普請中

富田倫生



 青空文庫という電子図書館の活動にかかわるようになってから、毎日がやたら、あわただしくなって困っている。目の前に飛び出してくる用事を片づけるのに追われ、どうも生きていることの焦点が定まらない。

 台所の水漏れを直しにかかったら、なんだか上からも水が落ちてくる。見上げるとたれ込めた雨雲と直接目があって、「ああ、屋根をかけ忘れていた」とはじめて気付く。「窓がいる」とひらめいて、壁に大穴をあけるとそこで、窓枠もガラスも用意していなかったことに思いが至る、てな調子である。


スタンドアロン電子本からの出発

 今に続くこの騒動には、思い返せば90年代のはじめに電子本というやつと出合ったところで、火がついていた。

 書き下ろしの文庫で出したはじめての本は、版元の文庫撤退で刊行直後に消えた。腹は立ったが、本はやはり、出版社から出してもらうしかない。「そうはたやすく絶版にされない書き手になってやる」と腹にため、断裁された処女作は静かに見送った。その後、何冊か著書が増えたのは目論見のとおりだったが、今度は、病気が待っていた。少しややこしいことになっていて、三十代の後半は入退院を繰り返して過ごした。出版社とのパイプも、寝てばかりの三年ですっかり細くなった。そんな中で知ったのが、紙の本のページをそのまま画面上に移した電子本だった。

 Expanded Bookと名付けられたその環境は、MacintoshのHyper Cardを利用したもので、自分自身では大したことはやっていなかった。ただカードをページに見立て、めくりながら読んでもらうようにしただけで、本らしき雰囲気が出せることに驚いた。体調と相談すると、新しいものを書けるかは怪しかったが、せめてすぐに消えたはじめての本を、電子化して残そうと考えた。

 大ざっぱにくくれば、本は「読んでもらいたい」という著者の気持ちと、「儲かるか、最低限もとは取れるのか」という出版社の判断がセットになってできてくる。出してみて、見通しが誤っていたとなると、断裁も待っている。だが、算盤勘定の道ずれになって切り刻まれても、「読んでもらいたい」の気持ちは、そうそう成仏できるものではない。これまでの紙の本の世界では、十分くみ取ってやれなかったそこを、格安でできて、必要ならその都度フロッピーにでもコピーすればいい電子本は、すくってくれるのではないかと考えた。

 そんなことを思っているうちに、インターネットが見る間に普及しはじめた。みんなのコンピューターが繋がるのなら、配る上でのやっかいも、すり抜けられる。自分で電子本を作った体験をもとにした、身近な電子ガリ版的道具としての期待に、配布の問題もきれいに片が付くという予感を添えて、『本の未来』(アスキー出版局)を書いた。

 書いて「このテーマは一件落着」とし、次のネタを探しに出かけていれば、ライターとしての人生に大きな破綻はなかったろう。だが事は、自分が一生の仕事として関わろうとした、本の話だ。電子本に可能性があると言った以上、それを形にして動かしてみたい誘惑にかられた。

 一言で「電子本をやる」といっても、選択肢はいろいろとある。「売る」という枠組みも当然考えられるが、それには少額の決済手段をオンラインで用意しておくことが不可欠だろう。一方、異なった書き手によるテキストがさまざまにリンクしながら、一まとまりの考えのネットワークを形成するようなあり方は、無料公開を前提としなければ育ちにくい。「売る」ことよりはむしろ、リンクがテキストをどう育てるかを早く見たい気持ちが強かった。

 そんな中で思いついたのが、公共図書館の果たしている機能を、インターネット上に移し替える試みだ。コピーがほとんどタダで、動かす費用も格安ですむ点は、「売り物」を作ろうとすればネックになる。がんがん盗られるんじゃないかと、そりゃあ心配だろう。けれど、「たくさんの人に読んでもらいたい。そのためには、どんどん持っていって欲しい」と考えて良いのなら、その性格が断然生きる。扱うのが電子本なら、土地も建物もいらない。人手もそれほどかからない。ファイルを一所に用意しておけば、全国、全世界から引き落とせる。そんな電子図書館のモデルを、機能させてみたいと考えた。

 日本の著作権法は、保護期間を作者の死後五十年と定めている。それを過ぎて権利の切れたものなら、自由に複製したり、ダウンロードしたりできるようにしても、おとがめはない。加えて、書いた本人が「無料で公開してかまわない」と言ってくれるなら、権利の生きているものも収録できる。入力と校正、ファイル作成の作業は、当初集まった四人で少しずつ進めていこう。作業への協力を、呼びかけてもみようとはじめたのが、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)だった。スタートしてみると、自分も力を出そうと言ってくれる人がどんどん現れて、予想外のペースで収録作品が増え出した。


