注意! 内輪の会議の記録ですので、引用は厳禁です。NO ROBOT
1996.9.27.
見城 練れてないのですが、一応「ことば・メディア・コミュニケーショ ン」という題でレジュメを作ってまいりました。というのは、この題名が 表す領域が僕の現在一番関心の中心にあるところなんです。それではレ ジュメに沿って発表していきます。
とりあえず、「デジタル時代のことばと社会」という研究会が立ち上 がったわけですが、いまいちまだ、何を内容としているのかというのはイ メージ湧きませんで、自分の関心からつらつら考えてみるに、やはり一つ には、デジタル・メディアというものが、日本語というものとどういうふ うに関わっているのかということが、中心の話題になってくるのではない だろうかというふうに思ったのです。 そういうふうに考えたときに、 「ことば」と「メディア」ということについていままで語られてきた、僕 が知ってるかぎりで「ことば」と「メディア」について語られてきたいろ んな研究を振り返ってみたときに、とりあえず非常に大雑把なんですけ ど、ここに書いてあるような二つの立場を区別しておく必要があると思う のです。
一つ目は、メディアの中で交わされていることば、それはテレビの中で 人びとがしゃべっていることばでもいいですし、あるいは、雑誌の中で書 かれていることでもいいですし、メディア内の言語使用というのは、現実 の言語使用、現実の言語使用はちょっと変ですけど、要するにメディアと いうのを一つの閉じた空間とすると、メディア空間の外に現実空間という ものが想定されていて、「メディア内の言語使用というのは現実空間の言 語使用を反映している」というように考える立場。それは同時に、逆に「現 実世界における言語使用というものはメディアの中の言語使用というもの に影響されている」というふうにも考えるわけです。
この立場というのは、どこが一番中心的眼目かというと、要するにメ ディアというのはことばを伝えているのだけれども、その際にメディアは ことばを歪めずに伝えるというとなんか変ですが、メディア自体はニュー トラルなものである。だからメディアは仲立ちをするけれども、結局はメ ディアにおいて語られたことというのは、直接メディアの外の世界に影響 を及ぼすし、また逆も真なりというような議論の形をとると思う。
それでこういう立場というのはどこにおいて非常に顕著かというと、こ れはマス・コミュニケーション研究というのがあったというか、いまほと んど滅びかけている<そんなことをいうとまずいのですが>マス・コミュ ニケーション研究というのがありまして、日本においては特にアメリカ的 な実証主義的なマス・コミュニケーションというのは大きな力をもってい て、そこで「内容分析」と呼ばれるアプローチがあります。「内容分析」と いうのは、たとえば、新聞において、ある一つのトピックについて報道さ れたその報道の量というのを、いくつかの指標を使って確定しようとする ような分析方法で、たとえば、それは記事の面積だったり、あるいは文字 数だったりするのですけど、またテレビの内容分析だったら、報道時間と かいろいろあるのですけど。そういう形で要するにメディアの中で報道さ れている内容というのをまず確定しておいて、<確定しようという強い欲 求があるわけです>それを一つの独立変数、つまり原因として、それでは そのメディアで流された内容によって何が現実社会に引き起こされたかと いうことを、今度また別にいろいろ測定してその関係をみる。そうすると ある特定の事柄に関して報道が多くなったときには、それについて人びと の態度がこういう傾向にあったとか、そういう形で因果関係を想定するよ うな立場というのは、その背後にメディア自体は中立なものである。つま りメディアに流された内容というものが人びとの行動に直接的に影響を与 えるんだという前提があると思います。
それに対して、それと補い合うような第二の立場というのがあります。こ れは大雑把にいって「メディア論的な枠組み」といっていいと思うのです が、その場合メディア論といったときには、一番代表的なのはマクルーハ ンの議論に触発されたような、いろいろな研究の流れでいっていいと思う のですけど。そのメディア論的な立場というのがありまして、そのメディ ア論的な立場というのは、メディアの形式というと漠然としているのです けど、メディアの形というものに注目するのです。つまり、メディアとい うのはいま述べた第一の立場が前提しているように、予め存在している メッセージというのをニュートラルに流すだけの手段ではなくて、メディ ア自体がメッセージの内容の形自体を規定してしまっているのだと。だか らメディアの影響というのを考えたときには、メディアを通じて流されて いる内容だけではなくて、メディアのもっている形、メッセージをどうい うふうに構成するのか、あるいは、どういうメッセージが構成されやすい のかとか、そういうようなメディアの形式というものに注目するような立 場というのが、もう一方であります。
先取りしていってしまうと、僕としては第一の立場というのはやはりい ろいろな批判もあるし、問題があると思うのです。それは僕も第一の立場 と第二の立場を比較したときには、第二の立場のほうが今、この現在の社 会においてはすごくリアリティーをもっているように思うからです。
それをもうちょっと敷衍していきますと、たとえば、<僕も一度やろう と思って挫折しているのですけど>容易にことばとメディアとの関係とい うことで何か研究するときに思いつくテーマの一つに、「ワープロの社会 的影響」というのが考えられると思うのです。そのときに僕もこういう発 想を<すぐ自分でやろうと思うとしてしまいますけれども>ワープロを使 用することで、たとえば日本語の中で漢字の使用率とか文章の長さという のは、どういうふうに変化するかというふうに問いを立てて、いろんな方 法を使って文章の中の漢字含有率を調べて、おお、ワープロが出てきてこ んなに変わったという議論はすぐ思いつくし、実際やっている人もいる し、それはそれなりにいろいろ面白いとは思うのですが、ただ、そういう 形でワープロの社会的影響というのを測っていったときには、問題の核心 というのはやはりメディアを通じて流されるメッセージというところにの みおかれていて、そもそもメディアのそういうワープロ以前の筆記テクノ ロジー、筆記のための手段というものと、ワープロという新たな筆記のた めの手段というもののメディアの形の違いというものというのは、わりと 見落とされてくる傾向があったと思う。あるいは、ワープロによって情報 というものの流れ方がどういうふうに変わってくるのかということが、大 きく変わりつつあるということが見落とされがちだったと思うのです。
それに対してこれは僕のことばではなくてメイロウィッツ(Meirowitz)
という人がいて、その人は『ノー・センス・オブ・プレース』という、電
子メディアが出てくることによって人間の場所に関する感覚というのがす
ごく大きく変わってきたという、なかなか面白い本を書いている人です
が、その人がいっているのですけど。「いったん新しいメディアというの
が非常に広い範囲で量的に拡大していくと、使用されていくようになる
と、そのメディアによって生み出されるメッセージが何か社会に影響を与
えるというようなレベルを超えて、メディアを使う人びとの振る舞い方で
あるとか、さらにいえば、メディアを使う人びとの主体構成のあり方、<
つまり自分というものはどういうものであるのか、あるいは、自分という
ものと「ことば」との関係というのはどういうものであるのか、自分に
よって発せられることばと、たとえば、書きことばとの関係はどうである
のかという、ワープロについていえばそういうことですけど、そういう形
で>主体がどういうふうに構成されているかというあり方自体を、メディ
アが再編するようになっていくのではないか、そういう新しい社会環境が
つくり出されていくのではないだろうか」というふうにメイロウィッツは
いっています。
つまり、ここでメロウィッツのことばをそのまま引きますと,「新たなメ ディアは家に持込まれるものを変えるのではなく家自体を変容させるので ある。たとえば、そこで生まれる社会的行為や感情、信念などの新たなパ ターンにおいて。」僕はこのメイロウィッツのことばというのはすごく納 得できるのです。
つまり、僕としては、このデジタル時代のことばと社会という研究会で
いろいろ考えていくにあたって、上の第二の立場、メディア論的なスタン
スというのに共感しつつ、こういうふうに考えていきたいと思います。つ
まり、メディアというのは一面でことばを伝えるために生み出された道具
だと思うのです。それはだからことばを伝えるための手段であるのですけ
ど、と同時にメディアはその中でことばが生み出される環境でもあるわけ
で、とすると道具というとある主体によって使われるというイメージです
けど、でもそれと同時にメディアというのは主体を構成していく環境でも
あろう。とするとむしろメディアが主体というのを生み出していくという
側面もあるであろうというところに注目していきたい。そしてそれが、小
林さんが一生懸命読んだマーク・ポスターというのがこの中でいろいろ
いっている一つの眼目です。電子メディアというのが出てくることによっ
て、主体の構成のされ方はどういうふうに変わっていくか。それはそのと
きにポスターは、常に言語配置がどう変わっていくかということに注目し
てくるのですけど。そういう視点というのを、デジタル時代のことばと社
会という研究会でも、一つ中心的なテーマとして取り上げたら面白い、絶
対面白いだろうなというふうに思います。
ここまでが自分の立場の表明というか、決意表明ですが。それに対して、 ただ、いくつかこういうふうに僕は、その前にいったことについていくつ か注意すべき点があると思います。
一つには、メディアといったときに、さっきのメディアの社会的影響と いう議論でいえば、ややもすると横着をしたくなって、ひとつのメディア だけを取り上げてきれいに議論を構成したくなるのですが。ただ、メディ アとことば、あるいはメディアと社会との関係を考えるときには、時間 軸、あるいは空間軸に沿って、さまざまなメディアが織り成す網目、それ はいい換えてみると、メディアが織り成すような環境というふうにいって いいと思うのですが、環境の中に特定のメディアを位置づけることが重要 ではないだろうか。
たとえば、ワープロというメディアを考えるときでも、それは当然鉛筆 か万年筆とかボールペンとかというメディアとの関係で考えていかなけれ ばいけませんし、さらにいえば、あんまり直接関係ないかもしれないけれ ど、テレビとかラジオという現代社会において、僕たちが日常使っている メディアとの関係を考えていかなければいけないだろう。また、時間軸に 沿って考えれば、たとえば、毛筆ですとか、そもそも印刷というもの、活 字によって生み出された文章とワープロによって生み出される文章という ものを関連づけることも大切でしょうし、あるいは、カナタイプとか、 ローマ字運動、カナモジ運動とか、あとでしゃべりますけど、直接はメ ディアというイメージではないのですけども、そういうメディアをめぐっ て繰り広げられてきたさまざまな社会的行為の連関の中に、あるいは現在 繰り広げられつつある行為の連関の中で、一つのメディアというのを位置 づけていく必要があるだろうと思うのです。
そういうことを注意しなければいけないのは、僕自身が往々にしてこう
いうふうに考えてしまうということですけど、どうも文化にある新しいメ
ディアが出てくると、特に何かインパクトのあるメディアが出てくると、
それによってそれまでのメディアが簡単に乗り越えられてしまって、やっ
ぱり新しいメディアっていいなあというふうに考えてしまうのです。だけ
どこれについてもメイロウィッツという人が面白いことをいっていて、
