紀要論文の電子化とインターネット

―少部数学術出版の現状と将来展望―

 

 ひつじ書房 代表 松本 功

 (http://www.hituzi.co.jp/hituzi/index.html)

 

 要旨
 ひつじ書房は、言語学を中心に刊行している学術専門出版社である。我々は、今後、21世紀にかけて、紀要論文の電子化を著者や機関と協力して精力的にやっていきたいと思っている。それは、学問と学術出版の存亡の重要なポイントがそこにあるのではないか、と思っているからである。
 論文の電子化のメリットは、1 流通とストックが容易になる、2 論文同士のリンクができる、3 マルチメディア論文を可能にする、4 コストの削減あるいは配分の変更であり、課題は、1 情報のナビゲーションの方法の確立が必要であること、2 新たな電子的なリテラシーの必要性、3 21世紀の学問存立のために意味のある学術情報の公開が出来るかということにあり、学問が、21世紀に機能するためには、研究者と出版社が共同して対応すべきだと考える。

 我々は、昨年度の学習院大学文学部の紀要を、制作させていただいた。小社が、この仕事を初めて、3年目であったが、制作を始める前に、いくつかの試みを行おうと考えていた。一つは、いわゆる電算写植ではなくて、DTPで組版を行うこと、二つ目は、それを電子化して配布できるようにしようということであった。電子化して、配布するということに関しては、大学の学部で決定されるわけであるが、もし了解がえられるのであれば、即座に対応が可能な状態にしておこうと考えた。7月末現在、まだ、大学のサーバーから発信するところまではいたっていないが、縦組みと横組みの二つのサンプルを小社のホームページにおいてある。(http://www.hituzi.co.jp/hituzi/ksample.html)私は出版社の立場からではあるが、紀要などの論文は、電子化して、公開する必要があると機会があるごとに述べてきたが、その実践がやっと今年の春にできたということである。なにゆえ、そのようなことが必要と考えるにいたったか、以下、述べてみたい。

 

 1 紙の紀要から、電子紀要へ

 紀要に掲載された論文は、入手することが非常に困難である。ある研究者の方に本をまとめてもらおうと思って、あらかじめ、論文を手に入れようとしても、紀要の場合、所蔵している図書館が限られている。編集者は、このようなことをそれほど頻繁に行うわけではないが、日常的に論文や資料を集めている研究者の方々の苦労は並大抵のものではなかろう。紀要は、学内関係者に配布されて、実際に関連分野の必要な人にはほとんど行き渡らない。在庫を大学内に保管しておくことも、スペースの関係で限りがあるし、問い合わせに個別に答えるのも、労力を要する。せっかく、作られたものが埋もれてしまう。本当にもったいないことだと思う。

 インターネットに馴染むにつれて、多くの研究者が個々の論文をいろいろなかたちで公開しているのを知って、これで何とかなってくれれば、いいんじゃないのか、と最初は半ば、他人事のような感じでいた。ひつじ書房のメインはやはり、著作物を商品として、刊行することにあったからだ。それが、私の中で変化するのは、新しい技術がでてきたことと、著作物として完成する前の紀要論文など、大学・研究機関での基礎的な研究こそが、今後の学術情報を考えるに当たって非常に重要ではないか、と思うにいたったからである。

 その技術が日本でも使用できるようになる前は、日本語で書かれた論文の場合、オンラインでの公開がかなり困難な状態であった。テキストデータ、画像データの方法には無理がある。プレーンなテキストでは、言語学の論文で必要な、音声記号は入らないし、英語以外の外国語も無理で、また、樹形図のようなものを入れることもできない。また、スキャナーで読み込んで画像データにしてしまう方法は、要するに目に見えるだけだから、検索もできないのである。

