芥川賞作品を読む|第5回 森敦『月山』 (第七十回 1973年・下半期)|重里徹也・助川幸逸郎

脱臼される異郷訪問譚

助川 今回は森敦の『月山』です。

重里 黒田夏子に破られましたが、長らく「芥川賞最年長受賞」でした。

助川 この小説は、話型的にいえば異郷訪問譚ですよね。

重里 典型的な異郷訪問譚の型をしています。古典でいえば浦島太郎とか。川端康成の『雪国』も異郷訪問譚です。他にも無数にあります。

助川 異郷訪問譚では、主人公が異郷にいる誰かと密接な関係になるのが通例です。

重里 浦島太郎は乙姫さまと仲良くなる。『雪国』の島村は芸者の駒子と男女の間柄になる。

助川 『月山』の主人公は、雪深い山里の寺で一冬を過ごします。このとき、自分の寝室の中に、古文書を貼りあわせて覆いをつくるのです。この覆いは、折口信夫が『大嘗祭の本義』という論文で書いている「天皇が即位式の時に、先代の天皇の霊を宿らせるために伏す真床御襖」を連想させます。そして、寺で村人の集まりがあった夜にこの寝床に入り込んで来たのが、土地でもっとも魅力的な若い女性。

重里 その女性と関係を持てば、典型的な異郷訪問譚が成立します。

助川 ところが主人公は、それをスルーするのです。乙姫さまに誘惑されたのに、チャンスをみすみす棒に振る(笑)。

重里 それで、次に彼女が寺にやってきたときに、寝床の中で期待して待っている。ところが、今度は肩透かしを食らわされます。

それから、この作品の舞台である山村には、先ほども申しあげたとおり雪がたくさん降るのです。この環境に逆らって、降り積もる雪をよけて、庭づくりをする男が出て来ます。

助川 とても印象に残る人物です。その男が、飼っている牛を助けるために、危険な峠越えを試みます。一般的な物語のパターンなら、この人は悲劇的な最期を遂げるか、牛を助けて称賛されるかでしょう。それなのに死ぬわけでも、英雄になるわけでもなく、命は助かるけれどもやる気を失って廃人みたいになる。

あらゆる「物語の典型的パターン」が、この作品では脱臼させられているのです。

重里 この作品において、月山は物語を支える基盤(磁場)としてあるのだろうと、読者は期待します。主人公はどうやら、再生の決意を抱いて、月山のふもとの山村に籠るわけですから。

助川 ところが、そんな期待は完全に裏切られます。月山はむしろ、物語を包み込んで無化する存在として描かれている気がします。

重里 異郷訪問譚とか、英雄的な冒険物語とか。そういう「典型的な物語」の不発を、月山が招きよせているということでしょうか。

助川 虚構作品における「山」は、父性原理というか、「乗り越えるべき壁」の象徴みたいな役割をしばしば担わされます。この小説の月山には、その種のわかりやすい役割はありません。

重里 かといって、母性的な癒やしをもたらすわけでもないのですね。ただ、小説の冒頭で月山は、「死者の世界」として紹介されています。

助川 「この山に近づいたら、何かが起こる」という期待を、読者にもたせるのですが、結局最後まで何も起こらない……

70年代における土俗の意味

重里 文庫版の解説は小島信夫が書いていて、『楢山節考』とこの小説を比較しています。確かに『月山』も『楢山節考』も、どちらも日本に伝統的な土俗の世界を描いている。ですが、『楢山節考』は「土俗の世界はこんなに凄い力を秘めているのだぞ」という話、『月山』は「土俗と出会ったけれど何も起こらなかった」という小説です。

助川 『楢山節考』は一九五六年の作品、『月山』は一九七三年に発表されています。

重里 高度経済成長期には、岡本太郎とか土方巽とか、様々なジャンルの芸術家が「近代化路線からこぼれおちる土俗的なものを拠りどころに、時代を批判する」という運動を展開していました。評価の高い石牟礼道子にも、そういう面があるでしょう。『楢山節考』も、この流れに乗って評価されたのではないでしょうか。

助川 「弥生人が作った現在の日本を、縄文的なものの力で撃つ」みたいなことが言われていましたよね。今にして思えば、三島由紀夫の「天皇」も、その種の「土俗的なもの」のバリエーションだったのかもしれません。

重里 三島の「天皇」ですか。面白い指摘ですね。ただ、すごく「人工的な土俗」のような気がしますが。一九七〇年代になると、高度成長も終わるし、反体制運動も、気が抜けたように沈静化する。「土俗的なもの」に体制を覆す力があるという信条も色あせてくるのではないでしょうか。そういう時代状況を、『月山』はつかまえているともいえるでしょうか。

助川 「土俗的なものは残っているけど、無力」というのは、七〇年代以来、ずっとつづいている問題です。地方に住む古株の自民党支持者から、「今さら他の政党は応援できないけど、自民党も昔の自民党ではなくなってしまった」という嘆きをしばしば聞かされます。今の保守政治家はみんな二世や三世で、子どもの時から都会で暮らし、地元の人間とのつながりも薄い。