「文化に新しいメディアが導入されると、その以前のメディアは乗り越え
られる、それでもうお払い箱になるのではなくて、もともとあったメディ
アというのは、その機能や意味とか効果を変化させられるだけなんだ」と
いうことです。だから「意味の変化」ということを考えていかなければい
けない、完全にとって代わられるというよりは意味が変わっていくんだと
いうことです。それで「われわれは「古い環境プラス新たな要因」という
のを得るのではなくて、新たな環境を得るのである。」新しいメディアが
入ってくることによって、それまであったメディアも意味を変えられて、
全体としてみれば非常に新しいメディア環境というのが構成されていくん
だよということは、注意しておく必要があるであろう。
また、新しいメディアのもつ潜在力、新しいメディアが社会にすごく大 きなインパクトを与えるとしても、その影響力、インパクトというのは、 必ずそれまであったメディアとの関係において発揮されるであろう。とい うのは、新しいメディアがいくら大きな衝撃力をもっていたとしても、そ のメディアはいってみれば真空の中にポンと生まれるわけではなくて、そ れまである社会的な営みの中に入り込んでくるわけですし、しかもそのメ ディアが本当にその社会の中で影響力を発揮するとすれば、社会の外側か ら影響を及ぼすのではなくて、社会の内側に入り込むことによって、初め て影響力を及ぼすはずだからです。つまり、メディアというのはそれ自 体、つまり社会から分離されたメディアというふうな問いの立て方自体、 非常に問題のあることではないだろうかということです。往々にしてだか らアメリカでいろんな情報政策が打ち出されると、日本もそれに追いつけ という感じでやりますけど、でもそういうときには背後にテクノロジー自 体は社会的にニュートラルであって、日本社会にもアメリカ社会にも外側 から影響を及ぼすというふうな前提があると思うのですけど。でもそうで はなくて、メディアが社会に影響を及ぼすとすれば、それは社会の中に組 み込まれて、その組み込まれ方において影響を及ぼすわけであって、そこ らへんの議論を無視してしまうと、非常に空虚な議論になってしまうので はないかというようなことです。
これについてはキャロライン・マービンという、これは翻訳が吉見・水
越で出るはずなんで、だいぶもう時間たってしまって、これすごく面白い
本で、引用文献を載せてないのは失敗だったんですけど。『When old
technologies were new』という本があるのです、『古いテクノロジーが新し
かったとき』という本なんですけど、これ19世紀に電気というものが社会
に広まることによって、どういうふうに人びとの日常生活というのが変
わっていったかということについてすごく面白い本で、『When old
technologies were new』という題名自体がすごくウイットに富んでいて面白
いでしょう。キャロライン・マービンはやはりいまいったような形で、テ
クノロジーというのは常に社会の中に埋め込まれることによって、その影
響力というのは発揮していくんだよということをいっているのですけど。
そのキャロライン・マービンがこんなことをいっているんです。<新たな
実践というのは、それらを鼓舞(インスパイヤー)するようなテクノロ
ジーから、直接湧き出づるというよりも、新たな状況の中でもはや立ち行
かなくなった古い実践から、即興ででっち上げられるものである>、即興
ででっち上げられると訳したのはインプロバイズという言葉なんですけ
ど。要するにテクノロジーというのは、社会を全く新しくガラッとつくり
変えてしまうわけではなくて、要するに新しいメディアが出てくることに
よっていろんな条件が変わって、それまであった社会制度というものが立
ち行かなくなると、そのときに古い制度で動いていた社会が、苦しまぎれ
というと何か変ですけど、そこで何とか状況を自分に合わせようとして、
いろんなインプロビゼーションを行うことによって社会というのは変わっ
ていくんだというようなニュアンスです。僕はこういう発想というのはす
ごく重要だと思うのです、特にメディアの技術決定論というか、とにかく
テクノロジーさえ導入すれば大きく社会が変わるんだ的な議論に対して
は、こういう視点というのをぶつけていくことがすごく重要だというふう
に思っています。
ですから、もう一度繰り返せば、僕も僕自身の反省としてすごく、やや もするとメディア決定論に陥ってしまうんです。そういうときにこういう 視点というのも意識し続ける必要があるだろうなというのがひとつ。
次、これまだちょっと僕全然練れてなくていうのは怖いのですけれど、
実は二番目のほうが重要だと。というのは「ことば」と「メディア」とい
う問いを立てたときに、僕が恐れるのは、そこで特にこういう日本でそう
いうことをやったときに、「日本語」という言語を実体化してしまうので
はないだろうか。実体化というのはちょっと曖昧なことばですけれど、要
するに「日本語」というものがあらかじめ存在しているというか、それは
民族的なメンタリティーの発露でも何でもいもいいのですけど、発露とし
てのことばというふうにイメージされるものであっても、また別のイメー
ジのされ方であっても何でもいいのですけど。要するに非常に長い歴史の
中で脈々と受け継がれてきた伝統というか、オーセンティックなことばと
いうか、オーセンティックな文化の本質、中心、エッセンスみたいな形で
想像されるかぎりでの日本語というものを、実体化してしまわないのに
注意しなければいけないだろうなというふうに思います。 つまり、「日
本語」というもの自体の<歴史的−地政的配置>を問題にすべきというふ
うに書きましたが、それはこの前小林さんの持っていた坂井直樹さんとい
う人の、コーネル大学の先生ですけど『死産される日本語・日本人』とい
う、この副題が「日本の歴史、地政的配置」という本なんです。この中で
坂井さん、坂井さんはいろんな論文をこの中に収められてますけど、その
中の本のタイトルになっている論文が中にありまして、その中でいってる
こと、特に中心的にいってること、またこの本全体を通して基調になって
いる主張というのは。結局日本語とか日本人というものは、近代という一
つの社会的条件の産物というか、そういう条件に規定されたものである
と。しかも、だけども近代というのは非常に巧妙な装置であって、日本語
とか日本人というものが近代的な産物であるということ自体を隠蔽するよ
うな非常に巧みな制度であると。しかも、われわれは近代的な枠組みの外
に立ってそれを批判することはできないのであるというところで、すごく
緊張感のある議論を展開しているのですけれども。そのときに坂井さんが
注意するのは、やはり日本、あるいは日本語というものの歴史性、あるい
は近代性、あるいはそれが日本以外のもの、たとえば、西洋とかアジアの
中でも中国なり韓国なりというものの対比において、それとは違うものと
して規定されていくという政治性ですね、境界が政治的に決定されていく
ところに対する非常に敏感な議論というのを展開している。
これは、坂井さんというのはCultural
studiesという、イギリスのもともとニューレフトから出てきている大学を中心とした一つの知的運動とも関
係をもっていて、そのCultural
studiesというもの自体がそういうレイスとかエスニスティー、ジェンダーとかという、そういうややもすると本質化
されやすいというか、実体化されやすいさまざまなカテゴリーというもの
をもっている、歴史性とか政治性というものを明らかにしていこうという
運動なんです。やはりすごく意味があると思います。それはちょっとまだ
うまくいえないのですけれど、恐らくさっきいったようなメディアの内容
だけに注目しちゃうような立場とも、実はどっかで通底するものがあるの
ではないかと思うのですけど。そういう実体主義というか本質主義という
ものに対して批判を行っているのですが。そういう問題意識、「日本語」と
いうもののもっている歴史的、地政的な、地政的というか政治的な被規定
性というのにもやはり注意していかないと、こういう「ことば」と「メディ
ア」とか、「ことば」と「文化」という問いの立て方自体が、実はそうい
う実体化を再生産してしまうようなことになってしまわないかなというの
が一つあるんです。
恐らく前の劇作家大会での議論なんかを聴いてというか、僕も参加して そこで感じた雰囲気なんかから見るに、ここにいる人たちの関心は実はそ ういうところにも、つまり何かを実体化してしまうような、あるいは、歴 史的、地理的条件の産物を、非歴史的、非地理的な普遍的な存在と取り違 えてしまうような見方に対して、すごく批判的なスタンスをもっているの ではないかと思いますので、これ一つ軸として、軸というか問題意識とし て僕はここに提示してみました。
そのあと、明治以降「国家語」としての「日本語」が確立されていく過 程にメディアがどう関わってきたかというのは、これも僕関心をもちなが らなかなか展開できないテーマなんですが、これぜひ専門家の高本さんも いらっしゃることですし、あるいは平田さんもこの前演劇と日本語という か、国語との関連ということをちょっとお話をうかがいましたし、皆さん と議論しながら深めてみたいテーマだなというふうに思うのです。
僕の生半可な知識の羅列なんですが、たとえば、「国家語」としての「日
本語」が確立されていく過程というのには、やはり「標準語」の確立とい
う規範 があったと思うのです背後に。それでそのときに「標準語」とい
うものを確立していく中では、学校制度というやはりこれも近代的な制
度、あるいは軍隊とかメディアというものが深く関わってきたであろう。
あるいは、言文一致運動というのが何度か思い出したように展開されます
が、その言文一致というのはその背後に、やはりある一つの主体のあり
方、主体とことばとの関係のあり方というのを前提してると思うのです。
それは要するに話された話しことばというものが本来的なことばであっ
て、書きことばというのは模倣というか模造であるというような考え方。
だけど本当に話しことばというのは本来的なことばなのであろうか、書き
ことばというのは副次的なことばなのであろうか。そういう話しことばと
書きことばという区別自体が一種のフィクションとして、近代的な自我と
いうものを支えているのではないだろうかというような議論も可能だと思
います。
それから、正書法をめぐる議論です。これは国語・国字論争というふう にいわれているものと関わってくると思うのですけど、要するに一つの表 れとしては漢字制限論というのがずうっと明治以来ありますね。それはそ の過程に僕はワープロというのはすごく大きく関わっていると思うのです けれど。漢字制限論というところにおいては、要するにそれは日本の近代 化の過程と密接に結び付けて働いてきたわけです。漢字があるから日本は 近代化できないんだとか、そういう議論があったり、あるいは全部ローマ 字で表記することにしてしまえば、もっとコミュニケーションの効率が上 がって、社会的な利益が生み出されるのだというような議論からずうっと ありましたけど、それをもうちょっときっちり、いまワープロというもの が出てきた現代において、整理し直しておく必要があるのではないか。い まから振り返ってこのワープロというものを一つの軸として、振り返って みると面白いのではないだろうか。
その正書をめぐる議論というか、国語・国字論争の流れと関連して事象 として、たとえば、前島密が漢字廃止論を唱えたりという、森有礼が英語 国語論を唱えたりというのは、そのことばと文化、社会について、こうい う人たちがどういうことを考えてきたかということから考えていかない と、その意味、本来的な意味というのを、その人たちがもともとどういう 文脈でそれをいったのかということがわからなくなってしまうと思うので す。