 しかしながら、ポストスクリプトという文字をきれいに印刷する技術から派生したアクロバットというソフト(技術)は、文字の外形をきれいに保ちながら、文字の情報をも保持できるということを聞いて、上記の発音記号などの文字のフォントの問題や、図版のことも解決できるだろうと期待をしていたのであった。DTPソフトや通常のワープロソフトで作成した文書がそのままオンラインで公開できる文書に変えることができる。英語版は、かなり前に出ており、すでに93年ころから、この技術を知って、期待をしていたのであった。94年はまだ、日本語版が無く、類似した技術(Common Ground)を使って研究書をオンライン(NIFTYSERVE)で公開したこともある。余談になるが、このことが日経産業新聞などで取り上げられて、そのおかげで、NIFTY SERVEのsharetextフォーラムに顔を出すようになるなど、いろいろな方と知り合うきっかけになった。さて、この技術、アクロバットの日本語版が、ついこの5月にやっと発売されたのである。この日をずっと待っていた。実は、学習院大学の文学部の紀要(大学では年報と呼んでいる)をDTPで組版を行ったのも、アクロバットで、DTPの組版データを変換して電子的な文書に加工できるからなのであった。どういうことになるかというと、アクロバットの一種のフィルターを通すと、紙の紀要のそのままのレイアウト、デザインをそのままパソコンの画面で見たり、自宅や研究室のプリンターで印刷することが簡単にできるようになるのである。音声記号や英語以外の外国語などの特殊なフォントも表示・印刷することができるし、テキストの文字データも保持しているから、探したい文字を検索することができるのである。その上、付加的な価値として、インターネット上の他の論文にリンクを張ることも可能だ。我々は、今後の学術情報の重要なあり方をこの方法は示していると思われる。DTPで、本文を作っておきさえば、ことさらに新しいことをしなくても、簡単に電子化できてしまう。カップにお湯を入れると3分後にはできてしまうカップラーメンのようだ。制作者の負担はさほど増えないのである。

 2 電子化のメリット

 まず、電子化するメリットをあげてみよう。

 1 流通とストック

 インターネットにつながって居さえすれば、論文を読み、入手することが容易である。大学は、その論文を製本して、ストックする必要がない。また、抜き刷りも必要なくなる。電子化した論文が評価されるという常識が生まれれば、学位論文なども、出版社に頼み込んで、無理をして出す必要もなくなる。(出版社の側も、それまで本も買ってくれてないし、学会で挨拶もしてくれたこともないような面識もない人から、いきなり本を出してほしいと言われないで済む)これは、それぞれの学会全体で取り組むべき問題だろう。

 2 論文同士のリンク

 論文同士の具体的な引用、参照が可能であり、場合によっては一次資料に直接リンクすることも可能である。

 3 マルチメディア論文の可能性

 今まで、紙では不可能であった論文が可能になる。言語学で言うと、今まで樹形図などの図版は、2次元のものであったが、3次元の図版も可能だし、樹形図の要素の一部を引っ張って、バランスを変えたり、時間軸を入れて変えたりすることもできる。音声が入った音声学も可能だし、ビデオ付きの挨拶行動研究の論文も可能である。経済学などでは、シュミレーション自体を入れておくことも可能だろうし、社会学なら、長時間のインタビューなどを入れることも可能であろう。そんな奇をてらった研究などと言わないでほしい。もうすでに、方法の上では、様々な紙以外のメディアが研究の中で使われているではないか。発表媒体が紙しかなかったことで、今まで使用することが出来なかっただけなのだ。これは、話が飛躍するかもしれないが、我々の日常生活の中で情報は、紙から入ってくるだろうか、電話だろうか、テレビだろうか、インターネットだろうか。それら、すべてだろう。この状態で、紙だけを研究の発表媒体にするのは、本当はかなり無理があるのではないだろうか。だいたい、テレビが普及してから、30年以上たつのに、テレビ研究というのが、文学研究に比して少なすぎないだろうか?(ビデオを使って研究を進めていらっしゃる社会学者の山中速人さんたちに、『マルチメディアレポートの技法』(98年刊行予定)で、新しいマルチメディア論文の書き方を紹介してもらうことにしている。)

 4 コストの削減あるいは配分の変更

 いままでは、紙を用いて印刷・製本をしてきた。出版社が、紀要の制作を受注しても、実はそのコストの8割は外注費であり、まるで出版社は外注先に仕事を与えるために仕事をしているかのごときだった。それを、全体を安価にしたり、本来的に組版の総合的な管理者である出版社に比重を増やすことが可能だろう。(ちょっと、ずれるが、文部省の公開促進費の場合、組版代、製本代などの外注費の分は助成しようと言うことだが、出版社の分は利益をあげるな、あるいは自前で利益をあげろというものである。本来的に、著者の次に苦労しているのは出版社だと思うが、一番、報われないのが出版社になっている。電子化して、印刷代と紙代と製本代をうかして、その分を研究費に振り分けるとともに、編集者の労力に正当に報いるための財源にしてほしい)

