2001年5月30日(水)

出版という不幸

大月さんの『独立書評愚連隊 天の巻』を読んでいる。15年分の書評が集められている。偶然にも15年だ。八木書店に寄ったときに、たまたま手にして、開いたページがひつじで出している『身体の構築学』(福島真人編)だったから、これは「ヨメ」と言われているような気がして、買ってきた。(今回、新たに付けている福島さんに対してのコメントは、大月さんは愛憎というか、批判のような、エールのような微妙なニュアンスがあるようで、それはそれで面白いかもしれない。)

そこで、読んで思ったことは、大月さんが10年前に民俗学者に対して怒っていたことをどうも今頃になって私は出版人に抱いているのではないか、ということだ。『ルネッサンスパブリッシャー宣言』もその意味では大月さんの『民俗学という不幸』のようなものかもしれない。

私自身の職人志向、(まっとうな)世間志向は大月さんから、影響を受けていないとはいえないのかな、とふと思ってしまった。『職人』という本への文章はこうだ。「絵に描いたような「職人」は、それをささえる「旦那」の文化があって初めて可能だった。それは「芸人」とすぐ地続きの隣合わせでもありました。衣食住、全てきっちりバックアップして何の心配もないようにしてその技術を存分に発揮させてやる関係こそがその職人を支えていた。」

佐野さんの『旅する巨人』へのコメントも秀逸。この文脈を『だれが本を殺したのか』にも当てはめることができるだろう。『本とコンピュータ』が、箕輪さんではなく、大月さんに書評を依頼していたら・・・。問題を摘出した批評がなりたっただろう。この『独立書評愚連隊』自体が、だれが本を殺したかであり、だれが学問とルポルタージュを殺したのかになっているからだ。この本で、大月さんはずいぶんやはり怒っている、と同時に本読みとしてやはりずば抜けていて、襟を正される思いがした。

「これは近代の日本語の成り立ちにも関わると思いますが、書き手は「書く」ことの社会的意味を実践的に計測しないですんできた。つまり、「書く」自分の立場について方法的に自省しなくてよかったから、「書かれたもの」となったところからそのテキストも含めた新たな歴史が始まるという腹のくくり方ができていないんです。」(311ページ)このような、書くことへの自省が、電子テキストの周辺にあったことがあるだろうか。残念なことに、「誰でも作家になれる」たぐいのことばしかなかったのではないか。腹のくくり方なんて言った人はいないだろう。

しかし、大月さんは、大学人としての学者を辞めてしまった。私は、発行人をやめるわけにはいかない。私は、NPOに対するフィールドワークをしたいと思っている。未来を作る民俗としてのNPOのガクモンを作るのだ、といったら、大月さんは笑うだろうか。

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