あるいは、これ小林さんと非常に密接に関係してくると思うのですが、 要するに国語政策と国語というものはどういうふうに関わってきたかとい うことです。いま国語審議会ですけど、それの大本は、これは本当に大本 なのか、ちょっと前に勉強したのであやふやなんですが、1902年に国語調 査委員会というのがつくられていて、そのメンバーを見るとやはり近代に おける国語学というものをまさに築いた人たちというのが、政府というか 国家レベルでの国語の確定というのにもすごく大きく関わってきたわけで す。
あるいは、1921年には臨時国語調査会というのがあって、今度は会長は
森鴎外だったりすると。
それで1934年には国語審議会につないでいて、それの位置づけというの も歴史的にこうやって変わってくるわけですが。
それで国語政策というものと国語のイメージというものがどういうふう に関わってくるのかということも、見直してみると面白いのではないか。
あるいは、これは紀田順一郎さんなんかがすごく面白いことをいって て、ぼくもそれで関心をもったのですけど、ローマ字運動とかカナモジ運 動というものです、いまはすっかり影が薄くなってしまいましたけど、歴 史的にみれば一時期は本当にかなりの影響力をもった運動だっと思うので す。それがどういう歴史的な推移をたどって現在に至っているのかという ことも、見直してみると面白いのではないだろうか。
あるいは、これは平田さんに前うかがったことで、演劇と「国語」言 語というものとの関わりですね。
あるいは、漢字コードの問題、漢字コードというのが制度としての言語 というものにどういうふうに関わっていくのかということも、すごく面白 いテーマだと思っています。
それぞれ僕関心あるのですが、一人ではとても展開しきれなくて、い つも手に負えないという感じなんですけど、ぜひ何人か集まってこういう ことについて議論できるというのは貴重な機会ですので、僕としてはこう いう問題関心を念頭におきつつ、いろいろ発言していきたいとか、議論し ていきたいというふうに思っています。とりあえずそういうことですね。
小林 十分3回分ぐらいのネタがあるね。(笑)ちょっといいですか、 ちょっといいですかというのはちょっと席外したい、皆さんに見てもらい たいものがあるので取りにいきたいのだけど、ちょっと雑談しててくれま すか、なるたけこれと関係ない話。
要するにあまりにも僕にとってなまなましすぎてびっくりしちゃったと
いうことなんですけれども、いまの話を聞いていてわかったのは、たぶん
平田さんも多かれ少なかれそうだと思うのですけれど、少なくとも僕はこ
ういった問題の中にかなり当事者として組み込まれているなということ
を、相当ヤバイところにいるなと。だからこの中で僕の役割があるとする
と、なるたけいまの状況を客観的にいうということは無理だと思うけれど
も、主観も含めながらだけれども、皆さんにリアルタイムで報告して、そ
れをうまく位置づけてもらうと、そういう形で機能できるといいなと思っ
たんです。
それで議論やっていただく前に、いまの見城さんの話を受けていうと、 まさに国語審議会、この前9月17日に第21期の第2回総会というのが あったのです。これ気をつけて下さい、あとでたぶん、そのうちこれが議 論としてはオープンになりますので、それとの整合性とればこちらも公開 していいと思うのです。いまの時点では完全なリークなんで、皆さんも ちょっと気をつけて、オフレコです。
日本語を実体化するかみたいな話のところで、じゃない最初の第一の立 場、第二の立場ということに関係すると思うのですけれども、委員会を2 つつくろうという話が審議会の中で、前の期も「ことば遣いと情報化」と いうふうな形で2つの委員会つくって、今期も2つの委員会つくろうとい うので、第1委員会というものの中に、
言葉遣いの問題について、国際化、情報化の時代における日本語のあり 方、円滑なコミュニケーションという観点から検討する。第20期の報告で 提議された個々の問題を整理し、位置づけや重要度を明確にして、22期以 降敬語を中心にまとめていくための方法や考え方の方向を報告する。
検討事項
国語審議会における言葉遣いの考え方について。
現在日本の言葉遣いに関する各分野の考え方、調査等について。 国際 化時代における日本人の言語運用能力のあり方について。
新しい敬語の指針を示すことについて。
というふうなことが挙がっているわけです。これについて北原保雄先生
からクレームがついた。それで彼がいう観点というのは、いままでの国語
審議会の議論というのは、いまの国際化、情報化の時代における日本語の
云々の観点から検討するという観点はなかったのではないかと。そこでそ
ういうふうなものを急に入れられてしまうと、いままでの議論と全く別な
視点でやらなければならない、それは困るのではないかというふうなク
レームが出たんです。これがいわば導火線になって、非常に多くの議論が
あったのですけれど。恐らくこの話というのはいまの見城さんのコンテク
ストの中にはめ込んでみると、従来の国語審議会の考え方というのは、そ
ういう国語というのはメディアとか社会状況みたいなものからは独立にあ
るのであると。それに対してここで国際化、情報化という観点が入ってき
たときに、かなり立場の違いというのがはっきり出てきたのではないかと
いうことで、善し悪しの問題は別として、そこでのいわばここで起案した
国語調査官たちの立場が変わったというふうに北原先生に映ったのではな
いか。
結論からいうと、かなり北原先生はゴネてたんだけれど、最後の段階に おいて、「観点から」というのを「観点もふまえて」というふうに直して もらえれば、整合性がとれていいのではないかというふうにしろというわ け。こういうことがありました、一つ。
もう一つ思ったのは、これは個人的なあれが若干入りますけれども、日 本語の実体化ということについて、いまかなりそういう国語審議会のメン バーでいうと江藤淳さん、それから田中克彦の批判にさらされているとい うことでいえば、丸谷才一とかというのは、いま見城さんがおっしゃった ような意味での日本語の実体化というのを、先頭切ってやっている人たち ではないかなと。そのコンテクストの中に坂村建さんなんかのユニコード 批判の根っこというのもあるのではないかという気がしましたけれども。 いまの部分は結構個人的なドンパチになるから、あとでいいけど。(笑)そ ういうことで。
平田 ちょっと演劇のほうの話に引きつけてというか、僕は演劇の話し かできないものですから、やっぱり同じような問題が相似形をなして演劇 の中でも起こってきているんです。今度ちょうど10月の2日に劇作家協会 が出す雑誌が創刊されるのですけど、小学館で、それの巻頭対談で僕と井 上さんの対談が入っているのですけど。
井上さん自身は微妙なところにあると思います、いまの位置づけでいえ
ば。丸谷さんなんかとも非常に親しいと思いますし、井上さん自身がどの
ぐらい意識なさっているかわからないのですけど。一つ問題にしたのは、
今度、新国立劇場が笹塚にできるのですけれども、そこでもちろんオープ
ニングは井上さんの新作をやるんですけれども、書ければ。(笑)で、そ
このとこの記者発表のときにも、井上さんは新しい国立の劇場には美しい
日本語を響かせたいというふうにいったんです。それは僕は相当引っ掛
かって、それはちょっと問題があるんじゃないかということを、相当粘っ
て話したつもりなんですが、編集の頑張りがよくなくて、あまり紙面では
うまく伝わってないんですけれども。井上さんなんかは非常に良心的なほ
うで、もう一人山崎正和という、これははっきりと国民演劇ということを
いっていて、国立劇場にしろ、あるいは読売演劇大賞なんていうのも彼が
つくったんですけど、国民演劇というものをつくる必要があるんだという
ことです。これはまさに話ことばの規範というのですか、ヨーロッパの諸
国にはない国もありますけれど、たとえば、イギリスでいえばシェークス
ピアですとか、ノルウェーのイプセンとか、国民演劇というものがあっ
て、そこに一つの話ことばの規範が求められているんだという、これは演
劇界においては伝統的な議論なんですけど、そういうものが日本にはない
んだと。小説にはあると、夏目漱石がいて、森鴎外がいてというのがある
んだけれども。
この間のそういう話を演出家とかとしたんですけど、じゃあまあ三島由 紀夫がスタンダードな国民演劇かというと、大体まず日本国民は三島由紀 夫を劇作家だと思ってないですから全然違うんです、演劇界ではそうかも しれないけれど。いまのところないわけです、そういうものが。そういう ものが必要かという議論で、たいていはそんなことは全然意識しないで やっているわけですけど、必要だという人びとがいて、その人たちが相当 な政治力をもってるということは確かなんです。そういう議論が起こって きているということも確かで、一方で非常に、もはやそれは規範としての 日本語というのはできないんだという感じです。僕なんかが考えているの は、これは井上さんもおっしゃってること非常に良心的にというか、好意 的に解釈すれば僕と非常に近いと思うのですけれども。ことばの規範はで きないんだと、しかし、たとえば対話をする、人が人と対話をするという ときの精神的な規範はあり得るのではないかということです。そのことに ついてもっと積極的になるべきじゃないかという感じがあるんです。そこ のところが非常に難しくて、「美しい日本語」といった場合には、たいて いの人は出てきたことば、非常に個別的に出てきたことばが美しいか美し くないかを判断していまうというとこが一番問題なんじゃないかと思うの です。
僕が非常に印象に残っているのは、大学時代に日系人で留学生の友達が いたんですけれども、彼が帰るときに、すごく希望をもって日本にきたん だけれども、日本に失望したということを綿々と、同じクラブだったので そのクラブの部室に置いてあるノートに綿々と綴ってあるんです。それは もう明らかに日本語としては逸脱してるわけです、日本語を本当にアメリ カにいる頃は週に1回習っていただけで、日本にきて1年でやっと覚えた 日本語ですから。でもそれはだれが見ても感動する文章だったんです、非 常に美しい日本語だと僕は思ったんです。そういうことはあり得ると思う のです。
芸術の領域というのはそれができればいいんであって、決して規範とし ての美しい日本語を芸術の中に求める必要はないんじゃないかというの が、一応僕の立場なんですけれども。そこらへんのところがうまくことば で、いまの例示のようなことがうまくことばで説明していけるといいん じゃないかなというところが、いま一番関心があるところなんですけれど も。
見城 さっきの小林さんの話の、国際化ということでいうと、要するに 日本語を国際化しなければいけないという議論は、一見要するにそれは日 本語を外に対して開いていかなきゃという議論に見えるんですけど。実は 要するにそれも一種の逆日本語主義であって、要するに国際化した時代に おいていかに日本語というものを規範として確立していくかという議論に なってしまうわけで。そこでやはりある境界を引いて、日本語と日本語な らざるものというところを確定しようということにおいては、同じことだ と思うのです。だからそこらへんどうしても、境界を引くこと自体は僕は 絶対なくならないと思うのです。だってそれはなくなることはないであろ うと、それはことばを使うということ自体が、既にもってして区別を設け るということですから。だけどその区別、境界というものが構成されたも のであるという視点をもち続けられるかどうかというところが、やっぱり 重要だと思うのです。
だから「美しい日本語」ということ自体は、それ自体が問題だとは思わ ないけれども、そのときに唯一の美しい日本語というものが、非歴史的に 存在し得るというその想定が問題です。
平田 だから国立劇場のオープニングに美しい日本語を響かせるという ことが、ちょっと引っ掛かるところです。それはみんな劇作家ですから、 それは当然自分としては美しい日本語を響かせたいと思っているんですけ れども。
