13分日誌 言いたいことは手短に。


読み書き鍛える脳の筋

書いて鍛えている人;M.K
 文章がまとめられないひつじ書房社員

■20000126■元気です。

ご無沙汰しています。生きています!
もう少ししたら、ゆっくり書きます。(急いで書いても13分、ゆっくり書いても13分。あら人生とおんなじみたいね)。

■20000106■文化だなあ。

今日は「日本語の引用」の参考文献のページをページメーカーでいじっていた。そんなに時間はかからないと思っていたのだが,例によって,うーむ,予想の3倍くらいかかった。今日,学んだこと。 :欧文略語 ms とか,et al. とか,なんだこれはと思っていたら,欧文の世界で決まっている文献表記の略語。他にももちろんたくさんある。ちなみに,前者は「写本」という意味,後者は,「その他のところに」という意味。後者の意味は,実はまだよく分からないです。 :『日本語学』7.9:30-45 二重括弧は,雑誌名ですね。これは,学校で習った。問題は,後半の数字。 洋書の文献表記を見てみると,コロンの前の数字は,雑誌の号数,後ろはページ数。問題になったのは,「7.9」の意味。洋書には数字は1つしか書いてなくて,雑誌の号数だとすれば2つのあるのは変なのです。先生が創ったルールか,日本語圏に特有な事情に関係する表記らしい。これは先生に聞いてみることにした。 :ダニエル・ロングさんをどの位置に置くか。 英語圏の人でしょうが,日本語の本では著者名は「ダニエル・ロング」となっている。著者の名前をABC順に並べているのだが,Lの行に突然,「ダニエル・ロング」さんが登場し,なんで?これは間違いだ,と思ったら,松本氏が,これは「ロングさんだからです」と言うのです。なるほど。でも,だったら,他の箇所全てファーストネームは後ろに置くルールにしているのだから,「ロング・ダニエル」という表記にしたいのだけど,そうすると,何か「変な感じ」がするのです。さあ,どうするかねえ,というようなこと。 :外字 パソコンの普通の辞書にはのってない文字,外字を出す。ある有名な先生の名前が外字でないと出ないのです。AdobeTypeLybraryで,かなりめんどくさい作業をして20分以上かけて一文字だす。それにしても,AdobeTypeLybraryにのっている膨大な外字は見たことないような文字ばっかりなんですが,これも誰かがコード化して(続きは明日。今日知ったもう一つのこと。新年ご挨拶にみなさんタオルをもっていらっしゃるということ。「御手富布」。文化だなあ。)


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■19991224■みなさん何やってんですかぁー

ひつじ書房の本に「女性のことば;職場編」という本がある。まだ読んでいないので、私は正確には何もいえないのだけれど、松本氏にきくと非常な労作で3500円はほんとにお得、というものらしい。
実際の職場における女性のことばをフィールドワークして分析を加えたもので、本だけでなく、分析の対象となった一万千四百二十一の女性の言葉のデータベースがフロッピーに入って付録(?)になっている。ひとつ拾ってみると(しかし後3分だ)「うーん、そいで、これからビデオもつくっているところで、うりだしてー、・・向けの口座もやってー、その口座のカリキュラム組みとかそうゆうのもお願いしたいんですよね、みたいなさ」、といったもの。今日、そのなかのデータがちょっとおかしいということで開いて調べていたのですが、 上のような言葉が一万五千、ざーっとデータベースソフトのなかに流れ込んでいく様は、なかなか迫力がありました。職名や年齢も書いて在ります。経理事務、会社員、編集者、研究補佐、社員教育企画運営、大学事務、・・・・・。生なリアルな女性の言葉がざあっと表になって入り込んでいくのだ。おお、みんな働いてるんだなあ。みなさん、どんな顔してどんな仕事してんでしょうねえ。漠然と、こうやってみんながやってる仕事って何だろうと思ったんです。

■19991222■人生は手続きか?

今日は「手続き」づくしの一日でした。年末故にいろんな総決算があるようで,いろんなイレギュラーな手紙やら電話やらが舞い込んできます。その対応のため、ファックスに何度も通いました。苦情もひとつ受けました。「9時から5時までは仕事ができると思うな!」ということばが松本氏が読んでいた「Peopleware」という本にありましたが,きっと管理職って普段からそんな感じなのでしょうね。
私が大学の新入生だったころに(どうも,最近大学での生活をちょびっと対象化する位置に来たのかいろいろ思い出すようでついこういう導入が増えてしまうようです),「朝日ジャーナル」の「新入生ガイダンス」とかいう特集で,浅羽通明さんが,人生は愛じゃない!,手続きだ,今時入学してこんな雑誌を買ってるあなたはその段階でもうオタク。新井素子と橋本治を読んで早く家出て自活しろ,みたいな内容で,今思うと浅羽さんは新入生にむけてというより過去の自分に言っていただけではないかと思うのだけれど,とにかくそんなふうに「ガイダンス」しているのを読んだことがあった。新井素子さんの本は新婚さんの引っ越しのことが書いてあるらしく,引っ越しをするとどれだけ様々な「手続き」が必要になるかが分かるということだった。エーリッヒ負ロムを「生きるということ」読んでやっぱ愛なのですねと思っていたかもし私は,どうも人生は愛じゃなくて手続きらしい,人生は手続きなのだそうなのだと思おうとしたのですがいまいちぴんと来ず,「手続き」にコンプレックスを感じていたようです。今こうやって憧れの「手続き」をやっていますと,人生は愛だと思える時は精いっぱい思っておけばいいじゃないねえ,と思います。仕事したら,言われなくたってすぐわかるような気がする。浅羽さんも手続きにあこがれていたのかなあ。
「手続き」はもちろん大事だと思います。てきぱきできたらうれしいです。

