未来の日本語、未来の日本国へ

2011年12月31日(土)

未来の日本語、未来の日本国へ

半年ぶりの更新になってしまい。それが今年最後の更新になってしまった。twitterやらfacebookを使っていて、それなりに発言をしていると何だか発言、発信をしているような気になってしまう。一方、他の人のサイトを観に行くということもめっきり減ったように感じる。自分に閉じこもるという傾向があるようで、いささか危険な気がする。これについては、もう少し考えたい。年間の挨拶はブログの方に書きましたので、そちらをご覧いただけましたら、幸いです。

茗荷バレーで働く編集長兼社長からの手紙―ルネッサンス・パブリッシャー宣言、再び。

12月に沖縄の高教組の司書部会のご招待をいただいて、講演をしてきました。基本的には菅谷明子さんの『未来をつくる図書館』の話しの線でということでしたが、私はジャーナリストではなく、図書館員でもないという立場です。今回は何を話してこようかといろいろと考えました。

私は、加藤哲夫さんが市民が政策プロセスに参加しないといけないという対談の中での発言と宮台真二がいうところの、「中央集権制美』下で役人たちが公共性や公益性を見渡すことができるという想定は、もはや不可能です。そうすると、まずは分権化、ゆくゆくは民権化するしかない。分権化された小単位で、何が公益性であり、公共性であるかを模索するしかない。すると、役人にとっての公共性も、分権化した小単位での模索活動を側面支援すること――海外でのNPOやNGOの情報を提供したり、NPOやNGOが活動しやすい体制をつくること――に変わる。そうなるとこの社会は、分権化された小単位で、参加民主主義的な動機付けが調達されないと、上手く回らなくなる。(中略)今は、社会システム理論のオーソドックスな立場を取るよりも、90年代以降の新しい社会システムを見据えた上で、分権化した小単位を上手く回せるだけの参加動機を調達することが焦眉の問題になりつつある」(『宮台真司インタビューズ』2005 290-291 世界書院)ということから、こたえをどこかに参照すれば見つけることが出来る時代ではなくなっている時代に図書館が重要であること。宮台氏の言葉を借りれば、<動機付け>を支援するものとしての公共あるいは学校図書館ということを述べようと思ったわけです。

また、宮台真司の週刊読書人の鼎談(2011.12.23号)で、「ポイントは「グローバル化と民主主義の両立不能」です。グローバル化=資本移動自由化が進むと市場も国家もうまく機能しなくなり、民衆が不安に陥る。するとポピュリズムが席巻し、グローバル化への適切な対処から遠ざかります。新興国に追いつかれる産業領域では利潤率均衡化の法則通り労働分配率が低下し、格差が拡大するから、産業構造改革と財政出動と増税が必要だけれど、既得権が脅かされると不安がる民衆が抵抗します。」と述べているように、両立不能である状況、それを打開できない政治(および民衆)の中で、簡単な結論など見えない時代、答えが直ぐどこかにあるわけではない社会的現状があります。

その中で図書館や司書が何かをすることができるのか。動機を支援することでしょう。これは当然のこと、編集者にもあてはまります。<編集の機能は知的営みの動機を支援すること>なのですから。

そういう視点で現在、年末にF先生の国語教育の研究を読んでいます。国語教科書というものが、明治期という近代国家の創立の時期にどういうさまざまな試みの中で生まれたのか、普通に当たり前だと思っている教科書の日本語も、試行錯誤されている中で生み出されてきたものであるわけです。これは教科書に限らず、作家も言文一致体を作るのに挑戦をしたし、作家の前に落語家が近代的なことばを作り出すべく大きな工夫を凝らしましたし、福澤諭吉にしても、演説館を大学の中に作って、議論の言葉を生み出そうとするなどなど、さまざまな苦労の上に当たり前だと思われている日本語があります。

以前、平田オリザさんの話しで、大学の講義の日本語や、政治家が演説する日本語はあるが、対話の日本語はないといことを紹介したことがあると思います。ここでいうと、先の宮台氏の話は、「グローバル化と民主主義の両立不能」という現実を踏まえずに、首相が無能だとかそういうことを言っても仕方がないということでした。今の現実を上手く捉える日本語がないのではないか。白黒つける、ジャーナリズムのことばはあります。しかし、対話する、人の話を聞く日本語がないのではないか。加藤さんがメールの中で、かつての反原発は作戦的に脅しのことばを用いてきたけれども、実際に原発の事故が起きた今、その脅しのことばをそのまま使い続けるということはどういうことなのか、ということを書かれていました。脅しの言葉はありますが、避難できないで留まらざるを得ないという中にいる人々とともにあることばはあるのでしょうか。

私は、市民の日本語は、まだ生まれていないのではないか。明治時代に言文一致を作ったと同じように市民の日本語を作らることが大事なことなのではないのだろうか、と思います。

図書館は知的な資源を蓄積し、伝えるところです。しかし、今の科学技術は市民にわかることばで語られているでしょうか。それよりも、そもそも、科学者の自己欲求のための研究が科研費によって、自己撞着の中でぐるぐる回っているのではないか。科研費というものをそもそも、市民の政策決定プロセスの中で作られたのでしょうか。科学政策への市民のアクセス、プロセス参加。ということを考えると英語で論文が書ければいいということだけに気持ちが集中している学会の状況はとてもおかしいでしょう。利害関係者だけで理解し合う、というのは原発業界と同じではないでしょうか。市民に開かれるためには、日本語で説明される必要があります。それ以前に市民の必要を科学者に伝える道筋はないのではないでしょうか。そういう点で、私は学校図書館、高校の先生方、公共図書館というものが、情報を受け取るだけではなく、こういう情報を作れ!こういうことを研究しろ!ということができるここでは、動機というより、<要求の公共化>というものの回路となりうるのではないか。

ということで、<市民の日本語>、と<街場の偉人伝>ともしかしたら、<社会を進化させる図書館>(3つは欲張りすぎだ。)のプロジェクトを2012年からスタートさせたいと思っています。<街場の偉人伝>は、街の記憶をどう編集して、残していくかという<出版(パブリッシュ)>と<編集>の根幹に関わる課題です。それを解答不能な時代に行うと言うことなのです。

市民の日本語を生み出せる国、それが市民の日本国というものではないでしょうか。そんなものを夢みながら、2011年の大晦日を迎えました。2012年は龍の年、あらたなる展開を生み出したいと思っています。

沖縄での話しは「未来をつくる図書館へ」としました。未来の日本語、未来の日本国へということを願います。


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