小林 ここに国語審議会の20期の審議経過報告があがっている。これは 高本さんなんかもちろんお持ちだけれど、「言葉遣いに関する報告」とい うので、第1ページに「基本的な認識」として「平明、適確で美しく豊か な言葉の重要性」、これについてもやはり国語審議会というのは、女性の 委員がわりと、アイウエオのア行の人だったけれども、何か外国人に対し て英語で日本語のことについてのスピーチをやらなければならないという ときに、「美しく豊かな」ということばを英語にしようと思ってすごく 困ったというんです。だからいま見城さんが「美しい」というのをだれに とって美しいかみたいなことあったけれども、だからそういうことを情緒 的に出したのではなくて、いったいこれどういう意味で使ってるのか、そ れこそ平明、適確に美しいということばを定義というか、表現していかな ければならないのではないかと思いますよね。
高本 「適確」じゃなくて「的確」のほうなんです。この「的確」とい うことばはいったい何なのかと聞くんです。これが非常に頻発されるのが 「学習指導要領」なんです。最初「正確」というところがあるのね、国語 の授業をもってる目的みたいなことが書いてあって、「正確な言葉遣い」 という、最初は「正確」から入るのですが、それがあるレベルにいくと「的 確」に変わるんです。ここのじゃあ「的確」というのはいったい何なのか というのは、絶えず議論されなければいけないのですけど、要するにわか らないという。
「豊か」というのも同じなんで、ある程度までいくと「豊かに観賞」す るとか、「豊かさ」というのを求められるのですが、じゃあどこから豊か になるのかとか、基準ないですよ。自分が豊かだと思って自己満足してい れば、どんな貧しい授業をしていても、豊かなんですね。
だからそれは同じことは、最近の特に新しい現行の「指導要領」です けど、その中では「国際化」と「情報化」というのがうたわれているんで す。実体がこれわからない、どうすることが国際化なのか、どうすること が情報化なのか、一太郎買うことが情報化だとはだれも思ってないわけで す。それは現象に表れた何かではあるけれども、本質的なとこの議論とい うのは何も議論されないまま、どうすればいい、どうすればいいという振 る舞いだけが問題にされているんだろうと思うのです。
だからそういう中で僕は、たとえば、いまの問題は「国際化」というこ
とばと「国語」「日本語」というどちらのことばが親和しやすいかという
と、「国語の国際化」なんて普通いわないです。それは国語というものが
もっている一人称的なとらえ方で、三人称的にとらえるときはやはり「日
本語」というのを使うのがニュートラルだろうと。
それから「情報化」というのも、何か「国語の情報化」とかというのは 何か変なんですね、たぶん違うんですね。「情報化」ということばは「日 本語の情報化」ということで、そこに何かさっきの見城さんがいわれた、 ことばについて問うことで日本語を実体化してしまうのではなくというと ころは、重要な論点で、その日本語を実体化したときにわれわれがラベル として貼りやすいのが、従来が国語というネーミングではなかったかと思 うのです。だから非常に面白い論点がこの中には、非常に豊かに、的確に、 (笑)あると思いまして。
小林 さっきの井上さんの擁護を一つしておくと、文化庁がこの20期の 国語審議会の審議経過報告を受けて、この2月の29日と3月の1日に、国 語施策懇談会というのをやったんです。そのときに井上さんパネリストで 参加されて、これ僕いろんな人にいろんなところで文句をいったと思うけ ど、すごく恐らくかなり意識的に「国語」ということばを避けて、国語施 策懇談会の場で「国語」ということばを避けて「日本語」ということばを 使ってらしたし、それから、これどっかに「広く国民から」とか書いてあ るはずなんで、もうその意見を聞くみたいなそういう目的でやってるはず なんです。「国民」ということばを使わないで、「市民」ということばを使っ てらしたんです。それはやっぱりかなり全体の流れのそういう場の中で は、その井上さんのそういうことば遣いをされたというのは、相当確信 犯。
平田 それはおっしゃってましたね、だから相当風当たりも強いらしい です。
小林 あっ、ご本人が。
平田 大体まず国語という、僕もだから国語という授業をやめて、日
本語という授業を表現で、私たちの演劇人の最大の願いの一つは、とにか
く小・中教育に演劇を入れてくれというのが、非常に大きくあるんです
ね、何で音楽と美術があって。演劇というのはいまさらは入らないだろう
から、じゃあ表現という授業だったらどうだろうというのが私たちの提言
なんですけど。まずとにかく「国語」という教科をやめて、それを「日本
語」という教科と、語学としてね。僕は「日本語」という教科じゃなくて
も、僕は「語学」という教科でもいいんじゃないかと思っているんです。
韓国語や英語と一緒に日本語を教えるということでも僕はいいと思ってい
るんですけども。
それと表現という、これは違うと思うのです、本質的に僕は違うと思う のです。これはだから表現というのはアメリカ人だろうが、中国人だろう が、日本人だろうが、共通してもっているベースの部分というのはあると 思うのです、他人と何かをコミュニケーションとるというとき。そのとき にじゃあ言語で表現するのか、絵で表現するのか、音楽で表現するのか、 どれが一番自分にとって通じやすいのかということを選択するということ から、まず始めないといけないと思うのですけれども。そこのところのた ぶん入り方が、日本の場合にちょっとおかしいという感じがしているんで すけど。
それで話を元に戻しますと、その話をしたら、井上さん、僕も前にそれ を週刊誌に書いたことがあるんだけど、そうしたらまず国語学者と国語の 先生からものすごい抗議の手紙がきて、井上さんなんか影響力が大きいで すから、相当風当たりが強かったらしいですね。いまはそれほどでもない んじゃないかといってましたけれども、10年前ぐらいだったんだけど、ま ず国語といってはだめだということをいうと大変だと。
小林 それでこの時点では、うちが、国語審議会も委員になるというこ とを想定してなかったんで、パッと手を挙げて質問して、いまの、なぜそ れで井上さんがそういう使い分けされたのか、「国語」と「日本語」、「国 民」「市民」というのは、どう意味の違いがあるのかというのをオープン で出したんですよ、質問。そのときは彼が水谷先生、国研の、彼が司会し てて、それでバーッとみんなが質問を出してもらって、それに対して答え をもっている人が自由に答えるというずるいやり方をしたんだな。それで 僕の問いは完全にシカトされちゃったんだけども、かなりのそれは周りに いた人たちというのは、一瞬スッときたみたいでね。(笑)
高本 さっき出てきた用語でいえば、たとえば、「標準語」の問題とい
うのが出てきましたけども、このことばもできるだけ周到に使わなくしま
すよね、普通「共通語」というこれまたよくわけがわからない、逃げ口上
的な「何とか不自由な方々」みたいないい換えと同じで。「共通語」とい
うのは何が共通なのかということはあまりいわないまま、何となく標準語
がもっていたある特定なイデオロギー的な部分を取り除くために、別のい
い換えをしていると。だからもし仮に「国語」をいい換えて「日本語」と
するのが同じようなすり換え作業であるのなら、あんまり実りのあること
じゃなくて、むしろ「国語」を一貫して使っていくということのほうが重
要だという立場の人がいるのもわかるんです。
しかし、また一方では「国史」もなくなって、「国史」が「日本史」に なって、これがまた「国語」が「日本語」になっちゃったらというような エキセントリックなもののいい方をする人もいますが。ただ、江戸時代の 国学の人たちの、左派と右派といると思いますけれども、途中から目が見 えなくなってそれでもずっと研究を続けた本居春庭という人がいますが、 この人のいわば研究の中心部分というのは非常に実証的で、文献主義的で すけれども実証的なんです。ところが最初に序言みたいなのがあって、最 後に後書きみたいなのがあるんですが、そこを見ると何でここまで書ける のという、恥ずかしくなるように国粋主義ぶりを発揮するんです。ああい う人たちの頭の中はどうなっていたんだろうと、一方では非常に実証主義 的な近代的な手法を取り入れて、もう一方では何か違うんですね。つまり 何か幕末の明治維新を本当にエキセントリックに唱えていた人たちが唱え ることば遣いと、どこか共通した熱狂ぶりなんです。
そういう何か一方で冷めた学者が、こういう問題になると急にもうそこ だけは譲れないと。で、あっ、しまった、この人はこれだったかと思って、 あとはじゃあゆっくりとというようなことが実際あるんですね学会なんか の席でも。これかなり微妙な問題だから多くの人が避けてきている、それ は差別語と同じ部分がある程度あると思うのです。そういう社会的な文脈 をいろいろ検証したうえで、さっきの歴史的、地政的配置の中で跡づけて いくという、一つのフェアな土台の上で論じていくということというの は、意外とされていないのではないかと、確かに見城さんがおっしゃる通 りだと思いましたね。
あともう一つ、最初の前半のほうで気になったというか思ったのは、 「メディア」というのはいったい何だろうということなんです。ともかく メディアというのがいま頻繁にいわれている「メディア」というのは、ど うもテレビ以降のメディアモデルみたいなものがあって、それは伝送とい うか中継というか、そういうある機能的なところだけがいわれているよう な気がしますが。先程見城さんがおっしゃったように、メディアをもって るのは、たとえば、テクストの産出環境でもあるし、需要環境でもあるし、 そんなものも総合的なものがメディアなんだろうと。
ところがいま「メディア」「メディア」、例えば、インターネットが新し
いメディアだというときには、それは結局のところ何かと何かを中継する
間にあるもの、あるいは伝送方式とか、だから結局インターネットの議論
というのは本当は問題にされなければいけない情報が生まれ、そしてそれ
が消費されたり変容されていく過程ではなくて、機械と機械をいかにつな
ぐかという、こんなに広く使われていますというけれども、実はそんなに
広くは使われていないので、何かアフリカの小さな国からEメールを打つ
ことというのはなかなか大変だろうと思うのです。
そんなことを考えると、「メディア」というのをいま普通にわれわれが 目新しいことばとして、あるいは、マスコミの、あるいは、コンピュータ 業界の使いたいような意味合いで使ってるメディアではなくて、そこのと ころももう少し先程の歴史的、地政的配置の中で、メディアということば 自体、あるいはメディアというものの進化といっていいのか退化といって いいのか、いろんな部分があると思いますけれども、物理的信号の伝送媒 体だけではない、もっとそこで新しいものが生まれ、そうして変容してい く、そういうことを考えていかなければいけないのかなと思いましたね。
見城 さっきの、実証主義的な視線と国粋主義的な熱狂との話なんです
けど、僕はいまの話をうかがっていると、それは実は一つのコインの裏表
であって、結局実証主義というのは観察主体と観察対象を切り離すという
ところに成り立つわけですけど、そういうふうに観察主体と観察対象が切
り離し得るというふうな問題の構成自体が近代的なものであって、それは
近代の産物であるナショナリズム、つまりネーション・ステートというも
のに対する一つの熱狂とはすごく密接に結び付いているのではないかとい
うふうに思いました。 それからあとのほうの「メディア」ということば
という、それはすごく面白くて、面白いですね。それで僕も「メディア」
ということば、自分自身でもすごく曖昧なまま使ってるといつも思ってい