作ってはじめて見えてくる設計図

 本を電子化して集めようと始めた青空文庫だったが、関わっているうちに奇妙な感 覚がわいてきた。確かな手応えを持っていた本という存在の際が、私の中で次第に溶 けだしたのだ。「四百字詰め原稿用紙、三百五十枚程度で一冊」という規模の概念 は、ほとんど意味を持たなくなるだろう。極端に〈薄く〉ても、逆に〈厚く〉ても、 一まとまりは一まとまりと、分量に対する意識が後退するくらいのことは、はじめか ら予感があった。驚かされたのは、本に盛り込むものこそを〈至上のテキスト〉とと らえる、私の中の表現に対する秩序意識が、崩れてきたことだ。

 青空文庫は、たいそうな目論見や、深い洞察があって始めたことではない。ただ、自分にとって切実な「読んで欲しい」という気持ちに突き動かされ、流れ流れて図書館までたどりついただけだ。ところが、その仕組みを動かそうと本気で考えだしたとたん、なすべきことが次々と見えてきた。「なぜ、そんなものが作りたいのか」という宣言がいる。「手伝って欲しい」と人に言うのなら、共感を得られるだけの力を持ったシナリオを組み立て、明快に示す必要もあるだろう。

 実際に「手伝おう」という人が現れると、今度はバケツの水でもひっくり返したように、仕事が降ってきた。お互い電子本を作ってきた最初の仲間内なら、簡単な確認だけで、ほぼ同じ仕様のファイルが作れた。だが、千差万別の経験の幅を持った人に手伝ってもらうとなると、作業手順を明確に示し、決められることはしっかり決めて、マニュアル化しておかざるを得ない。誰の著作権が切れているか、一目で確認できるようにしておかないと、「これは入力できるのか?」という問い合わせがあるたびに、没年の確認に走ることになる。電子化の作業には、私たちが最初に取りかかったわけではない。先輩がいる。作業の重複を防ぐためには、どこでどんな作品が公開されているかを、リストアップしておく必要もある。

 文庫をはじめた時点では、まったく念頭になかった新しい可能性も、いくつか見えてきた。自分で原稿を書いている範囲では、使いたい文字がJIS漢字コード(0208)になくて困るといったことは一度も経験したことがない。ところが、古い作品を底本どおりに入れようとすると、とたんに「あれがない、これがない」とあわて始めた。実際の作業に当たっては、「なに偏になに」と字の成り立ちを説明したり、グラフィックスで作った外字を埋め込んだりといった処理を、ファイルの種類に応じて施した。その作業を続けていく内に、私たちは「どこにどんな外字が使われている」かという用例を集める、絶好のポジションに立っているのではないかと思い始めた。JIS漢字コードを、これからも今の形のままで、永遠に使い続けるというわけではないだろう。拡張する計画があると聞いてもいたし、他の漢字コードが作られることもあるだろう。そうした際、用例付きの外字リストがあれば、選定に必ず役立つだろうと考えた。ただし、このとりまとめは、私たちにとってはかなり大きな規模の作業になる。文庫は、個人のウェッブページを作るのとまったく同じ感覚で始めたことだ。運営資金といったたいそうなことは、当初、まったく考えていなかった。そこでトヨタ財団の研究助成に応募してみると、幸いにも拾っていただけた。JIS漢字コード拡張計画のスケジュールにあわせるため、昨年の秋から集中して作業を進め、「文学作品に現れたJIS X 0208にない文字」(http://www.aozora.gr.jp/gaiji0208/mokuji.html)の資料をまとめ、策定に当たっている委員会が示した収録文字の原案に対して、意見書と資料を提出した。

 この外字リストをまとめていく内には、いくつか気が付いたことがある。日本の文学史にまったく知識を持たない私が、軽々にコメントする事にためらいはあるが、茶飲み話で触れたところ、ひつじ書房房主、松本功さんから奨められたこともあり、ここにメモを残しておく。座興として、聞き流してもらいたい。

 外字を使って表記されるのは、たいていの場合、特徴的な言葉だ。その、こだわりを持った言葉遣いの中で、夏目漱石と芥川龍之介の作品にだけ、現れるものが結構ある。「思案に耽りながら行きつ戻りつする」という意味の、「ていかい」(上記リストで、部首番号60に「てい」)。「気抜けする」の「しょうきょう」(部首番号61に「しょう」と「きょう」)。「あざやかな様」の「てきれき」(部首番号106に「てき」)。「早い様」の「ゆうぜん」(部首番号124に「ゆう」)といったところは、現時点では二人以外の用例を見つけられていない。他の作家も多少使っているものまで広げれば、二人の共通性を疑えるものを十五字程度、リストからピックアップできる。

 今回、私が意識した夏目と芥川の共通性にどれほどのリアリティーがあるものか、ここから何か言えるものかは分からない。ただ、本を電子化して公開し、検索の機能なども利用できるようにしておけば、これまでには持ち得なかった新しい視点から、さまざまな検討を加えられるだろうことだけは間違いない。協力者の一人が先日、青空文庫内を全文検索する仕掛けを用意してくれた。(http://jca.apc.org/~earthian/aozora/llsearch.html)これで、著作権切れの作品に関しては、すべて洗える。誰かが文庫の新しい使い道を見つけてくれるのではないかと、この点は実に楽しみだ。

