修士論文の概容

後安美紀

    平田オリザの演出

    ―同時多発会話における身体の調整過程の分析―

<はじめに>

劇作家であり演出家でもある平田オリザ(劇団青年団主宰)は、「同時多発会話」の構築を自らの演劇的課題としている。平田のいう「同時多発会話」とは、ある一つの場所で複数の会話が同時進行する現象を指している。例えばそれには、何人もの人間が同時に発話し、しばしば「聴取不能」とされてしまうような、パーティー会場で起こっている会話などが挙げられる。

ここで平田が目指していることは、既に台本のなかで完成されている会話を舞台上で再現することではなく、一人ひとりの登場人物の行為が複雑に絡む、会話の生成過程そのものを舞台上でリアルに構築することである。この平田の実験は、演劇という枠内に留まらず、発話行為に関する研究にとって極めて重要な視点を提供するものだと考えられる。本論文の目的は、平田の演出を子細に分析することによって、平田が実践のなかで選びとってきた方法論に、生態心理学もしくは運動研究の視点から一つの輪郭を与えることである。

複数の会話が同時進行する「同時多発会話」という現象は、従来の発話行為に関する研究において、ほとんど注目されることはなかった。従来の研究がもっぱら問題にするのは、ターン・テイキング(話者交替)によって区切られる単線的な発話の連鎖構造である。そこでは、発話しない人間は存在しないに等しい。また、たとえ同時に生起しても、対象となる会話の連鎖構造から外れてしまうような会話は、単純にノイズとして無視されるか、妨害要因として見なされる。しかし我々は他者と会話する際、話すことだけに集中している訳でもなければ、会話のグループが固定されている訳でもない。先ほどのパーティー会場の例でいうと、我々はそこでは、興味あるところに移動するという自らの行為によって、柔軟に会話のグループを作り替えている。

本論文は、こういった「当事者にとっての(etic)」会話の意味と会話の生成のメカニズムにアプローチするために、演劇の稽古の現場を観察する方法を採用する。これは従来の発話行為に関する研究のプロセスとは正反対の方向性をもつものである。

なぜなら演劇の稽古の現場は、台本上に連鎖して並べられたセリフから、役者の行為の複雑な絡まりあいを構築することによって会話を成立させようとする場であるのに対し、従来の研究は、既に複雑な発話行為を伴って構築された会話(いわゆる日常会話)を台本形式に翻訳し直して、解釈を施していると考えられるからである。さらに誤解を恐れずに言うならば、演出家の目標とする演技が達成されるまで幾度も反復される稽古の現場にこそ、リアルであることが保証されてしまっている日常会話を対象としていては見い出すことが困難な、複雑でリアルな会話に必要な具体的身体的条件を探る手がかりが豊かに存在していると考えている。

とりわけ平田が演劇的課題とする「同時多発会話」は、会話を単線的発話連鎖とみなす方法、すなわちターン・テイキングという恣意的なユニットで会話を区切ってしまう方法を採用していては構築不可能となってしまう種類の会話の様式である。というのも、青年団の役者は与えられたセリフを発話すると同時に、他で同時に生起している会話にも注意を払わなければならないためである。つまり役者は、話し手であるのと同時に聞き手でもある。本論文は、さらに、「同時多発会話」という視点がもつ可能性を次のように考える。

自分自身が他者と会話する場面を想像していただきたい。我々は、聞き手の役割を担っているときにも、例えば興味のある話のときには思わず身を乗り出して相手を見つめていたり、興味のない話のときには全く別のことを考えたり寝たりというように、能動的な反応としてその場に参加している。そして話し手の役割を担っているときには、ただ自分一人のペースで話しているというよりはむしろ、例えば、聞き手の反応の仕方に自分の話のつまらなさを読み取って話題を変えたりするようなことを頻繁におこなっている。すなわちごく当然ではあるが、我々の行為は、話し手、聞き手といった役割の区別に関係なく常に持続しており、それらを会話の場に参加する人間が互いに調整しあうことによって会話を成立させている。ターン・テイキングで会話を区切っていた従来の方法が捉えられない現象は、この持続する行為、さらにいうなら個人の経験の連続性であると考えられる。「当事者にとっての」会話の意味や会話の生成のメカニズムを捉えるためには、互いの持続する行為が同時多発的に生起するものとして会話の場を想定する必要がある。

