鮎の歌

立 原 道 造


 しかし私のアンリエットは私のアンリエットではなかったか。それならば またその自分に信じたアンリエットはアンリエットであるゆえにふたたび僕 のなかにアンリエットとなって生きねばならない。ここで僕はもうその名で ひとりの少女を指すことは出来ないのだ。私のアンリエットとそのアンリエ ットと。僕にそのふたりの少女が区別されてはならない。僕のなかにはいっ てそのふたりの少女はひとりのアンリエットとなったゆえに。このひとりの アンリエットとはだれなのか? 僕の外にアンリエットはいない。僕みずか らが「アンリエットとその村」の場所でありアンリエットは僕のなかにはい ってのみアンリエットであるゆえに。それならば私のアンリエットとはだれ であったか? いいかえれば僕のなかの空虚な部分にそれは名づけられたの ではなかったか?……たわむれと真実はここでは分けられない。あの歌物語 をルネサンスびとの一人となって僕が綴った世界に住んだゆえに。これは言 葉のあそびだろうか、一体何の人工のかなしい果てだろうか……僕は少女を 失ったにすぎない、だれでもいいアンリエットひとりをあざやかに僕のなか に生かしたかったゆえに。そして僕は少女らをそうして失いながら鮎の帰り を渇ききって待っていた。だれが帰るのかをありありと思いに描いて、その 再会をこの上なくたのしくながめ。昔ピグマリオンが自分の巧みな人工で愛 人を得たように、僕は自分の人工のために生きていた少女らをただ冴え冴え とした輪郭だけをのこし消してしまったのだ、その場所で僕は恋を言った。 鮎よ! おまえの身体さえ私のアンリエットを埋めつくすわけにはいかない。 おまえの掌を僕の掌に持ったことなくましておまえの唇は僕の唇に触れ得な かったゆえに。臆病な僕はただふしぎにみちたおまえの身体の秘密のまわり をおどおどと飽きずに歩きまわったゆえに。これは恋のこころではない、き っと涙とあこがれのふかい淵に堕ちた心だ、すべてのものを壊しつくしてや まない、すべての上に漂いたいとねがう、まなざしだ! ああここでは何と 空はとおく高く逃げてしまった、僕の吸う空気の何と薄いことだろう! 失 いも得られもしない。千の絆よ、帰って来い、鞭うたれれば血の迸りやまな い身体の汚れに、僕よ、あれ! 行為よ、泉に就て、決意に就て、もののた たかいとふたたび別れに就てすら!                  


前ページへ
次ページへ



ひつじ文庫に戻る