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 1999年4月5日 ひつじシスターズを連れて田中製本へ行く

 これはひつじシスターズの日誌に対するコメントとして書いている。今日は、賀内と阿達の二人を連れて、田中製本へ作っているところを「見学」に行ったのだ。

 私が、編集者になった時は、印刷所も、製本所も見たことがなかった。

 見たのは、半年後、製造担当者になってからだった。
 私は、鉛版屋さんで、鉛が溶かされ、紙の鋳型である紙型に鉛が流し込まれて、凸版の状態になってでてくるのを邪魔にならないように見ていた。それは、鉛版をできたところから、印刷所に届けるためだった。
 江戸川区にあった印刷所に鉛版を車に積んで届けると、印刷所の人は、新聞紙にくるまれた鉛の板を取り出し、印刷機に組付けをはじめて、紙を流し、印刷の刷りムラを丁寧に取るのを見ていた。ちょっとだけ、見ると、先に刷り上がっていた紙、刷り本という、を車に積んで、製本所に、正確にいうと折屋さんに届けるのだった。
 都心の印刷所のほとんどは、裏の路地にあって、車の運転をはじめたばかりの私は、ヒヤヒヤしながら、狭い道をバックで工場の入り口に付けるのだった。

 何を言いたいのか、というと、本当は仕事の中で、印刷所に行き、製本所に行って、その場で仕事を見たり、話を聞いたりして、お互いの仕事のやり方を知ると言うことが本当なんじゃないかな、と思うと言うことだ。どういうふうに仕事をしているのか、そういう時に見て、本の作り方を実際に知るということ。
 私は、製造担当者だったから、それがその時には中心の仕事だった。実際にものを動かした。むしろ、そのころは、編集は余技で、作ることが本務だった。だから、接する機会は多かったのだ。いま、組版のこと、出版のことを考えている素地にそういった経験があっただろうと、今にしてみると思う。

 現在のひつじの仕事はどうだろう。仕事の大半を本のページを社内で作ることに費やしている。実際に、現場におもむいてものを動かすということは、できるだけやらないようにしている。昔だったら、自分で動いて、印刷所へ行き、製本所へいき、納期を早めたものだが、DTPで忙しくてそこまで手が回らない。本を作るので手一杯だからだ。
 実地でできないので、本を作るところを見せたい、物理的にできていく最後のところを見せたいと思ったわけだ。実地でできないので即席で、「見学」してしまったのだ。面白がってくれて、そのことはとてもうれしい。機械が動いているのを見るのは、とても面白いものだ。その気持ちは、ものを作る気持ちの出発点だと思う。本当に大事なことは、本を作るという仕事に生かすということだし、本を作る中で、本を作る過程がわかってくるだろうということ。それには、まだ、時間が掛かるだろう。

 それにしても、女性が二人だったせいか、ずいぶん、優しく教えてくれた。アジロ折のカッターなんて、はずして見せてくれるとは。私の時にはそんなことはなかった。それはそうだ、今、直ぐに仕事をヤレー、とせかしているのだもの。もちろん、無骨な野郎だったせいだが。

 田中製本のみなさん、仕事中に迷惑なこともあったと思いますが、ありがとうございました。彼女たちは、自分の仕事に生かしていくことでしょう。

 

 1999年4月15日 言語学図書総目録1999でき!

 

とうとうできた! 日誌に憤懣をぶつけて、それを大修館の青木さんが見つけてくれて、お叱りのメールをいただいて、スタートしてから、1年とちょっと、7人の侍が集ったのは、3月の後半で、それから1年とわずかの月日。
 本当に願ったことは、叶うものなのだ。
 今日のところは、ここまで。

 1999年4月18日 久しぶりに土日事務所へ

 久しぶりに土日に事務所に出ている。仕事がたまっているからだが、娘が先週から、幼稚園に行きはじめて、せめてその週は事務所に泊まり込まないで、少なくとも朝だけは顔を見て、少なくても言葉を交わしたいということも理由だ。いままで、家の中だけで育ったものが、幼稚園という「学校」に行くということは、かなり大変なことで、たとえは悪いが、兵役に取られるようなもので、今までの彼女の体験の中でとても衝撃なことだろうと思うから、せめて朝だけでもそばにいてやりたいと思ったというわけなのだ。