るんです。それで少なくとも「メディア」ということばでは、公式的には
3つ区別する必要があるだろうといわれていて。1つは、たとえば、電子
とか、いろんなレベルでいえますけど、電子であるとか、音波であるとか、
電波であるといったような、物理的にコミュニケーションを支えるレベル
ですね。<フロッピーもそうですかね、いや、フロッピーはちょっと違う
な、フロッピーでいえば電磁器のレベルにあたるものが一番基底の層に
あって>その上にそういう基底の層にある物理的な基盤が組み合わされ
て、一つの装置として存在しているレベルで。それはたとえば、ラジオと
かテレビとか、フロッピーもそうだと思うのですけど、そういうレベルが
あって、もう一つその上に、そういういろんな装置を制度として組み合わ
せた社会的なエージェントというのがありますが。それはたとえば、新聞
がメディアと呼ばれたり、テレビ放送がメディアと呼ばれたりするときに
はそういう意味なわけで、吉見さんなんか3つ区別しているのですけど。
でも、いま高本さんの話聞いてると、もうちょっと違って、僕流にいえば
環境としてのメディアというのか、つまりインターネットが人と人とを結
ぶように配置されていくというのは、従来的な意味での新聞社とかテレビ
局とは違うけれども、明らかに環境としてのメディアを形づくっているわ
けです。それでしかもそれはインターネットはメディアだというふうにい
われるわけだから、もうちょっと細かく「メディア」ということばを丁寧
に分類しておく必要があるなと、いま改めて思いました。
高本 作家の横内謙介という方が、衛星放送に出てたのを聞いたんです けど、その最後の締めせりふみたいな中で、「いまの世の中集まらなくて もよくなっているのが、わざわざ人が集まるということも捨てがたい」と いうことばで芝居小屋といいますか、劇空間というようなものをおっ しゃっていたんですけど。いまの世の中集まらなくてもよいというのは、 さまざまな電気通信系、輸送系メディアで疑似的に見ることもできるし、 それから遠く離れたものが非常に近くに存在してるかのように見えること もできるけれども、そういう空間系のメディア。メーデーには集会にいっ て、インターネットでみんな反対なんていうのではなくて、やっぱり橋の たもとか何かの、堤か何かで「エイッ!ヤア!」と声を挙げるという、そ ういう何か空間を共有しているというのは、まさに環境だからわかりやす い、メディアというのはまさに環境だというのがわかりやすいんですけれ ども。
そうではなくて、特に電気通信系のさまざまな複雑な機構というのは、 結局ブラック・ボックス化されていて、使う側には何をやっているのかと いうのは普通見えない。いい方を換えると今日からそれは使えませんよと あるメーカー、たとえば、コンピュータ・メーカーでもいいし、電気メー カーでもいし、一番わかりやすいのは電話だと思うのですけれど、今日か らお宅の回線は使えませんよといわれたら終りなんです、あなた払ってな いからだめですよと。中継者としての、中継するものとしてのメディアと いうのは、そういう点であるところで権威を必ずもってしまう、つなぎま せんよといわれたらお終いになるわけです。
しかし、人と人とが実際に対面しているというのは、そういうつなぎま せんよというものはないので、つながっているわけですから、それが基本 にあるだろう。それがだんだんと離れていくと、離れれば離れるほど間を つなぐ中継者がいるけれども、中継するものは僕は権威と結び付く。しか し、メディアが持っているのは中継だけではなくて、もう一つ調停すると いう役割があるように思うのです。それが先程中立的ということばが出て きましたけれども、これはニュートラルなんでしょうけれども、メディア がもってる一つは、それこそメディアムである、中間にあるということと 同時に、劇作家大会のときに小林さんの立場はモデレーターだと名乗って ましたけど、そういう発想したのかな、モデレーターというのは何だろう と思って。そうするとメディアのとこの近くにはメディエーターというの があるわけです、メディエーターというのは調停をしたり、仲違いを仲直 りさせたりするような、そういう、つまりそれはコミュニケーションを成 立させるためのさまざまな道具立てをしていく。もし変なことになってい たら、そこのところをうまく調停していく。そういう一つの役割を担わさ れてもいるのではないかと。
だからメディアというのは中継すると同時に、調停をしていくというそ の2つを考えないといけない。何でそれを考えないといけないかというの は、次回に私申し上げることもあるかと思うのですけれど、発表するとき に。結局人と人とがコミュニケーションをしているとか、メディアで何か を伝えているというときに、普通問題にされるのは何を伝えているかとい うwhatの側面と、どのように伝えているかというhowの側面、whatとhow なんだけども、実際はその根底に本当に伝わっているのかとか、本当に伝 えているのかというwhetherの側面、その問い掛けというのが基本的なと ころにないといけないんだけど、それはないんですね恐らく、しないんで すね、whatとhowの問題だと。
ところが本当に伝えているのか、本当にこのやり方でいいのかというよ うな基本的なところで、メディアというのをことばも含めて、実体とこと ばとがどういうふうにして歴史的にも、それからいまは地域的な差もかな りあると思うのです。そういうようなことは継続的にこれは考えていかな いと、急にパンと思いつくことというのはきっと違うのではないかなと僕 なんか思うのですけど。
小林 メディアの話で、昨日の晩か、一昨日の晩かな、徳島で某専務と 打ち合わせを待たされてて、夜中の1時半まで待たされて、トンズラく らって、(笑)待たされた間読んでて、半分ぐらいまで読んで、4章まで はちゃんと読んだんだけど5章が間に合わなくて、パーッと飛ばして読ん だんだけど、その5章の一番最後のところ、いまの高本さんが引かれた横 内さんの話と、ものすごく僕呼応するものがあると思うんだけども。最後 のフレーズですよ。「1789年のバスティーユーから、1968年のソルボンヌ、 そして1989年の北京天安門広場まで、街頭の民衆のイメージは21世紀以 降の大変動の形態の中では、もはや繰り返されることのないイメージとな るかもしれないのである」。
平田 これは僕が話すときに話そうかと思ったんだけど、(笑)あまり しゃべっちゃうとあれなんだけど。僕の感じでいうと、これ前に話したか もしれないですけど、劇場の役割というのも、劇場というのもメディアの 一つなわけですけど、集会場ですから、その役割というのは変わってきて いるんじゃないかという感じがしているんです。それは教会なんかもそう ですけれども、いわゆる単調な生活、あるいは情報のない生活からくるス トレスを解消するために、教会にいったり劇場にいったりする、ストレス を発散するためにそういう集まるというところから。そうではなくて、情 報とか、あるいは事件とかというものに非常に溢れている日常、刺激の強 い日常から、本来のというのは非常に問題あるいい方なんですけれども、 自分の生活なり、自分の生活の指針なり座標軸なりをもう一度見出だすた めに劇場にいくとか、あるいは教会にいくというようなふうに変わってき ているんじゃないかという感じがするんです。
そうするとここでは、メディアの役割というのは、非常に図式化してい うと、たとえば、カソリックの神父、神の代理人である神父というもので はなくて、プロテスタント側の牧師的な役割ですね、ですからまさに調停 者というか、そういった役割がたぶん求められてくるのだろうなという感 じがするんですそういうところで。非常に集会の単位は小さくなると思う のです。それから集まってくる人びと同士の共感というのはあまり重要で はなくて、集まってくる人と、神であったり芸術作品であったりというこ との、1対1の関係というのが非常に大事になってくると思うのです。
僕がよくいうのは、現代美術の美術館にいくときに、いくときはみんな
和気あいあいといくけど、帰りはみんな黙って帰ってくるという、感想が
それぞれさまざまになりますから、現代美術の作品を見たときには。た
だ、でもそうはいっても、しかしやっぱり集まるんですね。ここのところ
が面白いところなんですけれども、じゃあ1対1ならもう1対1でいい
じゃないかというと、そういうわけにもいかないです。逆にいうと1対1
だからこそ非常に優れた調停者が必要になる、優れたメディアが必要にな
るということだと思うのですけど、そこがたぶんキーワードになってくる
のではないかという感じはしてるんです。それはどういうものが優れてい
るのかということと。それから大量消費型ではないですから、これがどう
いうふうに経済的なものと折り合いをつけていくのかというのが、たぶん
21世紀の一番の課題になると思うのですけど。
高本 そういう芸術表現の場としてのメディアということでいうと、同 じ番組の中で横内さんは、これは平田さんも同じだと思うのですが、実際 の上演よりも稽古場のほうが面白いと。それは創作過程というか、プロセ スへの注目ですね。ネグロポンテがいっていることで、新しい芸術表現と いうのがメディアが新しくなれば当然出てくるから、コンピュータ上で新 しい芸術表現というのはどんどん生まれてくる。それがいままでのものと かなり根本的に違うのは、いままではプロダクトとして生産結果が額縁に 入っていたり、あるいは芝居でも、訓練を重ねた俳優が非常に完璧な完成 度で板の上で上演をする。そういうわれわれ観賞する側はプロタクトにし か触れることができなかったんだけれども、まさにつくることに参加する ことができる。たとえば、ダウンロードした音楽データを自分の好きなス ピードで、あるいは自分の好きな調で演奏させることができる。あるい は、映像でも自分の好きなように加工することができる、場合によっては モーヒングをして、小林さんが急に平田オリザの顔にフーッとなるような こともできるようになっている。そういう表現の多様さというようなもの が生まれると同時に、創作過程、いままでは演出家しか楽しめなかった創 作過程に、もし1人1人の観客が入り込めるようになれば、非常にそれは 新しい演劇の表現が始まるということにもなるんだと思うのですけれど。
平田 それはすごく、実際の場面でものすごいそういう要求が強いで す。だからさっきもいいましたけど、岡山にワークショップがあって、岡 山市でも初めて本格的なワークショップ始めてて、岡山市だけでなくて中 国地方全体でもほぼ初めてだったと思うのです。そうすると鳥取からも広 島からもくると、大変なエネルギーですねいくら好きだといってもそれ は、1日のためだけにそんな。そういう要求はすごく強いですね。
美術なんかも相当前からやってますけど、制作過程を見せるとか、演 劇の場合でも稽古場を見たいという声はすごく強いです。それは非常に、 ひとつにはさっきいったように個別になってきたということと、個別にな ることによって生じてくる不安というのがあるんだと思うのです。作品だ けを見て判断しなければいけないんだけれども、その判断が果たして正し いかどうかが、特に日本人の場合には美ということに関しては全く自分で 判断するということをいままでしてこなかったわけですから。たとえば、 真実ということに関していえば、たとえば教会がいくら地球が真っ平らだ といってても、それは実証的に丸ければ丸いんだということを、自分の目 で確かめるんだということを、一応知識としてはあると思います。それか ら善ということについても、善というのは通常の場合は多数決で決めるん だと。それは庄屋さんや区長がいったから善なのではなくて、全員が話し 合って何が善かをそのとき、そのときに決めていくんだということも、こ れも知識としてもっているんですけど、美に関しては全くもってないわけ です。これはもうそういう訓練を受けてないわけです。
