『ルネッサンスパブリッシャー(仮題)』の0.1V

0.1稿です。どうぞご批判下さい。

 本は、今、危機に瀕している。本当だろうか。
 日曜日、事務所と三省堂神田本店は近いので、立ちよって見ると平日にまして、混雑している。新しい本もあふれているし、本を買もとめる人で込み合っている。三省堂の全フロアーには、本と人があふれている。今、本はいよいよたくさん刊行され、本に何の問題があるのだろうか。業界紙『新文化』の97年の記事で、返品率がこの夏50パーセントを越えたと書かれていたのは、どこの話だろう。こんなに本があふれるばかりに刊行されていることを見ると、本というものには何の問題もないかのようだ。
 私の義父母が、神奈川県の川崎市に住んでいるが、その家から歩いて3分くらいのところに本屋さんがある。あたらしくできた本屋で、150坪はあるだろう。90年代のはじめなら、大型店と呼ばれた規模の店である。ここは、神奈川県にあるチェーン店の一つである。駅前の小さな本屋さんなんかにくらべるとかなり大きい部類にはいる。休日に2才に満たない私の娘を抱いて訪れたことが、数度あるのだが、お客は、いつも多い。子供づれや、休日をすごす人たちが立ちより、にぎわっている。ここでも、本屋は盛況で、本というものが、今後、将来も何の問題もなく、繁栄できるかのようだ。
 しかし、この一見盛況に見える中に危機があるのだと私は思う。
 なぜ日曜日にわざわざ三省堂に多くの人々が来ているのだろうか? 近所の本屋で、本を買えばいいのではないのか? なぜ彼らは電車賃を払い、わざわざ自宅から休日の貴重な時間を使ってやってきているのだろうか。住んでいる町の駅前にも、通勤途中にも本屋さんはあり、最近では車ですぐにいけるところや幹線の道路沿いに最近できたような店もあるだろうに、探し求めている本はないのだろうか。義父母の近所本屋はどうだっただろう。150坪もありながら、小説以外の単行本はほとんどない。雑誌と文庫と新書、コミックスと学参で、ほとんどが占められている。お客のほとんどは、雑誌を立ち読みしていて、あとは児童書のあたりに子供づれがいるくらいだ。文庫のところにさえ、人はほとんどいない。数少ない人文書の棚には大手出版社のシリーズものなどがあるくらいで、雑然としていて整理されていないし、棚によっているお客も私だけだ。ここでは、雑誌しか売れていないようにみえる。しかも、雑誌も買っているのだろうか。長い間立ち読みしている人が多い。コミックのコーナーは、ビニールかけされていて、子どもも大人も一人もいない。
 簡単に現状を考えて見ると、150坪もあるようなちょっと大きな郊外店であっても、新しく刊行されている単行本は大きな出版社の本のそれも一部しか、置いていない。特に人文書は、壊滅的状況だ。感覚的に言うと文庫本の種類が増えたことも原因だと思うが、10 年前の書店で言うと50坪規模の書店程度のバリエーション、品揃えしかないようだ。それは、チェーン店のマーケティングによって導き出された正当なものであろうし、効率や回転率からはじき出された根拠のある営業政策だと思われる。また、実際に、そのマーケットティングが少なくとも今までは成功していることは、店舗を増やしていることでもわかる。そのことをとやかくいう筋合いのものでもない。だが、駅前の50坪くらいの自営の書店で本を注文すると言うことは、あったが、私の住んでいるところにも別のチェーン店があるが、そこで注文しようと考えたこともないのは、どういうことだろうか。店長と言っても、どうも単なるアルバイトとかわらないようだし、そういえば、地元の書店の親父は、神田の本の問屋で見かけたことがある。あの親父は、仕入れにわざわざ都心にまで来ていたのだ。でも、チェーン店の店長はそういうことをしているのだろうか。推測だが、店長が直接仕入れにいくということはないだろう。だが、チェーン店の本部がそれに対応しているとも聞いたことがない。
 チェーン店に満足していない証拠に、休日にわざわざ自分で交通費を払って超大型店に足を運んでいる人がたくさんいるということがある。しかも、三省堂の場合、特に専門書のコーナーというより一般的な本の売り場であるところが、特に込んでいるということを重く見る必要があるのではないだろうか? 特殊な本ではない本を探す人が、休日に訪れているのだ。「探せる」かどうか、ということが重要なような気がする。