 仕事は、たまっている。いくつかの大きな仕事が片づいているが、予定を過ぎていて、後の仕事に影響しているのだ。大きなものは、3月からいうと学習院大学の紀要があり、昨年までは、別のものに編集・DTP作業・工程管理までやってもらっていたが、今年はその者がいないので、勘所は私がやった。もちろん、最後の締めくくりは私がやることだった。正直に言うと、7000万円しかないひつじの売り上げでいうと、かなり重要な部分を占めるものである。受注仕事の場合、取次経由の売り上げとちがって、あいだがないことを考えると2割程度をしめるのではないか。ミスがあって、来年から来ないと言うことがあると、ひつじ書房がなりたたなくなってしまう。

 次に『言語学図書総目録』を完成させた。DTPは友人の河西さんに手伝ってもらったけれども、最終的な責任は担当した私にある。これは、言語学および言語学の研究書を出している出版社の全体の利益をもたらすものであって、すでに予定の2月刊行から、2ヶ月も遅れていた。一万冊を越える部数で、失敗すると損失をカバーしきれない。なかなか神経を使う仕事であった。

 そして、恥ずかしながら自分の著書『ルネッサンスパブリッシャー宣言』を、ブックフェアの前にどうしても刊行しなければならなかった。出版界の動きは急を告げている。1999年のこの時期にどうしても刊行していないと行けなかった。これは、書評や投げ銭など今私が提唱し、関わっているいくつかの運動にも連動していて、この時期を逃せなかった。自分の本ではなく、もっと他にいろいろとやることがあるだろうと思われるかも知れないが、本当はもっと早く少なくとも3年前くらいには刊行していないと行けなかったと思われる。
 3年前とは国立国語研究所が、所員の出版社から出した論文を、無料で転載するという暴挙を始めた年である。暴挙だと思うが、多くの研究者が、出版社というものの意味が分かっていないということがありながら、出版社の側の説明が全くなかったことにも原因はあるだろうと思うからだ。だから、出版社の気持ちを公開することは、すでに遅いので、これ以上伸ばせるものではないと思ったのだ。

 日曜日にでるのは、電話もなく(あっても出ないが)、一人で仕事をするのははかどる。現在、新人を育てている過程にあって、もともとキャパシティの小さい私は、やはり、気持ちが分散して、あまりはかどらないように思う。いろいろなことを教えなければ行けないのだから、それも当然といえる。私が彼女たちを育てることが、たぶん、私にとっての今年一番大事な仕事だと思っている。このことがもっとも重要なことだから、時間をかけて丁寧に行うことは当然だ。もっとも、私の教え方が下手なのは妻に言わせると定評があるそうで、事実、学生時代、家庭教師を3回首になっている。昨年、編集者が辞めてしまったので、私しか本を作る人間がいないのが、問題なのである。でも、研究書の編集を求人を出して、ぽっと雇うということは不可能である。ひつじ全体では、彼女たちのおかげで重版も含めて本が出せていて、生産性は上がっているのであって、決して生産性はさがってはいない。この時期に出せている本は、昨年に比べると圧倒的に多い。私は彼女たちに感謝している。
 私は昨年の失敗の反省から、自分が気が進まない仕事を、誰かにやってもらうことはやめることにした。たとえば、執筆者の多い本は、面倒でやりたくないのだが、やりたくないものは私がやることにした。また、私が最後をしめないといけないものは、滞りがちになってしまっている。申し訳ないが、許して頂くしかないだろう。
 今、やっている湯川先生の『言語学』はやりたくない仕事ではないが、先に述べたものが全体に遅れたことで、後ろに延びてしまったわけだ。申し訳ない気持ちである。教科書だから、遅くとも4月の前半には刊行できていなければならなかったのに。

 仕事場と家庭が遠いのも、最近、疲れてきた。両親ともこれから相談するが、もしかしたら、住処も都内にうつるかもしれない。そうすれば、朝か夜か、娘と会いながら、仕事をこなしていくこともできる。今は、まだ大丈夫だろうが、娘が何か重要な危険信号を発していた時に、ちゃんと受信できる親でありたい。そのためには、日頃、会っていないと、微妙なSOSを感知できないだろう。コミュニケーションは簡単ではないのだ。小さい出版社が、企業と言うよりもSOHOなのだから、それなりの仕事の仕方というものもあるだろう。仕事と家庭の接近ということ。家賃が高いのが、とてもつらいけれども。

