日本語学概論「以前」のために

伊 坂 淳 一

 

 大学生にとって日本語学(国語学)は未知の領域である、といってよい。高校までの国語科指導要領に記された言語事項や、古典文法に関する知識は、内容的にそのまま日本語学に直結するものではない。教育方法においても、特にこれらのことがらに関しては、学年が進むにつれて教師からのほぼ一方的な説明と児童・生徒にとっての暗記とが学習活動の中心となっていくというのが、細部においては異論があるにしてもおおかたの実態ではなかろうか。国語教育において説明的文章や文学的文章に関する教育、あるいは作文教育等に関しては新しい試みがさまざまに行われているのに対し、言語事項や文法教育に関しては、一部に意欲的な試みがなされているとはいえ、生徒が主体的に考え、発見していくことを促すような教育への提案が、総体的には必ずしも多くないように思われるのは、単に筆者の勉強不足のためであろうか。
 大学の低年次学生に向けての日本語学に関する概論的授業においては、そのような固定的な関係としてインプットされている、教師が「教え」、学生が「覚える」という図式をいかに改善していくか、ということからはじまるのではないか。そのための筆者のささやかな試みをまとめたものが、昨年上梓した『ここからはじまる日本語学』(ひつじ書房)であった。
 「身辺の何となく『おかしい』言語表現・言語運用の実例を探し出してみよう」という試みは、もともとは、風間力三編(1986)『日本語表現法演習問題例文集』(和泉書院)からヒントを授かったものであった。これには学生もそれなりに興味を感じてくれたようであり、次のような事例をレポートで報告してくれた。

 

・春休みに引っ越したい方が至急探しています。(不動産会社広告文)

・私は太りやすい体質で死にたいほど悩みました。(薬品広告文)

・彼の誕生日に間に合わせようと夜中の二時までマフラーを編んでいました。でもいよいよできませんでした。(ラジオ番組投稿はがき)

・最近、すぐに風邪を引きやすい。(TV情報番組)

・桜井さんも人見知る方ですからね。(TVバラエティ番組)

・自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。(単行本小説)

・たとえその時は、皆泳いでわたりましょう。(単行本小説)

・スパイは、あきらめるよりしか、なかった。(単行本随筆)

・この春も魅力のプレゼントをご用意しました。(新聞広告)

・いかに、英語を楽して覚える方法はないかと考えて(英語教材広告文)

・ いるいる!!こんなオジサン!!……思わず近くにすわっちゃうと、私たちまでもが選手に対して申し訳なくてハズカシクなっちゃうのは私だけ?(スポーツ雑誌)

・あの一句がきめ手になったですね。(単行本教養書)

・バブルが終わるや彼の会社はあっさり倒産です。(新聞折り込み広告)

・会員証は本人以外は使用できません。また、他人への貸与・譲渡することもできません。(レンタル店会員規約)

・この季節感の失われた今、雪山で遭難するだなんて貴重な青春の一ページになるわよ。(マンガ雑誌)

・いつまでくよくよしていても仕方がありません。(単行本小説)

・警視庁では犯人グループが指定した中国の電話番号に、日本からの通話記録を調べ、都内の発信場所数か所を割り出し、アパートに人質と一緒にいた四人を現行犯逮捕、別のアジトにいた共犯二人も逮捕した。(一般新聞記事)

 

 このような実例を発見した後には、それぞれの「おかしさ」をもたらしている背景や動因についての考察へと視点を向けさせ、より高い一般性を志向させるように支援することが重要であろう。たとえば、

 

・猫ってしつかるんですか。(TVバラエティ番組)

 

という実例に対しては、シツケル>シツカルという派生関係の背景についての推察を試みたいのである。すなわち、-eru型他動詞を網羅的に拾い上げていくことによって、-eru型他動詞:-aru型自動詞の対応パタンが-eru型他動詞:-u型自動詞の対応パタンに比して圧倒的に優勢であることがわかれば、そこから臨時的に仕立て上げられた自動詞もどきの「しつかる」が、日本語のもっとも一般的な対応関係をなぞったかたちであること、つまり「しつかる」にはそれなりの必然性があること、さらに言語の変化には体系的な圧力が潜在的に働くことを、学生は実感を持って理解できるのではないだろうか。実際、ある学生は、

 

・我々をドカーンと笑かしてくれ!!(マンガ雑誌)

 

という実例を報告した上で、ワラワス>ワラカスという派生関係の背後に「動かす・乾かす・輝かす」などの−カス型語尾をもつ動詞への類推を示唆していた。もちろんそのように言えるためにはさらに詳しい考察を要するが、入門期学生が自力でこのような筋道を立てられるようになったのは収穫であった。
 「[tjャ]を含む外来語を探してみよ」という課題では、もともと「テューバ」程度が頭にあるだけで、いわば無責任な課題であったにもかかわらず、学生は「エテュード・テューダー朝・テューリッヒ・ケマル=アタテュルク」という例を報告してくれた。すべて「チュ」との二重形であり、そのまま無条件には容認できないが、とにかく発見であった。あるいは彼らの頭の方がより柔軟なのではないかと驚いた。「最近の造語を集めて構成原理を分析せよ」という課題は、「粋族館・闘強童夢」のような「音と意味との二重性を利用した視覚的な表現効果を意図した用字」の収集などと同様に、学生が得意とするものの一つである。しかし、「アムラー・シャネラー・チャイドル・援交」程度なら分かるのだが、「いかつく(<イカル+ムカツク)・ださかわ(<ダサイ+カワイイ)」となると筆者の理解語彙の範囲をこえていた。
 同書には、学生をあえてとまどわせる「仕掛け」を所々に仕込んだつもりである。たとえば語彙の体系性を説明するのに、「衣服類の着脱に関する動詞語彙」の「きれいな」モデルを挙げておきながら、それが検討範囲を限定した意識的な操作であることを述べ、「さらに範囲を広げていった場合に生ずる問題点を指摘せよ」という課題を課している。学生は「羽織る(オーバーコート・カーディガン)・巻く(スカーフ・マフラー)・締める(帯)」などの例を挙げてきたが、その過程において、たとえ「教科書」であっても批判的に見る眼が必要となることを実感してもらいたいのである。時としてはわかりづらくすることも配慮である。
 未知の領域であるがゆえに、ある程度の専門用語や概念の「解説」はやむを得ないとしても、とにかく身辺の日本語事象を「観察」し、事例をみずから「収集」することをベースにしようというのが基本的なコンセプトである。その方向性がどこまで徹底しているかという疑問を、筆者自身も感じないわけではない。しかし、専門研究者にとっては当たり前の基本的な事項でも、学生にとってはみずからの「発見」であること、少なくとも「発見の追体験」であることが、学生にとっての「試験のために暗記する」学習から脱却する契機になれば、と思うのである。

 

(いさか・じゅんいち/千葉大学教育学部助教授)

 

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