 私は、中小規模の本屋さんが、専門的な本を揃えろというつもりはない。何らかの検索機能と本を取り寄せる方法が、もっと充実してほしいと思っているだけだ。ただ、その中には、大量生産の本をうまくさばく能力と少部数の本を求める読者=消費者にも満足度の高い斬新な書店を切望しているのだ。ベストセラーも2年もあってば、マイナーな本になる。売れ筋であった本でも、数年後には入手が難しくなってしまうのである。だから、部数の少ない本をうまくさばく能力があれば、ちょっと前の本を死なせないですむ。大量のものは大量に扱い、少量のものは切り捨てるのではなく、大量のものも少ないものもそれなりにきちんと取り扱えるというシステムが求められているのだと思う。
 本というものの問題は、深くて広いので、一般的な問題として追及することはここでは断念する。数万部も売れるベストセラーの事情など、全く知識もないし、わからない。私は専門学術書出版の立場から、この本の発端になることだけを述べる。新書の類は、今ではたくさん刊行されている。それらの本は、例の150坪の書店にも並べられていた。それらの本には、普通、参考文献が上げられている。著者のもう少し専門的に書いた本であったり、その本を書くときに参考にした過去の本が上げられているだろう。だが、それらの本はどこにあるのだろうか? あなたが、もし、そのトピックについてもう少し知りたいと思った時、その本はどこにあるのだろう? 新書ではないそれらの専門書が存在できなければ、その新書も存在できなかったのではないのか、ということである。新書の背景には、膨大なより基礎的な研究、考察がなされていたはずなのである。それらの本は、どこにいったのか? どこにいけば手に入れることができるのか? まず先の150坪の本屋には、ないだろう。三省堂にはあるかもしれない。しかし、実際には三省堂にもない可能性が高いというのが、実情なのだ。たぶん、それらは、新書が数万部であるのに対し、数百からせいぜい2000部くらいが刊行されて、同じ研究をしている人々に購入されるか、一部の大学図書館や一部の大学の研究室に購入され、あるいは、まだ多くがその本を刊行した出版社の倉庫に寝ているのだろう。もしかしたら、売れず、在庫にかかる税金が払えずに、断裁されて破棄されてしまったかもしれない。
 この少部数の本を「基礎の本」と呼ぼう。新書は「応用の本」と呼ぶことにする。この基礎の本があってはじめて応用の本も存在できる。しかし、150坪というちょっとまえなら大型店に分類されている書店でも、販売されることは事実上できずに、一部の超大型店と専門書を扱い図書館に納入している書店とそれから直販によって大半が販売されている。多くの人々の目に触れることもなく、どこかに消えていく。この基礎の本たちは、商品ではないのだろうか。これらは書店には、一度も届けられることもなく、展示されることもなく、しまわれてしまうのだ。もし、基礎の本が、読まれなくなり、刊行もされなくなった時に、本というもの自体が維持されうるのだろうか。
 出版業界は、21世紀に対応できる体制を全くどこも備えようとしていない。情報化・オンライン化の方向も間違っている。マスプロダクト、マスセールスでは、消費者の欲望に対応できない。将来のマーケティングを考えると少数者の満足をいかにして成り立たせるか、あるいは、マスとマイナーをいかに共存させるかというのが、重要な課題であるはずなのに、なぜか、今になって古びてしまった、マスセールス主導の方向にで電子化を行おうとしている。また、それに正当な批判が業界の中からは出てきていない。20世紀の知的産業として、それなりの地位を得ていたはずの出版業界は、今後十年間で、たぶん、ほとんど壊滅するであろう。
 結論を先取りしていうとマイナーなもの、先進的、基礎的な書籍を生き残らせない限り、マスのものも含めて本というものはほろんでしまう。それは、自転車のサドルを作る産業が消えてしまうのと同じくらいの、あるいは、病院から、泌尿器科が忽然となくなるのと同様の衝撃だと思うが、どうだろうか。私の文章が、本を作る人間の勝手ないいわけではなくて、読む人も含めた本に関わる人々の対話のきっかけになるようにしたいと思っている。