仕事小説、或いは仕事をしない人の小説

「西瓜喰う人」解説

伊 狩  弘

[写真]

牧野信一


 牧野信一現象という祝祭 「牧野さんの自殺の真相は彼の生涯の文章が最も よく語っている。牧野さんの文学は自殺を約束したところの・自殺と一身同 体の・文学だった。」と追悼文の冒頭で述べたのは、ある意味でやはり牧野 信一の流れを汲んでいる坂口安吾であった(「牧野さんの死」、「作品」昭 11・5)。「自殺と一身同体の・文学」とはなにか。これは牧野信一の小説を つぶさに読んで感じるしかなかろうが、牧野信一は時代と文学の、すべてと は言わぬまでもさまざまな可能性と不可能性とを矯めることなく表現の上に 定着させた稀有な作家だった、といった程度のことは確認できるだろう。牧 野信一とは夢幻の世界を駆ける手負いのペガサス、祝祭的精神現象ではなか ったか。                              
 若干の年譜的事実とともに牧野信一の生涯をふちどってみることにしよう。 牧野信一は明治二九年一一月、久雄、ヱイの長男として神奈川県足柄下郡小 田原町に生まれた。ところが父久雄は翌年アメリカに渡り米国海軍に勤務す るなどして明治三八年まで帰ってこなかった。この間に父から送られた手紙 や写真、あるいは父の友人らの乗る船が横浜に着くたびに幼い信一のもとに 届いた「洋服や時計や望遠鏡や物語本など」(「文学的自叙伝」)は当然な がら牧野信一の生涯と文学に大きな影響を与えたはずである。彼が後年「ギ リシャ牧野」と呼ばれるようになったいくつかの短編小説、小田原近辺の山 野を舞台にしながらそこに古代ギリシャや中世ヨーロッパの叙事詩の世界が 出現するような、異質の空間が不意に接合したような小説の源はやはり幼少 期のこの体験にあるといえよう。                   
 やがて牧野信一は中学を終え、早稲田大学高等予科へ進学。大正八年、文 学部英文学科を卒業すると時事新報社の記者をするかたわら同人雑誌「十三 人」に小説を書き始めた。作家生活の開始である。そこに発表した「爪」が 島崎藤村の称賛を受け、翌年には藤村の紹介で文壇へのデビューを果たした ことはよく知られる。こうした幸運な出発をした牧野信一であったが、結婚 とともに小田原に帰郷し、以後死ぬまでの間たびたび上京と帰郷とをくりか えすことになる。このことは、牧野信一が大きな影響を被ったと思われる津 軽の酒仙葛西善蔵の場合とも通ずるものがあろう。牧野は葛西をはじめ、久 保田万太郎や宇野浩二といった先輩作家の知遇を得たり注目されたりと、こ の点もなまなかでない彼の才能と言えよう。特に葛西善蔵には酒を介してで あろうか、感化を受けたようである。大正一三年の父の急死の前後、牧野は 「父を売る子」など父親小説を書くが、素材といい筆致といい葛西の「哀し き父」や「子をつれて」に通うものがある。「ギリシャ牧野」の時代になる と、葛西などの作風からははるかに掛け離れるものの、晩年の「淡雪」や 「裸虫抄」などを見るとやはり彼の基底には古めかしい情の世界が根強く残 っていたと言うべきであり、それが葛西などとの交流を可能にしたのであろ うか。                               
 「ギリシャ牧野」の世界  昭和二年、牧野信一は再度小田原へ帰った。 当時隆盛となったプロレタリア文学に押されたためとも、神経衰弱のためと もつたえられるが定かではない。そして諸氏の指摘にもあるとおり、この年 の二月、「新潮」に発表した「西瓜喰う人」あたりが作風の大きな転換点と なって、それまでの暗い私小説的な小説から一気に彼の真骨頂たる「ギリシ ャ牧野」へと突き進むのである。堀切直人氏の「荒武者マキノ」(岩波文庫 『ゼーロン・淡雪』解説、平2・11)の表現を借りれば、牧野信一はこの時 期に至って彼の身に迫り来る一切の「禍を転じて福となすような文学的な転 換装置を苦心の末に発明工夫し」た結果、「とっつきが悪くて、単調で、か ったるく、やりきれないほど鬱陶しい」私小説の世界から、「ファンタジー とフモールが仲良く手を取り合いダンスに興じる、愉快でカラッとした、醇 乎たる夢幻の別乾坤」へと大変貌を遂げたわけである。そこには、父の死に よって牧野信一の魂がある種のヴェールをはがされて、むきだしの状態で外 界にさらされるようになったこと。つまりは、種村季弘氏が「ドン・キホー テ的な父がじつは彼自身の夢想家の部分の戯画であることに気がつくのにそ う長い暇はかからない。」(「牧野信一 母からの逃走」、「国文学」昭 49・6)と述べたような事情がはたらいたことは疑いなかろう。「村のスト ア派」(昭3・6)という小説はそうした牧野信一の変貌の一端を物語って いるようである。                          
 小説家の樽野(牧野)は母親やG(母の手先、共犯者らしい人物)の乱脈 な生活によって財産をすっかり差し押さえられている。ある日、Gから「僕 の考えに依ると芸術家の生活というものは帰着するところ大概ストア流だと 思うがどうでしょう?」などと言われるのだが、実は樽野は「浮気な享楽派」 なのである。遊びに出たい、村祭りに行きたいなぁと思いながらも、樽野は 次のように思う。                          
彼は、母やGやそして自分のことを知ると、怖ろしい後ろ暗さに襟元をつか まれて、逃げようとして門柱にしがみついても腕はもぎとられ、石をつかん で暴れ回っても、捕り手に囲まれた悪人の最後のように忽ち縛められてもと の牢獄へ連れ戻されてしまった。……彼は、薄暗い幕の内側で狂人の如く見 苦しく、のた打ち回った。彼は、持論として奉じている『厭世に価しない人 生』のために、胸倉をとられて小突かれ、脚を払われて真ッ逆に転倒した。