重里 田中角栄がいまだに懐かしがられるのも、日本人土着の心性に訴える政治家が減ってしまったせいでしょう。土着的なものは消えてはいないのに、それを国や社会のあり方につなげていく回路がない。土俗は登場するのに何ものも生み出さない『月山』は、現代日本のローカルな世界の縮図です。

中上健次のいら立ち

助川 唐突に聞こえるかもしれませんが、『月山』で森敦が見事に達成したことを、中上健次は『地の果て 至上の時』でやろうとして、失敗したのではないか、という気が私はしています。

重里 そろそろ、中上の話をするのだろうな、と思っていました(笑)。

助川 「物語を生み出しそうなのに、生み出さない」という点で、月山という山と、『地の果て~』の浜村龍造は共通します。秋幸は、実父である龍造を殺して乗り越えようとするのですが、龍造は秋幸をソフトに包みこみ、息子の敵意を受けながす。「父殺し」のストーリーが成り立たないので秋幸はいら立ちます。

重里 『地の果て~』は、『岬』、『枯木灘』と三部作になっていて、シリーズ最初の『岬』が書かれたのは一九七五年です。『月山』と同じ時代状況を、中上が描こうとした可能性はあると思います。『地の果て~』を書いた後の中上の軌跡を見ても、彼が「物語の解体」という問題と向きあっていたのはあきらかでしょう。

助川 ところが、『地の果て~』の中上は、「最後まで何も起こらない状況」をめざしたはずなのに、浜村龍造を自殺させてしまった。『月山』でいえば、月山が崖崩れを起こしたようなものです。これでは、たしかに何かが起こってしまっているわけで、『月山』にくらべると『地の果て~』は、完成度の点で弱いといわざるをえません。

重里 中上は、自分が生まれ育った土地を舞台に、自分の血縁をモデルにして『地の果て~』を書いています。森敦にとって、山形の山村とそこに住む人びとはそういうものではありません。その距離感の違いが、「何も起こらない話」を書けるかどうかを分けたのではないでしょうか。

助川 「何も起こらない話」を淡々と書くには、中上は対象に対する愛憎が強すぎたのですね。そういえば、古井由吉が『聖』を書いたのも七三年でした。『聖』は、地方都市周縁部の農家にたまたまやってきた男が、「サエモンヒジリ」という「かつては村にいた死体運び屋」を演じさせられる話です。私の見るところ、この作品も「土俗的なものは残っているけれど、かつての力はない」という状況を土台としています。

森敦は、「孤高の作家」みたいに語られるのが一般的です。しかし『月山』を詳細に検討してみると、あきらかに高度経済成長が終わろうとする時代の刻印がうがたれています。

成長しない主人公

重里 ところで、異郷訪問譚として、よく学生に例示するのは、夏目漱石『坊ちゃん』と宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』です。

 『坊ちゃん』は、世間知らずの主人公が、四国に行って世間を学んで戻ってくる。『千と千尋の神隠し』は二重の異郷訪問譚になっていて、甘ったれだった千尋が、両親を助けるために労働の意味を知り、ハクを助けるために自ら主体的に行動する喜びを学ぶというストーリーです。

助川 どちらの物語でも、主人公は成長を遂げていますね。それなのに『月山』の主人公は、これといって変貌することなく異郷を去る。

重里 冬が終わって、主人公のところに友だちがやってきて「一緒に戻ろう」と誘います。すると、あっさり主人公は一緒に帰る決心をしてしまう。あの終わり方はどう思われますか? 芥川賞の選評では批判的な選考委員もいたようですが。

助川 私は、とてもいいと思います。その友だちがまた、金もうけばかりを考える俗物で。そういうヤツと連れ立って異郷を出ていく点が、「まったく精神的成長につながらない異郷訪問譚」という印象を決定的にしています。あの終わり方こそこの作品にふさわしいのでは、というのが私の実感です。もはや何が成長なのかわからない時代が来た。この小説は、それを訴えているのではないでしょうか。

重里 でも、『月山』よりもっと新しい『千と千尋~』では、成長がきっちり描かれていますね?