以下本論文では、「同時多発会話」を構築する平田の演出の中で重要な役割を果たす事柄が何であるのか、稽古の現場で語られた平田の指示、役者の動きの具体的変化に基づいて検討する。

<調査対象>

平田が主宰する劇団青年団の入団選抜ワークショップと平田が作・演出する新作『バルカン動物園』の全稽古場面を観察し、ビデオに記録した(総記録時間:約240時間)。調査期間と場所は以下の通りである。 入団選抜ワークショップ・1997年2月25日〜3月7日のうち7日間・こまばアゴラ劇場(東京都)にて『バルカン動物園』の稽古・1997年3月3日〜3月28日のうち19日間・森下スタジオ(東京都)にて・1997年4月2日〜5月1日のうち26日間・利賀山房スタジオホール(富山県)にて『バルカン動物園』の本番・1997年4月28日、29日、5月1日の3日間・利賀山房スタジオホール(富山県)にて

*ビデオ記録の他に、平田や劇団員へのインフォーマルなインタビュー、台本、パンフレット等の文書資料等も必要に応じて分析の対象とした。なお約240時間分のビデオには青年団の2ヶ月間に渡る活動全般が記録されている。そのうち主な分析対象となる稽古には約108時間が費やされた。

<『バルカン動物園』のあらすじ>

青年団の新作上演を知らせる手紙には次のように紹介されている。

西暦二〇十〇年、春。日本。猿を人間へと進化させるプロジェクトを遂行する大学の研究室。物語は、ここに集められた様々な分野の研究者、学部学生などによって進められます。

ある日、最先端のプロジェクトを遂行する研究室に、日系の外国人研究者が訪れます。彼女は、ヨーロッパ戦線で死亡した婚約者の脳を保管し、人工知能と接続できないかという提案を行います。
 人工知能、脳死、猿学、遺伝子工学などの最先端の話題と、科学者たちの抱える恋愛、進路、就職、家族などの様々な躓きをちりばめつつ、「人間とは何か」「我々は何をもって人間と呼ぶのか」という壮大なテーマが、物語の奥底に浮上します。

一部解説を加えよう。

この研究室は以前は生物学系中心であったが、猿を人間へと進化させる「ネアンデールタール作戦」のもと、今では生物学のほかに、物理学、医学、心理学を専攻とする研究者が集まる複合実験施設へと発展している。舞台上には大小2つのテーブルとロッカーが置かれ、学部生、大学院生、助手等が出入りする控室と思われる部屋が再現されている。

訪問者の日系外国人研究者は遺伝子工学のエキスパートであり、家族の都合もあって、日本で研究することを望んでいる。名前をシェーキンズという。 彼女自身、中学までは日本とアメリカを往復しており、日本語も堪能である。アレン・クラシックという死亡した婚約者は、ノーベル賞候補に何度も挙がるほどの最先端の大脳生理学者であった。2006年に死亡。アレンにまつわる以下のエピソードは、シェーキンズが作品の中で研究室の人間に対して語ったものである。

「イスラム教徒である彼とその家族は、90年代の戦争のとき、戦禍を避け、故郷のボスニアを捨てて渡米していた。彼が17歳のときであった。彼女と彼は、青年期以降をアメリカで過ごし、やがて知り合い、数年間共に暮らしていた。だがヨーロッパを舞台に、イスラム教諸国とその他の国々との間で再び本格的な戦争が勃発する。