■19991221■メール、はやく書けるようになってきたよ。

メールでちょっとした用件を書くくらいなら比較的はやくできるようになってきた。調子がよければ、さらさら書いている時もある。おお、大人じゃん。
大学にいた頃、ある講演会を主催することになって、いろいろな公的機関や面識のない人に案内の手紙を書いた。一緒にやっていたグループの先輩は、「時下、益々ご清勝のことと〜」という例の言葉でさらさらと手紙を書いてきた。私はといえば、(笑)1週間かかった。今ならば、今ならば、正式な招待状を出すとして、全然はやくないですが半日、または3時間、うまくすれば1時間程度で書くことができる内容でしょうか。で、大学の時に、私が何を悩んだかというと、「時下、益々ご清勝とは何だ」ということ何です。意味、わからないのです。意味わからない言葉を、自分の企画した大事な講演会にぜひ来てほしいという人にむけて、出せませんでした(笑)。それで、受け取った人は、「私」に向けられた手紙を受け取った、と思ってもらえるように、そして、時候というのなら、本当に今季節を共有しているで在ろう人たちにむけて、いい挨拶がしたかったのであります。それで1週間。必死に手紙を書き続ける私に親は非常に謎を感じたようです。この子は何をやっているのだ。
今、気が付くと、わたくしは、「師走の頃、(あれー適切な時候のあいさつ思い浮かばない)」とか例の言葉で季節の言葉を使って手紙を書き出している。季節のことを全然思い浮かべて、季節に見合った呼吸を一個して、それから手紙を書き出さなくちゃいけない、なんてことはなくなった。
過剰に「心をこめられた」講演会は不思議な成功を納めました。ただ、当日に限れば大成功だったというのが正確でした。何しろ、すごく気持ちをこめましたからね。でも、出すといったニュースレターは出せませんでした。50人分に、そんな調子で「レター」は出せなかったのだ。


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■19991216■中身が全部でちゃ仕事にならない

今日はわりと落ちついていて、切り上げるタイミングもなんとかつかめたので、これから家路につきます。つい先ほど印刷所から重版中の本の表紙の紙が紙店から入っていないとの連絡が入り、また一波乱ありか?と一瞬思いましたが、スムーズに受注の証明書(?こういうの、なんと呼ぶのでしたか・・)も取り出せて、すぐに解決しました。配送が遅れているとのことでした。
今週は、ずっと準備していた複数の重版が最終段階でしたが、肝心の発注日に休んでしまったのがひどく影響し、その自分の尻ふきにかなり手間取りました。休んだというのも、全体にバランスを崩していたからで、手にとるように自分のコンディションが外側、つまり仕事に反映されるのがわかりました。それによって、自分以外の人もたくさん巻き込むのですから、その広がりと影響を思いました。どうも、無理をしてある事がしのげたとしても、結局どこかにひずみがきてしまうようで、やっぱり無理がない、というのが大事なんだなという、当たり前のことを思いました。ある、なにかのことわりに沿っていれば、内も外も、バランスが保て、外にも内にも迷惑かけず、過ごせるのでしょうね。内のバランスがとれれば、外のバランスもとれ、外のバランスがとれれば内のバランスもとれる。どっちかだけっていうのは、だめなんだな、ということ、思っていたのです。というか、内も外もないのかなというようなことも思っていました。


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■19991214■

自分はたいしたことないなあということをしょっちゅう感じる毎日です。でも、それも悪くないかんじです。
どんどん、じぶんはこういうところがとかくミスをしがちですなあと、ミス、しちゃいけないのですが、 少しずつ、冷静に冷静に、観察していくと、なるほど自分はそういう人であったかといままで目が近すぎて見えなかったよーな輪郭が、ぼやっと見えてきたりして、面白いです。

■19991207■続 電話の出方 

むかし,ビートたけしが,おれ親切はしないの,オレ様は弱いからあとから見返りを必ず期待するから,ってことを何故か突然話しはじめたのをインタビューかなんかで,読んだことがある。なに蘊蓄くさいこと突然言いだすのだ?と思ってたけど,これはジンセイをひとりで納得してやるいい哲学でもあったのだということを今日なぜか昼休み北海親子丼を食べている時に思った。おれは親切はしないの,オレ様は弱いからあとから見返りを必ず期待するから。そうか、親切するのは覚悟がいるのである。親切にしてあげたのにって、さびしくなるから言いたくないもんね。親切サービスを実施したら,クーポンがたまって何かとってもいいことが起こるといいんだけどね。そんなことはないのである。きっといつか疲れてぶーたれるに決まっているのである。そんな老後は嫌である。あんまり安売りして電話に親切にでないぞ。今日、それが何か?っていう雰囲気を醸して1日セールスの電話に出てみたがいつもより疲れて熱が出てしまった.思考回路がまた変になっています。もう帰ることにします。


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■19991203■そして日誌もつづけ

机のまわりが体になじんできた。どこに何があるか、だんだん感覚でわかるようになってきた。こうなってくると結構快調。上手に運転しているような気分になってくる。物の場所がうまくつかめていないと、何をするのもちょっとずつ迷ってしまって、あちらこちらぶつかりながら走っているような気分がしてしまう。ああ、ここまで書いて思い出しました。キアロスタミというイランの映画監督の映画「そして人生はつづく」に出てくる主人公のの黄色い車のこと。キアロスタミが手がけたその前の作品「友だちのうちはどこ?」の主人公の男の子の住む町が大地震になって、監督は心配になって、息子と二人でその町まで大渋滞のなかを車で向かった時の出来事がドキュメンタリーとフィクションの間をふらふらするようなスタイルで描かれているのだが、話を戻して道はあちこち壊れてなかなか前に進まない。なんとか見つけた隠れ道は(ちょっと違ったかな。うろ覚えです)、ポンコツの車にはちょっと無理な山道なのだ。けれども監督役の主人公は、まわりの人が「無理ですよ」というのだけど、「行くのです」といいながら、途中息子を亡くして泣くおばあさんになんとなく乾いた同情を示したりしながら、坂道ずりおちながら進みます。あ、そっかあ。私はあの黄色いぽんこつ車かもしれないなー。最後のシーン、車は彼の作品の有名なモチーフ「ジグザグ」の山道をエンスト起こしそになりながら途中ずずっとずり落ちながら、そしてそこで終わってしまいます。彼が町で男のことに出会えたかはわからないのです。(13分フィニッシュ!)