 右のように鬱々としている樽野ではあったが、時には「アテネの不孝児に なって残虐の剣をアポロに乞おうとする嵐の晩もあった。」という。そして 妻や友人ともどもに家を立ち退くことになったある日、樽野はいつもの発作 に気を失いかけながらも饒舌な夢の世界へ勇敢に突き進む。曰く「僕は建築 学の知識は持たないが、そして、与えられたものなら馬小屋にでも座敷牢に でもプラトニックの満足が得られるのを幸いとして、僕も、そこで、何かの 意味で、僕のアレキサンドリアの建設を計ろうと思っているんだよ。」、曰 く「プラネタリュウムというものを買いたいね、万年前でも、後で決めた一 夜の天体の現象を自由に観ることが出来る機械なんだよ。云々」などのよう に、ついに『厭世に価しない人生』への屈従を脱し、精神的祝祭空間をそれ に置換したのである。                        
 こうして「部屋に閉じこもってばかりいた陰気な夢想家」だった牧野信一 は、「ピエロのだぶだぶな服を脱ぎ捨てて、軽快な身なりで武者修業のため に諸国遍歴の旅に出発する朗然たる冒険家へと鮮やかな転身をとげた。」 (前出、堀切氏)というわけである。例えば「吊籠と月光と」(昭5・3) では、 いつの頃からか僕は、自己を三箇の個性に分けて、それらの人物を 架空世界で活動させる術を覚えて、幾分の息抜きを持った。でなく、あの迷 妄を一途に持ち続けていたらあの遣場のない情熱のために、この身は風船の ように破裂したに相違あるまい。                   
といって、A、B、Cという三人の分身を冒険の旅に出発させる「僕」(作 中で「マキノさん」と呼ばれている)の愉快が語られる。Aは快活な詩人、 Bはストア派の哲学者、Cは落下の実験ばかりしている物理学生であり、こ れらはそれぞれ牧野信一の中の対等で対立的な一面であろう。そして「あの 迷妄」とは、おそらく、人生とは実体的であり人生を語る言葉も実体的でな くてはならないといった、牧野信一の言葉を束縛していた観念なのである。 その束縛を解き放ったところに独特のファンタジーが成立したのである。 
 もう一作、これはそろそろ「ギリシャ牧野」の作風にかげりが見えはじめ、 最後の暗転が近付いたころの小説、「酒盗人」(昭7・2)をすこし紹介して おく。これは漁港に近い居酒屋で若者を集めては「ギリシヤ哲学」をしたり 「騎士道文学の受け売り」などをしている「私」が、仲間とともに悪徳な酒 造業者のところへ行き、計略と滑車を使った仕掛けでまんまと樽ごと酒を盗 み出すという話。この小説こそ滑稽で勇壮で華麗なスラプスティック・コメ ディー(どたばた喜劇)の最たるものであろう。書き出しの部分は次のよう である。                              
私は、マールの花模様を唐草風に浮彫りにした銀の横笛を吹きずさみながら、
 …………                             
  こおおれはこれ                         
 ノルマンディの草原から                      
 長舵船の櫂をそろえて                       
 勇ましく                             
 波を越え、また波と闘い                      
 月を呪う国に到着した                       
 ガスコンの後裔                          
 …………                             
と歌った。                             
 そしてしまいには、戦利品の酒に酔いしれながら「時は流れる/いまわの きわに吾等は微笑おう/Tattoo Tattoo!」と歌うのである。