アレンは、シェーキンズの反対を押し切り、万一自分が死亡したときの自分の脳の保管方法(栄養チューブの接続の仕方など細かいものも全て)を遺言して、戦争に行ってしまう。」

その日、外国人研究者を迎える研究室では、その噂話に余念がない。物語は「脳が来る」ことをめぐって展開していく(実際には、脳はまだアメリカの施設で保管されている)。またそういった中心となる物語の展開とは関係なく、それぞれの登場人物が普段から抱えている事情も、控室の「おしゃべり」のなかからうかがわれる。例えば、研究室の内部事情とは関係ない位置にいる3人の学部生は、いつものように控室にあるホワイトボードを使用しながら、自分たちが現在おこなっている教育実習の授業の練習をすることに忙しい。助手や院生たちもたまに横から口をはさんでいる。このようにして、大学の研究室のある部屋で起こった、1日のなかの約90分の出来事が描かれている。

 <分析・考察>

平田は、役者がセリフをうまく言えないときには近くにあるモノを触りながら言うよううに指示を出す、と語っている(『平田オリザの仕事1 現代口語演劇のために』, 1995, 晩聲社)。モノとの距離感を一つの基準にすることによって、安定した対人間の距離感が得られるというのだ。この方法は「モノに頼る」方法と呼ばれ、セリフを言うことにだけに集中し相手の反応や周囲の様子に気を配ることのできない役者の意識を分散させる効果があると考えられている。 

『バルカン動物園』の稽古でも「モノに頼る」ことを要請する指示が非常に頻繁に観察された。そしてこれらの指示は単にセリフを言うことだけでなく、例えば歩行などのような役者の行為全体に影響を与えていた。本論文ではさらに「モノ」を特定の空間を占める存在物だと考え、「物に頼る」「他者に頼る」「自己に頼る」という3つの現象に分類し、それらがいかにリアルな行為を生み出しているのか検討した。

(1)物に頼る

『バルカン動物園』に登場する役者は、しばしば手ぶらではなく、ノート、カバンや棒アイス等何かしかの物を持っている。その傾向は当時入団後間もない10名の新人に対する平田の指示にも顕著にあらわれていた。

新人はテーブル周りやロッカー奥を移動し、すれ違う人物と挨拶程度のことばを交わす役を担っていた。新人の登場は稽古中に新しく加えられたものであり、物語の展開とは直接関係ないためか、初期の台本には書かれていなかった。

数回新人を歩かせてみて、なおかつぎこちない動きしか出てこないとき、平田は物を持たせたり歩行中頬を掻かせたりするような身体の一部を固定させる指示を出した。その結果、歩行速度の変化が観察され、またどこに向かおうとしているのか分からない方向性のない動きが改善された。

(2)他者に頼る

(1)のように物を必要としなくとも、他者の動きに自らの反応をゆだねるかたちで、方向性のない動きが改善される例もある。ここでは、仲間うちの関係にある9人の登場人物が以前研究室で開発されたコンピューターについて「おしゃべり」するという、まさに典型的な「同時多発会話」シーンの稽古場面を対象とする(3月8日実施。約40分間の稽古時間中、23回に渡って同一箇所より試行が繰り返された)。

稽古前半の試行の様子は停滞気味であった。というのも大テーブル中央に位置する3人の役者が姿勢をほとんど変化させずに会話をし、他の6人の役者が手持ち無沙汰にならざるをえない状況が1分以上続いていたからだと思われる。平田が出した指示のうち、この停滞した状況を打破するのに最も効果的だったものは、会話の空間が広がるように、テーブルの中央に位置する3人の役者に割り当てられたセリフの一部分を、テーブル両端に位置する別の2人の役者のセリフに変更する指示である(「セリフの交替」)。テーブル両端にいる役者たちはほぼ同時にそれぞれ中央の会話に割り込むことになる。これによって多くの役者のあいだで、例えばちらりと見るといったような微細な行為の変更が同時多発的に生起するようになった。またこの反応の仕方はわざとらしく皆一斉に一人の人物に視線を向けるようなものではなく、あくまで個々の役者の文脈にのっとったものであった。なお微細な行為の変更のことを我々はマイクロスリップと呼んでいる。