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■19991202■だんだん笑わなくなっていく 続人のインターフェイス

顔の表情筋を落として電話に出てみた。あら、不思議。なんとなく、冷静でスマートな対応ができるではないか。しかし、少し冷静に自分の声を聞いてみると、どことなく無愛想である。そうか、なるほど、ときどきなんでそんなに不機嫌に対応すんだ、と思わされる種類の女性の声というのがあって、なんでなんだ??と思っていたのだが、こういうわけだったのか。つまり彼らはまじめに仕事をしていたのである。そのときの自分の声が、やたら機械的な彼女たちの声ににているような気がした。
そういえば、堅気な職人というのは、どこか無愛想なものということになっていた。 あれはつまり、うるせえ、仕事のじゃまだ、というメッセージだったのか。なるほど。では、あのぺちゃくちゃしゃべりながら手仕事をしているおばさんというイメージはなんなんだろう。仕事とおしゃべりというのも、何か相性がいいところあるような気もするのですが。実はこのことを書いた11月17日、私は見事に仕事上の大事なことを見過ごしていました。口と手ははかどったが、頭が動いていなかった。
いや、そういえば、食事を作っている時の親の顔など、どことなくかっこよかったような気もする。どことなく、無口で、いつもなんとなく見ている顔より、そういえばしまったよい顔をしていたような気がする。
そうだ、仕事をする人の顔は美しいのである。美しい部分があるのである。

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■19991130 13分では書けない日誌■

さあ、はじまりました。今タイムウォッチを押しました。初心に返って(笑)13分日誌です。ごめんなさい。みなさんうすうす(というかばればれですね)思っていたと思いますが、その通りです。これ、13分で書いてんの?ということです(書けたのもあるんですよ)。全くです。そう、13分で書く、という唯一のコンセプトであり、売り?であるはずの「13分」を放棄してしまっては、おもしろいところないのです。コンテンツではなくって、ある人が、世界の片隅で、毎日、だらだら書いてしまうという自己の限界を克服すべく書き続けるプロセスだったんだよ。それを何ですか、自分の話をだらだら書いちゃあ、ちっともダメじゃないですか。わんこそばを1週間かけて1000杯食べたってちっともおもしろくないです。いや、けれどもほんとに、時は有限だということ、限界を知るからこそ、出来ることもわかってくるのよ、とお説教。いまだよく自覚できず、だらだらだら、まさに限界を越えられないプロセスを報告し続けたような気がします。なんだかよくわからないけど、こういう調子だから、とにかく、私は文章がまとめられないのですね。1行書いては、すぐ戻ってしまう。 ホームページトップに戻る
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■19991129 仕事の気配■

月曜日は出荷をしてくれるアルバイトの人が2人やってくる。普段は,私は伝票の作成などの締めをするのが役割なのだが,今日は久しぶりに出荷する本を集める作業の一部を自分でやった。それで集めた本を取次用のバケットにいれようとしたら,既に入れてあった本の「置かれ方」の「様」が,入れてくれた本人の空気そのままという感じだったのでなんとなくこういうのはいいもんだなあと思った。まっすぐすっきり積み重なっていて,本の間に挟む紙(わんぷ,という)もまっすぐくっきり切り取られている。こういう人がのり弁を作ったらのり弁も美しいと思うような感じでした。けれど,いいもんだなと思ったのは,まっすぐすっきりだからということではなくて,そういう風に一つ一つの作業それぞれが,人によって伝える空気が異なっていて,そういうものが一瞬伝わる感じがいいなあと思ったのです。へんな言い方だけど、人が不意に自分の近くからいなくなったとき、残るのってああいう気配なんだよねえと思う。いうまでもないが野菜の話じゃないけどまっすぐでもまがりまくっていてもよいわけです。
本を集めてくれているAさんは、いつもとても静かな様子で,けれど芯のある方ですが、出荷そのものが結構ばたつく作業だと思うのだけれど,彼女がやるとある一定のテンポでいつのまにか,仕事が終わっているので,これもまたいいもんですなあと思っていました。
そういうアルバイトの人のたちが書いてくれている絵日記は,だんだんノビノビしてきて,とても面白くなってきましたよ。

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■19991125 伝えなくてはならないことば■

昨日の山形さんの投げ銭のテクストの影響で、今日はいろいろ考えながら仕事をしていた。
ネット上には、私のこの言葉も含めて、いろんな性格のものがある。 不特定多数の人にむかって、放たれ続けている言葉。で、昨日は、どこまで伝えたいと思えるかというところがしっかりないと、言葉を「誤解大量生産機」のように思ってしまって、なにか、言葉を恐れて篭ってしまいたくなるような時がくるような気がするとういことを思っていた。人も傷つけるしさ。けれども、そう思うとき、ボランティアで関わっていた遠藤という寝たきりのおじさんのことを思い出す。この人、むっちゃあかるいのですが、彼は、寝たきりで、手がちょっと動くくらいで、言語障害だ。かなりゆっくり話すから、なれないと聞きとれない。だから自分で動いてなにかをすることができない彼は、寝ていること以外、すべて「言葉」で生きなくてはいけない。人に伝えて、動いてもらわなくてはいけない。彼にとって自閉は、ほんとに死。理解は誤解で理解は不可能とかいったとしても、けれども伝えなくてはならないということがあって伝わるまで、ずっと話す。彼もホームページ開いているけど、インターネットの中には、新聞記者の言葉じゃなくて、そういう言葉がぽこぽこある。「房主の日誌」を初めて読んだ時もそういう言葉を感じたんだった。遠藤さんがそうだったように松本さんも時に自分の言葉で傷つけ、リアクションに傷つきながら、書いているのだろう。

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■19991124 ホームページをもつことは、やっぱりとても勇敢なこと。■

まだ読んでいないのだが,ホットワイーヤードの連載で山形浩生氏が,投げ銭について何かかいている,ということだ。どうも好意的な内容というわけではなさそうで,そのことを聞いただけであたしゃびびってしまう。
公開する言葉をもつ,というのは,思っていたよりも数倍敷居の高いことのようですね。そして,それをもし自覚をもってやれるなら,一つ一人前といえましょう。あたしゃ,上のようなネット上のやりとりが生まれて来そうな時,ああ又決闘がはじまる,とか思って,建物の陰に隠れて男たちの決闘を伺う少女のような気持ちになります。
自分が自分の意図で放した言葉は(放した,話した?),100人いれば100人分の「誤解」を受け取ることを引き受けたということ。あたしが言いたかったのはそんなことじゃない,と男たちの背中に隠れてナイーブなフリしたって,しょうないんです。もう体でかいんだから。
それでもどうしても伝えたいという言葉であるなら,どんな「誤解」が帰ってきても理解を求めて話し続けることでしょう。手放すユーキ,けれどもその危うさ。 簡単に引き受けられるんでしょうか。そんなこと言ってる場合じゃないのですが,メーリングリストさえ,まだうまく話し出せません。引き受ける気持ちがまだ足りんのでしょう。ネットでちゃんと話しができるようになったら,一つ「社会人」なる名前をつけられるということになるんではないかな。そういう意味では,23才からが社会人という形ばかりではなくなるでしょうね。(おいおい、誰が23才からが社会人だと決めたのだ。全くな。)

