学部と学問の将来

2019年12月12日(木)

学部と学問の将来

ひつじメール通信21-17(9月25日)に書きました文章です。タイトルはアップに際してつけたものです。

理系に強い大学を作ろうという風潮があるようです。関西学院大学は、理系中心のキャンパスを三田市に作るということです。神戸新聞によると「21年春に理、工、生命環境、建築の自然科学系4学部と、既存の総合政策という5学部に再編します。関学は長らく、理系が1学部しかない文系メインの大学でしたが、バラエティーに富んだ理系学部を含む総合大学になります。そのために神戸三田キャンパスが必要。理系に強い大学こそ、これからの時代に強い大学なのです」(神戸新聞NEXT 2019.9.24)とのこと。

一般的に理系に強い大学が必要という風潮はあるような気がします。あくまで私の印象ですが、人文科学系の学問に対して、ネガティブな風潮があるような印象があります。このところ、世の中ではAIというものが、もてはやされています。その結果、人間がこつこつ考えて、思索を深めていくというのは、もう時代遅れであるかのように考える風潮があるのではないでしょうか。実際の生活でも、多くのところでスマホが電波でネットワークにつながり、便利に使われ、検索してその情報に基づいて生活しています。その裏側ではプログラミングが動いていて、それに基づいて生活しています。スマホやネットワークやAIと呼ばれるものがなければ生きていけなくなっています。そして、そこには人が見えなくなっています。AIのようなプログラムが社会を支えるAI的社会になっています。こつこつ考えるのが、人文科学で、システムを作って一気に進めるのが、理系的な学問。ずいぶんと単純化した発想ですが、そのように思われているように思います。

私は、AIは魔法の杖ではなく、人間が作り、使っていくものと思いますが、世の中の感触が変わってきているように感じます。ブラックボックス化して、その便利さの中で、その仕組みに乗っかって生きていく。乗っかっていけばいいような空気があると思いますが、どうでしょうか。その背後にある仕組みも人間が作っている以上、社会科学、人文科学系の学問の価値はいっそう高まってきているのではないかと思います。とともに、文系も今まで通りで良いわけではなく、理系的な考え方にもっと文系の学問は関わっていく必要があるように思います。言語研究に関して言うと、日本語研究が日本文学科から、ある意味で独立した時に、認知科学に近づいたこともあったと思いますが、日本語の研究として、人間の言語を根本的に考えるというよりは、言語研究の中の日本語部門として自立してしまったように思います。これは英語学も同様だと思います。

文学研究も認知科学的な方向に近づくということもあったかもしれませんが、実際にはその方向には進みませんでした。文学部自体が、理系的な要素も持った情報文学部のように変わるという可能性もありました。同志社大学には文化情報学部がありますが、学問の融合的、相互的な活性化・発展というのはあったのでしょうか。文化情報学部は、椙山女学園大学にもあり、学科としては駿河台大学にもあります。言語学について言うと言語情報学部というものができていても良かったのではないかと思います。東京大学には、学部ではありませんが、言語情報科学専攻というものがあります。人文科学でやっていることはかなり変わってきているはずだと思いますが、理系重視の大学を作ろうと今さらするのは、人文科学がジャンルとしてうまく生まれ変われなかったのではないか、と思ってしまいます。一方、今、国際日本学という学科はいろいろな大学にできています。日本語学の講座が、国際日本学という学科の中にできています。国際日本学部という学部もありますが、そこに置かれるということは、どういう意味を持つのでしょうか。

どういう大学や学部が作られていくのか、ということは、学問の将来に関わります。「言語と行動と情報」学部のようなものが出来てもいいのではないかと思います。そのような学部はすでにあるでしょうか。

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