その訓練を受けたいという欲求がすごく強くあると思うのです。いま は、1990年代から大体21世紀にかけては、そこが一番強いと思うのです。 その過渡期にあって、それが一番望まれてると。ただ、このあとどうなる のかというと、僕もわからないです、じゃあそうなったとき、美が本当に 民衆化されてしまったときに、非常に価値の相対化というのが、真や善以 上に何かよくわからないものになってしまうと思うのです。でも実際に現 代美術館へいくとよくわからない人が立ってるわけですから。
見城 ちょっといまうかがってて話ずれてしまうかもしれないですけ ど、そうか、ワークショップにいく人たちというのは、いま平田さんの話 を聞いて、ああ、そういう面があるんだなと、確かにそう思ったんですけ ど。でも一面で、確かに美の判断基準というのを知りたいという、ですか ら自分に確立したいというのもあるのかもしれないですけど、それと同時 に、それと非常に密接に結び付いているのかもしれないけど、一種の自己 啓発セミナーみたいなのがあるんじゃないか。つまり自分というもの自体 がすごく流動化してしまっている中で、そういう演劇に参加することに よって、本当の自分というのが見つかるのではないか。それは何かすごく 逆説的ですね、つまり演じることによって本当の自分が見つかるというの はすごく逆説的なんだけれども、一面ではそういう根強い欲求があるので はないかという感じがします。
平田 それは相当強いです。だから逆に僕はそこのことに関しては、一 番最初に、これは自己啓発セミナーのようなものではありません、(笑)こ のセミナーにきても話し方がうまくなったり、人のコミュニケーションが うまくなったりできませんと。逆にいうと1週間ぐらい後遺症が残って、 人とはコミュニケーションができなくなるかもしれません。演劇というの は本来そういうものであって、自分はいかに話し方が下手かとか、本来自 分がしゃべっていて気持ちよくしゃべっていることの何分の1しか伝わっ てないんだということが認識できるのが、演劇の効用といえば効用であっ て、決してうまくなるというわけではないんだということを知ってもらう というのが、僕のワークショップの一番のテーマなんで。
見城 僕も大学でコミュニケーション論というわけのわからない科目を もっているんですけど、一番初めに「コミュニケーション論」というと、 みんなどうやったら人とうまく付き合えるかとか、いかにうまく自分をプ レゼンテーションするかとかということを期待してくる人が多いけども、 そうじゃなくて……。
高本 もっとひどいのは、語用論の講座なら、ことばの使い方を教えて くれるはずとか、(笑)びっくりしましたね。
さて、さっき価値の相対化、特に美の部分は危険だ、本当にそう思うん です。さっき国際化、情報化で教育の話を少し出しましたけど、もうひと つ合言葉があって、国際化、情報化、そして個性化なんです。教育関係者 はそれを「新学力観」ということばでよくいいますけれども、新学力観と いうのは結局のところ平たくいえば、教師がもっている体制化された固定 化された価値基準ではなくて、子供1人1人の個性や意欲や能力や、その 差に合わせて評価を行わないといけませんよということなんです。そうす るとこれは典型的に現れるのは、何でもオーケーにしてしまうというこ と。たとえば、ある問いを教師がしたときにどんな答えもすべてこれは個 性の現れですから、なんでもオーケーになってしまうのです。いまの国語 でも何でも、どの教科でもそうだと思いますが、特に芸術性がからむ音楽 とか国語で特に議論されているのは、何でもいいのか、何でもいい、そこ のところが非常に議論を呼んでいるところです。
平田 ただ、演劇のワークショップの場合は比較的簡単というか、い まの時点で簡単なのはテレビの影響があまりに巨大に強いので、いいか、 だめか、はっきりしているんです。テレビの真似はだめなんです、それが いってあげられる演出家はすぐれた演出家なんです。そこの区別がつかな いのは素人の演出家だということで、これは相当能力の区別もしやすいし それからやりやすいです、まだそのレベルでやってますから。これがもう ちょっとレベルが上がってくると、だんだん難しくなってくるだろうなと いうことがあるんですけど。 ただ、その先にいったときに一番難しいの は、これはいま何でも鑑定団とか流行ってるじゃないですか、あれは最終 的にどうやって目利きになるかというと、最近読んだんですけど、結局は いいものをたくさん見るしかないというんです。これは演劇も全くそうな んです、よく聞かれるんですがどうすればいいですか。たとえば、地方自 治体なんかにいって、町に評論とか、いい観客を育てるのはどうすればい いですかと、ワークショップやればいいんですかというんですけど、最終 的には長い時間かけて子供のときからいいものを、発達段階に合わせたい いものをたくさん見せる以外にないんです。それはいろんな教授法は開発 されていくと思いますし、いま僕もそういうことに取り組んでいるわけで すけれども、最終的にはいいものなんです。このいいものは何かというの はまた問題なんですけど、でもこれは確固としてあるんです、確固として あると僕は思うのですけれども。それしかないというとこが非常に矛盾を はらんでいて、一方ではどんどん美に関しても民主化、あるいは相対化が 行われていく一方で、絶対的にいいものはいいんだというところが芸術の 場合にはありますから、ここが難しいんですね。
小林 その絶対的にいいものというのが、わからないやつにはわからな いわけでしょう。
平田 そうです。というか僕が非常に何というか、この点に関してだけ 性善説に立てば、ある一定以上の年齢になってもわからないやつはわから ない。しかし、観賞能力というのはある種の教養ですから、積み重ねれば ある一定レベルまではだれでも到達できるものだというふうに僕は思って いるんです。
小林 ちょっとあまりにもそれてしまうので。僕は音楽非常に好きで、
自分もある種のそういう教養主義的な音楽を身につけてるわけです。子供
に才能教育、鈴木鎮一さんのやり方で弦楽器を習わしたわけです。自分の
子供たちのことはさておき、必ず年に1回発表会というのがあるわけ、そ
こへいくと大体みんな《キラキラ星》から始めるわけです。変な話、たぶ
ん僕はそういう教養としても、それから才能としてもある程度音楽をいい
ものはいいとわかる、自分なりの基準をもっていると。そうすると《キラ
キラ星》やっただけで、はい、この子B、この子だめって、ほとんどわかっ
てしまうわけです5歳ぐらいの。この子いくらやっても絶対プロにはなれ
ないってわかっちゃうじゃないですか。(笑)
平田 だから表現はそうですよ、表現の側はもうはっきりわかります、 だってそれは、大体宮沢賢治は1万人に5人といってますけれども、それ ぞれのジャンルに適したのは1万人に5人で、その中から本当に努力した 者だけが100万人に1人になると僕も思いますけれども。観賞の場合は僕 はほとんどすべての人が、極端に、たとえば耳が聞こえないとか目が見え ないという障害をもってないかぎりは、いいものを生み出す能力というの は別だけれども、いいか悪いかを判断する能力は、僕は情操教育で相当の とこまでいけるのではないかと僕は思っているんですけど。(ははは)
見城 でも芸術というのは一つの制度だと思うのです。それで何が美し
いかとか、何がいいかというのは、さっきおっしゃったように明らかに制
度としてはあるんですけど、それが法律とか経済とかという制度と違っ
て、分節化しにくいというのがあると思うのです。結果としていいものに
たくさん触れなければいけない。だからそういう意味でいうとすごく大変
なジャンルであると、ほかのジャンルに比べると観賞力を養うのは。昔で
あればただ観賞しなければならないというのか、そういうテーストを身に
つけていなければいけない人たちというのは社会的に一部の人たちであっ
て、その人たちはおカネも時間も持っていたからオーケーだったんです
よ。時間をかけてじっくりとそういう能力を身につければよかったんだけ
ど、いま起こっているのはそれが平等化されてしまって、みんながある程
度の定数を身につけてなければいけないとか。教養ある人は何でも観賞力
がなければいけないということになってしまうと、本来であればそれなり
の訓練を時間かけてやらなければいけないんだけれども、すべてにおいて
それやるのは大変だし、そもそもそういう積み重ねがないような環境、周
りにそういう環境がないところに生まれてしまった人にとっては、それは
非常にハンディキャップであるはずなのに、にもかかわらずみんなにとっ
ていいものはあるんだというのは、社会的に広まっていってしまったから
そういう価値規範が。そこのところで大半のそれまでそんな環境に置かれ
なくてもよかった人たちは戸惑ってしまうというところがすごくあると思
いますね。
平田 美の民主化というのはまさにそういうことなんです。だから民主 主義というのは非常に大変だと思うのです、これを維持するのは。だって 昔は考えなくてよかったわけですから、魚屋のおじさんや、八百屋のおじ さんは、政治のことは考えなくてよかったわけですから、それみんな1人 1人考えて、だれに投票するか決めなければいけないというのは大変な制 度だと思うのです。そのためには教育が必要だということと、同じことが これから芸術にも起こってくると思うのです。
実際地域に出ると、もう少ししたらことばの話に戻しますが、地域に いってると講演会なんかやると、終わったあとに必ず、うちの地域にもこ ういうすぐれた文化がありますとか、こういう郷土芸能がありますと、暗 に東京からなんかこなくていいといってるわけですその人たちは。だけど その人たちが、地域の人たちが自分で何を残していって何を変えていくの かを判断する力がなければ、結局は東京から文化人類学者がきて、この踊 りは隣りの島でやってるからもう残さないでいいですよと、この踊りはこ の島でしかやってないから残しなさいというようなことで判断されてしま うわけです。決して自分たちで判断してるわけではないです彼らは。これ いいらしいから残そうとか、そういうことになるわけです。しかも地域社 会どんどん崩壊していきますから、それに合わさってどんどん崩壊するか 保存されるか、博物館に入って保存されるわけです郷土芸能も。そういう 地域なんかはとくにそういう問題に直面していて、自分1人1人が、特に 過疎化したところなんか自分1人1人がその判断に迫られてるという感じ がしてるんです。しかしその判断能力がない、そのギャップが強いから、 いま地方の自治体のほうが文化予算を増やしてるというのは、それが背景 として、意識的な人はほとんどいないですけれども、背景としてあるので はないかと。
ちょっとことばの話に戻しましょう。(笑)
小林 その美の民主化みたいな話があったけれども、これも議論ぶち壊 しになってしまうかもしれないから、忘れてくださって結構なんですけれ ども、どうも世界の見え方とか聞こえ方というのは、人によって相当違う のではないか。
平田 ああ、その話は僕はだから11月にしようと思って。
小林 やめよう、じゃあ。(笑)じゃあ戻していただいて。
平田 まさにそういうことだと思うのです。そこがわかってないとたぶ
ん特に現代芸術というものが理解されないのは一番そこ、だから芸術とい
うのは、もう最近はこういう論法というのは結構出てきているんですけ
ど、芸術というのはクリエイティブなもの、いわゆる創造的なものではな
くて、実はその表現者というのはある種の欠落によって世界の見え方が普
通の人と違うのだというのが、結構大脳生理学なんかとくっついて、山下
清とかモーツァルトなんかは典型的な例ですけれど、あそこまで極端じゃ
なくても、それから私たちはことばを使いますから、ただ欠落してるだけ
だともうこれはだめなんですけど。そういう論調というのは結構出てきて
はいるんです、その話は11月に申し上げます。