 かくの如く、文庫が動き始めてからは、求められる要素と新しい可能性とが、つぎつぎに見えてきた。新しい課題にぶつかるたびに、私たちは電子メールでうち合わせ、合意を取り付け、固まった内容は活動報告欄に上げたり、ウェッブページ上の文章にまとめたりしていった。時には、紙の雑誌や新聞にも、文庫に関する記事を書いた。

 驚かされたのは、「自分の仕事の味噌は、突き詰めれば、本にまとめる原稿を書くことだ」という私の意識が、こうした実践の中で、次第に崩れ始めたことだ。メール、ウェッブ、時には紙を通して伝えることもあるすべての文章は、どれが上でもどれが下でもない、それぞれに大切な私の表現と思えるようになった。さらに踏み込めば、書くことを越えて、青空文庫の活動の一部を担っていくことそのものが、私自身の表現の核になってきたのではないかと実感し始めた。

 ひつじ書房から出してもらった『インターネット快適読書術』は、私自身の中に生じ始めた、こうした大きな意識の変化に向き合いながら書いた。同書の中味の大半は、ボイジャーから出ているT-Timeと名付けられたテキストブラウザーのマニュアルだ。ただのマニュアル本を書くのに、「意識の変化」とは大げさと思われるだろう。だが、エキスパンドブックが持っていた〈本の輪郭〉を取り払ったようなT-Timeを見たとき、私をいたく興奮させたのは、自分の中に生じ始めていた〈本の溶解〉の感覚だったのだと思う。


青空文庫ただいま普請中

 電子本から電子図書館へと枠を広げ、ここまで文庫と共に歩んできて、「なんだかこんなことかな〜」とようやく思い描き始めたのは、この道の行く先だ。

 中世のヨーロッパで、ラテン語やギリシャ語にとどまらず、実際に人が話す言葉をABCを使って書き表そうとする革命的な変化が起こった。イヴァン・イリイチが着目する、この変革の衝撃力を、印刷本の誕生が大きく膨らませた。国語が固まり、国民が育ち、国の際が鮮やかに刻まれるようになった。ヨーロッパの近代は、最高の知を運ぶ本を触媒としながら、国という土台の上に花開いた。

 森鴎外の『普請中』に登場する渡辺参事官には、作るべきものの姿が見えていただろう。引き寄せたいのは、印刷本がヨーロッパに育んだ、近代だ。設計図は、あの場所に確かにあった。彼の憂鬱は、目標への道のりが、あまりに遠く、長く見えたことに起因する。

 ドイツ留学中のかつての恋人は、歌姫であったらしい。芸を頼りに、ロシアに流れ、そこからアメリカへと向かう途中、彼女が日本に立ち寄る。会食の場に選んだ銀座の精養軒ホテルは普請中で、大工仕事の音が高く響く。サロンの壁には、ありきたりの画題や神代文字の軸が、調和を欠いて吊下がっている。「日本は芸術の国ではない」と作者は容赦がない。その遙かに遅れ、美を欠いた国の民の一人として、渡辺もまたここでは振る舞うしかない。「日本はまだ普請中だ」とする彼のつぶやきには、建設の意欲よりはむしろ、諦念が色濃い。

 トンテンカンテンと、物音の耐えない状況は、明治の精養軒も青空文庫も変わらない。一方にはかなり詳細な設計図があり、他方我々は一つ部屋を作ると、そこで始めて、次の間の姿が見えてくるという有様で、泥縄の度合いはこちらが遙かに高い。だが、渡辺参事官を支配していた「まだ遠い、まだ着かぬ」の憂鬱は、「まるで先が見えていないな」と自分自身に呆れはするものの、私にはない。

 私たちが始めたのはきっと、知を育む仕組みを、電子ネットワークの力を借りて、自分の足許から作り直そうとする試みだ。学ぶための敷居を削り、確かめあうための意見交換のパイプを縦横に張り巡らせる。声を上げようとのぼる演台の高さも、十分に引き下げた方がいい。そうした仕組みの設計図を、日々の実践の中から編み出し、作り上げていく。自分にとって必要な知の輪郭も、自分の足許から、つかみ取っていく。

 そうした全体像を、ぼんやりでも思い描いてそこから見返せば、青空文庫という枠組みの中でもやるべき事はまだまだ多いと気付く。著作権法の縛りを避けるという事情があって、収録作品の多くが古いものに偏っている。今の自分たちの問題をあぶり出す基礎資料としては、これでは不十分だ。では、新しくて生きのいいテキストを、どうやって集めるか。その際、書き手にはどのような〈褒美〉を返せるのか。

 文庫のテキストを受け取った側からの声を、盛り込める場も欲しい。感想、書評。個別の作品を、大きな流れの中に位置づけた論考とのリンクも、是非とも伸ばしたい。

 泥縄と付け焼き刃を基調とした青空文庫普請中の日々は、当分、終わりそうもない。足許から始めて、際の意識ははじめから希薄なのだから、こうした試みのリンクの先は、どこまで伸びたってかまわない。地球丸ごと一つになって、トンテンカンテンの普請中となれば、それこそ願ったりだと私はそう思う。



とみた・みちお(ジャーナリスト・青空文庫代表)