 

 1999年5月1日 放心状態

 5月になった。4月は、ほとんど日誌を書かなかった。教科書の重版、言語学図書総目録、それから、『ルネッサンスパブリッシャー宣言』が、どうにかできたこと。後者の二つは、ここのところの懸案であったこともあって、やっとできたという気持ちが強い。ほっとした気持ちが、とてもあって、一種の放心状態といえるかもしれない。
 『ルネパブ』は、ひつじ書房の10年目の総決算ともいえる。

 しかし、不思議な気持ちである。私が、文章をまとめて本にするとは。ひつじ書房を作った時も、それから、しばらく、ホームページを自前でメンテナンスするようになって、日誌をつけるようになるまで、文章を書いてまとめたりすることになるとは、全く思っていなかった。杉本つとむ先生と打ち合わせで、杉本先生の弟子の木村さんと早稲田大学出版会であった時に木村さんに「自分で本は出さないのですか」と言われたときに、そんな気持ちはもうとうないと答えたのは、心底真実であった。ひつじ書房のサイトを自分でpagemillを使って、更新をするようになったのは、96年のことだから、ほんの3年しかたっていない。
 ホームページにこうして文章を定期的に書くようになって、書けるかなという気持ちになってきたのは不思議な気がする。もともと、私は、心の中に何か伝えたいことがあると言うことで、始めたわけではなく、ひつじ書房の仕事の説明のためにはじめたことである。説明する機会のないわれわれにとって、これは本当の必要に迫られておこなったことだった。

 前の会社につとめていたとき、私は、著者や原稿を書いている人には、なるべく、私があまり仕事はしてないように思わせるのが上品だと思っていた。土曜日に仕事をしていても、日曜日に仕事をしていても、泊まり込みで仕事をしていても、そのことはなるべく、著者には伝わらないようにしたいと思っていた。土曜日には、原稿催促も、原稿についての問い合わせもしないようにしていた。
 ところがある日、F先生が、非常に憤慨して、ゲラがでて、再校まで行っているのに、もうやめる言われたことがあった。それは、ゲラの途中で、校正をきちんとしたペースでは返せない状態が続いていたからだったと思う。私の気がついていない別の理由があるのだろうか。そのとき、会社の雑務が増えて、しかも、当時は製造もやっていて、年度末だったから、編集にほとんど手が回らない状態になっていた。しかも、電算写植を一番最初期に導入したらしい、その印刷所は、活版ならば当然できた、2段組ができず、その上、発注費を押さえて、版下加工の料金を実際にはらっていなかったから、ゲラがでても、編集者である私が、レイアウト用紙に張り込まなければ、ゲラの状態にならないのだった。そんなゲラであるから、まとまった時間がなければ先にすすめることができないものなのだ。その時は、週に二日は泊まり込む体制になっていた。ところが、F先生は私が、仕事を全然していなくて、サボっていると思ったのだろう。何度か、自宅まで謝罪に伺ったが、お会いもしてくださらない。こんなことであるならば、仕事をどんな状況でしているのか、最初にお伝えしておいた方がよかったと悔やまれた。その時は、週に2回も泊まり込んで仕事をしていることを、上司もだれも説明してくれることがなかった。私を見捨てたことになるかもしれない。
 そんなとき、F先生に、あなたとは仕事をしないと書かれていた手紙を読んだその後、私は、表紙に金色の箔を押す箔押し屋さんへと車を走らせていた。丁度、伝通院の裏手あたりであった。狭い道の向こう側から、私のよく知った顔の人が歩いてきた。よく知っていると言っても、直接言葉を交わしたこともない。その人は、作家の野間宏であった。実は、私は、日本でたぶん唯一の高校生の時に彼の全体小説『青年の環』を2回読んだ人間であり、高校生の時には、心酔していた。彼の『文章入門』(絶版、旺文社文庫)は、何度読んだことか。この時の体験はとても不思議なもののような気がする。単純な偶然なのだろうが、何かの摂理というか、不思議なものを感じた。

 F先生と親しくしていたら、たぶん、独立した後に、中世文学関係の研究書をもっと出すことになっただろう。そうならなかったことは、結果としてよかったことで、これもある宿命だったのか、とも思ったりすることもある。

