和田敦彦『読むということ』書評

中村三春

図書新聞1997.11.15号

 テクストを他人と論じていると、ある時点で、どうしても他人と共有できない術語が出てくることがある。「読者」または「読書」もその一つである。ヤウス、イーザー、リクール、エーコ、ブルデュー、前田愛…… 多くの理論家が、この難題に挑んできた。和田敦彦氏の新刊も、主としてこの「読者」及び「読書」概念をターゲットとして展開する。ただし、それら先人たちの本のように、「読者とは○○である」式の定義を期待する読者は、多少の違和感を感じるかも知れない。というのは、「読者」に関わる、そのような固定的概念規定の無効を宣告することこそ、この書の基本的なスタンスにほかならないからである。

 本書は第一章「読書理論の地平」において、イーザーらの理論によって、テクスト構成における「読者」概念が規定された結果、それがテクストの表意作用を解発し〈差異顕在的〉に働く局面と、逆に特定のコードを押しつけて〈差異抑圧的〉に機能する局面とを究明する。明治以来の「文学」や「国文学」の〈学〉としての枠組みとは、解釈の技法を伝授すると称して、実は〈差異抑圧的〉に働き、統制を企てる「領土化」的なシステムであった。それに代えて和田氏が提起するのは、「読者」を〈差異抑圧的〉なテクストの構成概念の領域に局限するのではなく、実体的な、つまりその都度テクストを読む「読者」の様々な要因を考慮に入れ、それらの実体的要因の中からこそ立ち上る差異を、十二分に記述する読み方なのだ。それは階級的・特権的な伝統的学問の「領土化」の枠組みと同時に、〈解釈の多様性〉なる美名によって、解釈の歴史的システムを見えなくする現代的テクストの欺瞞性をもあぶり出すことに繋がる。実に本書の構想するものは、「読者」を亀裂部とした、近代の言語文化総体の抜本的見直しの作業にほかならない。

 こうした立脚点からしても、和田氏の論法は、理論とその応用というありきたりの手続きを採用しない。それは芥川「藪の中」、藤村『春』、秋声『足迹』、長塚『土』、中『銀の匙』などの小説作品を例に採り、それらを実際に〈差異顕在的〉な仕方で読み解いて行く中で主張される。とはいえ、その過程において、従来の受容理論、ナラトロジー、文体論、認知言語学などの理論的成果が、逐一検証の場に引き出され、その有効性を問われることになる。例えば、第二章「読書行為と言語の能力」では、ナラトロジーの枠組みが再検討される。ナラトロジーは語りや語り手と作者・人物などを区別した。和田氏によればそれらの術語は、読みの行為において情報の「素性の洗い出し」つまり根拠づけが行われる際の、言葉の発信源として想定されるもので、これを和田氏は〈可変項〉と名付ける。読者はこの〈可変項〉に語り手や人物を充当しながら、意味を確定しようとするのである。また、一般には書簡体小説と呼ばれているあるグループに対しては、受信者に向かう〈対者依存〉の性質を認め、演説体や口述筆記体なども含めて、むしろ「呼びかけ小説」と呼ぶことを提唱する。第三章「読書行為の生成と変容」に至るまで、その他多くの創見が散在し、それらを拾いながら、和田的「読書」論の体系を追って行く読みの楽しみが、このテクストには仕掛けられている。

 最後の第四章「読者、あるいは想像上の集団」では、明治・大正期の『婦人画報』と『中央公論』の二誌の誌面を追いながら、広告・写真をあわせた誌面構成や性・家庭をめぐる論調が、小説表現をも含めた「読書」の様態とどこで絡んで来るかをダイナミックに論じ、「読者」生成の裾野を実地に検証している。総じて本書は、「文学」の閉塞性を打ち破るはずであった受容理論を徹底的に批判継承し、対象領域を自在に拡張することによって、今後のテクスト解釈の基礎を挑発的に提供する試みであると言ってよいだろう。文学研究者だけでなく、言葉に携わるあらゆる読者に読まれてよい内容となっている。

(図書新聞と中村三春さんのご好意により転載する)


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