ことばの話に戻すと、だから「美しい日本語」といったときに一番問題 なのは、言語というものを歴史的、地政的なもので判断するということは これはいいと思うし、やりたいですけど。そのときに「美」という概念を どう取り扱うかということです、そこが一番問題になると思うのです。
高本 「真」「善」「美」の問題で、美はともかくややこしいですけど、真 か善かというような問題を考えるとき、共時的にいまのわれわれにとって ということが解決できないときは、しばしば通時的な議論がそこに、かつ てこうだったからとか、これが正当だ、天皇家はこれをしていたとか、美 についても何かそれを援用したような形で、古いものはいいものだみたい な。いま単純にそんなことをいう人はいませんけれども、何か本質はそこ であって、あと理論的に何か武装してて真髄を隠してしまっていて、実際 には何か古いものがいいものだにもっていきたいんじゃないかという人は 少なくないと思うのです。だからそういうようなことも歴史的な認識を もっていれば、ああ、あんなところの、たとえば、かなりラジカルな幕末 の国学の一派の流れがいってることは、あの人は繰り返してるだけだとい う見え方をすれば、その人がいかに現在権威をもってる人でも、そういう 歴史認識をもっていれば、いまいってることがその人の人格とは切り離し て、いまいってることのおかしさというのは見えてくると思うのです。
芸術の問題は特にそうで、先程の大脳的に欠落があるとかというのは、
それを生産した個人の全体性みたいなものと、その人が生み出した作品が
もっている価値というようなものが、かなり密着した、切り離さない形で
観賞の中に出てくると思うのです。それは一種の解釈学の一つの流れだと
思いますけど、一方ではそれを切り離す流れもまた同時にあるだろうと。
テクストはテキストとしてみたいな一つの流れは、そこに出てくるのだと
思いますけれども。しかし、それもたぶん成功しない。結局はそれを生み
出す全体としての人間性みたいなものと、生み出された部分的なものとの
間が、何らかの解釈的循環をもっていて、しかも生み出した全体も社会と
の解釈的循環の中にしかないだろうと。
そういうふうに考えると、当然「美」というものがいったいなんで、ど ういう条件を備えていれば芸術と呼べるのか。《スズキ・メソッド》はあ れは芸術なのか、芸術というのは教育できるのかというようなことも、す べて相対的な図式の中にしか置けないと思うのです。《スズキ・メソッド》 と《ヤマハ・メソッド》を比べることは意味がないんだと思うのです。だ からそれを受け取った側がどれほどかの価値をもつかどうか、というよう なことに還元してしまうと、それは相対化されてしまって、それが民主化 だといえば民主化だけれども、いわば方向を失った感じになってしまいま す。
小林 えーと、まとめよう。まとまらないけど、今日の見城さんのいわ ばある種の言挙げですね、これは立場的には僕自身がもちろんすごく共感 するわけですけれども、いいですよね。
それで今後の進め方なんですけど、たぶん一巡するまではこのやり方は いいと思います、お一方に提起をしていただいて、そこからかなり発散的 に議論していくと。それで見城さんの話でいくと(2)の最後のほうです ね、<明治以降「国家語」としての「日本語」が確立されていく過程にメ ディアがどう関わってきたか?>という話なんですけれども、これは高本 さんどうですかね、このあたりの話というのは、芽がありそうな気がす る?。
松本 基本的には再確認しておくというは意味のあることだろうと思い ますけれども。
小林 このあたりのことって、やり出すと結構しんねりむっちりのあれ でしょう。
見城 大変だし、またこれ未完成ですね。
高本 最近いわゆる国語、国字問題の議論というのは流行らない。専
門で研究論文をそればかりで書いてる人というのは、特に若手では少なく
なっているんですね。そういう点でいうと新しい議論が生産的に生まれて
いない部分はあると思うのです、日本語研究という立場からいうと。しか
し、逆に外部の日本語教育とか、それからメディアをやっていらっしゃる
方というのは、このあたりのことでよく雑誌の短い記事とか、このあたり
を問題にされて出ていると思うので、そういう点では興味、関心の枠は広
がってるけど、その中心にあるべき国語学の中では一種の不毛感という
か、これを論じることが滞積している部分が少しあると思いますね。
平田 ただ、具体的に「メディア」というところの視点を強くすれば面 白いと思うのです。だからここで出てるとこでいうと、軍隊とか学校と か、あるいはよくいわれる遊郭とか、あるいは相撲とか、そういった人の 集まるところをメディアという先程の話、演劇というのも相当大きなもの ですけれども。そういったところを中心にしてやっていくと相当面白いも のがあるのではないかなと思うのですけど。
小林 結構これ決意いると思うんで、やっていこうと思うと。少し様子 見て、たぶんお二方の話の中でこれと重なるかもしれないし、また別なと ころで何かわりと突っ込んでいく研究テーマが出てくるかもしれないけれ ども。できたら横へ広げる議論と、そういう何か核になるようなものとい うので、本当にそれこそ前にいったけど吉見さんたちのやった『メディア としての電話』というものすごく新鮮な、タイトルとしても新鮮だった し、研究としても面白かったと思うのです。ああいうふうなものに匹敵す るようなものを何かできないかと考えながら、これを温めるというのはい いと思います。2つか3つ付け加えていいですか、補足ね。さっきのメ ディアの話でhowとwhat……。
高本 whatとhowは横文字であるけれども、本当に相互に理解している のかとか、何かが伝達されているのかとか。
小林 そこで僕もう一つあれしたいのは、あるメディアによって、メ ディアごとに伝わらない何かがあるんじゃないか、伝わらないものは何か というふうな視点もわりと重要なのではないかと思います。特にこの前、 見城さんも確か共有してると思うけど、佐伯さんがいってたしんのう小学 校のかりやど学級と広中平祐さんのグループの、通信を使ったQ&Aみた いな話の中で、教室の中の権力構造みたいなものがこっち側に見えなくて というふうな話があるんですけど。そういったこと考えるときにも、その メディアで何が変わらないかというのは重要かな。
ちょっと国際化の話で先週の土曜日でしたかシンポジウム、あのときに
さっきちょっと話をしましたけれども、午後のパネルで話をしたのが香港
の人とタイの人とマレーシアの人とインドネシアの人と、もうその報告
した人がこういう人たちであるということに、すでにもう何か国際社会の
中の日本語といったときの問題点というのが内包されているのではないか
と思うのです。その中でかなり僕はショックだなと思ったのが一つありま
して、タイの人の発言だったのですけど、非常にタイというのは日本語教
育が盛んなんですって、その日本語教育をするモチベーションとしては、
日本から、経済的な要因が非常に強いと、日本語を学ぶことによってタイ
に進出した日本企業に就職できるのではないかと、そういう動機で入る人
が多い。ところが実際にはほとんどそれは役に立たなくて、逆にタイにい
る日本企業の日本人から見ると、なまじ日本語がしゃべられるというのは
かえって邪魔になるというか、そういう見方をされる場合があって、そう
いうねじれた関係があるというのが一つです。
それともう一つ、日本語を学ぶという場合に学問としてというか、言 語学的な関心から日本語を学ぶという層と、実務的な実用日本語というふ うな形で学ぶ層とかなりはっきり分かれてくると。これから国際社会の日 本語といった場合には、やはりそういう実用日本語というふうな形での観 点というのが重要だろうというのとがあって、そこから先がかなりショッ クだったんだけれども、話した人は訥々とした日本語で冗談というふうな 感じでいっていたのですけど。たとえば、ホテルマンのための日本語、観 光ガイドのための日本語といって、そのあとに売春婦のための日本語、そ れも女性の売春婦のための日本語と、男性の売春夫のための日本語という のが必要になるのではないかというふうないい方をしていたわけです。こ れは冗談めかして彼はいっていたけれど、ものすごくその裏に見過ごすこ とのできないある種の悲しみというか、僕読み込み過ぎかもしれないけれ ども、日本語を学ばなければならない悲しみみたいなものというのがあっ て、ちょっとショックでしたね。
高本 実際にその手のものというのは、ちょっとした洒落ですけれども ありますよ。
平田 僕も聞きましたね、外国人に日本語教育している人たちなんか、 だからいま居酒屋で働くためにどういう日本語が一番有効かというのを研 究して、そういう研究発表あったみたいですから。
高本 もう少し真面目なものだとたくさん売られています。その中に、
たとえば。作業現場といいますか、工事現場でわれわれはよく目にしてい
るけど、われわれはそれを何と呼ぶのか知らないです。すべてその現場で
使うもの、ヘルメットとかつるはしから始まって、それが対訳で書いてあ
るわけです、ローマ字の日本語とそれぞれの言語で、フィリピン語とか書
いてある。それはそういう一種のそういう職業に就く人が、手っ取り早く
日本語を習得して、手っ取り早くおカネを儲けることができるための一種
のサポートです。しかし逆にいえば、そういう職業に就く人が多いだろう
という、いわば予見といいますか、そこに被差別性があるといえばいえる
わけです。
小林 でまあ、そういうことですよこれが。
平田 だから国語審議会で「新しい敬語のあり方」といったときと、「国 際化」といったときに、まさにそれが問題になると思うのですけれど。だ れにとってわかりやすく、国際化といったときにもだれにとってわかりや すいかということです。たとえば、「ら抜きことば」なんていうのは、た ぶん世界中の人にとってわかりやすいと思うのですけれども、「差し上げ る」とか「召し上がる」という「上げる」関係のものは、韓国の人にとっ てはそれほど苦労はないです、ほとんどそれに近いものがありますから。 恐らく韓国以外の全世界の人にとってはすごくわかりにくい、たぶん一番 わかりにくい部分だと思うのです。そうするとだれにとってわかりやすい ことを旨として、国際化、情報化かという問題になると思います。
小林 さっきも北原先生の話に戻ると、平明、適確、だれにとってもそ こはある、そこへだから変にそういう国際化とか情報化というふうにから めて入れちゃうと、要素が増え過ぎて考えられなくなるよというふうなこ とを、たぶん先生は直観的に感じられたんでしょうね。
高本 国際化というのはそこまで突き詰めなくて、国際化というのはい い響きのことばだなあというところに止めておけば、何の問題も生じなく て、だからいいことばなんですよと国際化というのは、情報化にしても。 ただ、だれがそれによって恩恵を受けるかとか、そのためにだれを犠牲に するのかとか、そういうようなことを具体化していこうとすると、必ず破 綻していくから、そこ考えないように、国際化いいですね進めましょう、 情報化進めましょうといってるけど、じゃあ何をするかということはでき るだけ増えないようにしてるのが僕はいま教育の現状だと思うのです。そ のことが美しさということとも価値がからむものというのは、必ずだれに とってのというのを問題にすれば、だれにとって恩恵がある問題で、だれ にとっては恩恵にあずかれないのかという不平等というのは必ず生じてく るであろうと思います。
平田 あと、演劇なんか一番関係があるんですけど、音声の問題です。
発音の問題というのが相当ないがしろにされてて、井上さんなんかも明ら
かに「美しい日本語を響かせたい」といったって、その「響かせたい」の
とこが大事なとこで実は、発音のスタンダードがないじゃないかというと
ころを井上さんずっと問題にしてきているんです。NHKの無味乾燥なあ
