アカデミック・エディティングを訪ねて 2005年12月13日(火)
2005年12月13日(火)

アカデミック・エディティングを訪ねて

12月10日土曜日に京都大学で開催された語用論学会に参加した。ひつじで参加というと本を売りに行ったということになる。語用論学会は初参加であったが、売り上げの成績はなかなかよかった。英語学会の2日分の売り上げを土曜日だけであげたのだからたいしたものである。(英語学会の売り上げが、ひどすぎたのであろう。九州まで行ったのにはかばかしくなかった)シンポジウムも盛況だったと思う。歴史語用論という新しい分野を旗揚げするというエポック的なものであったもあった。司会者の金水先生から、国語学の国語史研究を再評価してもいいのではないかとの発言もあった。

さて、その時同じ京都大学で「特色ある大学教育支援プログラム(GP)」シンポジウム「これからの大学の外国語教育−カリキュラム開発の意義と実践―」が開かれていた。合間にのぞきに行った程度であったが、なかなか興味深かった。翌日の国立情報学研究所で開かれた「日本の学術誌における英文校閲を考える」との対比をしたい。

「大学における外国語教育」では、英語教育は、EGAP(english for general academic purpose)とESAP(english for specific academic purposes)の両方のためにカリキュラムを作らなければならないと言っていたのに対して、「英文校閲を考える」で動物学会のcopyeditingをしている北海道大学のMatthewさんは、校閲に必要なのは、わかりやすく、研究の内容をストーリーとして伝えることのできる英語とのことで、英語らしいシンプルな書き方の本(The elements of style)を推薦していた。このギャップに?であった。Matthewさんは、研究者でもある方であるのだ。

英語教育の研究者は、specific academic purposesということを強調していたのに、学会誌のcopyeditingの現場では、基本的な英語の発想について強調していた。定冠詞と不定冠詞をきちんと使えることが大事だとMatthewさんは言っていた。

学会誌投稿というもっとも、ESAP(english for specific academic purposes)な現場で、Matthewさんは、EGAP(english for general academic purposes)の方を求められていた。これはどういうことだろう。もしかしたら、ESAPではなく、EGAPが求められているのではないか。そうだとしても、よいEGAPということだろう。

私の意図は、英語教育に携わる人々の新しい研究への意欲を損なうことではない。専門的な学術英語教育というものの重要性も認めるものだ。しかし、generalの方についても十分に考察する必要があると感じる。私は、日本語におけるgeneral academic purposesには、市民教育の要素が含まれていると思っている。(弊社から、4月に刊行する『アカデミックジャパニーズの挑戦』参照)

「英文校閲を考える」で受けた印象。学会誌の問題は、優れた査読者、優れた推敲者(polisiher)がいないことのようだと私には思えた。私は、むしろ、英文原稿を書く人々への支援者を強化した方が実質があるのではないだろうか。編集者に対して、ESAP(english for specific academic purposes)EGAP(english for general academic purposes)を学ぶことのできる機会を提供した方が、生産性が高くなるように思うのだが。まだ、説得的に説明できないけれども。

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