 3 課題と対策

 ただ、現状で予想される問題が無いわけではない。現状で気が付く課題をあげてみる。

 1 情報のナビゲーション

 必要な情報がどこにあって、どうやって手に入れるかということが、結構大変になる。インターネットの大海に埋もれてしまうなら、情報は無いのと同じである。これは、学会などが、論文名の登録を受け付け、検索エンジンをオンライン上に用意すべきだろう。しかも、これは、学会員以外にも広く市民に公開されるべきである。学会誌については会費を払っている人、個別に購読料を払った場合のみというようにしてもかまわないが、基本は学会や大学が集めた情報は、だれでも見ることができるようにするべきだ。もともとは新聞などでは紹介されない地味な人文科学系の研究書の紹介を行うことで、地味な出版社を存続させたい考え、「書評ホームページ」(http://www.shohyo.co.jp/top.shtml)というものをひつじ書房のドメインとは別のドメインで、開始した。紙の刊行物以外の、オンラインに存在している情報も紹介したり、「書評」したり、所在情報を検索できるようにしたいと思っているが、学術的な組織が行うべきことの暫定的な肩代わりと言えるかもしれない。

 2 新たな電子的なリテラシーの必要性

 執筆者の論文は、本人から削除の要請があれば、削除せざるをえないだろうが、リンクを張られていた場合の対策を考えておく必要がある。これに関連すると、論文が電子化されることをふまえて、執筆の段階から、注意しておくことは変化するだろう。たとえば、電子化のソフトは別にアクロバットだけではない。html化するというのも、特殊な記号を使っていない論文の場合は、可能である。紙での出力を優先しないのなら、エキスパンドブックという形式も有望である。こういった方法を取った場合、ページという概念が、弱くなってしまう。ページが無くなったり、表示するソフトによってページが違ってしまうということがおきる。執筆する際には、引用や参照する場合、ページ数ではなく、節番号などにする必要がある。このことばかりではなく、文字コードの問題など、新たな電子的なリテラシーが、様々な場面で必要になるだろう。(これについては、『デジタルテキストの技法』家辺勝文著を今年の冬に刊行する)

 3 21世紀の学問存立のために意味のある学術情報の公開

 たとえば、教育社会学のある論文について、研究者でも何でもない人が、自分の子どもの問題、地域の問題に遭遇して、何か知りたいことがあるという時に研究機関、あるいは学会にも所属していなくても、オンライン上に存在している文書を、読むことが出来るようにしておくべきだと思う。これは、学問の市民への公開である。学問、研究も市民による理解と支援がなければ、成り立たない時代が来る。国の予算が限られている中で、道路の整備や建築よりも市民にとって役にたつ、あるいは役にたたなくても、産業や工業に基礎科学が必要であるように文化の基礎科学として意味があるということを理論的にも実践的にも示さなければなるまい。(日経新聞8月3日号で、国立大学協会副会長の阿部謹也氏は「国民にとって大学とは何かとか、生涯教育にどのくらい力を入れているかとか、大学の研究が国民に見える形になっていて、どういう意味があるかといったことが、十分に示されていない。アカウンタビリティ(説明義務)不足は反省すべき点だ」と述べている。)これは、図書館についても言えることで、『失楽園』を貸し出すのが市民へのサービスなのか、市民が何か問題に突き当たったときに解決の助けになるような、十分な設備と参考書と司書がいたり、学術書が所蔵されていることの方がいいのか、今後重要な問題である。この全国民的なディベートに破れれば、学問すべては奈落の底に落ちることになるだろう。これは、様々な学会などでも、討議すべき課題だ。象牙の塔にこもるために、あるいは文化の基礎科学の研究場所たる象牙の塔を作るために、市民の中に入っていかなければならない。この点で、原則的に大学関係者以外にはアクセスできないようにしている学術情報センターの戦略は、逆行している。また、学術情報が十分に公開されていれば、大学に進む高校生も、どこでどのような研究がなされているか、知ることが出来る。偏差値で選ぶのではなく、知的な目的意識で入学する学生が増加するとしたら、有意義であろう。一方、同じトピックに関わる論文がオンライン上にあれば、簡単に比較できてしまうから、内容のある研究をしていないと厳しいことになることも予想される。

 4 出版社

 研究者は自分の論文をオンラインで公開し、場合によっては自分で自分の論文を集めて、論文集を作ることも可能ということになった。以前であれば、私家版と商品版では、流通上の容易さが格段に違っていた。郵便や電話によって、いちいち問い合わせされて、郵便で発送するのもそれなりに手間であったといえるだろう。しかし、今、インターネットによってオンラインで論文集を引き落とされても、その手間はほとんどゼロに近いし、物理的な本を入手するのも注文してから数週間かかるなど、面倒くさい。となると研究書に関して、従来あったはずの出版社が関わることのメリットは減っているということになるだろう。

