネ・サ・ ヨ」とか、あるいは「あの」とか「その」とか、そういう間投詞に近いも のも含めて、そういったものによって主語がない機能を補ってるという部 分が強いと思うのです。主語がないからわかりにくいから、それを入れな いと、だれがだれにしゃべってるのか、だれとだれの関係についてしゃ べってるのかがわかりにくいんだと思うのです。だから僕はその背景のほ うが大きいんじゃないかというのが僕の持論なんですけど、これは別に僕 は勝手に言ってるだけで、言語学的な背景がなくて、ただ、予想というか、 僕の仕事の立場から言うとそういう予想で仕事を進める、作業仮説で進め ていくしかないんで。
 高本 よく言われるのは、「ネ」というものが構成するのは、同じよう な情報を共有しようという、そういう姿勢とか表現態度みたいなものを一 緒に伝えると。「ヨ」というのはこちら知ってて、あなた知らないでしょ うから、まああなたのためを思ってというような部分ですけど。必ずしも 内容を確認するというのが、原義な(I mean)とか(You know)とは違う機能をもって、しかもこれはかなり古くすらずっと綿々と使われている助 詞ですから、日本語の構造の中に十分組み込まれないといけないだろう と。
 僕はいつも問題なのは、「えー」とか「おー」とかというのは、あれは 言語として分節されているのかどうかというのが、何か言語屋でも何かう まくまかなえないところがあって、「うーん」とかになると、あれは言葉 なのかといわれると、何でしょうかねえ。
 小林 さっきの見城さんの話聞いて僕は思ったのは、あるときハンバー ガーがうまく頼めなくて、アメリカでボストンで、それ以来一生懸命英語 を聞く練習をしようと思って聞くわけですよ、テレビの英会話の、そのイ ンタビュー番組みたいなのを。そうすると全部じゃないかもしれないけれ ども、僕の印象では普通はパラグラフごとに日本語は切ると思うのです。 切って次の話をして、丸のところで切れると。ところが僕は随分英語を しゃべる人っていうのは、ある一つのパラグラフをやって、次のパラグラ フの頭までいって、そこで間をとってるのが多いような気がするんですね。それが要するに文の切れ目と息継ぎの切れ目がずれるものだから、も のすごく聞き取りにくい。一般的なのは僕ちょっとわかりませんけれど も、「あのー」みたいなのを挟まないで、まず主語まで決まると次の、そ こで何か考えるというのがあるんじゃないかなあと思ったですが、そうい う話ってどっかないですか。
 高本 あの、「あの」を申し上げたあとで、(笑)この前創価大学に勤め ている友達と話をしたときに、彼は日本語教育関係で留学生を扱ってて、 英語で日本語を教えなくちゃいけないという授業。そのテキストを英語で 書いてあるのを読むと、切り方が変だという指摘をする。その区切り方は 要するにさっき小林さんがおっしゃったパンクチュエーションところで点 があったら区切る、それからピリオドで間をおくというような、何かNH Kの教本か何かに書いてあるかもしれませんけど、そういう読み方をして ると、それは不自然だ。パンクチュエーションの表記の問題と、それから 音声の区切り目の問題とは、そういう質問が出るということは違うのでは ないかなと。
 小林 しゃべってる流れがあるじゃないですか、言葉が出てくる、その 出てき方というのは、日本語の出てき方と、英語の出てき方で、ぽっとこ こまで出て、さてどうしようというような、出てくるところと区切り方が 違うんじゃないかな。
 高本 そういうのは何かバイリンガルの人か何かにいろいろ聞いてみる といいかもしれないですね。何言っても僕は英語の直感なんて働かないわ けだから、日本語の直感だって地方出身者の悲しい性で、よく文法研究で
これは日本語として不自然ですよという印のアステリスク・マークを付け るというのがあるんでけど。あれ困りまして文法で、何がおかしいのかわからないけれど、アステリスクが付いてるとか、これはどう考えてもおか しくないはずなのに、アステリスクが付いてると。自分でそういう手法に 従って、アステリスクを付けようと思って、院生だったときにアステリスク付けて発表すると総スカンをくらいまして、これは言うと。
 小林 そこのところがね、そういう言う、言わないみたいな話が、標準 語とそれぞれの地方の方言みたいなことと、言葉のいろんなずれですね。 そういったものと、ある種のある言い方が正しくて、ある言い方が正しく ないみたいなそういう、いわば大きい意味で言えば権力構造みたいなもの と結びついちゃってるわけでしょう。
 高本 スタンダードがあるからそれを破るものが当然影みたいにあるわ けで、どちらもスタンダードでなければ問題ないわけですけれども、地方 と中央と言うほうがいいのか、共通語と言うほうがいいのか、その体系の 差がある場合に、ある一部だけを任意にとってきて、こっちにあるけど こっちにないという、だからあるほうがいいんだというような議論は、体 系が違う以上これは成り立たないはずなんだけど、しばしばそういう問題 にすり替えられていって。