 紙数の関係でこれ以上詳しく説明できないが、この時期の牧野信一の作品 はまさしく明治以降の日本の近代文学が決して破れなかった小説的な枠組、 つまりは叙情性や人生的意味性をやすやすと飛び越えて、天空高く舞い上が っていたのだ。その飛翔はやがて来るべき惨めな失墜を前提にしていたのか もしれない。ともあれ、日本的小説を読み慣れた目からするとこうした牧野 の作品には多少の違和感を覚えるかもしれないが、変な先入観を捨てて読む ならば純粋な言葉のエンターテインメントは無条件に楽しめる文学なのであ る。そうしたエンターテインメントが、冒頭引用した安吾の言のとおり自殺 と一体だったとするならば、牧野信一の文学はやはり近代文学の可能性と不 可能性とをあわせて体現していたのだと言えるだろう。         
 「西瓜喰う人」とは何か?  牧野信一にとって言葉を解放することは、 己の中の多様な部分を自由にさせること、一緒にとじこめておいたのでは窮 屈でしかたのない、既述した「吊籠と月光と」の三人のような個性を解放し てやることだったように思える。空想裡に展開する活劇とそこで活躍する人 物が、それぞれ牧野信一の夢であり且つ牧野そのものでもあった。それを表 現の上に定着する術が初めて「西瓜喰う人」で試みられ、一定の方向性をも つことになる。つまり、小説の最後に題名の「西瓜喰う人」の説明というか、 種明かしがある。それは、「余が六七歳の頃初めて見た活動写真の記憶」で、 「大写しになって現れた二人の男が西瓜を喰う光景」「物を喰う表情を端的 に誇示する目的で写した写真」である。そしておしまいには次のように説明 されている。                            
当時の写真は悉く筋や意味のない単に写真が動くということだけを示した標 本的のものばかりであった。「煙草を喫している人」とか、「笛を吹く人」 とか、「駈ける馬」とか、「演説をしている人」とか、「黒板に画を描く人」 とか……。                             
 これを見ると、このころ以降の牧野信一の小説の骨法はほぼ明らかのよう に思われる。「西瓜喰う人」そのものの小説は書かれなかったが、やがては 「凧を揚げる人」とか「インデアンの衣装を着る人」とかその他さまざまな 「筋や意味のない標本的」な作品が「西瓜喰う人」の延長上に書かれること になった。この小説は正しく牧野信一の制作現場の秘密を明かしたものとい ってよい。小林秀雄が「アシルと亀の子」(『文芸春秋』昭和5・6)という 評論で、「『吊籠と月光と』は彼の制作理論である。『西瓜喰う人』以来、 彼の作品はすべて芸術論であるといっても過言ではない。」と述べている所 以であろう。                            
 それでは、「西瓜喰う人」という小説を概観しておくことにする。この小 説は、「余」なる人物が小説の書けない小説家である友人の滝を観察した、 その日録という体裁をとる。というのも四箇所ほど奇妙な「註」があって、 それを見るとこの小説はいわゆる作者つまり牧野信一一人が書いたのではな く、「余」すなわちBが書いたものの再録であるように読める仕掛けになっ ているのだ。最初の「註」を見てみよう。               
(註。この文の筆者であるBは滝と同年で三十一二歳の理学士である。そん な称号は持っていたが今では彼は、別段専攻の科目は持っていない、彼は、 これから自分の一生の仕事を新しく定めようと迷っている男だった。)  