■19991122 今日何をしたのか思い出してみる。(この際13分以上かけて)■

午前中は,・・・,まず重版の表紙の一部抜きが届いていたので,簡単に見る。それから出荷の伝票を確認した。投げ銭で,松本さんが募集した「投げ銭アイコン」を早速作ってくれた人が居て,それを見た。取次の大阪屋の伝票を切った。・・・それから,メールに返事を出して,今作っている本の著者の先生に,ゲラのコピーを送った。直送依頼の注文が来て,個人伝票を切った。返品了解のファックスでためていたのを返信した。投げ銭システムの関係で必要になった印鑑登録の方法を地元の市役所に問い合わせた。電話注文と取次経由のスリップの幾つかに,不明な情報があり,書店の連絡先を調べ,問い合わせた。停電のお知らせを電気技師?のおじさんからうけとった。午前中に受けた電話注文をスリップにして打ち出すデータベースに登録した。「オキナワなんでも辞典」のファックスが来たので,データベース用に控えをとった。それから・・,食事。帰ってきて昼休みの延長で松本夫妻の娘さんの学芸会のビデオを見た。午後,重版している本の一部抜きが帰ってきたので,ざっと見た。隣のAさんのさがしものをちょっと手伝う。それから会計士さんがいらっしゃって,コーヒーを入れた。ここまでで3時だった。それから先週末に立ち寄ったなじみの書店の人に約束した注文ファックスの用紙を送ろうと試みるが,なかなか必要なファックスのデータが見つからずに探す。製本会社から見返しの紙が届いていないと電話が入り,紙の会社に電話する。納品したというから,受領書の日付を聞いて,製本会社にその旨伝える。とりあえず解決。ファックスの作業に戻る。お客としてお世話になった書店なのだが,ひつじ書房をあまり知らなかったので,どうやって置いてもらえるか考える。これにちょっと時間がかかった。「メディアとコミュニケーション叢書」というシリーズを定期でとってもらうとか,してもらえれば,馴染む棚なんだけどなと思うのだが,このシリーズを簡単に紹介できるものがなかった。やっぱりちょっと考えてしまった。もう少しさっくりやりかったが,「メディアとコミュニケーション」を簡単に紹介できる何かもやっぱりほしいのだった。考えることに時間をとられる。伝えるために考えるというのか。しかし考えたからって伝わるのだろうか。
というわけでやっぱりやりとりに時間がかかってしまう。今日はそういうことばかりの日だった。

■19991118■人のインターフェイス■

昼間は、書店さんの注文を電話でちょいちょい受ける。用件は書店の名前や本のタイトルといった決まり切ったものだし、それもごく短いやりとりだから、相手の印象が残るということはあんまりない。でも、受話器をおいた後、しばらく何となく気持ちが沈んでいたり、なんとなく、いい気分になっていたり、することがあって、なんでかなと思うと、もう忘れていたような少し前の電話の相手の人の物いいなんかが思い当たったりする。なんでなんだろう。受話器を切って、なんとなく、気分がよかったり、悪かったりする。無意識に少しずつひきずっている。よい方も、悪い方も。
書店さんの電話は、一日何回も受けるし、それも津々浦々の書店からの電話で、もう二度とはなさないような人も多い。機嫌のいい人もいるだろうし、悪い人もいるだろうし、生まれた時からなんとなく気分が優れない、という人もいるだろう。でも、「社会人」のお約束として、機嫌が悪いからといって、今すみません、昨日彼氏と別れたんでこんな本の注文なんて、全然したくないんだけど、しょうがないから書名言います、とは言えない。そういう人が乱暴なものいいをしてしまうということがいくらでもあっていいと思うのだけど、そういうことじゃなくて、だから何がいいたいのかというと、それはいつもひつじ書房にやってくる担当の佐川の人とかヤマトの宅急便の人とかに、なんとなく、どことなく、その人を少しずつ疲れさせていく態度を私が(ごくふつうの気分の時に)、してないかってことですね。きっとほんのちょっとの時間しかやってこないけど、毎日ドアを開けて、その一瞬にかぎ取られる、好きな会社とかなんとなく嫌いな会社とかってあるはずです。向かいいれる、感じですね。なんか大事なことのような気がする。そういうの。どうなんでしょう。

■19991117■楽しそうでしょ。■

今日は午後からずっと教科書の目録の発送作業であった。ダイレクトメールとして全部で5000通,送る。
アルバイトのAさんとBさん,あと,編集スタッフのFの4人(いずれも女性)で,1,目録に葉書を挟む,2,葉書を挟んだ目録を封筒に入れる,3,封筒に宛名ラベルを貼る,4,封をする,の4つの作業を分担する。5000通です。結構あります。後半かなりスピードアップしたのですが,はじめの内は,口と手中心の作業で,手も特に遅いというわけではなかったと思うのですが(ちょと弁解),単純作業なので,やたら口はなめらかになり,何を話したのかちっとも覚えてはいないが,女三つ書いてなんていうんだっけと思ってしまったほど姦しく,にぎやかであった。松本さんがずいぶん静かだなあと思っていたら,実際は書くべき文章がうるさくて(会話の内容も何かとくだらなすぎて疲れたのでしょう)書けなかったということでした。やれやれという表情でした。
 たぶん,姦しいというのは,貝をむいたり,団子作ったり,畑仕事の合間にお茶を飲んだりして,女性が集まっているところ特有のにぎやかさを言ったのだと思います。何万年前くらいからそうゆうことだったのですから,これは普遍的なものですよ。ときどきやたらと楽しそうにころころ笑ったりして,それを見た男の人は,やれやれ全く女はうるさいな,と思いながら,とにかくどこか咎めきれない雰囲気があって,で,じつはちょっと何があんなに楽しいのかなあと,仲間に入れてたらどんなかななんて気持ちもどこかに少しあったりして,「姦しい」という文字,作ったんではなかったかなあと思いました(違うかな?)。男三つ書いて,なんて字にしますかね。


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■19991115 20:09〜22■表紙が先だ。

重版はスマートさが問われます。印刷屋さんに先週の12日のお昼前頃に電話を入れたのですが、なかなかつかまらず、結局訂正箇所と新しい奥付を手渡せたのは、今日、もう日も落ち始めてから。印刷所が、製本会社に本文を入れられる日を元に、表紙や、見返し、スリップの手配などを考えようと思っていたのですが、この順序は間違っていた。表紙が一番時間がかかるのだった。であるから、表紙の印刷をお願いするところに先に製本所に入れられる日を聞くべきだった。もう何度かやっているのにこのザマです。よって、私は、このことを日誌に公開し、これを読んでいる人にお会いしたら、「表紙が先だぜ」って言ってもらおう。なんて甘い考えじゃなく、もうこれを機会に頭にたたきこむもんね。表紙が先だ。


