鮎の歌

立 原 道 造


 僕は、村はずれの、そこで道がふたつに分れてしまう、叢に腰をおろして、 ぼんやりとA山の方をながめていた。たった今、この眼のまえに、この心を あんなに波打たせて、立っていた、そして今は自分と三百メートルも離れて いない場所のひとつの部屋に、僕の知ることの決して出来ないおもいをおも っている、鮎! それだけが僕の考えを超えて、僕の考えをどぎつく押しす すめていた。しかし、僕は、たしかにA山だけをながめていた、それだけだ った。そして、A山は僕の眼のまえで夕ぐれ近い空に、何の前ぶれもなく音 もなく小爆発をした。羊飼の手を離れて空にのぼって行く緬羊の仔のような 噴煙−−そんなことを考えた。「汝は牧者ぞ……汝にゆだぬ、み空の鍵は!」 そんな言葉をずっと前に「花散る里」という詩のなかに書きつけたことを考 えた。                               
 これでいいのだろうか? だがこれでいいのだろうか?……僕は、鮎とた だひと目会った、そしてみじかい言葉をかわした、というばかりのよろこび が、その苦痛のかげに高まって来て、そして苦痛は自然な甘い憂愁にかわる のを、ぼんやりと手もつけられずに見ていた。黄昏が迫って来た。    
 僕は、分かれ道を北の道にえらぶと、ずんずんと前の方に進んで行った。 村の境に出、それからまたもっととおくに出て……。何があったのだろう、 長かった村のくらし。そして今、何かあったのだろうか? そして今、何か がおわる。……きっと、そんなことを低くゆっくりと考えこんでいた。ずん ずんと歩いていた。……熟れない木の実であっても、投げあげろ、もぎとれ、 もぎとれ。……くりかえしくりかえし意味のない呟きはだんだんと口に出て、 嗄れた調子でうたうようになった。そして、ずんずんと前の方に歩いて行っ た、おわったのだろうかと、あたかも何かを仕上げようと努めているかのよ うに、その物語めいた自然なひとときにまだ何かをつけ加えようと悶えてい るかのように!……                         


   結びのソネット                        
       溢れひたす闇に−−。暁と夕の詩・第七番        

美しいものになら ほほえむがよい                  
涙よ いつまでも かわかずにあれ                  
陽は 大きな景色のあちらに沈みゆき                 
あのものがなしい 月が燃え立った                  

つめたい! 光にかがやかされて                   
さまよい歩くかよわい生きものたちよ                 
己は どこに住むのだろう−−答えておくれ              
夜に それとも昼に またうすらあかりに?              

己は 嘗てだれであったのだろう?                  
(誰でもなく 誰でもいい 誰か−−)                
己は 恋する人の影を失ったきりだ                  

ふみくだかれてもあれ 己のやさしかったのぞみ            
己はただ眠るであろう 眠りのなかに                 
遺された一つの憧憬に溶けいるために                 

(『立原道造全集』第3巻所収、昭46・8、角川書店)


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