ハイパーテクストと地下兵器工場

―二つの読みの場から―

                    和 田 敦 彦

 

 ここでは、最近自身が接している、あるいは接することとなった二つの読みの「場」について考えてみたい。一方はむしろ「場」と読んでよいのかどうかさえ分からない、むしろ特定の「場」をもたないテクスト体験、コンピュータネットワーク上で日々接する電子的なテクストを読む「場」。もう一方は自身の職場近くにある工場跡に残されたテクスト、より正確には太平洋戦争末期に作られた地下兵器工場跡、その網目状の洞窟の壁面に書きつけられていたテクスト、というか文字を読む「場」。
 電子メディアをめぐる議論と、現代の文学批評、特にポスト構造主義批評をめぐる議論とのかかわりはしばしば強調されてきた。連鎖(リンク)、網目(ネットワーク)、相互関連(インターコネクション)といった観点からのテクスト観の共通性を強調するランドウ(注1)。さらにはデリダの脱構築戦略自体が「印刷された活字」、あるいはそれら「正典の解釈」という前提、枠組みの中で行われている議論でしかなく、ハイパーテクストにおいてはそもそも脱構築論者の記号観は、すでに実現されている出発地点であることを指摘するボルター(注2)。いずれにせよ印刷テクノロジーと、それによるテクストの固定化が、これまでの解釈規範(読みの正統性やテクストの永遠性等)と連動している以上、双方の解体作業における思考が共通の色合いをおびてくるのは当然のことだ。閉ざされた統一性や線状性という前提から生まれるテクストの専制力の弱まり、自在にそれらを紡むいで新たな順序を生成してゆく新たな読書形態の広がり。
 だが、そこで、読書に何がおこっているのか。あらたな情報の受容、生産においてどのような思考の変貌がおこっているのか。ちょうど印刷された書物に取り巻かれている時にそれらの言語に対して細やかな分析の手法と手続きを確立しようとしていたように、現在私たちは新たな記号観とそれに対する分析手段、新たなリテラシーについての思考を必要としている。実際、ヴァーチャル空間の流通は例えば「存在」や「場所」に対して、これまでの概念とはまったく違った思考を要請する。そういう意味では例えば合成画像の運用を(それが数学モデルとデータの計算によってコンピュータのメモリ内で生成され、「現実」に支援を求めることがないという点で)「根元的な〈文字革命〉」、まったく新たな「表記法(エクリチュール)」の始まりととらえるような問題意識が必要になってくる(注3)。だが、一方で、あらたなヴァーチャル空間を経験することによって逆に現実に対する新たな覚醒された意識に達することが可能なのだ、といったケオーの主張はかなり楽天的にも思える。そうした意識に共感しつつも、やはりP・ヴィリリオがインターネットや電子高速通信網によって作り上げられた世界に対して再三強調する破局へのシナリオの方が、自身の問題意識により訴えかけてくる。
 つまり瞬時にあらゆる場所とあらゆる時間を結びつける体制のはじまり、それは同時に特定の時間、特定の場所の喪失でもある。速度のテクノロジーが、私たちの世界の喪失と身体の喪失を引き起こしつつあること、そしてそうした体制は開かれた世界と言うよりも閉ざされた一つの世界、瞬間へと私たちを閉じこめるということ。リアルタイムという「絶対速度」の中に私たちがおかれ、「イメージへの歴史の還元」が引き起こされつつあるということ。更には、そうした速度のテクノロジーと権力の結びつき、あるいは経済体制との連動性を問題にしなくてはならないといった主張に共感する(注4)。だが、彼の指摘でより重要なのは、これらメディアテクノロジーの浸透が、私たちを新たな支配体制に組み込みつつあること、それも全く新たな形での管理と監視を生み出しつつあるという指摘だろう。それは彼の「端末市民」(CITOYENTERMINAL)という言葉に端的に表現されている(注5)。つまり、私たちは私たち自身を、すでにネットワークの一部分、その機能の一部分として供出していること、情報を受け取っていると見えて実はその機構そのものの一部分になっていること。システムの相互作用の一部となることで、決定的に「個人性」をあるいは「直接介入能力」を喪失した状態におかれつつあること。