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4-6 差異の認識の仕方

 平田 さっき共感と連帯といったときに、一番問題なのは差異の認識の 仕方だと思うのです。僕はすごくいまの言語を考えるうえで役立っている のは、僕韓国へいったときに英語で韓国語を教えるということをしてたん です。何でそうなっちゃったかというと、外国人というか、僕も外国人 だったわけですけど、欧米人と一緒に韓国語を習ったわけですよ、全くの 初歩から。15人ぐらいのクラスなんですけど、ここには日本人と在日韓国 人ですね、在日韓国人で全く韓国語が話せないという人がくるわけです、 親に言われて嫌々、金持ちなんでベンツとか乗ってくる。それから駐在員 ですね、日本の駐在員、これはもうとにかく仕事ですから、エリートです から。それから宣教師ですね、それから普通のアメリカの学生なんかもい るわけですけれども。そうすると15人ぐらいのクラスなんですけど、圧倒 的に日本語を話せる人たちが、もうとにかく圧倒的に早いんですよ速度 が、韓国語を習得するのが。もう驚異的に早いというか、全然もう、いわ ゆる日本人は外国語の習得に向いてないとかいうのは嘘だというのはすぐ にわかるくらいに、圧倒的に早いんです。
 例えば、在日韓国人で高校出たてで、大阪でヤンキーやってたような子 でも、アメリカのエリート大学院生よりも絶対早いです。かわいそうなぐ らいの、もうばかにするんですよそういう子たちは、何でこんなのわかん ないんだとかいって。で、僕はフィリピンからきた宣教師と、カソリック の宣教師と非常に仲良くなって、彼はフィリピンのカソリックの大学の副 学長まで勤めた大変なインテリなんだけど、40ぐらいですから言語がそれから習得するというのは大変だったんですけど、彼は非常に劣等生なっ ちゃったんですね、全然わからない。たまたま家に遊びにいったときに、 ちょっと宿題を教えてくれてと言われて教えたんですね、すごいよくわか るというんです。韓国人の韓国語の先生が英語をしゃべれなかったことも あるんですけど、僕は英語で教えて、非常によくわかると。そのときに何 で、それから非常に教え方が評判になって、その宣教師仲間がみんな僕 に、(笑)オーストラリアからきてる人とか、ドイツからきてる人とか、み んな僕に習うようになった。僕のほうもそこにいくと、その宣教師たちは アメリカ軍の基地にミサをあげにいくんで、アメリカ軍の基地の免税のス テーキとかビールとかがやたらあるんです。食べ放題でだからいけばそれ 食えるからいって教えるというのを、毎日のようにやってたんですけど。
 それで、そのときに、だからさっきいわれたような、「うーん」とか、韓 国語でいうと「クー」って「そのー」とか「あのー」とかというのが、こ れ英語で翻訳不可能な部分があるんです。それ全部、(You know)とか(I mean)になっているんだけど、これ(I mean)じゃないんじゃないか、(You know)じゃないじゃないかというんで、何でお前らそれがわかるんだとい うから、いや、これは日本語には同じ表現があるけれど、英語にはないか らあなたはいい、もう使わない。別に使わなくても意味通じるから、これ いい当面、あとで習えばいいからといって全部それカットして教えたんで す。ここは韓国語に独特の表現で、英語にはない表現だから、これは覚え ないでいいですということをやった。それが、例えば、韓国の先生は韓国 語に非常に愛着がありますから、韓国語全体を教えたい、韓国語独特の表 現を全部教えたいわけです。で、そこのところの差異が、やっぱり教えら れないと思うのです。ただ、単に韓国語と英語という比較だと。これ日本 語のもし非常に、ほとんどの日本人はそういう問題抱えてると思うので す。何で日本人が英語難しいと思うかというと、その差異が掴めないから だと思うのです。
 僕はだから小学校の時点から、韓国語と英語と日本語と一遍に教えたほ うがいいというのは、その点があると思うのですけれども。そうすると相 当言語というものに対して非常に客観的になれるし、総体的なものの見方 ができると思うのですけど。そこがたぶん小林さんもさっきおっしゃられ たように、単に共感とか連帯というとちょっと違和感があるけれども、そ の差異の認識というところから始めると、少しちょっと何かヒントが掴め るんじゃないかなという感じがあるんですけど。