助川 正確にいうと、高度経済成長が終わった後、「女の子の成長は語れても、男の子の成長は語れない」という状況になったのです。宮崎アニメでも、『魔女の宅急便』とか、女の子の成長を描いたものは幾つもありますが、たとえば『風立ちぬ』の主人公なんか、ずっと飛行機おたくのままで成長しません。

重里 女性の社会進出は、高度経済成長後に進みました。だから「これからの女性が目指すべき姿」は、七〇年代以降にもリアリティーを失っていなかった。しかし男性は、六〇年代までのロールモデルが無くなった後、それにかわる「理想の自分」を発見できなかった。三島由紀夫のいう「豊かだけれど腑抜けて退屈な社会」がポスト高度経済成長期に到来しました。このとき、アイデンティティーをより強烈に奪われてしまったのは、男性のほうだったわけですね。

助川 しばらく前に「ポスト高度経済成長期に書かれた〈男性の成長物語〉」を探したのですが、リアリティーのある傑作は、私が無知なせいか見つかりませんでした。いっけん成長物語のようでも、『ドラゴンボール』の悟空みたいに、精神は成長しないままスペックだけ上がっていくケースが多いのです。

じっくり煮込んだ大根のような文章

重里 ところで、『月山』は文体も独特ですね。「ですます」調です。

助川 この文体は、作品の内容ととても合っていると思います。

重里 今回、出典を確認できなかったのですが、あるいはテレビで語っていたのかもしれないですが、安岡章太郎が「おでんでいうと、味のよくしみた大根のような文体」と語っていたのを記憶しています。安岡らしい比喩で印象的でした。言い得て妙でしょう。

助川 ポスト高度経済成長期の「根無し草みたいになった日本」を、安岡がしっかり理解していたのは間違いありません。だから、『月山』の真価も見抜けたのだと思います。

重里 『月山』の文体は、まさにじっくり煮込んだ大根のように、柔らかいのだけれど歯ごたえがある。豊かな味わいがある。

助川 アイロニーをほとんど漂わせずに、淡々と「何も起らない異郷訪問譚」を語っているところが素晴らしいです。

重里 わざとらしさが少ない文章ですね。才気走ったことを書きたくなる題材ですが。

助川 たとえば、冬が明けて、秋にやってきたと思しきカメ虫を主人公が見つける場面があります。カメ虫は鉢の上までもがきながら這いあがり、やっと鉢の縁まで登ったところで羽根を出して飛んでいく。飛べるんなら、わざわざ苦労して這いあがったのは何故かと主人公は思い、「自分のやってることは鉢を登るカメ虫と同じ徒労だ」と感じる。ここでアイロニーが前面に出てしまうと、ただの自意識過剰の近代知識人の話になってしまいます。そういうものを感じさせず、静かに徒労感が語られるから、「何も起こらない不毛な状況」が読者につたわるのです。

重里 寝床の周りに張りめぐらせていた覆いを、春が来てからチェックしてみたら、うっすら汚れていた、という描写もありました。

助川 あの覆いは、話型的にはかなり重要なアイテムです。浦島太郎の玉手箱クラス。それが汚れていたというのを、当たり前のように書くことで、かえって「物語の不可能性」を鮮明に浮かびあがらせている。見事な手腕だと思います。

「玉手箱が腐ってる!」と大声で騒ぎたてるより、「玉手箱、腐ってる……」とぼそっと呟くほうが、状況のどうしようもなさが強調されます。今さら騒いでもどうしようもない、諦めるしかない、という(笑)

重里 高度成長が終わって、八〇年代はバブルに沸きましたが、その後の三十年、めざす方向を見失って日本は停滞をつづけています。今、『月山』を読むと、五十年後にこの国がこうなるというところまで、予見していたような気さえしてきます。

助川 それでも私たちは、いつしか与えられた状況に慣れて、どうにか生きてのびてしまう。

日本近代における養蚕

重里 そういう空虚な明るさが、この小説にはあります。もう一つ、『月山』を読んで感じるのは、日本近代における養蚕の重要性です。

助川 覆いに囲まれた部屋で寝るときに、主人公が蚕の繭を連想するのですね。繭に籠ったら、そのあと成虫になるはずなのに、蚕は繭のまま煮られるから大人になることがない。「成長をもたらさない異郷訪問譚」を象徴するイメージです。

重里 養蚕について、今ひとつわかってなかったのですが、ある文学賞に関係して毎年のように白河市(福島県)に行くと、酒を飲む機会などに、米作や果物の栽培とともに、よく養蚕の話をうかがうようになりました。

「子どものころ、家でいちばんいい部屋で蚕が飼われていた。夜、蚕が桑を食べる音を聞きながら眠りについた。蚕が元気だと思うと安心してよく眠れた」という話をしばしば聞かせてもらいました。日本で養蚕がいかに生活に根づいていたかを実感する話題でした。

助川 一昨年、諏訪大社に行っておみくじを引いたのです。そうしたら「待ち人」とか「金運」とかと並んで「養蚕」という項目がありました。昔から同じおみくじを使っているのでしょうが、養蚕はそれほど土地の人にとって大事な産業だったのです。

重里 突然に話題が飛躍しますが、村上春樹の『1Q84』に「空気さなぎ」というのが出てきます。村上は、近代日本における養蚕の重要さを踏まえて、あれを登場させたのではないでしょうか。

助川 村上は「日本の文化伝統と断絶した作家」として論じられるケースが多いのですが……

重里 私の考えでは真逆です。森敦も村上春樹も、日本の大衆の生活実感をよく理解して、小説に登場させるイメージを構築している。だから、あれだけの説得力を作品に持たせられるのでしょう。

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