書評 |
『ポライトネスと英語教育 言語使用における対人関係の機能』堀素子 津田早苗 大塚容子 村田泰美 重光由加 大谷麻美 村田和代/著この国の学校英語教育の「非能率」を矯めるには,ひたすら技能(skill)の訓練に徹すること,と言われ始めたのは,20世紀も80年代に入る頃からであった。 英語教師を大工にみたてて,「カンナひとつ満足にかけられないくせに,いっぱし住宅論をぶつような大工に,世間は用はないのである」という高名な英文学者の英語教師論は,多くの人々の共感を呼んだ。英語の教育を「教養のためだの,文化吸収のためだのと考えるとすれば,これはヘソの方で茶をわかすはず。およそ教養,文化などというものとは無縁のはずである」という元日本英文学会会長の「実用英語」教育論も,世間ではおおむね好意的に受け取られた。 2003年に文部科学省が発表した「英語が使える日本人」の育成のための行動計画は,こんな風潮を,さらに助長する結果になった。特に英語コミュニケーション能力の育成のためと称して,数学など可能な教科から,英語で教えることが奨励されるようになった。小学校から高校まで,国語と社会以外は,すべて英語で教える自治体まで現れ,これを構造改革特区の成果として,小泉首相は2005年1月の施政方針演説で取り上げたほどである。 今回,科学研究費によって公刊された堀素子教授グループの本書は,日・英語のコミュニケーションの達成のためには,個別文化の反映としてのポライトネスが,いかに大きな役割を果たすかを明らかにした実証的研究である。当然,この研究成果は,異文化としての外国語の教育よりも,とかくカンナ掛けの技術指導に偏りがちな近年のわが国の英語教育のありようにとって,鋭い頂門の一針となった。 ポライトネスを,単なる丁寧さや礼儀正しさなどでなく,聞き手に対する話し手の配慮のすべてを含む広い概念ととらえれば,そんな配慮のあり方そのものが,当然,文化によって大きく異なるはずのものである。ところが,有効なコミュニケーションには不可欠なはずのそんな視点が,コミュニケーション能力の育成を一枚看板とする近年のわが国の英語教育に著しく欠落しているという重大な事実を,本書はいちいち具体的に示してくれる。 本書は4部から成る。第1部では,対人関係の認識の仕方が文化によって異なる実態を,日本人の英語接触と外国人の日本語接触の事例から明らかにする。相互の思わぬ誤解や感情的摩擦の調査結果は興味深い。 第2部の西欧語圏と非西欧語圏の英語教科書の比較調査では,両言語圏の人間関係に対する配慮の差の大きさに教えられる。 特に日本の英語教師にとって考えさせられることが多いのが,日本の英語教育とポライトネスを論じた第3部である。なかでも,あれほど強調されるオーラル・コミュニケーションでありながら,肝心のその教科書には,効果的なコミュニケーションを図るために不可欠なはずのポライトネスへの配慮が極めて希薄であるという報告は重要である。さらに,日本文化に通じない英語母語話者には,彼ら自身のポライトネスの方策さえも日本人学習者に指導することは困難であるという指摘も,ALTの役割を考える際には忘れてならないことであろう。 第4部の日本の英語教育への提言は,先ず,教育行政官と英語教科書著作者に,ぜひ一読をすすめたい。 「英語コミュニケーション能力の育成」のためには,「およそ文化などというものとは無縁のはずである」などと考えるとすれば,それこそ,「ヘソの方で茶をわかすはず」であることが,いまや十分に納得されるはずである。 (大阪大学名誉教授 大谷 泰照) [A5判・304頁 定価6,510円(本体6,200円) 発行:ひつじ書房] (開隆堂『英語教育 vol/58-2・3』p.23)より転載 |