国語教育を再考する会

last update 2016.10.5   

「国語教育を再考する会」へのお誘い



【「国語科教育を再考する会」趣意書】


『日本近代文学の起源』(柄谷行人)が書かれて35年以上が経つ。起爆力のあるこの本の内容は、従来の「国語科教育」と呼ばれる営みを根本的に問い直さないではおかない。この本は多く読まれた。しかし、「国語科教育」はほとんど変わらなかった。「内面」も「風景」も、はては「児童」でさえ、それについて問い直されることはなかったように思う。

「国語科」は日本語という言語についての教科でありながら、日本語は言語として扱われることは非常に少ない。高校生は、古典という科目で、『万葉集』とともに漢文訓読について学ぶけれども、古典日本語の成立や変遷について学ばない。現代文という科目で漱石の『こころ』や鴎外の『舞姫』を読むけれども、近代日本語の成立について十分には学んでいない。それどころか、生徒は、いや大方の国語教師もまた、漱石はその時すでに安定的に存在した近代日本語を使って小説を書いたと思い込んでいるのではないだろうか。

国語科教育が言語についての教育であるからには、日本語はまず言語として学ばれるべきだ。その際に、言語が決して単独で成立することはあり得ず、古典語においては特に漢字漢文という外国語の受容が決定的な影響を与えたこと、また近代語の成立にも外国語の受容が大きな影響を与えたことを無視することはできない。

また、古典や現代文の文学教材は言語的文化に他ならず、(その内容の吟味は必要だとしても)国語科教育を通じて、それらは伝承されなければならない。誰もがかつて親の口から発せられる言語を模倣したように、国語科教育は(教育であるからには)、伝えられてきた言語文化を次世代に伝えていく義務があるだろう。確かに従来のある種の正解の誘導させるような文学教育には問題がある。読みは多様である。読みの多様性を担保した上で、他者の読みと出会う場として教室を定位し、文学教育の可能性を探りたい。

さらに、言語とは言語行為によって今も新しく変化することを止めない生きたものであり、私たちはその言語主体である。また、コミュニケーション行為は言うまでもなく、読むことや書くことの言語行為もまた社会的行為に他ならない。
とするならば、「国語」の、特に近代史上果たした政治的役割を軽視すべきではない。たとえ国語を日本語と読み替えたところでニュートラルなものではあり得ないだろう。一般に言語とはすぐれて政治的である。むしろ問題なのは、従来の「国語科教育」がそのような言語の政治性を隠蔽してきたことではないだろうか。

このように、国語科教育とは引き裂かれざるを得ない宿命を背負っているのだ。したがって国語科教育は、一、言語をまず何よりも生成変化する言語として、また二、伝承すべき文化として、さらに三、主体と社会の関係を問い直す政治の現場として、再考されなければならないと思う。

これまでも国語科教育は様々な批判にさらされてきた。にもかかわらず、国語科教育は変わらなかった。とすれば、国語教育はなぜ変わらなかったのか、についても、そのさまざまになされてきた批判の妥当性を含めて、吟味していく必要があるだろう。
国語科教育を再考することによって国語科教育を変えたい。これがこの会の目標である。

2016年8月1日 福島県立橘高等学校国語科教諭 深瀬幸一



【「国語科教育を再考する会」へのお誘い】


私は「国語科教育を再考する会」の発起人の一人である深瀬幸一と申します。福島県の高校で30年以上国語を教えています。

先日、ひつじ書房の松本さんから、言語教育に関する本作りに参加しないかというオファーをいただきました。松本さんは、私が10年以上も前に出した『るつぼの中の国語教師』(春風社、2003)を読んで下さったそうです。

私はその本で国語科教育に関するいくつかの問題提起を行いました。この「国語科教育を再考する会」の趣意書にも入れましたが、ざっくり述べるなら、一つは「文学は国語科という教科で教えられるだろうか」という問題と、もう一つは、そもそも「国語科とは何をどう教えるべき教科なのか」という問題です。国語科教育はこれまで様々な批判にさらされてきましたが、それに対して国語科は誠実に応答してきたでしょうか。例えば「文学は教えられるのか」という批判を、私たちは正面から受け止め応答すべきだと思います。「国語科は言語の教科であるべきなのにその内容に系統性がなく曖昧過ぎるではないか」という批判に対しても真摯に答えるべきだと思います。

私は臨教審が答申を出した頃に教員になりました。それから多くの教育政策が様々なる意匠を凝らして提案されました。そういう中で、今述べたような国語科教育の問題は解決されたとは言えないと思います。例えば近年、「アクティブラーニング」が推奨されていますが、国語科でそれを行う意味については深く掘り下げなければならないと思っています。また、先頃選挙権年齢が引き下げられ、高校現場ではあらためて「主権者教育」が模索されています。政治とは畢竟言語的行為であると思います。では、言語の教科である国語科教育はそれにどう関わればいいのでしょうか。

国語科教育の問題はその関係者だけの問題ではありませんし、その中で解決できる問題でもないと思います。むしろその外側からの視点が必要です。ご参加の皆様には、それぞれの立場から、国語科教育の問題を指摘、提言をいただきたいと思っています。その問題について、このサイボーズ上で、ある程度議論が蓄積した程度できた段階で、一カ所に集まりFACE TO FACEで議論する機会を持ちたいと考えています。

数年後、行われた提言や議論をもとに一冊の本が作ることできればと念願しています。もちろんご参加の皆様にあまねく執筆をお願いするということではありませんが、皆様の忌憚のない相互批判を経ることでできるだけ質の高い本を作ることを目指したいと思います。どうかよろしくお願いいたします。

2016年8月1日 福島県立橘高等学校国語科教諭 深瀬幸一






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