 「この文」とは「註」以外の小説全部を指すと思われるから、「註」を書 いたのは作者牧野信一であってもそれ以外はBという人物の日記なのである (最後にはそれも逆転するのだが)。無論、三十一二歳という年齢は牧野の ものであり、滝もBもすべて牧野の化身であることは明らかなのだが、こう して小説の書けぬ小説家の滝、それを観察し記録するB、そして更にそれに 「註」をつける全知的な語り手というように、書くという行為を重層的に分 解する。そうすることで牧野信一という一人の作家は、行為(空想)する人、 観察記録する人、発表する人といったふうに自己解体つまり自己解放したの ではなかったか。                          
 滝はどうやら行動的なロマンティストのようで、とにかく昼間は凧上げに 始まって蜜柑収穫の手伝いや車押し、夜はラッパの練習、細君とのダンスの 稽古、マンドリンの弾奏、なにかの実験、シャボン玉吹き等々……毎日毎晩 常に新しいなにかに熱中しているのである。が、執筆だけはしている様子は ない。                               
 対する「余」は滝の観察者、記録者であり批評家でもある。「余」は今ま でも滝の書いた小説は幾つか読んだことがあった。それは「創作とは称する ものの余の日録と大差無いものばかり」だった。だから「自己の小経験をあ のような小説体に綴る業が、それ程困難なものとは思われない。」と考え、 滝がいつまでも仕事にとりかからないのに業を煮やして「何か彼の材料にな りそうなこと」を探しては水を向けたりした。そして最終的には次のような 結論に達する。                           
彼には、どんな種類の仕事でも厭々ながらに従事するということができない 質らしい。気紛れや我儘で放擲するのではなくて、激情に逆に圧迫されてし まうのだ。彼は二度ばかり勤めに出たこともあったが、失敗の原因は怠慢で はなかった。結局彼は、気持ばかりが積極的に切羽詰まって、傍目には又と ないナマケモノの月日を繰り返しているのだ。             
 右の性格批評が牧野信一の自己評価であるのは明白だろう。滝には「仕事」 を仕事として、つまりは「余技的な気持」でこなしていくことは到底できな い。「仕事に没頭すれば、全生活が仕事になってしまう……。」という滝の 言葉、「仕事のために仕事をやり損っているという感じだな、」という「余」 の批評が滝の小説執筆をめぐる事情を端的に説明している。すなわち、仕事 として書くという行為は滝の行動的ロマンティシズムとは全面的に背反する のであって、それが結果的に形となるためには「僕は君の生活を眺めている のが仕事見たいになってしまったね。」という「余」がどうしても必要だっ た。そして最後の「註」によれば、滝は「余」が寝てしまった後で「Bの机 上にある日録を開いて、その日その日に増えている個所を原稿用紙に移し直 している」わけだから、この小説はまず滝のパフォーマンスとそれに対する Bの観察批評の記録があり、更に滝がそれを再録した上に全知的な注釈者の 「註」が加わったという形の、仕事小説(或いは、仕事しない人の小説)な のであった。                            
 「余」は時々滝の言葉が夢の中の出来事だったような錯覚におそわれる。 どこまでが自分でどこまでが滝なのかわからない主客未分の状態、従って本 来の状態にもどると言えようか。安藤宏氏は、「「自己」とは本来、これら 全ての断片を包括的に含み、なおかつそれらが互いに互いを相対化しあう不 定型な錯綜体(中略)を通してしか言葉はになしえぬものなのではなかった か。」(『自意識の昭和文学』平6・3)と述べているが、こうした自己と他 者の危うい円環運動から軽業的カーニバル的な牧野の文学が紡ぎ出されたの である。                              

参考文献

『宇野浩二と牧野信一・夢と語り』(柳沢孝子編、昭63・有精堂)
岩波文庫『ゼーロン・淡雪』解説(平2・、岩波書店)
安藤宏『自意識の昭和文学』(平6・3、至文堂)




ひつじ文庫へもどる