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■19991112 19:47〜59■たるむ時

ある友人が、1年ほど前からホームページを開いており、公開日記も書いている。公開日記?? やはりこう書くと、妙な感じです。日記といえば、誰にも見せないわ、という極私的メディアだったような気がするのだけれども、それが公開されながら書き続けられるって、どういう事態なのでしょうか。鍵なんかがついているものもありましたものね。日記帳には。なにか、どこかこのメディアには、この鍵をかける感じをゆるませるところがあるんじゃないかなと根拠説明できませんが、感じるところがあります。必要以上に饒舌になったり。ふつうはそこを他人がとめるのだ。すっかり話がそれましたが、最初の友人の日記は、はじまりは本当におもしろく、途中で、てめえの話なんぞききたくないぞというおきまりの気分にさせられる雰囲気が入り込み、あれ、と思ったら、又もとの格調高い文章に戻りました。それで思うのですが、今なら私も少し理解できるように思うのですが、ふっと誰に読まれているのか、誰に向けて書いているのか、見えなくなる時というのがあるようなのです。これは、どういうことなのかなあ。

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■19991111 ■プログレ(プログレッシブロック)鳴り響く夜の事務所にて

今日は時間がないし、ディスプレイが壊れ始めていてゆがんでおり、見にくいので5分で書きます。あと3分ですが。今日、昨日の日誌を読んだある人が、元気なのか、大丈夫すか?と会社に電話をくれた。元気です。ごめんなさい。ちょっと意味不明な内容で。ちょっと壊れてみたかったのです。今日もそうですが。夜、台割をつくるために残っている松本さんの横で、なにか勝手に頭がブレークして、考えてみたいことがたくさんでてきて、しゃべりたおして、困らせてしまったくらい元気です。こちらもごめんなさい。あーれーディスプレイがいよいよぐにょぐにょに、三色に分解しはじめました。明日はまじめに書く。

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■19991110 19:29〜44■車窓

在るというのは不思議なことなのよ。へそがそっくりカエルくらいね。けれども、在るというからには、不幸もまた今ここに在る。不幸が在る、不幸で在る、という状況に本当に疲れたら、まあそれはそれでちょっと難しい問題なのである。世の中には、自分が在るのが本当に疲れるという状態もあるのである。生まれつきそんな気分とか言う人もね。人の不幸の深さはわしゃわからん。まあ、それにしても私という状態があるのも、ずっと続くようなことでない、ほんのちょっとばかりの出来事なんで、いやあちょっとお得なご旅行に招待された程度のもので、いつも見る物、旅先の車窓の風景のごとし。私の机の向かいで、表紙のデザインを検討しあう3人を眺むる。

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■1108■25才の背中とか

(どうも調子が悪いと思ったら風邪でした。しばらく休んでました)

今日もいろいろ混乱が多かった。私の背中も混乱した姿であったであろう。背中って何かというと、とりあえず、自分に見えないところ。でもまごうことなき自分である場所、死角、ですね。
会社での私の席は、後ろがいろいろな人が作業するテーブルなどある広いスペースで、主にアルバイトの人の仕事場になっている。ひつじ書房には、大学生、それも1、2年生の18〜21くらいの年齢の人がアルバイトに多く来ている。私は彼らにそのご自分の背中を晒して仕事をしている。日中は、アルバイトさんの仕事の指示や報告もちょくちょく受ける。トラブルやよくわからないことの報告を受ければ、その場で唸り、時に惑い、時に乱れ、馬鹿な解決策を示しては、冷静に彼らに「それちがうんじゃないですか」と指摘されたりする。怒られたり、怒ったり、上機嫌であったりするのも、彼らのいるそこで、です。
で、振り返りますと、私もかつて、学部生時代、ちょうど彼らと同じ頃、ある出版社でバイトしてました。担当の社員の人は34才くらいで、その下に、今の私とほとんど同じ25、6の人がいた。いずれも女性、とりあえず、未婚。上の人は、美大を出てて、お芝居してて、かなり変わったキャラの人。時にちょっとこわいキャラ。で、私、いろいろ怒られるのですけど、年上の方のバイトのお姉さんの背中はじっとみていたよーな気もする。その下の人、その二人の関係とかも。それで、私はばかで年下かもしれないけど、あなたのことも見てるよ、とか思っていて、かなりこわくて、私はすかれてはいなかったが、いろいろうめいたり、どなったり、上機嫌であったりするのを見て、なんとなく、私は嫌いではなかったなあという記憶がある。そういえば、ちょっと機嫌のいい時、カウチさーん、私と立場変わろーよー(中身はそのままで)と言われたことがあった。なんとなくはははと笑いつつ何言ってんのかなあと思った。

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■1105■本日おやすみにつき、代理アップ

おやすみ

■1102 ちょっと深夜(13分、とうにすぎてしまいましたが、今日はもう夜も遅いから、お許し下さい。)
■楽しいDTP 魔境編■

いやあ、うーむ、こりゃ大変です。何の話かというと、またDTPがらみの話です。どうもだんだん、ぼやき日誌のようになってきました。今日は学会の荷物運び(馬鹿だから、会場でゲラがみれるかも、などと思い、持ち運んだのが更に負担を増しました。1頁もみれなかった)の筋肉痛で肩は痛いは腰は痛いはで、なんだかぼろぼろなんですが、それに加えて、DTPに苦しめられました。昨日、「これでおしまい」と思って出した再校ゲラは、ノンブルのうち方がまちがっていて(奇数頁を賞の頭にもってくるのを忘れた)、また出しなおしました。いえい、これで終わりだ、と思ったら、表がずれていて、又1章出しなおしました。やれやれ、と思って、打ち出されたものをよく見ると、なんか変なものが頁の隅っこにある。なに。これ。なぜか「柱」が頁の中央におっこちてきて、全部の頁の同じ箇所に柱が入っているよ。取り除いて改めて印刷。今度こそ大丈夫と思ったら、印刷中にフリーズ。マック再起動して、もうこれ以上はないだろうと思ったらプリンターが「ハイシ(排紙)ジャムデス」。数頁出すごとにプリンターのふたをあけて、起動しなおす。ようやく出し終えて、素読みを始めたら、デスクトップではわからなかった微妙な過ちが、うにょうにょ這い出して参りました。
いろんな約物、見出しのレベルごとのフォントや表記の違い、様々なパターンのある例文、見出しの濃さが本文中の強調箇所の「中ゴチ」より目立たないので、がんばって見出しを「ボールド」にしていったら、松本氏現れて「それは、社外のプリンターで出すと、太さは変わらないで字間が広くなるだけだよ」。楽しいです。