 冒頭で述べた、もう一つの読書の「場」について遭遇し、考えることとなったのはこうした思考の周囲をめぐっている折のことだ。長野県松本市里山辺の金華山にある地下工場跡は、県内でもあまり知られることがなく、私自身、以前から工場跡の調査団に関わっている人を通じて知った。「里山辺朝鮮人・中国人強制労働調査団」の調査は現在でも継続しており、これまでの調査概況や報告、及び中国での聞き取り調査がまとめられている(注6)。三菱重工業名古屋航空機製作所が、大戦末期の総合分散計画で松本市にも移転しておかれ、さらにそれを地下へと移すために地下工場を作る作業が行われ、それが現在、延べ1kmにわたる坑道から構成された工場跡となって残っている。
 極めて不安定な地質のため、崩れる危険性もあり、既に崩れて埋まった箇所も多い。ヘルメットをかぶり、天井の崩れた場所では体をかがめながら、光のない坑道を手にした懐中電灯の光をたよりに奥へ進んで行く。工事で働かされたのは当時強制連行された朝鮮人、中国人であり、それがいかに劣悪な条件でなされていたか、については実際の聞き取り調査からうかがうことができる。その暗い壁面には距離を示す数字や「熊谷組」といった文字が残っている。そして監視の目の届かぬ場所にひそかに書かれたらしい文字や記号も残っている。
 このわずかな見づらい文字や痕跡を見つけるために、かつて壁面をくまなく丹念に調査したという。懐中電灯の光に浮かんだ、かすかな記号をさがし、読み、その意味をたどる。その作業にどれほどの時間と労力を要するか。調査団の作業は、壁面の文字をリンクさせる作業だった。その記号と、かつてその文字が書かれた時間、場所をリンクし、それを書き残した人々の中で現在生き残っている人々を捜し、中国に渡り、その人の口から出た言葉とをリンクさせる作業だった。一つのコンテクストからもう一つのコンテクストへと飛び移るために、海を越え、生存者を探し、時間をかけて聞き取り調査をする。そうすることではじめて、かすかながらつながりが見えてくるような「リンク」。それは、まさに電子メディア上で一瞬のリンクを飛び越える時において失われる決定的な距離、プロセスでもあるのだ。
 こうした作業としての「読み」を忘却すること、そもそもそうした作業プロセスに意味が見いだせなくなってしまうこと、歴史が意味を失った「リアルタイム」という牢獄の本当の恐怖は、その地点にあるだろう。現在の私たちにおいて決定的に重要なのは、ここで述べたようないくつかの異質な読みの「場」を行き来することではないのか。そして互いの読みの「場」の性質を際立たせつつ、そのそれぞれの「場」にむけて問いを発することではないのだろうか。

 

 注1 G・P・ランドウ『ハイパーテクスト』(若林正他訳、ジャストシステム、1996・12)

 注2 D・ボルター『ライティングスペース』(黒崎政男訳、産業図書、1994・6)

 注3 F・ケオー『ヴァーチャルという思想』(嶋崎正樹訳、NTT出版、1997・8)

 注4 P・ヴィリリオ『電脳世界』(本間邦雄訳、産業図書、1998・2)

 注5 P・Virilio “L'INSイURIT DESTERRITOIRES”(『アートラボ・コンセプトブック』アートラボ、1991・6)

 注6 『里山辺における朝鮮人・中国人強制労働の記録』(長野県松本市里山辺朝鮮人・中国人強制労働調査団、1992・7)、及び『訪中調査報告集』(同、1996・4)。

 

(わだ・あつひこ/信州大学人文学部助教授)

 

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