 話は飛んでしまったが、説明をすることの必要をその時以来、ずっと感じていた。その必要に迫られて、書きなぐるように書き続けてきたことが、書くことの自信のようなものを作ってくれたように思う。文才があると思うような思い上がりはない。ひつじの事情はもちろん私しか知らないわけだが、もっと一般的な出版社の事情であってもだれも伝えようとしないということがあって、切迫した必要が出発点であった。

 先日、『ルネパブ』を事務所で妻に献呈した。スタッフに冷やかされて困ったけれども、妻は、結婚式でケーキカットをした時以来の涙をこぼしていた。本当にひつじ書房が、ここまで来れたことは妻のおかげである。多くの人にお世話になったわけだが、第一番目は彼女である。また、彼女と出会わなければ、世間並みの人間にもなれず、無謀な試みに挑戦することもなかっただろう。その意味でも、感謝しないといけない。これ以上はやめておく。

 

 1999年5月4日 600年の時間を逆転するというよりも

 昨年の夏から、いろいろなことがあったこともあって、いろいろ考えたり、また、いろいろな出来事があって、その都度、いろいろ考えたりして、私の人生の中でも、頭と経験の総動員というかんがある。キャパシティの少ない私にはつらいことだ。その上、高校生の時から読んできたばらばらに読んできた本が、不思議なことに再構成されて、意味がつながり始めているのも不思議である。読んだ本が、あれ、こんなことだったのかという感じ。本ばかりではなく、思春期の思い出までがぶり返してきて、奇妙な感じがする。もっとメモリーがあればいいのだが。
 投げ銭と『無縁・公界・楽』の連動。このためにこの本を読んでいたのかという気さえする。今、増補版を読んでいる。3月はことばになるかとおもっていたのに。つながりはじめた時は、気持ちが良かった。頭の中が、だんだんと整理されていく感じで、ハイになっていた。
 けれど、つながり始めたことを実感したことで、複雑な気持ちになってしまった。

 投げ銭は、安直にインターネットを大道を考え、情報発信者を大道芸人と考えたことから、考え始めたわけだが、賀内のひとこえや、意外な賛同を得て、スタートした。基本的に間違っていないと思っているが、たまたま放った矢が意図しないで核心を突いてしまったことを冷静に反省すべきかも知れない。核心を突いたことを実感するとその重みまで、遅ればせながら、分かってきてしまった。
 言葉が近くに来たと喜んでいるうちはまだ、うれしさが先に立っていたのだが、そのことを知るとさらに目標は遠くへと後ずさってしまったように感じる。網野さんの「無主の論理」までを投げ銭が含むとしたら、これは、人類的な規模の問題であり、中世から考えても、1333年からだから、600年のスケールということになってしまう。無主の論理の復活・再構築ということであり、網野さんが「中世の自由と平和」という副題を付けているが、世間まで視野に入れている我々は、自由と平和に止まらず、「友愛」ということばもつけ加えなければならない。明治からでも、200年であり、ちょっとやそっとで片づく問題ではないということ。我々は、もしかしたら、考えのひながたを作るところで終わりかも知れない。それはそれで、ともかくも、できるだけのことはしよう。来るべき投げ銭のための資料集(アーカイブ)を作ることが、せめてできる最大限のことなのかも知れない。

 もう少し、分かりやすく言うことにしよう。
 投げ銭は、所有ではなく、心意気によって、人と人とのつながりを再生しようと言うことを、最終的には目的としている。このことの可能性と不可能性の大きさ。
 中世は、今から言うと神話的な力、あるいは原始的な力によって、辻という境界における行為が、成り立っていた時代である。辻に属している行為は、世俗の権力の介入を許さず、汚れや共同体に属さないというマイナスの力を、逆転させることで芸能を作り、自由な空間を維持していた。それが、近代になるについて、世俗権力によって、神話的な力をそがれていく。極端な例だが、辻君というのは、今で言う娼婦にあたるわけだが、白拍子などが高位の権力者と渡り合えるような聖なる力を持っていたように、不思議な境界を超え、神聖な力を持っていたのにも関わらず、それが単なる娼婦になる没落の過程があった。
 その聖なるものが、単なる欲望の処理に移行することの、逆のことをめざすようなところが、所有を逆転させて、投げ銭という所有と非所有のグレーゾーンを作ることの背後にはあるのかもしれない。これは、ちょっとやそっとでできることではない。この巨大な時代の逆回しが成立しないと、投げ銭が実際にはなりたちえないのではないか、究極的には、と思ったりもする。