れがスタンダードになってしまっているというとこが非常に問題であっ
て、もっと日本語の表現というのは豊かな音声をもってるはずだというと
ころはあるんです。そこのスタンダードがないと、これは外国語教育をす
る場合非常に困ると思うのです。いまはたぶんNHKのアナウンサーなん
かのを一番テキストにしていると思うのですけど、非常につまらないもの
になってしまう、ニュアンスが非常に伝わりにくい日本語しか教えてない
という感じがするんです。
小林 いまの、もう僕もこれで最後にするけど、音声ということで、実 はさっき見城さんがメディアと主体構成の話というのを、入るときに僕メ モとってて、主体構成という話が出てくる前に「身体性」ということを パッと思ったんです。さっき僕が引用した最後のところもそうなんだけれ ども、横内さんの話もそうなんだけれども、いまの平田さんの発音という か、それもそうなんだけど、じゃあいろんなメディアが入って、そことの 自分との関係というのを考えるときに、自分のある種の身体性みたいなも のというのがどういうふうになっていくのか、僕わかりませんよ。だけど もある種の、いま僕は身体性ということばでしかいうことができないけれ ども、そういう問題というのは考えていく必要があるのではないかと思っ ているんです。これがどういう問題かすらもわからないんだけれども、何 かありそうだ。
見城 これは非常に大きな問題ですね。だから身体性って、一時期身
体、身体といわれましたけど、いま僕が見るにそれがあまり表に出なく
なっただけに、すごく根深くいろんな分野に身体の問題というのは浸透し
ていて、だから要するにことばというのは抽象的にとらえられがちですけ
ど、常に身体、広義での身体と切り離すことができないわけです。一時期、
だから身体、身体といわれたのは、漠然とそういう問題意識が背景にあっ
たと思うのですが、ただ、もはや現代ではそれが前提になっているがゆえ
に、改めて昔の身体性の議論を読んでみると結構発見することがたくさん
あって面白いんですよ。一面では身体性の議論が広まったとはいっても、
それとは逆の側に身体とことばと切り離してみたり、あと、身体と社会性
というのを切り離したりした発想というのはあるわけだから、そこらへん
のところをもうちょっと、身体性のもつ批判力みたいなものを再発掘して
打ち出してみるというのも、面白いかもしれません。本当に身体のことば
と、ことばの問題というのは、絶対切り離すことはできない。あるいは、
身体とメディアというのを切り離すことはできないと思いますけど。結局
は主体と呼ばれているフィクションが、環境とインターラクションすると
きのメディアが身体というわけですね。身体ということもメディアという
こともすごく曖昧なんですけど、恐らく漠然とそういういまいったような
主体と環境との関わりみたいなものと関わってきてると思うのです。
高本 もう一つは、平田さんのお話で音声の豊かさというようなことを 考えると、豊かさというのがバリエーションの数というもし還元できるの であるならば、それは要するに爆発的にどんどん数が増えていくのが豊か だということになってしまう。その中で、しかし豊かなものというのはこ ういうものが豊かなんですよという、一つの典型的な例というので、こう いうのはだめですよというところで、何かよいものと悪いものを区別する のであるならば、そこに出てくる問題は、まさにさっきの井上ひさしさん の問題ともからむと思うのですが。結局方言というものはいわば地域方 言、個人的な方言も含めて、これはバリエーションでしかないと。方言と 方言を比べてどちらが美しいとかっていうことが、果たしていえるのであ ろうか。きっとそういうことではなくて、さっきいわれたような形式の問 題ではなくて、いわばことばの規範 はできないけれども、精神的な規範 という形でそれが現れてきたときに、何らかの美醜というような感覚、 それを嗅ぎ分けることができる人には嗅ぎ分けることができるけれど、そ うでない人はそうでもないんだというようなところが、何か今日の話のひ とつの決着点かなと思うのです。
平田 よくこれは一世代上ぐらいの、いってしまえば全共闘世代の評論
家の人に多いのですけど、よく最近多いのが「ことばが衰弱してる」と、
演劇言語が衰弱してると、衰弱ということが一番多いですか、という人が
多いのです。僕の感覚からするとそれは衰弱ではなくて、日本語というの
はもともと弱いという感じがしています、そういう演劇言語というかいわ
ゆる近代劇の対話ということに関してもともと弱いという感じがしている
んです。それ一時期強かったというのは、非常に何か幻想なんであって、
そんなものはないのであって、日本人はそんなには変わってないと思うの
です本質的には。 問題なのは、弱くなったわけではなくて、先程見城さ
んがおっしゃられたように、昔は強い必要のなかった人までしゃべらざる
を得ない時代になってきているんです。これは別にヨーロッパも同じで、
昔は芝居といったら王様とか王子とかしか出てこなかったわけです。せい
ぜい道化が出てきますけど、道化というのは非常に知識人ですから、当時
の階層でいえばものすごい物知りだったわけですから、諸国を漫遊したり
する。あとは商人とか、外国の知識をもっている人とか、対話ができる人
しか舞台には上がらなかったわけです役割として。それがイプセン以降、
あるいはチェーホフ以降になって初めて、魚屋さんも八百屋さんも舞台の
上に登場してくるというふうになったわけで、まだ100年なんです、ヨー
ロッパでさえ100年で。日本なんかそれさえなかったわけですから、だか
らそれは弱いに決まっているんです。その人たちは普段から弱いのですか
ら、その人たちがしゃべることばというのは、強い弱いといったらあくま
で弱いです、他人を説得したりすることに慣れてないわけですから。その
人たちのことばというものがいま変革期にあって、同時に表現の側もメ
ディアの側も変わっていっているんだという認識がないと、これは衰弱し
てるという話になってしまうと思うのです。
だからそこらへんのところを衰弱なのか進歩なのか、あるいは美なの か、ファシズムなのか、そこらへんのところを何かうまく、うまくって完 全に統一した理論として固めるということは、また非常に長い時間かかる と思うのですけれど、何かうまく説明できるとたぶん面白いものになって いくと。
小林 最後ですけど、いまのお話で、表現ということは本質もやっぱ り、本質というか表現ということ自体の意味合いというのもすごくいろい ろ変わる、それこそ歴史的、地理的な配置で変わるのではないかというこ とです。「現代思想」の何号か前かで、インターネットの特集があって、た またまトンズラくらったときに暇で見てたら、三宅なほみさんに対するイ ンタビューが載ってたんです。それで彼女が面白いなと思ったのは、イン ターネットのホームページってあるじゃないですか、あれっていうのは積 極的に出ていくものじゃないんですよね、相手がそこまで見にきてくれる という。いままで何かを、自己を表現するというと、それこそいまの平田 さんのことばでいうと、強い意思をもって自分を表現していかなければな らないということだったのが、ウェッブのホームページというのをひっそ りと自分の一部をさらしておいて、そこに相手がきてくれる、そこで表現 の関係というのは変わったんじゃないかということをおっしゃってたわけ だけど、それだけ。
見城 それ何かの研究会の発表で、それと関連した話を聞いたことがあ
りますけど。それ背景に学生に関する三宅さんの体験というのがあって、
学生にホームページつくらせていいものができたら、そうか、それじゃこ
れをたくさんの人に見てもらうために宣伝しなくちゃねというようなこと
を三宅さんがいったら、学生がエッ!とかいって、なんでそんなことをす
るんだというようなニュアンスで。というのはこれは見たい人に見てもら
えばいいんだ、自分は別に見たくない人に、というかわざわざ人に見てく
ださいとお願いするつもりで書いたのではないんだと、つくったのではな
いんだと、あくまでも見たい人に見てもらえば私はそれでいいうというふ
うにいわれたというような話で、それで表現ということ、まさにいま小林
さんおっしゃったように、表現するということの意味がだいぶ変わってき
てるなと、非常にいってみれば研究的な表現意欲というのが学生の間に結
構あるんだなという話だったんです。
高本 見たい人に見てもらいたいというのはあると思うのです、それは 別にインターネットだからではなくて、松本さんだって読みたい人に読ん でもらって、読みたくもない人に読んでもらいたくはないと思うのです、 それはすべて同じことがいえるだろう。ただ、インターネットの場合、い まの話だと、見てもらいたい人にそのページの存在をいかにして伝えるの かというところで難しいところがありますね。どこかに置くという、置い ていてもURLをどこにも流さなければそれは置かれたままで、自己満足 で自分で接続して、自分という閉鎖的なことはありますけど。だからそこ で何らかの形で僕はアピール行為というのは生じるんだと思いますよ。
平田 そこでさっきいったよき仲介者がある、それはやっぱりメディア で。
小林 それでそこのところで、その場合のアピールといってもパブリ ケーションじゃないと思うのです。不特定多数の人ではなくて、何かそこ でももう少しパーソナルな関係……。
高本 ちょっと小意気な広告だなと思うけど、フランス料理屋でもこん なお店をつくりましたと、それは内容を書かないで。少なくとも蕎麦屋 だったら、かけ蕎麦が100円とか書くじゃないですか。そこのところはそ れこそ美の問題であって、美意識の問題であって。僕はホームページだっ て、ばんばん宣伝打ってるところはあるわけじゃないですか、パソコン雑 誌にね、このホームページを見なければ君は人間でないぐらいのことを書 いてる。(笑)それは表現の様式というか、部分というのはメディアと関 係があると思うのですけども、いったん出来上がったものをいかに出して いくか、あるいはとどめていくかというそのところのいわば情報の流れで すね。
松本 自己紹介のないホームページというのは結構あるんです。リンク
貼ってくれと頼まれて、そこに一度見にいくと、自分がだれなのかという
のは一切書いてないページがあるんです。本当に結構あって、要するにだ
れかが見て自分を知ってもらうという、自分の知ってる人がアクセスして
くればいいという、そういうページじゃないかと思いますけど。
高本 僕も含めて多くのホームページというのは、ずうっと工事中なん だと思うのです。そうじゃない、いずれは自己紹介のリンクを作らなく ちゃいけないと思いつつも、自分は自分のこと知ってるからその作業とい うのは後回しになる可能性がある。そうするとそこのところで当然ホーム ページが備えていなくてはならない内容構成は何なのかとか、本だったら 別に付けなくてもいいけれども、扉があって何とかがあってというのがあ りますね。それと同じようなものというのが、これから一つのメディアが つくった新しい表現様式として、合意されていく部分はあると思うので す。
今日の見城さんの話の中にもワープロという新しいものが出てくると、 紙と鉛筆、ボールペンとは違う。結局筆記用具の違いで当然書記様式とい うのは変わってきて、たとえば、句読点一つの存在にしても、何で毛筆の ときには句読点がいらなかったかというと、それは墨継ぎのところで何か 区別できたり、いろいろな要因があっただろうと思うのです。ただ、全部 同じ太さで全部同じことになってしまうと、そこに区切り目を入れなくて はいけないから、スペースで入れたり、あるいは点で入れたりするのがで きてくるんだと思いますけども。そういう筆記用具、道具が様式を規定す るのは当たり前なんですけど、本来様式が内容を規定するという、本当に いえるのかどうかというところです。
小林 そうですね、そこはだからもう少し例証が、何かわかりやすい例 があると。
(了)