仮説 近代の学問は、法治国家をつくるためのものであった。

2013年10月24日(木)

仮説 近代の学問は、法治国家をつくるためのものであった。

※ ひつじメール通信に書きました内容に少し手を入れています。

今回は、ちょっと大げさな話しです。書籍とはどういう社会的な意味をもつのか、言語学における記述主義の原点は何なのか、ということに関わります。でも、まあ、ちょっと聞いて下さい。

はじめから大きな話しです。王制から、「名主」のように自分の土地をもって経営している農業主あるいは何らかの商売をやって一角の経営規模をもつ「事業主」が主体の政治が、貴族制や王制の政治に取って代わって、「民主制」に変わるためには、安定した営業権、財産権が必要だったと思います。そのためには、王様や貴族の気分で政治や法律がころころと変わることのない文書による法治主義が必要であったのではないでしょうか。

王様や一部の貴族がかってにルールを変えることができないこと。王様の存在理由も、個人の王様を越えた抽象的な、根拠が必要となり、王様自体、王の正統性に従わないといけなくなりました。決めたことは、平等にみんなが守ること。朝令暮改ではなく、1回決めたことは、全員がそれに従うこと。書き換えが可能でない文章が重要になったということでしょう。

そのためには、文章は違っていてはならず、改変された場合は、いつ、誰が、どのような理屈で、変更したのかを記録する必要があったのでしょう。このことが、王制の後の近代的な国家のあり方にとって重要なことでした。

文書主義と歴史主義、起源と経緯が重要になり、記録が必須になりました。その結果、テキストを扱う学問が重要になりました。テキストを照らし合わせる学問。文学と言語学では、書誌研究がそれらの学問の根拠として重要になりました。その書誌学は、単純に純粋なものであったというよりも、全ての学問、そして法律の基礎として重要でありました。この文書主義、法治主義が、近代の学問の素地となったのだと思います。照合して正統性を求めるということから、比較言語学、音韻論、文法研究が生まれたということなのではないでしょうか。ヨーロッパ祖語を求め、その様々な分岐を追求する学問が大きく育ちました。ここには、大本を見つけ、歴史的に跡づけたいという近代の学問的な欲求があったのではないでしょうか。

言語学で重要な記述主義という考え方の大本にあるのは、正当化された誰か、たとえば、王様などの人々によって、価値が決まるのではなくて、実際に存在していることが、一番重要で、そこからはじめるということです。記述主義というのも、使われていて、記録されたものに基づくということに発祥があるのではないか。歴史に拠り所を求めるタイプの規範主義は、まず起源、原点を想定して、そこからの変化について評価するという点で、文治主義であるという点では、記述主義と同根と言っていいのかも知れないです。ただ、歴史の原点を想定して、理想化するという点が、貴族主義的という点で、民主制以前の発想といえるのかも知れません。

筆写されることから、紙というものに印刷されることによって記録されるようになるとより容易に照合できるようになります。正統性を決めたり、階層化したり、ニセモノと本物という考えや、オリジナルと複製、さらには複製して頒布するということになり、それらを照合したり、価値判断したりすることが、知的な営みの土台になっていきます。

さらに、ここで問題にしたいことは、近い未来のことについてです。固定することで、法治国家が可能になったとすると、ネット社会のようにテキストは固定しない、フローでよい、その都度変えていいとなりますと、法治国家が崩れるのではないかということです。フロー化によって崩れるということもあります。フローというだけではなく、オーバーフローの問題もあります。1人の人間の処理能力をこえるほどに世の中にテキストがあふれて(オーバーフロー)しまった時代であるということも大きな変化です。全てを覚えておくことは不可能ですから、たまたま、覚えておいたことや検索してヒットしたことにしか関心をもたないということになります。そうすると恣意的になってしまいます。それは、結局、「王様や貴族の気分で政治を変えてしまう」非法治主義と同じような時代になってしまいつつあるのではないか、という恐れです。ここでの王様は、われわれ、民衆のことです。気にしたいことだけ気にしてすませておこうという社会。

安部首相は、過去の国会の答弁で、原子炉に対して、津波の恐れはない、あったとしても問題はないと答弁していることが知られています。そのテキストはきちんと公開されているわけです。しかし、<経済の持ち直し>を優先して、私たち国民は、その発言を<なかったこと>にしてしまいました。都合のいいことだけに注目し、都合の悪いことはなかったことにしてしまう、という態度です。これは、王制自体の王様の態度ではないでしょうか。民主主義において、合理的に考えるのではなく、都合の良いように考えるということになってしまったわけです。民衆という王様の王制になってしまっているということです。テキストのフローとオーバーフローの時代の困難さはどうまとな方向に基づいて変えていくべきか。これはたいへんな難問です。

ここに、社会的な記憶、社会的なテキスト処理というのはどうあるべきかという問いが生まれます。電子書籍か紙かという問題よりも、こちらの方が本質的な問いなのではないか、などということを、考えています。

執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。



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