反応すべき他者が多く広範囲に配置され方向性のある動きが生まれる、こういったマイクロスリップの同時多発的生起は、停滞した雰囲気からリラックスして会話を楽しんでいるような雰囲気に変化させる効果があると考えられる。

(3)自己に頼る

(3)では(2)とは逆にマイクロスリップを抑制するように働いた平田の演出を問題にする。対象となるシーンは、保存されている脳に意識があるのかという質問に外国人研究者シェーキンズが答えるシーンである。舞台にはシェーキンズ以外に研究室の人間が10名いた。(2)の「おしゃべり」のシーンと決定的に異なるのは、脳の持ち主であった婚約者アレンについて語れるのはシェーキンズ唯一人だということである。従って「セリフの交替」がここでは不可能となる。

平田は、それまでの指示の出し方からみて、シェーキンズの語りの構築には困難を感じていたと思われる。本論文はそういった状況のなかで唯一平田が認めたといっていい演技が生まれた本番間近の稽古を分析する(4月23日実施。約40分の稽古時間中、21回に渡って同一箇所より試行が繰り返された。末尾にセリフ添付)。

シェーキンズ役の志磨の行為には、第1番目の試行と第21番目の試行との間に以下の差異が観察された。

第1番目の試行では、志磨はセリフの一句一句を言うごとにマイクロスリップと抑揚を付随させ、一定のリズムで長ゼリを処理しているかのようであった。また語り始めは全て相手のセリフに割り込んでいた。

第21番目の試行では、語り始めに充分な間がとられ、マイクロスリップや抑揚が消失した箇所があった。ここでは物や他者に頼ることなく、自己の精神の振幅に合わせて自らの緊張を塑型していく瞬間が現れたと考えられる。その箇所は、「アレンが、真っ暗闇で、なんにも聞こえなくて、感触も嗅覚もなくて。すごい孤独だと思うんですけど」と、シェーキンズがアレンの視点に立つように努め、それに思いを馳せるところである。

第1番目の試行で全て我れ先にとばかりに一様に語られていた長ゼリが、第21番目になって初めて分化する。脳波の説明でもって意識の問題を語ろうとする科学者としてのシェーキンズと、逡巡しながらアレンを語るシェーキンズとにである。また彼女のそういった精神の振幅に合わせるかのように、その場に居合わせた10名の研究室の人間の反応も、彼女のマイクロスリップの出現と消失と協応するかたちであらわれた。

だが平田の指示のなかで、(2)の「セリフの交替」のように、複数の登場人物の行為に直接的な影響を与える指示は存在しない。指示の大半は、シェーキンズの語り出し部分の間の調整と、その言い回しに関するものなのだ(具体的に言えば、「あぁ」「でも」「だけど」「アレンが」「すごい」である。)。なぜ平田は語り出し部分に指示を集中させたのか、そしてなぜそれがその後のシェーキンズの語り口に重大な変化をもたらすのか。解くべき課題は山積みなのだが、以下は、生態心理学、なかでも最近の運動研究でしばしば注目される自由度の制御という視点から、(1)〜(3)で指摘した3つの「モノに頼る」現象を説明したい。

自由度とは制御のために決定しなくてはならない値のことである。自由度が増加するにつれシステムの作動を制御するのは困難になる。例えば人間の身体には関節などの可動部分が膨大に存在するが、それらが個々ばらばらに制御されるものだと考えれば、単純な行為の遂行ですら困難極まることが予想される。しかし実際は、個々ばらばらに要素が動くのではない。関節と関節をつなぐ筋肉のように、要素間を結合し、自由度を大幅に減少させる機能を果たすものもある。非常に簡略化して言えば、ある種の制約(不自由さ)を持ち込むことによって、より自由にシステムが作動するということである。

