『身体の構築学』から

福 島 真 人


 我々が日常的に「学習」という言葉を使う時には、なにがしか、 学校教 育についての我々の思い出の亡霊がつきまといがちである。 それは黒板、チ ョーク、整列した机と規律、教師と生徒、教科書、 試験、学習参考書といっ た様々な道具から活動形式一般に関わるよ うな、そうした一群のセットであ る。学習が他の社会的な諸行為と 分離して、それ自体が自律的な活動として 独自の扱いを受け、更に それを研究する学問として学習心理学のようなもの が成立してくる 背景には、当然、政治や経済が制度として相対的に自律化し、 それ に対応して政治学や経済学が発達してくるという事態と相通ずる過 程 が存在している。しかし狭義の政治学が政党や政策問題に集中す る一方で、 我々の日常的な行為のミクロの過程の中に「政治的なる もの」を見いだして、 そういった政治学を語る事が可能であるのと 同様に、学習という行為も又、 その最も広い含意においては、我々 の社会的行為の全体にその痕跡を見いだ すのもそう難しい事ではな い。                   
 文化人類学というのは元来、現代社会ほどには制度の相対的自律化が進ん でいない社会を伝統的に取り扱って来たために、現在社会に於ける政治や経 済といった分類の背後にある暗黙の前提を、ある程度まで相対化するという 役割を果たしてきた。だから例えば近代経済学があくまでも近代的な市場メ カニズムを一種の前提として扱うのに対して、経済人類学(そのある種の立 場)は、人類史上におけるそうした制度の時代的特殊性に着目してその歴史 的相対性を指摘し続けてきた。これと同様に、学習という概念がこうした歴 史的相対化の対象となる為には、一端この概念を近代学校制度というシステ ムから何らかの形で分離してやる事が重要になってくる。        
 社会的分化のレベルが相対的に低い社会では、学習という行為が「学校」 といったある特定の自律的制度と結びついているという事はまずない。むし ろ学習は、日常的に不可欠な、様々な技術的な行為や礼儀作法の習得といっ た過程の中に、言わば埋め込まれてしまっており、どこまでが学習でどこま でがそうでないのかを明示的に分離してやるのは難しい。そこでは行う事と 学ぶ事の間の差異は相対的なものである。               
またそうした文脈では、何かを学ぶという事は、必要事が出来るようにな る事であって、それを例えば学校のように組織的に語ったり、試験という特 殊形式に合わせて答えるといった事とは無縁である。それゆえそこで中心的 になってくるのは、いわいる何かを知識として知っているというよりは、何 かが具体的行為として出来る、という点なのであり、もっとしゃちこばって いえば、身体化された知そのものの基本的な中心性なのである。     

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