 これは、話しを大げさにしすぎだろう。

 ビオトープにしても、あまり評価しすぎることは危険かも知れない。例によって、妻の両親の住む溝の口に数日泊まったけれども、私の好きな雑木林が公園として残されていて、たぶん、ビオトープ的な設計がなされている例なのだろうと思うのだが、あの沿線の森林地帯の破壊が、非常に激しいものだったからこそ、住民が、ビオトープを求めたということがあるにちがいない。私の住んでいる東武伊勢崎線沿線は、もともと江戸時代に沼地を田畑に作り替えた非常に平坦な土地であり、森林を破壊しているという要素は少ないのだろうと思う。それゆえ、意識が高まらないともいえる。(農家も、ほとんど気にもせず余った除草剤を、あぜ道に捨ててしまう。なんと愚かなことだろう。農家は、21世紀にはビオトープ職人に生まれ変わる必要があるというのに)それに比して、その沿線の開発の痛々しさは、起伏のある山を切り崩しているだけに強烈に目に焼き付く。溝の口は、渋谷から20分もかからない位置にあることを考えるとこの造成は、農地法の改正の後のような気がする。その破壊の免罪符としてのビオトープだとしたら、どういうことになってしまうのだろう。

 言葉が頭の中で、回転しすぎている。我々が、試みようとしていることは、思ったよりも大きな問題のようである。その中に出版の問題も入ってはいるけれども、その範囲をもう少し見極める努力を先にしよう。ただ、今の段階で分かっていることは、短期的なことではないだろうということだ。

 長期戦の場合は、ゆっくり構えるに限る。勝利はしなくとも良いが、決定的な敗北だけはしないことが肝要だ。やっぱり、唐突だが、サパティスタ的に行こう。地下に潜るといわず、正規軍とは、ことを構えず、メディア対策はしたたかで、伝えたいことは公開していく。肝要なところでは、一発かましてやりつつ、普段は、昼行灯のようにパワーを押さえていく。考えてみるとサパティスタがNAFTA(南アメリカ経済機構?)の発行とともに、メキシコの南で反乱を起こしたということは、我々にとっても意味のあることなのかも知れない。

 たとえばなしでは分かる人にしか、わからないだろう。こういうことだ。インターネット決済協議会が、2000年にインターネットの決済の方法を、決めてしまうのである。この団体に属しているのは、大企業だけである。アメリカとメキシコなどの国々、国と南米にまたがる大企業の都合で決められらたNAFTAと同じ状況にあるのではないのか、ということだ。インターネットの中で生きているSOHOやNPOなどは、いってみればNAFTAにおける南北アメリカ大陸のインディオたちと同じ立場ではないのか、ということだ。買うことはできても、売ることができない、店を出すことができないのであれば、そこは辻でも神社の前の広場でもなく、幕張メッセの舗装された道路と同じである。そこには、生業もなければ、生活もない。生活もなければ、知性もない。

 いずれにしろ、はなしが大きくなりすぎた。

 大きくなりすぎると、そのための戦略を考えることもできなくなってしまう。目の前の大きな山を動かすようなものだから。だから、やはり、もっとささやかなものとして夢見ることにしよう。私のため、具体的に目の前にいるあなたのため、君のため、もうほんのちょっと楽しく仕事ができるために進むことにしよう。あなたとアイディアを話し、その一瞬の希望の輝きのために、頭を回転させることにしよう。あなたとあなたとあなたとあなたのために話そう。SOHOについて述べるにしろ、それはSOHO一般を救うためにではなくて、私自身がよいSOHOを営めるようになるために目的を限定しよう。よその人のためではなく、縁のある友人のために仕事をすることが、素直な道のように思う。よその人のために、話しを分かりやすくしようとして、内実が失われることのないようにしよう。すぐそばの友人が理解してくれればいい、そんなささやく言葉を選ぼう。

 宣言は終わり、寄り合いの場のことばを作る段階に入ったということだ。

日誌 1999年3月

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