この不自由こそ自由という考えは、前述した(1)の「物に頼る」反応をみれば理解しやすい。役者は舞台上で自由度を持て余している。ノートを持たせるなど身体の一部を固定させる平田の指示は、自由度を減少させスムーズな行為の流れの実現をもたらせたといえる。

それでは(2)の「他者に頼る」反応の場合はどうだろうか。セリフを与えられていない役者たちが当初手持ち無沙汰で方向性が分からない動きになってしまうのは、やはり自由度を持て余しているためだと考えられる。「セリフの交替」は、セリフを言う役者の数を増やし、その空間的配置も広げた。その分だけ、役者の行為はより強く制約される。しかしその結果生じたマイクロスリップの同時多発的発生は、関節に対する筋肉のような役割を果たし、間のつまった会話の構築に貢献した。

それに対し、(3)の「自己に頼る」項で指摘したマイクロスリップが消失する箇所では気まずい間が存在した。だがむしろそこには、役者の自由が現れているといっていいだろう。ここでいう自由とは、(1)(2)のような制約による自由ではなく、対他的に制御不能になっている状態、言い換えれば、先の行為が予測不能であるがゆえに可能性に開かれた状態を指している。このような自由は危険である。シェーキンズがアレンの知覚世界を語っている際、複数の役者が、彼女と同様、身体をこわばらせているのは、おそらくそのためである。

平田は、(1)(2)で検討したように巧妙に自由度を制御しながら、(3)で指摘したような、全面的に役者の自由に任せなければならない瞬間の到来を待っている。「同時多発会話」という会話の捉え方は、確かにアイデアとして興味深い。だが、それが単なるアイデアの確認に留まることなく劇的な効果を我々にもたらすのは、役者間の微細な行為の調整に徹底してこだわる平田の演出によることが大きいのである。

*本文は1998年東京大学大学院教育学研究科に提出した修士論文(指導教官:佐々木正人)の一部を要約したものである。修士論文では、自由度の制御という視点のほかに、ダイナミックシステムアプローチ、マイクロスリップをめぐる議論、ワロンの情動論などを援用した分析もおこなっている。ご質問ご意見は、mgoan@educhan.p.u-tokyo.ac.jpまで。

*シェーキンズと研究員中村に与えられたセリフ

中村:あの、アレンさんは、いま、意識は、どうなってるんですか?
シェ:あぁ、意識はありません。脳波は、昏睡状態と同じ波形ですね。
中村:あぁ、そうですか。
シェ:でも、それは、考えることありますよ。もしかしたら、なんか意識があるんじゃないかとか。
中村:あぁ、えぇ。
シェ:だけど、悪く考えたら気が狂いそうになりますよね。アレンが、真っ暗闇で、なんにも聞こえなくて、感触も嗅覚もなくて。
中村:ちょっと、私も、それ想像しちゃって。
シェ:すごい孤独だと思うんですけど。でもね、これは、全然偶然って言うか、そういうもんなんだろうと思うんですけど、私が近づいたときに脳波が変化することがあるんですよ。
中村:・・・
シェ:まぁ、何にもなくても変化するときはあるんで、偶然だと思うんですけど、気のせいっていうか。
中村:いや、でも。
シェ:だからね、もし意識があるとすれば、アレンは、深い暗闇の中で祈っているって考えるようにしてるんですけど。
中村:・・・はい。ありがとう。


著者略歴

1973年生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程在学中・日本学術振興会特別研究員。生態心理学専攻。

なお公開する文章に付されている題名(平田オリザの演出−同時多発会話における身体の調整過程の分析−)は1998年に上記研究科に提出した修士論文のものであるということと、文章自体は修士論文の要約である。


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