 高本 いまのお話でちょっと思い出したことがあるんですけど、いま小 学校に英語教育を導入するかという議論が、肯定派、反対派でやられてま すけれども、いま平田さんがおっしゃったことの重要性というのは、何で 英語だけが選ばれているのかと。外国語教育を早期から入れるというの は、それはまあ別にだれも反対しなくてもいいかもしれないけれども、何 で英語を選ばれているのかというところに、どうしてもうさん臭さが伴う ということは確かですね。韓国語の場合と日本語と文法構造も似ている、 ただ、文字という点で入りづらい点がある。そのあたりが克服できて、音 声表現だけのやり取りでやっていくのであれば、小学生レベルで、英語よ りもむしろいいと思うのです。
 平田 だから僕は、例えば、「ネ・サ・ヨ運動」が、というのはもう明 らかに高度経済成長というテーマに引きずられてコンテクストを見落とし てしまった、個々のコンテクストを見落としてしまったということで言え ば、いまの英語を初等教育からというのは、国際化というテーマが、日本 にとって非常に切迫したテーマがあるために、コンテクストを見落として しまってるという感じなんです。
 見城 ただ、一面で、例えば、これは韓国語の話ですけれど、韓国語を 日本語と語順が近いとかいって、初めは覚えるのは早いかもしれませんけ ど、それがために見失われてしまうコンテクストの違いというところもあ るような気がするんです。むしろそれは付き合っていく中で、あるとき突 然、ヨーロッパ人と付き合うときだったら、はじめから何か通じないとい うことなんでしょうけど、初めにアジアの同胞みたいな感じで、やたら安 易に共感をもっちゃって、だけど付き合っていくうちに僕は結構何かこう いうところでは理解し合えないんだなというようなことが、そこまでいけ ばいいですけど、その前の段階で、ああやっぱり何かアジア人同士はいい やみたいな形で、その問題が、いってみればコンテクストのずれが明示化 されないレベルで終わってしまうと、逆にちょっと困ったことになり得る なあという感じはするんですけど。
 平田 だから僕の場合でも、英語というものがあって、それからフラン
ス語も少し文法は習ってましたから、それがあって韓国語を習いましたか ら、非常に相対化できたんですね。だからやっぱり3つぐらい、日本語も 含めて3つぐらい一緒に教えるということのほうが大事であって、1つの 言語を習得するということは、もはやあんまり意味がないんじゃないかと いう感じなんです。
 高本 微妙な小説書や詩が読めるようになったり、その国が持ってい る、民族が持っている文化遺産に遡って読めるようになるものは必要ない と思うのです。しかし、お隣りさんぐらいの言葉、その中で自由な選択が できるということが大切で、韓国語、ないしは朝鮮語を選ぶ人がいてもい いし、ロシア語を選ぶ人がいてもいいし、中国語、あるいは上海の方言を 選ぶ人がいてもいいと。そういう選択をなぜあらかじめ排除して、英語で なければならないかというところに、小林さんの問題意識もあるんだろう しと小林さんにふります。何か言いたそうにしてたから。(笑)
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4-7 厳然たる言語の力関係



 小林 僕はそんなにこのことについて、そんなに楽観的にはなれないわ けで。さっき言った国研の「国際社会の中の日本語」というシンポジウム は、いかに能天気かという話は、じゃあそのときに、この前話したかもし れないけど、タイの人と香港の人とインドネシアの人と、それからマレー シアの人がきてたわけですよ。じゃあそのシンポジウムをひっくり返し て、「国際社会のタイ語」というシンポジウムはあり得るかというとない んですよ。で、要するにそこでのいま言った「国際社会の中の日本語」と いうことは何かというのは、要するに国際社会の英語というのがあって、 かつては国際社会の中のフランス語というのがあって、その上での、そう いうコンテクストの中での国際社会の日本語というのがあって、要するに さっきの‘employer’と‘employee’の関係と同じで、言語を学ぶという ことに関して、勢力のある言葉とない言葉が完全非対称なんですよ、どう 考えても。
 そのことを、それは残念ながらもう事実としてあって、それを抜きにし て、申し訳ないけれども、じゃあ韓国語を習うこともあってもいいタイ語 を習うこともあっていいとは僕は言えない。僕がやるにしても英語を学ば なければならないと思うときというのは、やっぱりそれなりのそういう、 いまの世の中の仕組みの中での必然性があって。例えば、僕が韓国語とか 中国語というのは知ったらどれほどよかっただろうと思いますけれども、 その意味は全然違いますよ。
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4-8 言語を学ぶということ

 平田 ただ、言語を学ぶというときに、実生活で役に立つという部分と 別に、例えば、数学を学んだからといって、ほとんど実生活に役に立たな いです、中学以上の数学は。ほとんど役に立たないけれども、ものの考え 方の役に立っているわけですね。僕はそっちのほうが重要だと思っているんで、その場合には僕は韓国語を学ぶ、中国語を学ぶというのは相当僕は 重要なことだと。
