身体の構築学 −社会的学習過程としての身体技法−

序文 ―身体を社会的に構築する

福 島  真 人


一 暗黙の知を支える前提                      

 我々の日常生活は、当事者による自覚の有無にかかわらず、膨大かつ驚く べき多様なミクロの技能の集積の上に成り立っている。例えば我々が朝起き てから、満員電車にゆられて職場に辿り着くといった、毎日繰り返される退 屈なルーティンを子細に再検討してみれば、その正常な執行のために、いか に複雑な暗黙の前提が必要かという点に我々は殆ど心打たれる筈である。服 を着る、歯を磨く、靴を履く、正しい切符を買う、おしあいへしあい満員電 車に乗り込む、といった、出来てあたりまえの日常の些事も、もしそれが病 気か何かの理由により出来なくなってみてはじめて、そうした透明な円滑さ の外貌を陰で支えているものの豊かさをかいまみる事になるのである。  
 しばしばある種の文化的技能になれ親しんでいない外国人が、その「あた りまえ」の事を前にして四苦八苦しているのを見て、我々はそれを嘲笑した り不思議に思ったりする事があるが、これは単に我々が自らの技能の習得の 個人的な歴史性を忘却しているからである。ごく当たり前の日常的な技能の 連鎖をこなすためには、膨大な準備期間が存在するのだが、この歴史性を忘 却するや否や、我々の現在の能力に対して、何かとんでもない神格化や、そ の反動としての軽視の間で、哲学やら社会科学やらが右往左往してきたので ある。                               
 だがこの日常的な諸技法の体系の、暗黙的かつ驚くべき広がりと複雑さに ついては、様々な分野の学問がますます関心を深めつつある。例えば文化人 類学者というのは、居心地の良い都市生活のルーティンを離れて、遠い異国 の複雑な慣習体系に遭遇し、それへの違和感から逆に自分達を取り巻く諸前 提を相対化して、遠巻きに自分の行為の暗黙の基盤に思いを馳せるのを職業 とする、と教科書には書いてある。また発達心理学者は、成人が当たり前と している様々な能力の前提たる複雑な段階的発達を子細に分析し、その背後 にある長期的な生理、心理、文化的な諸レベルの複雑な相互作用を明らかに してきた。また人工知能の研究者達は、その初期の、人間の能力の模倣に関 するあまりにあからさまな楽観論(あと十年で人間の思考に追いつくロボッ トをといった類の)を捨て、日常レベルでの、我々のちょっとした判断も、 それを今のアルゴリズム中心的なやり方で完遂しようとすると、殆ど無限と も言っていい背景的知識と計算が必要であるという事実を理解しはじめてい る。人間の何気ない日常的な認知や判断が、ロボットの単純な設計では殆ど 再現出来ないという事実に、遅ればせながら人間の技能の暗黙の体系の驚く べき豊かさに着目し、「人類学的」とか「日常認知」とかいった言葉に、今 頃になって興奮しはじめているのである。               
 とはいえ、ここで漠然と暗黙的な技能体系といっても、そのニュアンスは 相互にかなり異なっているのも事実である。たとえばAIの研究者達は、環 境の中で移動する視点が、どうやって対象を正確に知覚出来るのか、とか、 あるいは人が喋った時にどうやってその意味を理解できるのか、といったメ カニズム自体が持つ複雑さに驚嘆するのであろう。一方文化人類学者にとっ ては、そうした能力はあくまで当然の前提であって、むしろ我々と異なる文 化において、顕著な差異として知覚しうるルーティンワークの構造の差に関 心があるという点で、文化的に構成された暗黙の技能に関心を示すだろう。 そして発達心理学者は、いわばその二つの分野の関心、生物的なものと文化 的なものの関わりのレベルで(その研究の重心を微妙に移動させつつ) 関わ ってきたといっていい。                       

以下略


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