プロフィシエンシーという考え方は面白い

2008年9月20日(土)

プロフィシエンシーという考え方は面白い

プロフィシエンシーという考え方は、言語教育のものだけれども、面白い概念だと思う。流ちょうさとか実際に使いこなせているか、それをどう引き起こすか、という考え方だと言っていいと思う。(どうでしょう?)

少し前、今でもそうだが、ヨーロッパではCEFRという言語の習得の基準というものが提案されていて、注目されている。日本でも国際交流基金がそれを作り出そうと提案している。このことはいろいろな意味で注目に値する。ヨーロッパの場合で言うと欧州内の人々の移動が激しくなって、どのくらいの言語能力が必要なのか、学習者としてはどのくらいの言語能力を身につけているか、身につけようとする場合、教える場合に基準が必要であるということである。

ただ、ここで主に問題になっているのは、「何が出来るのか」というCan Doステートメント「人前で流ちょうに話せます」「簡単な漢字をつかうことができます」などなどである。文法主体で、「格助詞が使えます」「敬語が厳密に使えます」という文法主義の時代よりも、Can Doの方が優れている点があるのは認めよう。(ここで疑問なのは、文法主義は、文法学習が自己目的化することは問題だとして、ロールプレイを行えば、何か具体的なことができるようになるというのは本当なのかということ。どうなのでしょう?)では、どのようにそれができるようになるのか?ここでプロフィシエンシーという考え方が登場するわけだ。

ここで、言語教育の問題ではなく、他のテーマに横滑りさせることにする。たとえば、公共性ということを考えてみる。ハーバーマスとかアレントについて書いてある本を読むと「公共性とは市民がコミュニケーションを行い何かを生み出していくこと」のようだ(『公共性』齋藤純一、『「公共性」論』稲葉振一郎による)。

これは、Can Doステートメントだろうか。というよりも、Can Doステートメントの上の理想というものだろう。あるいは「題目」と読んでもいいかもしれない。市民社会にとって必要な課題というべきものである。そんな公共性が、あったらいいのに、現代社会に可能なのか、というのが、公共性の議論のようである。

言語教育で考えると

1 目指すモノ・題目    人のありかた、人生というレベル
2 Can Doステートメント そのことを実現するために可能な言語活動
3 個別の言語活動の学習  その言語活動を実現するための言語獲得する

ということになるのではないか。言語教育学の優れているところは、目標を実現するためのプロセスを研究しているところにある。「題目」にいくためのステップとその教育・学習について研究していることである。たとえば、公共性を社会に生み出す(題目)として、そのためにどういう言語活動をすることが重要か(目的化)を明確にし、その活動を実際に、流ちょうにできるようにする(プロセスの明確化とともにその評価)ということを実際の技能として編みだそうとするところである。

そういうものがプロフィシエンシー研究であるのなら、公共性のプロフィシエンシー研究、裁判員制度のプロフィシエンシー研究などなど、さまざまなことに「プロフィシエンシー」という観点が重要になるのではないか。社会的な活動というものについて、この観点を関わらせることができるのではないだろうか。

というか、私はハーバーマスとかアレントについて書いてある本を読むとそういう視点がないことに驚く。(もとの本を読んでないので2次的な議論から考えていることをおことわりしておく)そもそも、社会科学や哲学、思想において、人はどう学ぶか、どう学習するのか、ということについての関心がない、のかもしれない。(教育心理学、認知心理学にはあると思いますけれども、ガンバレ、学習学!)

市民社会を実現するために(題目)、議論して、市民自らがものごとを決めることのできるコミュニケーションが必要(Can Do ステートメント)だ、公共図書館を充実させる必要がある(施策、施設)ということは言えるだろう。じゃあ、どう公共図書館を使いこなし、どう実際の生活の中で議論や考えることの試行錯誤を起こしていけばいいのか(プロフィシエンシーをどのように生み出すか)という視点は全くなかったのではないだろうか。(図書館学にも、情報を項目化する研究はあるけれども、どのように知的活動が起こるか、起こしうるかという研究はほとんどないと思う。)

プロフィシエンシーをどのように生み出すか、どのように高めるかということ自体が、21世紀の社会的な知にとっては重要なことだ。図書館を作れば、箱を作れば、人々は議論を始めて市民的な課題を自ら解決し、ビジネスに知恵を絞り、起業するかというとそれは違う。

振り返って考えてみると、何もしないのが理想という「教えない日本語教育」が提言されたことがかつてあった。どちらかというと「教師」ぽくない、自由なたちばの方が提言されていたように思う。たしかに、教えたい病の人にはいい薬ではあるけれども、今や、ニセ薬になってしまったのではないか。無くていいのではなくて、「生み出す日本語教育」が求められているのだと確信する。日本語教育の社会化も必要だが、社会活動の日本語教育化という視点も可能だろう。日本語教育学者は、もっと社会に出ましょう。


執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。



「本の出し方」「学術書の刊行の仕方」「研究書」スタッフ募集について日誌の目次

日誌の目次へ
ホームページに戻る

ご意見、ご感想をお寄せ下さい。
房主
i-matumoto@hituzi.co.jp