 小林 それはだからよくわかります、よくわかるけど、平田さんのそ の立場を納得したうえで、やっぱりそれはすごいマイノリティーだと思 う、そういう発想で言葉を扱うことができると人っていうのは。そのこと 自体がもうすでにある悪い言葉で言うと、もう特権階級の発想と思いま す。そんな形で言葉を選ぶということは、普通はなかなかできないですよ ね。
 平田 だから逆にいうと、何かの役に立つために言葉を学ぶと、教える 側が必ず権力性を持ちますよね。
 小林 持ちますよ、当然です。
 平田 そこが問題だと思うのです。数学なんかでもいまそういうことを できるだけ解体しようという数学教育が出てきてはいますけれども、秋山 さんとかああいう方たちが。だから生徒の側のほうが実はすごい発見をす るんだ。それは言語にも僕はあり得ると思うのです、僕がやってるワーク ショップなんてまさにそういうことだと思うのですけれど。そういうこ とっていうのを、少しずつでもしていかないと、ましてやマイノリティー であるという自覚、大体演劇自体マイノリティーで、(笑)マイノリティー であることは全く僕は構わないんだけれども。そういうことを少しでもし ていかないと、全体の流れとして、だから特に言語教育というのは権力性 が強いですから、当たり前ですけど、赤ん坊に教えるんだから、しつけと 同じですから。
 小林 だからそのMeyの、高本さんのレジュメに戻ってみると、やっぱ りトンネルの出口を探して、平田さんがそういう営為をなさることは、僕 は本当に敬意を表しますよ。だけど、これはだからどうしようもないこと ではあるんで。
 高本 そのときに重要なのは、小林さんが言っている言語のいわば所有 者みたいなものと、それから平田さんが言ってる言語の所有者が違うの で、だれの言葉を獲得しようとしているのかというのが、当然そこに入っ てくると。だから制度化された、あるいは覇権主義的なあるシステムの中 に組み込まれた言語というふうに、言語がその責任を負っているのじゃな くて、そういう使い方をしている人たちがいて、その一員、例えば、その 制度の中に入っていこうとするときに必要な言語となると思うのです。

 ところが小学生はなかなかそんなことを考えない、小学生の段階で少し でもいい、それによって自分が何か論文が書けるように将来なるための言 葉の習得ではなくて、もっと低い次元かもしれないけれども、それだけか なり奥深いところでその人のものの見方とか、ちょっと変な言葉を使えば 国際性ですね、そういうようなものを養う一種の基盤になってくる。そう いうことに大切なのは、日本語をいかに一生懸命、日本語の美しさとか、 日本語を何とかしようというふうに、一元的な見方でそこに意識を向けた としても、日本語自体を相対化できなければ、何が美しいかどうかという のもわからないはずですね。そういう次元での話と、それから小林さんが 言っている、いわばそれは第二の僕は言語習得というか、道具として、あ るいは何かの武器としての部分がどうしてもある。それは区別しないと、 議論は噛み合わないと思いますね。
 小林 それはよくわかるんですよ、よくわかる。で、いまの平田さんの 視点というのは、僕は否定しているわけではないわけで、もちろんそれは よくわかる、そういう形でのいろんな、それこそ異文化との出会いという のはあっていいものだと思うし、必要だと思います。ここで、がと言った らいいのか、ところでと言ったらいいのか僕はわからないのですが。
 高本 さて。
 小林 さて、なんだけど、世の中を見渡したときに、平田さん的ではな い形でのその言葉、特に外国語のその自分の母語とその習得すべき言語と の関係というのを、要するに権力構造と結びついた関係というのが、あま りにも多すぎると、そのことに目をつぶるわけにはいかない。
 高本 そういう制度化されたシステムというのは確かにあって、その制 度に何か乗ってしまうほうが楽だ。それを必ずそういう制度化されたもの というのを崩していくのはマイノリティーでしかないわけで、自らその既 得権を持っている側が、それを放棄するということは通常考えられないと 思いますね。だからマイノリティーですよというふうに、一言のもとに断 ち切ってしまうのはよくないので、マイノリティーだからこそ発言の機会 をもっと与える、そういういわばメディアというものを活用するという方 向に。
 小林 そこでさっきいいたかったんだけど、これは見城さんにいわれて 読んだ坂井さんの本に書いてあったんだけど、マイノリティーという言葉 が出てくること自体が、マジョリティーとの対比でしかない。そこでマイ ノリティーが発言するという言い方自体の中にも、すでにそのマジョリ ティーを認めてしまう構造が含まれてるというやるせなさね。
 見城 補う合う関係にあるということなんです。
(了)