■1101■世が世なら犯罪者だよん。

昨日まで、又学会で、名古屋大学に行っていたが、もう今日は編集モード。今日はようやく再校を著者の先生に送る準備ができた。後は素読みして質問すべきところを書き込んで、送ればいい。今、そのゲラをプリントアウトしているところ。
又、ずいぶんたくさんプリントアウトしている。たぶんひつじ書房のなかで、懺悔するわけではないけれど、編集の際に私がもっとも紙を使ってしまう人だ。なかなか編集しているものを印刷するタイミングがつかめない。たぶん、印刷屋さんとやりとりしていたら、いちいち印刷して確認したくてもできなかったのだろうが、今は紙さえあれば印刷することはとりあえずできてしまう。文章もそうですが、これも、自分で基準をつくらんと際限なく試みることができるから、いけん。コピー機やプリンターに「紙がなくなりました」という表示が出て、ごそごそとコピー紙に手を伸ばすときがもっとも罪の意識を感じます。こんなふうにコピー紙にのびる手が世界中にあちこちあるんだろうなあ。あえて言えば、こんなんが、いわゆるかんきょうはかい、未来の食いつぶしってやつです。オーバーでもなんでもなく、ごくあっさりと、そういう事実がありますね。ペーパレスって可能なんでしょうかね。というか、紙不足、ですかね。まじで、いつか紙は貴重なものになり、今の時代は伝説の時代となることでしょう。結構リアルにそう思います。
で、一番紙を消費する自分なので、松本さんと久美子さんにお願いしてエコオフィス町内会という紙のリサイクル組合のようなものに入ってもらおうと思っています。そんなんで別に解決とかじゃないけどさ。松本夫妻、忙しいですが、よろしくお願いします。自分が一番、紙喰い虫なんです。

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■1027■22:21 約物中毒、こりゃ大変だ。

はあ、こりゃ大変だ。学会シーズンに入り、ここ1カ月は全国を津々浦々言語系の学会を追いかけて、松本氏とふらふら(?)しています。先週末はこの秋はじめの学会で神戸に行っておりました。この神戸参りも又大変濃い内容でしたので、26分かけて報告したいと思っているのですが、今日は、その話ではありません。学会の合間をぬって、今は「日本語の引用」という本を作っています。今、再校段階です。ああ、確かに言語学の本作りはてえへんだあという話です。松本氏の気持ちもだんだんわかってきてしまいました(?)。まだほんの序の口なのでしょうけど。
というのは、今もまだ頭と体がぴりぴりしていますけど、言語学の本というのは、小説や思想などの一般の人文書籍と違って、レイアウト、組版が、大変複雑なのです。例文がいろんな記号を伴って頻出します。『』や()(←こういう括弧類などを約物と言います)ばかりを見つめて、50%に詰まっているかどうかというのを調べていくわけですが、こればっかりやっていると本を見ると字面より約物が気になり始めます。そこだけ見て、ああいい本だねえなんて、思ったりする。これは約物中毒。私はずっと、組版は美しいのがよい、という組版美学派の立場をとろうとしていて、松本 さんにも、文章は改行しましょう、というキャンペーンを展開したりしていました(注:この日誌もHTML化の作業が追いつかず、よく改行出来ずに終わったりしていますが。)。しかし、その度に、どこかにこにこと、なんとなく溜息まじりに、遠い目をして、まあ、そうなんですけどねえ、と交わされてしまうことが常でした。あ、もう時間がありません。また、ゆっくりこのことは書こうと思いますが、しかし、本当に、『』や()や*や!や:、”、=や%ばっかり見ていると、こんなこと一生懸命やっているより、他にやることあるじゃろうがあと時に思います。肩痛いなあ。

■ただいま関西言語学会のため神戸に出張中■

■1019■19:52〜 ふいっ。

昨日は、日誌の作業を終える直前に日本語変換がおかしくなり、下記のようなタイトルとなりました。冷静になって読んでみると意味不明でしたのでフォローしておきます。
今日は、松本氏が一人で晩御飯を食べに出ていて、残るはバイトのTさんが絵日誌を書いているだけという静かな事務所です。ついさっき、友人でもあり、アルバイトでもあるFさんが、ちょっと急ぎ足でかえっていきました。静かなので、事務所をふらふら歩いてみると、ミィーティングや作業に使う大きな机にはさみやら電卓やらちょこちょこいろんなものが片づけられきらず、残っており、先ほどのFさんの机の上には、ボールペンやホッチキスががまだ使っている途中ではないの?という感じで、ぱらぱらと放り出されている。こうやってぼんやりして、デスクトップにはりついた意識をやわやわとするのです。こういうモノにひっついた人の存在感みたいなもの、ふいっと気づくとまた冬ですね。今日、でがけに、何を着ようかたくさんの人が迷ったでしょう。今、「ドラドラきゅっきゅ」と歌いながら松本氏が帰ってきました。本当に、不思議なほど、夏から冬への季節の身代わりは早いですね。さっとマント翻して冬、です。少し前、秋と書きましたが、今日は、もう、私などは、ハイネックのセーターを来ているのです。

■1018■21:41〜21:55
nihonngoninaranai! watashiga bakanannjyanai. konnpyu-taga bakanannda

今日は午後から本格的な編集作業であった。日本語研究叢書というひつじ書房の屋台骨になるシリーズのスタイルシートを作る(割り付けの雛形をレイアウトソフト上で作る)という使命を負って半日、マックの前でちかちかマウスをいぢっていた。(今この瞬間に突き指をしました。痛くてキーがうちにくい)いやしかし、本当に、コンピューターという人は、つきあいにくいです。もう本当神経参ります。いったん調子が悪くなると、なんていうか、話のかみあわない人との泥沼にはまった会話のようなどうしょうもない作業を延々続けなくてはならなくなります。そして、神経、体ともどもヒビ入りますね。
そういえば、むかし、たまたま買った「ワイアード」という雑誌で、ブライアン・イーノという音楽をやる人が言っていた。覚えているのは、コンピューターはアフリカ的でない、とかいうこと。当時の私は深くうなづいていたらしく、共感を示す私のひいた黄色い蛍光ペンで記事はてかてか光っている。コンピューターというのはとりあえずださい、というような気がするというようなことを言っていた。コンピューターはクールじゃない。その形状が。要求する体の姿勢が。
ある人の一生が、どんな意味をもったものであったかは、彼が語る言葉だけじゃなくて、彼が動いた体の動きでも示されるような気がする。でもうまくいえないが、それは回顧するようなものじゃなく、今そのとき、今そのとき、生きる形のようなもの。テキストは、残るかもしれないけど、どんな遺骨が残るのやra.まとめられませんでしたが、時間です。