 従来の出版活動では、出版社の意味はどこにあったのか、考えてみたい。一番大きいのは、ナビゲーションと言うことであろう。刊行するに値する本のより分けの機能を担ってきていたということだろう。出すべき本が刊行されなかったり、出すべきでない本を刊行したりと判断を誤ることも少なくないが、その判断は簡単に下しているわけではないのだ。出版社の人間は、学会に出店し、将来の著者候補に出会う。出版社がある自負を持って出した本に対して、好意的でなくてもかまわないが、的確な批評ができ、なおかつ実際に購入してくれる大学院生に、注目し、学会誌に論文が載れば、チェックする。あれだけの本を選ぶ見識のある人間だけのことはある、とか、いろいろと見ているわけだ。本をどの程度買ってくれているかなどで、好感度が変わることもある。一方、耳学問的に研究者たちの内部的な評価を参考にしたり、研究会などでの発言、論文自体などを読んだりして、この人でこのテーマであればと思い、執筆の依頼を行ったり、刊行の希望を出されたときに、どの程度の読者がいるのだろうか、と考えたりするのである。ここまで、たぶん、それなりの判断をして、一人の研究者の商業的に本を出すのに、最初に出会ってから、10年以上はたっているだろう。そこまでして、長いつきあいの中で、本を出せるだろうと判断して本を出しているわけである。この間のコストは、出版社の存立理由として十分だと思うがどうだろうか。(ただし、このことがかろうじて成立してきたのは、日本語学と日本史学などのドメスティックな学問だけかもしれない。他の分野では、学術専門出版社も学術専門古書店も現実には存在していないか、より困難と言える。また、出版界の全体の問題として「啓蒙主義の終焉」という重大な事態がある。また、出版社のナビゲーション機能に正当な疑念をもつ発言もあり。「ポストグーテンベルグ革命」(潮木守一、http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/faculty/ushiogi/postguten.htm)参照。)

 出版は、出すことだけでなく出さないことにも意味があり、そのこと全体でナビゲーションという出版活動である。また、この判断は、学会の流れと微妙にずれていることがある。価値基準が複数になるということも、重要なことであろう。言語学で言うと、学会で十分な評価を得る前に、本を刊行し続けると言うことも希だがある。三上章とくろしお出版の例などがある。これは、それなりのコストがかかることなのである。私は、出版社側の人間として、出版社が生き残った方が、学問全体の利益になると信じている。もともと、少人数であるし、このコストは許容される程度のであると思うのだが。言語学・日本語学で、この分野の編集者は、全体で10人くらいではないか。このくらいの規模は、学会の規模からしても、1パーセント未満であり、生きていくことが出来てもいいと思う。欧米の大学では、研究室に秘書がいたりということも多いと聞くが、そのようなシステムのない日本の現状で、自分でなにもかもやって論文をオンライン化してしまおうと考えるのではなく、編集者の協同を仰いで本やオンライン論文の形にした方がよいのではないか。

 我々、出版社も大きく変わらなければならないだろう。電子化につきまとう様々な問題点をあらかじめ把握しておくこと、電子化の様々な技術を一通り把握していること。執筆者に十分な助言やサポートができる電子的なリテラシーが必要となる。また、新しい学問の流れに対して、出来る限りの協力をするという姿勢が必要だろう。収穫する人ではなく、単なるキャッチフレーズや意匠としてではなく、実践として種を蒔く人々の中の一員になる必要がある。

 人文学が、ここ10年で大幅に変わる。日本語の研究で言えば、文の研究が、談話の研究、その談話とは身体的な何かを含んだものとなるだろう。文学の研究が、映像や音や社会を含んだものになる。そんな時代に、生き残る出版社、編集者とはどのようなものだろうか? これは、なかなか重い問題である。たぶん、10年後を見据えた場合、インターネットを利用して学術情報を流通させると言ったレベルではなく、電子的なメディアを研究の根幹に位置づけた形での研究が主流になって行くだろう。たんに、インターネットで配布するということで、流通を改善するというだけでなく、デジタル化という全体の流れで、学問自体も出版自体変わると考えた方がよいだろうと思う。実際には、今後、様々な問題が発生していくと思われる。これまで、DTPで学術書を作ってきた実績をもとに、研究者や機関と協力して次の時代の出版を作っていきたいと思っている。(これらの全体の問題について、『ルネッサンスパブリッシャー』拙著をこの冬に刊行する予定。)