2017年のまとめと2018年の展望

2018年1月1日(月)

2017年のまとめと2018年の展望

2017年に『関西弁事典』を出せなかったことは、残念でした。2018年のはじめには刊行したいと思っています。

ここ数年の言語学会、日本語学会、英語学会での書籍の販売は低迷していたと思います。学会は、若い研究者の業績を作るのには機能していると言えますが、研究を新しく作り出すという点では、どこか弱くなっているのではないでしょうか。既存の言語研究の精緻化は進んでいますが、新しい言語観を生み出すというところに十分にはいっていないように感じます。強引な推察ですが、言語研究が刷新される最中であるのなら、自分以外の研究者の発表する研究に関心を持つでしょうし、そうであるなら研究書にも関心を持つことになると思いますが、そうなっていないということを考えると、既存の言語観の中で蛸壺化している、個々の井戸の中での議論になっているという要素があるのではないでしょうか。そうではなく、単に研究書が売れなくなったということに過ぎないのかも知れないという考えもあり得ます。言語研究の課題に寄与する研究書を刊行できていないというふうに考えた方が正しいのかも知れません。私たちの出版物は、中心が日本語学ですから、日本語学の研究が、言語観のパラダイムの革新に関与できていないので、他の分野の研究者の関心を引かなくなっているということかもしれません。

事態をどのように認識すべきか、ということは、重要な問題です。企画の立て方に問題があるのか、そうだとするとそれはひつじ書房の企画力の問題です。私は、言語研究業界の問題に責任を転嫁しませんが、一出版社の企画力の問題だけに課題があるわけでもない、とも思っています。私としては、現状に問題を帰して、自らの問題ではないと思って、愚痴をこぼすよりも、自らの企画力を高めつつ、日本の言語研究業界の活性化を図るようにつとめるという方向で打開策を考えられないかとここ数年考えてきました。

2016年、2017年は、模索の時期でした。模索が終わったわけではなく、模索を続けています。その中で、従来の言語研究観の転換の時期に来ていると感じています。20世紀後半の言語学は、規範文法から記述文法という流れがあり、言語学が人文学の基礎を作っていた20世紀前半の言語学の基礎科学としての役割から、個別事象の詳細な研究へと言語観よりも記述を重視するという方向に進んだと思います。それには、歴史的な流れがあったわけですが、言語研究の詳細化、閉塞化を招いたように思います。記述文法の方向を規範文法に戻すべきだと主張するつもりはもうとうありませんが、記述文法派、価値から、中立で客観的と規定してきたと思いますが、記述文法の背景にいくつかの前提があり、実際には書き言葉を中心にすること、話し言葉を扱っていても命題化されうる文、記述文法は書き言葉的なまとまりを持っている文を扱うという前提があったと思われます。また、言語は価値やから、中立であるというそもそも価値判断がありました。様々な話し言葉の研究がはじまり、これまでの文に規定されないマルチモーダルや話ことば、インターアクションに研究が進みましたが、それはこれまで研究されてきた文というものとは別の領域での研究となって、文自体、あるいは文法自体を考え直すということになっていないように思います。

予感しますのは、文自体を捉え返す時期が来ているということではないかと思います。日本語教育でも、英語教育でも言語教育の世界では、文法よりコミュニケーションということが、以前から、言われてきていますが、実際にはコミュニケーションというもの自体、ブラックボックスかキャッチフレーズのままで、ずっと来ていたのではないでしょうか。文法を乗り越えるはずが、いっこうに乗り越えておらず、ただ、はしごを外しただけでぐるぐる回っているのが現実ではないかと思いますが、そこで批判の対象と考えられてきた文も、そもそも狭い文法観に基づくものだと思います。それも、もしかしたら、文研究が更新されなかったことが原因かも知れません。

文研究を更新するということは、より純粋な、正当な文というものを見つけるということではないと思います。唐突ですが、劇作家の松井周氏が、2017年のブリッジという芝居のプログラムで書いていた「やや人間」ということばを思います。松井氏が、人間を目指して、人間になりきれないゾンビ的な人物を描いてきたと言っていて、それをやや人間と呼んでいました。それにならうなら、「やや文」と言ってもいいかもしれません。このことばから、やや日本語ややや言語、やや文法、やや音声学、のようなことばが連想されます。けっして、何でもいい、どれでも文だと言っているわけではなく、これが文だと言っているわけでもなく。やや人間はプラグマティックな人間観であるように思います。とともに、やや文というものも、プラグマティックな文観であるように思います。とともに、楽観主義ではなく、たとえば、文という定義も、アイロニーがあるように思います。

私は、新しい文観には、プラグマティックなアイロニーというものを感じます。プラグマティズムには二元論からの脱却という思想的な立場があり、プラグマティックな言語観にも、二元論からの脱却があるように思います。言語研究もそのような方向に進むのではないでしょうか。模索していましたが、数年の時間が掛かって見つけたのだと思います。私の考えでは、広い意味で新しい文観、言語観を模索する研究に重点を置いて研究書を刊行し続けていくと思います。かならずしも、意図してこの方向を明確に選んだというと言い過ぎで、数年前から準備していたいくつかも、結果的に連動してきているように思います。その1冊目が、『話しことばのアプローチ』になると思います。

我々は、あくまで出版社ですので、研究を発明することや先導することはできません。さまざまな研究の中から、何かを応援するというかたちで伴走するのが本来だと思います。あまりよいたとえではないですが、優れた漁師のように、渦巻く海の中からよい優れた企画・研究の生まれる潮目と思えるものを見つけたいと思います。漁師のメタファーはあまりよいとは言えないと思っています。獲物を獲るわけではないので。農民のように土地を耕し、水を蒔き、種を蒔くというのも、違います。農業であれば、自ら育って、実るのは植物自身ですから。

漁や収穫の喩えは、我々がやろうとしていることとどうも上手く適応しないように感じます。編集という仕事は、水をあげたり、種を蒔いたり、刈り取ったりすることとは違っています。一言で言えば、生み出されるものをサポートするということ。

ことしは、さらにそういうことに一歩踏み出したいと思います。これは、私個人がそうするということではなく、編集部全員が、作業者としての編集ではなく、生み出す手助けのできる編集の仕事ができるようになることを願っています。どうぞ応援下さいますようお願い申し上げます。

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