■1015■21:59〜10:27(失格)デジタルテキストは記憶の貯蔵庫になるのかな

私がアルバイトで来るようになって以来、初めてのことだけれど、バイトのみんながちょっと夜遊びをするということで、会社に誰もいなくなってしまった。私もすぐ追いかけるが、13分日誌があるから13分+α残ることにして書いている。
お昼休みに会社のある猿楽町の通りの自転車屋に鍵を買いに行った。看板がかかっておらず、中は薄暗く、自転車油が店中にこってりついているお店で、お年寄り夫婦が働いている。新しい自転車が4つほどおいてある。なかをのぞくと奥のほんの少しのスペースに二人が座っているのがみえた。入っていくと、「どう気に入ったのある?」と奥さんがでてきて、続いて旦那さんが現れる。鍵の種類のことで質問をしたらあまりよく聞き取れず、とんちんかんな会話が続いた。買う鍵を決めて、値段を尋ねると1300円と値札にあるはずが、1500円だと旦那さんは言う。困って、あれ? 1300円じゃなかったかなあと言ったら、奥さんがあら、ごめんなさいねと言って、旦那さんもあ、ほんとだ、といって、じゃあ1300円ですねと言って、さようならと店を出た。
これを読めば30年後でも、今日のことを思い出すかな。とかいってこの日誌、30年後どこにあるんですか松本さん。


■1014■19:05 橋を作りながら橋を渡る感じ

今日は投げ銭システムの助っ人運営者の方がいらして、その関係で、松本氏に私から投げ銭システムはこれからどうなるんですか? とずばっとたずねてみた。というのはこちらのそうありたいという願望で、まあ例によってまあもごもごとふにゃふにゃとたずねることとなった。で、予想したごとく、返答は、ずばっとしたものではなく、霧の向こうに目をこらすようなものだった。それでいつも思うのだが、そういうものなのだ、ということです。海のようなところで、ゆらゆらと船に浮かんでいて「船長、どこに行くのですか」と見習いはたずねる。応えを期待しつつ。で、船長は、なにかのにおいを嗅いでいるのですね。それは昔の職人の親方のように、言葉で説明できない故に、黙ってまねをしろ、というようなことと全く同じではなく、おそらく、船長自身も、どこに行くとはっきりわかっているわけではない。ただ、なんとなく、なにか現在の自分の経験が作ったある種の臭覚が、未来からのにおいをキャッチし、舵をふわっふわっととっているのです。又、別の例えでは、親方は橋を作っている。けれども、向こう岸はよく見えていない。決まってもいない。けれども、作りながら向こう岸を考えている。作ることで、向こう岸がわかってくる、そんな感じじゃないかと思わされるのです、(今日はここで13分です。書きっぱなしでのせるので文意が通らないところがあるかと思います。)

■1013■22;06〜半端な変わり方ではないようです。

ただいま、投げ銭システム推進準備委員会運営委員(などと言うほどの実態ははないのですが)の会議まっただ中です。事務所のテーブルで約10人ほど集まって、ピザと笹蒲鉾を囲んで、投げ銭をつまみに話もかなり盛り上がっております。投げ銭長者だとか投げ銭履歴だとか投げ銭コムだとか、半分冗談のような話が続いておりますが、たぶん半分は冗談にならず、実現される話なのだと思います。誰が実現するのかがよくわからんのですが。
先ほど、ある少額決済会社の方がおっしゃっることには、近い内、国際電話というものはなくなる、のだそうです。私は利用しないのであまりわからなかったのですが、もうすでに大阪にかけるよりアメリカにかけるほうがやすいという時代なのだそうです。距離というものが、ある次元でなくなってしまうのですね。だらだらとテレビ携帯電話でデンマークの人とはなしたり、たぶんできるようになるのです。音声はあまりデータとして大きくないので、これからネットワークでやりとりされるデータの大きさからすると無料同然だからそういうことになるのだそう(勝手に想像すると今までよりずっと太くて効率のいい光ケーブルみたいなものが海底に張り巡らされているのでしょう)。だから電話会社は今大編成をしている、というわけ、というお話でした。町にある元「電電公社」の建物も、必要ないそうです。「ネットワークもコンピューターもこれからは無料ですから」というお話。
では、オンライン上でのテキストの適正価格は? と考えてみますと、こちらもまだまだ見えてこないもののようですが、どうも文章もオンラインになると現在の書籍の10分の一〜1000分の一になってしまうと言われているそうです。
こんな調子で、今までお金が循環していた仕組みが機能しなくなってしまうのでしょう。先ほどの決済会社の人が、話を終えた後、「だから世の中ほんとに変わっちゃうんですよ」とぼやっと言われたのを耳にして「今まで自分が思っていたよりも、またさらに変わるのですね」とまたもや思わされました。また何度もこんなふうに思うでしょう。

■1012■20:22〜(中断)〜36 。航海日誌なら読んでみたい。

どういう日誌なら、他人の日誌を読みたいかと考えてみた。航海日誌なら読んでみたいなと思う。
日誌というのは、日記よりは、公共性の高いもの、という印象がある。辞書を今ひいてみたら、「(後日の資料にするため)毎日の出来事・行動について記録したもの。日記」(1987西尾実他編岩波書店)とある。「日記」 は、「毎日の出来事や感想などを書いた記録。日誌。」だそうだ。
あんまり納得の得られる説明ではなかった。もう少し考えてみよう。その一つのヒントが、冒頭に書いた、今どこかの海を船で走っている人の航海日誌なら読みたいということです。
 付記;一つ前の日誌で、この文章をだれも読んでいる人がいないとしたら、ということを書いたら、さっそく「読んでいます」という人が何名がメールや口頭でおっしゃってくだすった。ありがとうございます。少なくとも、どなたかが読んでいらっしゃるということを念頭に書いていきます。

