自分を変えるためのエッセイ作成術|第1回 「他人に伝えること」は自分自身の発見だ|重里徹也

人は何のために文章を書くのでしょうか。
連載を始めるにあたって、柄にもなく、そんな自問をしてみました。
おそらくは表現したい思想や感情(考えていることや感じていること)があって、言葉を連ねるのでしょう。
思想というと大げさですが、「自分はこんな変なことを考えたんだけれど、やっぱり変かな」とか、「このことについては、こんな視点もあると思うのだけれど、気にしないでいいのかな」とか、そんな場合がけっこう多いのではないかと思うのです。
感情についても同様に難しく考える必要はありません。「夕方、駅のプラットホームから富士山が見えて、めちゃくちゃにきれいだった」とか、「結局、おれのやることなんて、何一つうまくいかないんだ」とか、「3年前に福岡で食べたポテトサラダがいやにおいしかった」とか、たとえば、そんなことです。

それで、何のために書くか。
すぐに思い浮かぶ答えは2つあります。1つは他人に伝えるため。もう1つは自分自身で自分の思想や感情を知るため。
面白いことに(私は面白いことだと思うのですが)、この2つのことが同時にできるのが、文章を書くことの醍醐味です。
多くの場合、私たちは胸にモヤモヤしたものを抱えています。さまざまなことです。たとえば、雨が好き、ということでも構いません。雨が好きだなんて、ちょっと変ですよね。でも、好きだから仕方がありません。何とかこのことを人に伝えたい。モヤモヤしています。

ここで横道にそれます。この文章では、よく横道にそれることにします。私が敬愛するドストエフスキー(ロシアの作家。1821~1881)の小説の登場人物は確か、「人生の真実は表通りにはない。路地裏にある」と話していました。それにならえば、横道にそれるからこそ、伝えられることもあると思うのです。
何かを好きになるというのは、素晴らしいことです。それが、ゴキブリであろうが、ヘチマの鉄板焼であろうが、アイドル歌手であろうが、構いません。「好き」であることが尊いのです。何かを好きになることほど、この世で素晴らしいことはないかもしれません。「好き」はあなたを意味づけます。

横道から元に戻ります。それで、それを人に伝えたい。どうして自分はそんなものが好きなのか、考えたい。そのために、どんな方法があるでしょうか。文章を書くのが最も有効で実りの多い行為の1つでしょう。
ちょっと書いてみましょう。大した文章じゃあないですよ。
頭の悪い文章です。実は私は頭の悪さを売り物にして、文筆に励んでいる人間です。ここでもう1度、横道にそれます。
頭の良さなんて、文章を書くという場所では、全然、大したことではありません。そんなものは、ひとつも怖くありません。陳腐なたとえを許していただけるのなら、頭の良さは、よく切れるカミソリのようなものです。鋭いけれど、ちょっと硬いものにぶつかると、すぐに刃が欠ける。使い物にならなくなる。

私はそんな文章をめざす気持ちは毛頭ありません。めざすのは、鈍くて重いナタのような文章です。頭のいい人、趣味のいい人、器用な人から、ちょっとバカにされるような、不器用で鈍い文章です。オレがアホなんはようようわかってる、それで何が悪いねん、と絶えずやけっぱちの開き直りを心に忍ばせている文章です。でも、腹にじわじわと効いてくるような文章です。
横道にそれ過ぎました。元に戻って、自分は雨が好きということを短い文章に書いてみましょう。

私は雨が好きだ。どうしてなんだろう。友人からは、変なヤツだと思われている。でも、好きなのだから仕方ない。私はそんなヤツなのだ。しかし一方では、何とか、雨の素晴らしさを多くの人にわかってもらいたいという思いもある。
雨が降ると視界が悪くなる。ちょっと意外に聞こえるかもしれないけれど、それがいい。なんていうか、水のフィルターがかかって、風景が柔らかくなるのだ。角張ったビルの輪郭が溶け出して、街全体が優しくなる。こちらまで緊張が溶けて、ほのぼのとした気持ちになることさえあるのだ。
水が街を浄化する感じもいい。汚れや手垢やさまざまなにおいを洗い流していく。砂ぼこりでいっぱいだった道路もツルツルとしてくる。街が脱皮して新鮮になる感じといえばいい過ぎだろうか。
雨に降られると、やわらかくて清められた街に優しく包まれる感じがする。雨にはそんなことを実現する力が潜んでいる。

私はなぜ、雨が好きなのか、うまく整理できないままにこの文章を書き始めました。ただ、余計なものを洗い流す感じや、風景がやわらかくなる実感は確かにあったのです。

文章を書き出すと、だんだんとイメージが絞れてきます。それで少しずつ、自分が感じたり考えたりしたことがまとまり始めます。
雨は汚れた俗界を浄化する聖なるもののイメージさえ帯びてくるのです。私は俗物を自認していますが、意外にも聖なるもの(単なる雨ですが)にひかれる自分の性向にも気づくことになりました。
また、自分が人との付き合いや日々の生活に少し疲れているのもわかりました。ギスギスした関係を離れて、きっと旅にでも出たいと感じているのではないか、と気づいたのです。

私は文章を書く時に、いくつか心がけていることがあります。その筆頭は「伝えること」です。最も恥じるべきは、ひとりよがりの文章です。
「好き」ということをエッセイに書く時には、ひとりよがりになりやすいです。「好き」は個人に発するものです。そして、「好き」はなかなか理屈では説明できません。自分の心が勝手に好きになって、止められないのです。それを何とか、説得力のある形で言葉にしないといけません。
それで、伝わるようにとひたすらに言葉を尽くします。そこであらわになるのが、自分の本当の感情であり、思想の断片のようなものではないでしょうか。

人に一生懸命に伝えようとすると、自分自身も発見できる。自分の本来の思いや考えを回復することができる。文章を書くことには、そんなダイナミズムが確かにあるように思うのです。
連載を書くにあたって、このダイナミズムを大切にしたいと思います。決して、ひとりよがりにはならない。だからこそ、自分自身を発見できるような文章。
そんな文章を書くにはどうすればいいか、一緒に考えていこうではありませんか。

関連記事

  1. 自分を変えるためのエッセイ作成術|第1回 「他人に伝えること」は自分自身の発見だ…
  2. オノマトペハンター おのはん!|第2回 今回のオノマトペ:「がっつり」|平田佐智…
  3. 中高生のための本の読み方|第1回 星と宇宙のストーリー|大橋崇行
  4. 自分を変えるためのエッセイ作成術|第6回 シーンを印象深くするのは「一見関係のな…
  5. イベント告知|小島剛一氏講演会「ラズ語辞書の記述の工夫について」開催
PAGE TOP