■1008■20:28〜 もしこれを誰も読んでいなかったとしたなら

昨日この日誌を書き終わって、ふと思ったのだが、もしこの日誌をだれも読んでいなかったとしたなら、この書いている行為はどういう行為になるんだ? そう、今この瞬間も。もし何千人、何万人という人が、読んでもらっているつもりで、けれど実際は誰一人読んでいなくて、読者といえば自分だけで、毎日世界中でそういうテキストのスペースが膨らんでいっていて、誰かに書いているという気分だけは味わえる。気持ち悪いなあ。20:44

■1007■戻ってこれないかと思いました。

今日、久しぶりに編集の作業に戻ったら、編集はここしばらく関わっていた出荷や営業とはほんとに異質な仕事なのだなということを実感した。意識を緊張させる場所が違うようだ。出荷や営業は意識が外に向かう、「外の作業」。見える見えないに関わらず存在する仕事の相手に併せて柔軟に対応できるよう、外を見ていないとできない。見ているつもりでもミスはする。
ここ数日、実はなかなか編集の仕事に向かいきれなかったのだが、それは、たましーが外にでてしまって戻ってこれなくなった亡霊みたいなもので、紙のなかにすすっと入っていけなくなってしまう。で、今日ようやく、気づいたら意識は紙のなかの世界にあって、私を指導する編集の仙人がおかえりなさいと迎えてくれました。ああよかった。戻れなくなるかと思った。

■1005■躊躇はいけない。

5分ほど,今日の日誌の内容を考えてみたけれど,ぽかんと気持ちだけ妙に静かになって,特に書くことがなくなった。もう,3分たってしまった。この日誌は,私があんまりに文章を書くのが遅く,仕事に支障をきたすことを恐れた(もう既にかなり「きたしている」のだけれど)房主こと松本氏が,ある日,にっこり笑って,賀内さん,十分日誌というやりませんか,というので,なんとなく,その「じゅっぷん」の響きににっこりしてしまって,ああ,それはいいですね,と言って始まってしまったのです。で,後から,「松本さん,10分で,書いて3分で推敲というのがリズムとしてよいと思います」と交渉して,3分もぎとり,13分日誌となりました。 さて,あと5分あります。こんなふうに,「書くこと」なく,書きたいということの向かう事柄なく,字をうめていくというのは,あまり経験したことがありません。なんだかこれはこれで心地いいですね。身体と言葉がくっついて動いてくれて,気持ちいいです。あら,楽しい。
むかしむかし,ある尊敬する人が,言っていたのは,「躊躇するのがいけない」ってことでした。賀内さんがそうだけど,今の子って躊躇するでしょ? それをしなければいいのよ,と言っておりました。それをなんとなく聞いていたのですが。躊躇せず,ばたばたと駆け出すままに,こうやって書いてしまって,その書いた痕跡を読んでくれた人がたどって,落ち穂拾いのように私が気づかない私の痕跡を拾ってこれがあなたですよと届けてくれれば,それもよいのかもしれません。さあ10分。これから推敲します。推敲して,ちょっときれいに,仕立てるのですね。

■1004■季節と体内時計も,連動している。

秋が来た。空と空気に説得力ある秋の気配が降りていて,それに伴ってか,自分の身体も非常に正直にその気配を受けとめて,静かになった。春から夏へかけて,そしてつい先日のワークショップまでの疾風怒涛な日々(ちとオーバー)を少し眺めることができるような,気持ちが生じた。少し前,私より先に「新入社員」となった人たち(私は大学院に進んだので)の幾人かが,働きはじめて1年ほどの間,電話もしてこず,たまに話すと「今はなんだか何にも考えられない」と言っていたのは,私のこの半年の状態と似たような感じだったからなんだろうなと思う。こういう切り替わる一瞬のようなものが季節にはあって,それを感受すると,一瞬こころがひどく冷静になるから面白い。これから又忙しくなるだろうけど,週末を含めこの3日は,季節に教えられて,そんなかんじでした。

■1001■パソコンはもう一つの自分の身体みたいだ。

ワークショップも終わって,さあ編集をやろうとページメーカーを立ち上げようとしたらメモリが足りないから開けないと言ってきた。パソコンを見ると,メモリが50KBしかなくなっているから,どうも自分の身体の中身もそんな感じなのかなあと思い,いろいろ入らないファイルなど,捨てたりした。

■0930■投げ銭システムWS第2弾の感想文

運営の方に回っていたので,WSの内容はあまり把握できなかったのだけど, 最後の方はついつい引き込まれて,2次会の時間をあやうく忘れるほどだった。 で,これからいよいよというところで時間が来てしまった。もったいなかったなああ。少し前に参加した鳥取米子の本の学校の分科会でも,図書館員の方など,本という「もの」の良さに大切なことがあるのではという人と,青空文庫や電子本に関わるとりあえず,今の紙の本の形にこだわらない,デジタルにほどかれた本のあり方にも 可能性を見る人の間でのやりとりが多くあった(ごめんなさい,かなりおおざっぱなくくり方)。その時も,前半は,恐らくちょっと聞き慣れないコンピューター関係の言葉を操るネット関係の人たちの言葉に対して,後者のひとたちが,ちょっとぼんやりと,何かちがうような,なんだかなあという気分をもって聞いているという印象があった。けれども,後半になって,青空文庫のルナキャットさんが,本というもの自体はなくならないだろうけど,実際に一つの一つの本は絶版や品切れという形でなくなっているということをおっしゃった時,そういえばそうなんだよなあ,という気分が会場全体で,すっと受け取られたような気がした。その時の空気の入れ替わり方がとても面白かった。霧が晴れて,山現れたり,という感じで。 これまでの本の何が「本質的」で何が「本質的」でないかが,デジタルメディアの登場で改めて問い直されるといった富田さんの言葉(かなり私のはしょった言い方ですが)に対して,何が本質的かは,それぞれが決めればいいし,決められるモノではないと言った北村さんの言葉は面白かった。けれども,けれども・・。富田さんも一人の書き手,北村さんも一人の書き手,何か,書くと言うことのはじまりの気持ちに発って,今の困難さをもう一度話しあうっていう展開になったら,まあ,よくもわるくもほっとしましたよね。 でもね,このほっとするというのはしばらく先でよくて,当分は,なんだかよくわからないまま会場をほてった身体で出て,何が言いたいのかわからないまま電車の中で考える,という感じが,正直で,心地よいような気が,しました。

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